フィレンツェだより第2章
2017年4月24日



 




ピエロ・デッラ・フランチェスカ作
「真の十字架の物語」



§アレッツォ行 その1 ピエロ・デッラ・フランチェスカの「真の十字架の物語」

4月14日にアレッツォに行き,ピエロ・デッラ・フランチェスカの「真の十字架の物語」を観てきたので,それについて簡単に報告する.


 アレッツォに行ったのは,本来の目的である考古学博物館とローマ遺跡を見るためであったが,時間の許す限り教会,博物館へも足を運んだ.やはりアレッツォも,教会も博物館も写真可になっていた.

 未訪だった司教区博物館では,スピネッロ・アレティーノのフレスコ画断片の「受胎告知」を観ることができたし,スピネッロの作品は,その後に行ったピサでもルッカでも写真に収めることができたので,別途報告をまとめる.

 もちろん,考古学博物館についても報告するし,あまり乗り気ではなかったが,考古学博物館とセット券なので行った「ヴァザーリの家」博物館で,改めてヴァザーリについて考えさせられたので,それに関しても述べたい.

 しかし,今後は「行った,見た,感動した」と言う簡潔なタイプの報告を間を置かずにすると決めているので,今回はサン・フランチェスコ聖堂のピエロ・デッラ・フランチェスカの「真の十字架の物語」に絞って報告する.


思いついたらすぐに行く
 仕事も滞っているのにアレッツォに行く気になったのは,ひとつには,昨年の研究出張で暑さにへばって見学予定の考古学博物館に行かなかったこと,もうひとつは,ラウレンツィアーナ図書館を利用するための紹介状を入手する見込みが立ち,一気に懸案が片付いたように思えたことからだった.

 ラウレンツィアーナ図書館は研究に直結するセネカのE写本を所蔵しており,一般見学者として中に入ったことはあるが,利用には紹介状が必要で,実際に写本を見たことはない.

 今回の招聘に鷺山先生とともにご尽力下さったフィオレンツォ・ファンタッチーニ先生の研究室を訪ねて,4月12日にフィレンツェ大学の「言語・文学・国際研究学部」(Dipartimento di Lingue, Letterature e Studi Internazionali)に行き,大学からの便宜供与についてご説明いただいたうえ,フィレンツェ大学の人文学図書館,国立図書館(ビブリオテーカ・ナツィオナーレ),ラウレンツィアーナ図書館を利用するための紹介状を学部長名で出して下さるとのお申し出をいただいた.

 本来は,こちらからお願いしなければいけないことなのに,研究活動が円滑に行えるようにとの最大限のご配慮をいただき,一気に懸案が片付いたように思え(実はまだまだハードルはあるが),気持ちが軽くなった.

 ファンタッチーニ先生と握手して,研究室を辞去した後,高揚した気分のまま,ピッティ宮殿に向かい,パラティーナ美術館を訪ね,翌日は一日,寓居でしっかり仕事をし,更にその翌日,朝早く目が覚めて,どうしてもアレッツォに行きたい気分になった.

 6時半に家を出て,7時8分発のアレッツォ行のローカル電車に乗り,8時34分にアレッツォに着いた.まず,懸案の考古学博物館を丁寧に見学した後,幾つかの教会を観て,13時に予約が取れていたサン・フランチェスコ聖堂に向った.


5年ぶりのサン・フランチェスコ聖堂
 10年前は教会の入堂は自由で,ピエロのフレスコ画があるバッチ礼拝堂だけは,予約してチケットを購入した人が一定時間だけ見られるシステムだったが,今は聖堂自体にチケットコントロールがあり,拝観料を払った人が入れる一種の博物館のようになっていた.

 2012年にツァーで来た時はまだ10年前と同じシステムで,ただ拝観者が少なかったのか,制限時間を越えて礼拝堂にとどまることができたが,今回は,一旦入堂してしまうと何度でも礼拝堂に出入りできるし,何よりも以前は厳禁だった写真撮影が可となった.

