フィレンツェだより第2章
2017年4月22日



 




豪華な格天井
バディア・フィオレンティーナ教会



§バディア・フィオレンティーナ教会

前回のアーニョロ・ガッディの「真の十字架の物語」の報告で,ピエロ・デッラ・フランチェスカの同名の作品との比較を試みたことが呼び水となって,14日,ピエロの「真の十字架の物語」(聖十字架伝説)を見に,電車に乗ってアレッツォに行ってきた.


 サン・フランチェスコ聖堂(バジリカの呼称を得ている)は期待通り,「フラッシュ無し」(センツァ・フラッシュ)で写真可となっていた.コンデジのオートでしか撮らないので,現場では撮れたつもりでも,帰宅して確認するとピンボケ写真しか撮れていないが,それでも,初めてこのフレスコ画の写真が撮れたので,次回,アーニョロ・ガッディとの対比を意識しながら考察したい.


6日から10日までの活動
 イタリアに着いて,あっという間に三週間が経った.4日にアパートに入居し,5日にフィエーゾレの考古学博物館に行ったあたりから,ちょこちょこ外出しているが,遅れている仕事を持って来ているので,それに目鼻をつけるまでは遠出は難しい.

 6日は,今まで内部を見学したことのないビガッロの開廊の博物館を初めて見学し,7日は研究スペースの確認と滞在許可申請の指導を仰ぐために大学(言語・文学・国際文化学部)に行き,その行き返りにサン・マルコ聖堂,サン・パオリーノ教会,オンニサンティ教会を拝観した.

 夜は柳川さんのご招待で,テアトロ・コムナーレに代わって新たにフィレンツェ歌劇場(マッジョ・ムジカーレ・フィオレンティーノ)のホームグラウンドとなったオペラ・ディ・フィレンツェで,フィレンツェの小学生たちが合唱等で参加するモーツァルト『魔笛』をもとにした「光のピラミッド」を鑑賞して大いに楽しんだ.終了後,こちらにお住いの日本人ご夫妻とグラスを傾けながら交流した.

 8日は近所のカルフール・エクスプレスに行き,滞在許可申請に必要なパスポートのコピーをとった.日本と違い,係の人に原稿を渡してコピーしてもらう方式で,クォリティは日本とは比べ物にならないが,高品質が要求される案件ではないので,手近なところでコピーができるだけで有り難い.

 滞在許可申請にパスポートの全ページのコピーが必要と聞いていたので,予め日本で取っていったのだが,入出国スタンプが押される前にとったものなので,スタンプが押されたページだけ差し替えが必要だった.コピー後,近くの郵便局に行き,申請手続きをした.

 カルフール(Carrefour)はご存知,フランスの大手チェーン・スーパーでイタリア人もカルフールと発音するが,カルフール・エクスプレスは大型スーパーではなく,街中のコンビニ型スーパーだ.10年前に滞在した時はイル・チェントロがそれに当たったが,今は無い.品揃えはエッセルンガほどではないが,コンビニとスーパーの中間くらいの規模で,ちょっとした買い物ならここで足りる.

 9日の日曜日は,やっと入手した30ユーロのカルタ・アジーレを使って,サン・マルコ広場の近くの旧スカルツォ修道院回廊博物館(午前中のみ公開)と,そこから少し遠いサン・サルヴィ修道院の食堂を中心にした「アンドレア・デル・サルトの食堂」と命名された博物館に行った.

 スカルツォ博物館は小さな回廊で見るのに時間がかからないから,見終わった後は広場のバスターミナルで別の路線のバスに乗り換えて,サン・サルヴィまで90分以内で行くことができた.帰りも同じ要領でサン・マルコを経由して帰宅した.

 スカルツォには1回,サン・サルヴィには2回行ったことがあるが,以前と同じくどちらも入場無料だった.

 10日は月曜の15時からだけ観光客に公開されるバディア・フィオレンティーナ教会(以下,バディア)を拝観するために外出した.途中,オルサンミケーレ教会の博物館をまだ見ていないことを思い出して寄ってみた.博物館は教会の上階にあるが,10年前はずっと閉館していたので,初めて見学することができた.

