フィレンツェだより番外篇
2017年3月15日



 




骨灰棺の蓋に彫られた夫婦の像
紀元前5世紀後半
考古学博物館


§2016 フィレンツェ研究出張余禄 - その2 考古学博物館の古代石棺

2007年の滞在中,考古学博物館には魅力を感じながらも,ゴシック,ルネサンス,バロックの宗教芸術に魅せられてしまい,5月に一度訪れたきり,再訪を果たすことなく帰国した.


 2012年にツァーでフィレンツェに行った時,自由行動の時間に考古学博物館を訪ねたが,それは友人から頼まれた「フランソワの壺」のDVDをブックショップで買うためで,見学はしなかった.

 限られた時間で優先順位をつけて行動した結果であるが,それは決して考古学博物館の魅力が乏しいということではない.むしろ,時間をかけてゆっくり見たいがために,限られた時間で見られる場所のリストから洩れたということだった.


フレスコ画のある石棺
  これまで浮彫で装飾された石棺はたくさん見てきたが,昨年3月にタルクィニアの考古学博物館で,フレスコ画で装飾された石棺を観ることができ,初めてのような気がしたので,他にも作例があるのかどうか調べると,フィレンツェの考古学博物館にあることが分かった.

 一回しか行ったことがないので,何とも言えないが,火葬後の骨を収める骨灰棺(骨箱)の蓋の上の彫刻と,本体に施された浮彫には大いに心魅かれ,相当な枚数の写真は撮ったが,フレスコ画装飾の石棺(土葬用)は見た記憶がなかった.

 今回,それが観られるかどうか,ドキドキしながら行ったが,なんと,照明を落とした特別な部屋に重要作品として展示されていた.

写真:
アレッツォのキマイラ


 考古学博物館にある古代石棺は基本的にエトルリアの遺産だ.照明による劣化を裂けるためか,この石棺と「アレッツォのキマイラ」がそれぞれ,その作品一つのための暗めの部屋に収められていた.

 2007年にアレッツォのキマイラを観て,その感動を「フィレンツェだより」で報告したが,その時キマイラは,通路と見まがうような,窓からガンガンに陽の当たる場所に無造作に置かれ,そばでは館員がおしゃべりに夢中であった.

 その後,博物館の方針が変わったのだろう.アレッツォのキマイラは間違いなく,フィレンツェ考古学博物館の最重要作品だが,やり過ぎとも思えるように厚遇された展示がなされるようになった.しかし,今は,その展示の是非よりも,アレッツォのキマイラとほぼ同じ扱いを,この石棺が受けていることに注目したい.

 伊語版ウィキペディアに立項されたページには写真はない(英語版にも写真はない)が,この石棺に特化して立項されたページにリンクされている.英語版にはこの石棺に特化したページはないようだが,ウィキメディア・コモンズには64枚の写真が掲載されている(2017年2月5日参照).

 また,この博物館の英訳案内書,

 Anna Maria Esposito / Maria Cristina Guidotti, eds., tr., Catherine Frost, National Archaeological Museum: the official Guide, Firenze: Giunti, 1999

にも写真付きで紹介されている.1999年の出版なので,私たちがフィレンツェに滞在していた2007年よりもだいぶ前だ.と言うことは,この石棺を見ていたけれど,特に注目しなかった可能性が高い.

 あれほど,浮彫のある骨灰棺(当時の報告ページを読むと骨灰用石棺と言っている),に注目したのに,フレスコ画のある石棺に何の注意も払わなかったとは考えにくいが,2007年5月14日にこの石棺を見た記憶は全くないし,写真も撮っていない.私がこの石棺に気づかなかったのか,それとも,フレスコ画の劣化を避けるために展示されていなかったのか,今のところ,確かめる術がない.

写真:
石棺のフレスコ画
「アマゾン族との闘い」
紀元前4世紀


 この石棺で,最も魅かれるのは間違いなく「アマゾン族との闘い」のフレスコ画だ.蓋が屋根状になっていて,両端には破風のような三角部分があり,そこには猟犬に噛みつかれている若者の浮彫が施されている.一見して,アルテミスの水浴を見たために鹿に変えられて,自らが連れて行った犬たちに噛み殺されるアクタイオンであろうと思われ,上記の案内書にもそのように説明されている.

 案内書に拠れば,この石棺は紀元前4世紀の第3四半期のもので,であれば,アレクサンドロスの東征が始まり,ギリシア人が東地中海世界から,エジプト,中近東,西アジアを支配下に収め,その影響力を発揮して行こうとする時代ではあるが,ギリシア人の植民都市以外では全地中海世界にギリシア文化が浸透している時代ではなかった.

 この当時,ローマは327年から3次にわたるサムニウム(サムニテス)戦争を始め,その戦争は前291年まで続いた.その過程で,ローマはサムニウム人と協力するエトルリア人に対しても優勢な立場に立つようになり,中部イタリアに覇を唱え,その後,264年から162年まで3次に渡るポエニ戦争を戦い抜き,ローマはイタリア全土,西地中海世界に覇を唱える.

 これらに先立つ時期にこの石棺は造られている.前415年のキュメ沖海戦敗北で,エトルリア人はティレニア海の制海権を失い,衰退期に入っていたとは言え,まだまだイタリアでは大勢力であった.

 そうでありながら,ギリシア文化愛好(フィルヘレニズム)がエトルリア人全体に浸透していたことが,特にギリシア人とエトルリア人は政治的に敵対関係であっただけに不思議に思える.彼らはヘレニズム時代に先立って,ギリシア文化を愛好した.その事実をこの石棺は雄弁に物語っている.

写真:
タルクィニアで
発掘された石棺


 この石棺は1869年にタルクィニアで発掘された.イタリアにおいて,エトルリア文化の再評価がなされる時代に,この石棺は発見されたことになる.

 イタリア王国の成立が1861年,サヴォイア王家のサルデーニャ王国からの首都だったトリノからフィレンツェに遷都されたのが,1865年,この石棺がフィレンツェに齎されたのが1872年で,イタリア王国のローマ遷都が1871年なので,発見時点でフィレンツェはイタリア王国の首都だったが,この石棺がフィレンツェに齎された時点では,首都は既にローマに移っていた.

 遷都後も教皇との対立の続くローマを避けたのか,もともとはフランスに出自があり北西イタリアに割拠していて,エトルリアとは縁が薄かったサヴォイア王家の関心をひかなかったからか,ともかくこの石棺はその後ずっとフィレンツェにあった.

 にも関わらず,2007年に私は見た記憶が全くない.残念なことだが,どんな素晴らしいものでも,興味の有無が出会いを規定する.今回じっくり観ることができたので,まずまず良しとする.






キタモトのチャトラ
尻尾は長いが,蛇には非ず