 一眼レフのカメラ,スマートフォン,タブレット端末など(私のようなコンデジは少なくなってきた)で,多くのツーリストが芸術作品を写真に収めるのは,少なくともイタリアでは,一部の博物館や教会では当たり前の光景となった.これが良いことなのかどうかは私には判断できないが,観光が目的で拝観している旅行者には,ストレスの少ない時代になったと言えるだろう.

 10年前に,あちこちで,アメリカ人やドイツ人のツーリストに「ノー・フォト」と叫ぶ係員の仕事は,「ノー・フラッシュ」(フレッシュと英語式にイタリア人は発音するようだ)と注意することになった.博物館や教会自身が強い光を芸術作品にあてているケースが少なくないのに,「ノー・フラッシュ」にどれだけの意味があるのかわからないが,確かにあちこちでフラッシュが焚かれたら,落ち着いた作品鑑賞は難しいだろうから,これで良いのだと思う.私もピンボケ写真の量産であっても,記憶の一助以上の役割を果たしてくれるので,撮影可は嬉しい.


アーニョロの作品と比較して
 ピエロのフレスコ画を鑑賞して改めて思ったのは,この芸術家は写真では理解が難しいのではないかと言うことだ.もちろん写真と実物が異なるのは,どんな作品も同じことだが,遠目にしか見られない実物の細部を伝えることができる写真は,理解の一助となることもある.

 修復なったばかりの美しく端正なアーニョロの同主題のフレスコ画と比較すると,ピエロのフレスコ画は,漫画のようなデフォルメに満ちた,良く言えば個性的,まかり間違えば下手な絵に見えた.にもかかわらず,バッチ礼拝堂の中に立ち,ピエロの絵で覆われた壁面を見上げていると,その瞬間にその場にいられる幸福を感じないではいられない.この独特の迫力は何だろうか.

写真:
向かって右側のフレスコ画
最下段は「ミルヴィオ橋の戦い」


 ずっと後世に戦争画が流行した時代があり,大物としてはサルバトル・ローザもその中にいる有名無名の画家たちが数々の有名な戦闘を描いているが,高い技術を以て写実的に描かれたそれらの戦闘シーンに比べて,ピエロの描くミルヴィオ橋の戦いとニネヴェの戦いは,現実味と説得力に乏しい描写のように思える.

 しかし,馬とともに川に落ちたマクセンティウスに十字架をかざして迫るコンスタンティヌスが描かれたミルヴィオ橋の戦い,そして,実際の戦いでは先頭に立って奮戦したとされるヘラクレイオスはどこに描かれているのかわからないが,山型に盛り上がった全体の細部の幾つかに目が行くように構成されているニネヴェの戦いの白兵戦のシーンを仰視していると,ピエロと言う画家の悪魔的とも言える天才性を感じずにいられない.

 虚構の中に真実を読み取らせるのは,文学でも優れた作家のみに許された手法だと思うが,写真で見ると嘘くさい(実際の戦争はこんなにわかりやすく描けない)戦闘場面が,狭い礼拝堂の中では心に迫って来る.

 もちろん,現在はピエロ・デッラ・フランチェスカと言う画家が世紀の大芸術家であると言う評価が定まっていることを知識として知っているので,安心して感銘を受けられる側面は否定できない.

 バッチ礼拝堂の(向かって)右隣りのグァスコーニ礼拝堂には,今は忘れられた存在かも知れない画家スピネッロ・アレティーノのフレスコ画があって,ピエロの作品を観た感激に劣らないほどの陶酔状態でそれに見入ってしまう自分の鑑賞眼はおかしいのではないかと言う不安に駆られるが,ピエロに関してはそうした後ろめたさを感じることなく,感動に浸ることができる.

 バッチ礼拝堂のフレスコ画の図像プログラムは,アーニョロ・ガッディの「真の十字架の物語」が時系列に整理されていて分かりやすいのに比べると,どういう順番で見るべきなのか迷ってしまうが,左右のそれぞれの壁面の最下部で,ミルヴィオ橋の戦いとニネヴェの戦いが対応していることに注目すれば,シヴァの女王の場面とコンスタンティヌスの母ヘレナの場面が左右の中段で対応し,最上部のリュネット部分では,アダムの死とヘラクレイオスによる真の十字架のエルサレム入城が対応していることに気付く.