 博物館を見てから,教会を拝観した.オルサンミケーレは以前は撮影禁止で,写真を撮るツーリストは係り員に注意されていたが,今は,みんな写真を撮りまくりで誰も注意しない.博物館では一応,係の方に確認したら「フラッシュ無し」なら良いとのことだった.

 その後は,近くのサン・カルロ・デイ・ロンバルディ教会を拝観した.ここも以前は写真禁止だったが,今回は管理者の方に確認して,「フラッシュ無し」ならと言うことで写真を撮らせてもらった(入口の所にあるリストには相変わらずカメラに×がついている).

 それでもまだ15時まで間があったので,列に並んで大聖堂を拝観し,もう一度サン・カルロ教会に戻ってからバディアに向った.

 これで,ようやく本題のバディアだ.今回はまずこれについて報告し,その他は次回以降にまわす.


10年前の記憶とともに
 一般開放は月曜の15時以降だけというのは10年前と同じだが,ただ開放しているだけだった以前とは異なり,管理者を置き,3ユーロの入堂料を払う仕組みとなり,券売所で案内書や土産物などを売っていた.ここでも係りの方に写真可を確認した.

 堂内にある彫刻,絵画を記憶を甦らせながらゆっくり鑑賞して,後陣の脇の通路から「オレンジの回廊」(キオストロ・デリ・アランチ)に出て,連作フレスコ画「聖ベネディクトの物語」を丁寧に観た.

写真:
2階建てになっている
「オレンジの回廊」

壁面には連作フレスコ画
「聖ベネディクトの物語」


 傑作ではなく,佳品のレヴェルにも達していないかも知れないけれども,古い(15世紀前半)フレスコ画の持つ魔力のようなものに魅かれながら,剥がされて,開いた空間に飾られているシノビア(赤い顔料の下絵)までもじっくり観ていると,イタリア人観光客2人に説明するガイドの声が聞こえてきた.

 ボソボソ話す私と違って,彼女ら,彼らの声はいやでも聞こえるほど大きい.連作フレスコ画の第4場面は,若かったブロンズィーノが描いていると説明していた.

 このことはウェブページの情報でも確認できるが,これまで知っていたかどうかは忘れてしまった.明らかに,他の場面と作風が全く違うので,これについて何か思わなかったはずはないが,メモなども残っていない.フィレンツェには2012年にも,2016年にも来たが,バディアの公開は月曜のみというところがネックになり,再訪することはなかったから,最後に見てから丸9年は間違いなく経っており,記憶は薄れている.

写真:
ブロンズィーノの
描いた第4場面


 この連作フレスコ画「聖ベネディクトの物語」が,ポルトガル出身のジョヴァンニ・ディ・コンサルヴォによって描かれたことは記録にあるらしいし,ポルトガル出身の有力者が修道院にいたので,特に否定する理由はないのだが,この規模の教会に連作フレスコ画を描いた画家でありながら,他の作品とかこれ以上の情報はないのは不思議だ.

 私が見た限り,英語版ウィキペディアが大胆にも,フラ・アンジェリコ工房のエースの一人ザノービ・ストロッツィが作者である可能性を指摘している.おもしろい説かも知れないし,フラ・アンジェリコの影響は確かにあるということなのだが,それで納得するには私には知識と鑑賞眼が足りないので,とりあえず,やはりジョヴァンニ・ディ・コンサルヴォと言う謎の画家の作品と理解しておく.


ロマネスクとゴシックの名残

 オレンジの回廊にはロマネスクの名残もある.電子辞書の伊和辞典でビフォラという語を引くと,「(中央に小柱を持つ)2連窓」とあるが,これが回廊の壁面下部に一つだけ残っている.オリジナルにはどこに使われていたものなか想像もつかない.2007年には気付かなかったが,その後,ロマネスクに目覚めたせいか,今回はすぐに気付いて写真を撮った.

 この他にあるロマネスクの名残は,今回も見ることできなかったパンドルフィーニ礼拝堂に残る祭壇断片,回廊のどこかかにあるらしい鳥の浮彫のある断片ということだ.芸術でも何でもないかも知れないが,ロマネスクはフィレンツェでは珍しいので,貴重な遺産に思える.

 バディア(バディーア)はアッバツィーア(大修道院)の別語であり,10世紀に創建されたベネディクト会修道院を起源としている.その修道院は19世紀に廃絶し,現在はパリに本拠のある修道会(エルサレム兄弟団)が管理を引き継いでいるらしい.