 アーニョロとピエロの同主題の連作フレスコ画には相違点も共通点もある.アーニョロが若い美丈夫に描いたセトはピエロでは既に白髪の老人で,ピエロが描いたアダムの死を見守る老婆のイヴをアーニョロは描いていない.何と言ってもピエロの作品では注目すべき二つの戦闘シーンをアーニョロは描いていない.

 アーニョロが描いた,真の十字架を略奪して神殿で傲慢に振る舞っているホスローの姿をピエロは描いていないが,それでも戦闘シーンの左端に,奪われた真の十字架を置いた神殿が描かれ,その下に斬首を待つ捕らわれのホスローが描かれているので,やはりピエロはアーニョロの作品を観て意識していたのではないかと思われる.

 前回述べたように,アーニョロが描いたヘラクレイオスの幕屋での夢の場面をピエロはコンスタンティヌスの物語に活かしているが,やはり似ているように思われる.

写真:
「コンスタンティヌスへの
お告げ」


 物語の最終場面である「ヘラクレイオスによる真の十字架のエルサレム入城」は,アーニョロでは(向かって)右壁面最上部から始まった物語が下へと時系列に進み,一旦左壁面最上部に行って,その最下部に描かれている.

 それに対し,ピエロはやはり左壁面最上部から物語が始まりながら,左壁面最下部から対応する右壁面最下部に行き,今度は上へと時系列に展開し,「真の十字架のエルサレム入城」は左壁面最上部のリュネットに描かれている.

 正面の壁面は窓を真ん中にして左右に,最上部にはエレミアとイザヤ,中段は,ユダの拷問と真の十字架となる木材の埋伏,受胎告知とコンスタンティヌスへのお告げが描かれており,これが,物語がどういう順で展開するのかを分かりにくくしている.

 「受胎告知」(これは「受胎告知」ではなくマリアにその死と被昇天を告げているとの説も有力なようだが,素人目にはどうしても「受胎告知」に見える)は,シヴァの女王の場面とコンスタンティヌスの場面の中間に来ると前回解釈したが,そうではなく物語を総括しているとの考えもあるようだ.

写真:
左壁の最下段
「ニネヴェの戦い」


 また二つの戦闘場面における複数の軍旗が,全体として「キリスト教の勝利」を意味していると言うことも,解説書などを読むと理解できる.特に,両場面の負ける側の軍旗に黒いムーア人の頭部が描かれているのは,コンスタンティヌスの時代にはまだ存在しないイスラム教が意識されていると言うことだ.

 ニネヴェの戦いは627年で,イスラム暦の元年は622年なので,この時点ではまだまだイスラム教は草創期だが,ホスロー2世のササン朝ペルシアはまもなく(651年)にイスラム勢力に征服される.

 しかもニネヴェの戦いの場面の軍旗にはキリスト教の印である白十字の他に,「ランパン(後ろ足の立ち姿)のライオン」の軍旗があり,ピエロがこの作品を制作していた当時の教皇パウルス2世の紋章を表しているものと考えられている.1464年から1471年までの在位なので,既にビザンティン帝国(東ローマ帝国)はオスマン・トルコに滅ぼされている(1453年).特に,この教皇はオスマン帝国と利害が対立するヴェネツィアの出身であり,時代遅れとも言える十字軍の再結成を考えていたとされる.

 その意味で,アーニョロとの最大の違いは,ピエロの絵には迫りくるオスマン帝国に代表されるイスラム勢力への恐怖と,それに対する「キリスト教の勝利」への希求が深く意識されていたことであろうと思われる.

 「絵解き」には多少の知識が必要だが,このフレスコ画は知識無しでも現場で十分以上に感動できる.ピエロと言う画家は天才の名に値すると改めて思った.

 ピエロに劣らず天才と,少なくとも私には思われるスピネッロ・アレティーノに関して,次回は(やはり,なるべく簡潔に)報告をまとめる.






サッソヴェルデ通りの藤の花
溢れる生命力に足が止まる
アレッツォ