 しかし,今回バディアに数人おられた管理関係者は,日本風に言うと明らかに「在俗」(私が直接話した4人のうち2人は高齢の女性)の方だった.いずれにせよ,バディアはダンテの『新生』にも『神曲』「天国篇」にも言及があり,ボッカッチョが『神曲』に関する講義を行ったとされ,フィレンツェの由緒ある教会であり,現代のフィレンツェにとって,地味だが,重要な観光資源であるのは間違いないだろう.

写真:
ゴシックの鐘楼(左)
右はバルジェッロ博物館の塔


 10世紀に創建されたのに,改築,改築で既に原型は殆ど留めていないが,ゴシックの名残は若干残っている.

 鐘楼は,昨年,鴻巣のシネマコンプレックス(立派な劇場なのに悲しいくらい空いているので鴻巣近隣の埼玉県民はぜひ「こうのすシネマ」に映画を見に行ってほしい)で家族と観た,ダン・ブラウン原作,ロン・ハワード監督の映画「インフェルノ」の冒頭で,追い詰められた男が飛び降りる場所として出てくる.

 この鐘楼はフィレンツェの中世を想起させるモニュメントで,ヴェッキオ宮殿,すぐ近くのバルジェッロ宮殿の塔とともに,フィレンツェのゴシックを体現している.基層部分にはロマネスクもあるらしいが,完成時から現在までフィレンツェの代表的なゴシックの塔で有り続けている.


トスカーナ辺境伯
 教会の創始は,トスカーナ辺境伯ウーゴ(ラテン語ではフーゴー,英語ではヒュー)の母であるウィッラが,古くからあったサント・ステーファノという教会を買い取り,ベネディクト会の修道院を建てた978年頃のことされる.

 ウィッラについての伊語版ウィキペディアからたどりつくページに,英語で作成された1000年当時のイタリアの地図がある.(日本語版ウィキペディア「1000年」をひくと,女御だった藤原彰子が中宮になったとある.道長の娘で紫式部が仕えたことで知られる「中宮彰子」である.この時の天皇は一条天皇で,清少納言が仕えた「中宮定子」は同年に「皇后」になった.)

 その地図を見ると,当時の勢力分布は,北からロンバルディア王国,ヴェローナ侯爵領(marquisate),ヴェネツィア共和国,トスカーナ侯爵領,教皇領,スポレート公爵領(duchy),ベネヴェント公国(principality),アマルフィ公国,サレント公国,最南端はビザンティン帝国領,シチリアはイスラム領主の支配地域で,サルデーニャに関しては4つの君主領があったらしいが,諸説あるとされている.

 侯爵領の侯爵(英語のマークィス,イタリア語のマルカももともとは国境を示すゲルマン語)と辺境伯がどう違うのか,よく理解できていないが,ランゴバルド人のイタリア支配とそれを打倒したカール大帝のフランク王国以来のゲルマン,ドイツによる封建制度の生成過程と考えれば良いのだろうか.

 後に商業の発達で自治都市(コムーネ)がイタリアの政治勢力の中心となってきて,フィレンツェもその一つだが,1000年前後はまだ自治都市以前の神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)支配下の一辺境伯(侯爵)領の小都市に過ぎなかった.

 ウィッラはルッカで生まれ,フィレンツェで亡くなったらしいが,ウーゴはどこで生まれたかの情報は今のところなく,ピストイアで亡くなって,バディアに葬られた.

 ウーゴの墓碑がバディアに現存する.その作者はミーノ・ダ・フィエーゾレである.立派な墓碑だが,ミーノは15世紀の初期ルネサンスの彫刻家であるから,時代差が400年以上ある.その理由は後述する墓碑のプレートに記されている.


ミーノ・ダ・フィエーゾレ
 深く考えたことがなかったが,ミーノの時代のトスカーナに,優れた彫刻家がたくさん出たということは,おぼろげながら感じていた.

 ヤコポ・デッラ・クエルチャが1374年頃,ブルネレスキが1377年,ギベルティが1381年頃,ドナテッロが1386年頃,ナンニ・ディ・バンコが1380年から90年の間,ミケロッツォが1396年,ルーカ・デッラ・ロッビアが1399年か1400年,ベルナルド・ロッセリーノが1409年,その弟アントニオ・ロッセリーノが1427年,デジデリオ・ダ・セッティニャーノが1428年頃,ミーノが1429年,ジュリアーノ・ダ・マイアーノが1432年,マッテーオ・チヴィターリが1436年,ジュリアーノの弟ベネデット・ダ・マイアーノが1442年の生まれとされている.

 ミケランジェロが生まれるのが1475年,上記で最年少のベネデット・ダ・マイアーノより33歳年下である.

 ミーノはフィエーゾレではなく,現在はアレッツォ県に属するポッピ近郊のスティーアのパピアーノ地域で生まれた(伊語版ウィキペディア).確かにフィエーゾレで仕事もしたが(現在フィレンツェとの往復バスの終点の広場にその名が冠されている),亡くなったのはフィレンツェで,諸方で活躍した人なのに,なぜ「フィエーゾレの」と称されるのかわからない.

 前回の滞在で知っている芸術家の名前は飛躍的に増えたが,さすがにドナテッロの名は既に知っていた.しかし,2007年4月22日に初めてバルジェッロ博物館に行くまではデジデリオ・ダ・セッティニャーノの名前も知らなかった.

 7月4日にピストイアのサンタンドレーア教会でジョヴァンニ・ピザーノの説教壇を観たことによって,それまで幾つか観てきた様々な形態の彫刻系作品を整理して,作家名も本格的に意識するようになった.それほど,ジョヴァンニ・ピザーノの説教壇はインパクトがあった.

 ミーノの作品は既に複数観ていたので,7月4日の報告にも彼の名前と作品名を複数挙げているが,そこに挙げられていない作品でも,バルジェッロ博物館で,ピエロ・デ・メディチの胸像などを観ており,その後ルーヴル,シュノンソー城,ローマの諸教会でも彼の作品を観ている.

 フランスで見たものはイタリアから売却などにより流出したものだと思うが,ローマの作品は,彼がローマで作成した墓碑等で,もともとその場所にあったものだ(サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂のデッラ・ローヴェレ礼拝堂の墓碑など).

 今は整理している余裕がないが,他にも相当数の作品を観ているはずだ.リヨン,アヴィニョンでは近くまで行きながら見逃した作品もあるし,ルーヴルやローマでも見ていない作品もたくさんある.

 デジデリオに比べて,個性がつかみにくい作家のように思われるが,ミーノと納得した上でじっくり鑑賞すると,洗練度の高い優れた彫刻家との印象を深くする.



 彼の修業時代についてはよくわかっていないようだが,ミケロッツォやルーカ・デッラ・ロッビアの工房で仕事をした可能性は指摘されているようだ.若い頃にベルナルド・ロッセリーノ(約20歳年長)やデジデリオ(ほぼ同年だが,デジデリオの方が一歳くらい年長と考えられている)の影響を受けたこと容易に想像される.修業の場と芸術家としてのデビューはフィレンツェだったであろう.

 胸像作者として評価されるようになり(1450年代),ローマやナポリでも仕事をしたようだ.フィレンツェに戻って(1460年代),フィレンツェ,フィエーゾレ,プラートで仕事をしている.バディアに現存する「ベルナルド・ジューニの墓碑」(1468年頃)はこの時期の作品と考えられる.

 1473年にローマに行き,幾つかの重要作品を委託されたが,その中にサンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂の墓碑が含まれる.6年ほどローマにいたらしい(英語版ウィキペディア).

 再びフィレンツェに帰るが,1484年7月11日に彼は亡くなるので,修道会の依頼で作成したバディアに現存する「トスカーナ侯(辺境伯)ウーゴの墓碑」とサンタンブロージョ教会の聖餐の奇跡の礼拝堂の聖体櫃(タベルナコロ)が1481年頃に制作された最晩年の作品と言うことになる.

 彼は,自身の作品があるサンタンブロージョ教会に眠っている.

写真:
ミーノ・ダ・フィエーゾレ作
「トスカーナ侯ウーゴの墓碑」


 こうして見ると,バディアにあるミーノの2つの墓碑,「ベルナルド・ジューニの墓碑」と「トスカーナ侯ウーゴの墓碑」は,よく似た作品であるにもかかわらず,間にローマ滞在とそこでの複数の重要作品の制作をはさんでいる.

 「ベルナルド・ジューニの墓碑」は白大理石の土台に青の石板パネルが上下の白と対照的になるように嵌め込まれ,その上に石棺があり,正面パネルは2人の天使によって支えられており,そこには「フィレンツェの騎士であり,公共の融和の実現者にして,真に民衆の味方であった市民ベルナルドゥス・ユニウスに対し,信仰と人道を遵守する兄弟たちが,彼らと共和国に功績のあった兄弟である彼に対し,(この墓碑を)設置した」と言う内容と考えられる(生硬な訳文だが,大体そういう意味だと思ってもらえれば幸いである)ラテン語のプレートが彫り込まれている.

 石棺下部には「享年68歳6カ月12日」とやはりラテン語が記されている.石棺の上には,本人の遺体と思われるほぼ丸彫りの彫像が横たわっており,さらに上には白大理石で縁取られた3枚の大きな赤斑岩の縦長のパネルがあって,その前面に剣と天秤を持っているので「正義」(ラテン語でもイタリア語でも女性名詞)の寓意と思われるやはりほぼ丸彫りの女性像が立っている.

 上部にはアーキトレーヴ(台輪)(両端に家紋)があり,両側をそれぞれダブル・オーダーになっている角柱が枠をつくり,ここまではギリシア神殿風になっている.

 さらにその上にリュネットがあり,その中にメダイオンがあり,そこには多分ジューニのものと思われる横顔が掘られている.リュネットの上には巻紙(カルトゥーシュ)を持った小さな女性像が付されている.

 こうして見ると天使以外に宗教色がなく,その天使も,もし有翼のプット―だと考えれば,全くキリスト教色を感じさせない墓碑とも言える.時代的に言っておそらく人文主義的教育を受けた政治家の墓だからであろうか.

 それに対し,ウーゴの墓碑の場合,「至高の神に:皇帝オットー三世の縁者で,アンデブルクの辺境伯(伯爵と侯爵),エトルリア(トスカーナ)の領主ウーゴに,彼は聖ベネディクトのためにこの修道院と他に6つの修道院を創設した人だが,この地の敬虔な修道士たちが自分たちの恩人である彼のために,経年により磨滅していた墓を新たにした.救済の年から(=西暦)1481年 この墓は継承者を求めない(この墓はこの人だけのものである?)」と言うラテン語が記されたプレートを持つ天使は,両側に付け柱がある基壇に彫られている.

 石棺には,「救済の年から1000年目の年,1月1日の12日前に亡くなった」とラテン語で彫り込まれている.「前」と訳した箇所は「P」の上に小さく「O」と言う文字が見える.通常この表現の時は古典語ではanteと言う前置詞が使われ,これは対格という格を支配する.類似の意味を持つ前置詞で,pで始まりoで終わるのはproしか考えられないが,この前置詞は奪格支配である.幸か不幸か前置詞の目的語は数詞でローマ数字になっているため,何格かは見た目ではわからない.次の月の1日の何日前と言う言い方はラテン語では普通なので,これが通常ウーゴの没した年月日とされる「1001年12月21日」であるのは,少なくとも日付の方は納得が行く(含み算になるので,翌月の1日は21日から12日後になる).

 一方,年の方はこの表現で1001年になるのかどうか,実はあまり納得していない.しかし,こだわっていると先に進まないので,これについてはペンディングにする.

 1858年にフィレンツェで出版されたジョヴァンニ=バッティスタ・ウッチェッリ『バディア・フィオレンティーナに関する歴史的考察』と言う本をウェブ上で参照することができ,検索も可能だ.そこに碑文を,少しだけわかりやすく書き直してくれている箇所があり,参考になった.

 しかし,ここで重要なのはウーゴの没年ではなく,その間にはミーノの芸術的な成長や変化があったと推測できるほど時間差があったにもかかわらず,この両墓碑が微細な違いを超えて,よく似ていると言う点である.

 ウーゴの墓碑は基壇の上に石棺があり,その上に死者の像が横たわっていて,その上には「慈愛」の寓意像があり,寓意像の背景は白大理石だが,その両側に赤斑岩の石版があり,それらを柱とアーキトレーヴが神殿風に囲み,さらにその上のリュネットのメダイオンには聖母子の浮彫がある.

 ミーノの墓碑で赤斑岩を使ったものは,ローマで制作したものにはない.私は見逃してしまった作品だが,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァの墓碑は白大理石だけでなく,有色の石を一部使っているが,バディアの墓碑のように赤斑岩が印象に残るものではない.


ベルナルド・ロッセリーノ
 堂内にもう一つ,入口の裏側にあたるのでファサード裏と言って良いと思うが,ここに小さな墓碑がある.神殿風に作られた基壇にはやはり赤斑岩が使われており,その上のリュネット部分に石棺がおかれ,その正面パネルには天使が支えるラテン語プレートがある.

 ミーノの2基の墓碑に比べれば随分簡素だが,特に赤斑岩の石板の存在と上部がリュネット型になっていることが一見よく似た印象を与える.

 案内書やウェブページに拠ると,ベルナルド・ロッセリーノ工房作の「ジャンノッツォ・パンドルフィーニの墓碑」とのことである.ベルナルドはオレンジの回廊の設計もしたとされているので,自身がかかわったかどうかはともかく工房の作品と言うのは特に否定する理由はないであろう.

 どのあたりが,巨匠自身の作品か工房の作品か見分ける基準なのか,あるいは記録上の証拠があってのことなのか私にはわからないが,いずれにしてもパンドルフィーニの死去が1456年(伊語版ウィキペディア)とされるので,であれば,バディアの2基のミーノ作の墓碑に先行していると思われる.

 オレンジの回廊の設計に携わったのは,1432年から1438年とされる(伊語版ウィキペディア)ので,回廊よりも後に制作されたものだ.

 ベルナルド作の墓碑としは,サンタ・クローチェ聖堂の「レオナルド・ブルーニの墓碑」が有名で,天使が両脇から支えるラテン語碑銘,その上の横たわる死者の彫像,ギリシア神殿風の枠と,その背景に使われた赤斑岩の石板3枚,リュネットとその中のメダイオン(中には聖母子)はミーノの「トスカーナ侯ウーゴの墓碑」と共通している.

 リュネットの上部に両脇を天使に支えられる輪があり,その中にランパン(後ろ足での立ち姿)のライオンが掘られている.あるいはブルーニ家の家紋と関係があるかも知れないが,この点が「ウーゴの墓碑」とは異なっている.

 サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の「ポルトガル人枢機卿の礼拝堂」の枢機卿ジャーコモ・ディ・コインブラ(出身を示す時はダになるはずだが,伊語版ウィキペディアの複数のページでディになっているのでそうしておく)の墓碑はベルナルドの弟アントニオの作品だ.

 大きな違いが幾つか見られるものの,石棺の上に故人の像が横たわり,上部のメダイオンに聖母子が見られることの他に,何よりもやはり赤斑岩を背景に用いている点が共通性を感じさせる.

 「レオナルド・ブルーニの墓碑」は1450年に完成し,枢機卿の死は1459年,「ポルトガル人枢機卿の墓碑」も遅くても1466年に完成していたはずなので,ロッセリーニ兄弟とその工房が関わった3つの墓碑はいずれもミーノの2つの墓碑に先行していたであろう.

 サンタ・クローチェ聖堂にあるデジデリオ・ダ・セッティニャーノ作の「カルロ・マルスッピーニの墓碑」も神殿風の枠,石棺の上に横たわる故人の彫像,リュネットにあるメダイオンの中の聖母子など多くの共通点が見られるだけでなく,何と言っても赤斑岩の石板が上記の墓碑と似ていると言う印象を与える.1455年の完成とされるので,やはりミーノの墓碑に先行している.

 実は,この稿を書いている間にも幾つかの赤斑岩を使った墓碑を見ることができたが,整理しきれない.一応,バディアに現存するミーノ作の2つの墓碑については,ベルナルド・ロッセリーノを範とするロッセリーノ工房やデジデリオの墓碑の影響を受け,それらの作風を意識しながら,ミーノの個性と成長がそれぞれに反映したもので,15世紀後半に一つの流行となったトスカーナの特徴的な墓碑の完成形を示しているように思われる,としておく.

 完成形とあえて言ったのは,先行する墓碑群に装飾過剰になっていく傾向がもしかしたら見られるかも知れないが,それに比べると,ミーノの2つの墓碑,特に「トスカーナ侯ウーゴの墓碑」は簡素で洗練度が高まったように思われるからだ.もちろん製作費の問題とか他の要素もあるかも知れないが,簡素な洗練性と言う点にミーノの個性を感じ取りたい.

 ミーノが制作したピエロ・デ・メディチの胸像(1455年完成)がバルジェッロ博物館にあるが,ピエロの墓碑はサン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室にあって,こちらはヴェロッキオの作品だ.ロッセリーノの影響を受けた墓碑群と違い,メディチ家の家訓を反映したものか,一見質素に見える.

 石棺の素材は赤斑岩と思われるが,装飾ではなく石棺そのものに使っている所にロッセリーノ工房,デジデリオ,ミーノの流れとは違う志向を感じる.それでも,ピエロの死が1469年で,時間的には,バディアにあるミーノ作の2つの墓碑の間に位置付けられることから,相互に何らかの影響があったかも知れない.

 ミーノは1435年生まれのヴェロッキオより6歳ほど年上である.ヴェロッキオがレオナルドの師匠であり,その工房にボッティチェリ,ペルジーノ,ギルランダイオがいた可能性があることを考えると,ミーノが初期から盛期に移って行くフィレンツェのルネサンス芸術を支えた彫刻家であることに改めて気付き,驚く.

 4月18日にピサに行って,カンポ・サントで多くの古代石棺を見て,ニコラとジョヴァンニのピザーノ親子の説教壇にも再見し,トスカーナにおける彫刻の伝統というものを改めて考えさせられた.もちろん全く手におえない問題であり,今はともかくバディアでミーノの2つの墓碑と1つの祭壇画型彫刻(3翼祭壇彫刻を組み込んだ方形の浮彫彫刻「聖母子と聖人たち」)を見ることができるのは,とても幸福なことに思える.


絵画作品
 バディアにはフィリピーノ・リッピの「聖ベルナルドゥスの幻視」,ジョルジョ・ヴァザーリの「聖母被昇天」,ジョヴァンニ=バッティスタ・ナルディーニの「十字架を担うキリスト」,ナルド・ディ・チョーネに帰せられるかも知れない剥離フラスコ画断片などの絵画作品がある.

 今回はマニエリスムの画家であるヴァザーリとナルディーニの絵を比較しながら,ナルディーニの魅力を再認識するとともに,実はヴァザーリは画家としても思ったよりも偉大な芸術家だったのではないかと思うに至ったが,これに関しては,稿を改めていつか考えてみたい.

写真:
フィリピーノ・リッピ作
「聖ベルナルドゥスの
前に現れた聖母の幻視」


 盛期ルネサンスの傑作としてはやはりフィリピーノ・リッピの油彩画「聖ベルナルドゥスの前に現れた聖母の幻視」であろう.今回の報告では特にフォーカスしないが,もちろんじっくり鑑賞した.1457年生まれのフィリピーノが25歳の1482年くらいから1486年くらいに描いたと推定されるもので,これが正しければ,1484年に亡くなったミーノがギリギリ存命であったかも知れない.

 この作品は,本来は別の教会であるサンタ・マリーア・デル・サント・セポルクロ教会のために描かれたものだが,フィレンツェ共和国に終焉をもたらし,封建領主としてのメディチ家が支配するフィレンツェ公国,トスカーナ大公国になっていく契機となる1529年からの「フィレンツェ包囲戦」の戦禍を避けて,1530年にバディアに移されたものとのことだ.であれば,もう500年近くバディアにあることになる.

 中世の芸術に興味を覚えている今の私にとって,ロマネスク,ゴシックの遺産は,バディアにあまり残っておらず,基本的に堂内はバロック風なのは残念にも思えるが,それでも立派な木製の格天井を見上げると,それぞれの時代の芸術を味わえて良いなとも思う.フェリーチェ・ガンベライと言う17世紀の人物の作品とのことだが,この人については今のところ情報を得られていない.

 バディア・フィオレンティーナは何度でも行きたい教会である.

 次回からは本当に,簡潔な報告を,あまり間を置かずにしていくようにしたい.






フィレンツェ大学から割り当てられた部屋
うまく活用したい