フィレンツェだより第2章
2017年7月31日



 




ベッカフーミ「キリスト降誕」(部分)
サン・マルティーノ教会



§シエナ その6 シエナ派の宝庫の教会

シエナ派については3回に分けて,1回目はドゥッチョ以前,2回目は14世紀ゴシック,3回目(今回)はルネサンスとマニエリスムについて書く予定だった.


 前回は,シエナ派の特徴やドゥッチョ風聖母子について長々書いた挙句,唐突にシモーネ・マルティーニとリッポ・メンミの名前を出して終わりにした.自分で言うのも何だが,随分乱暴な話だ.14世紀のシエナ派の大立者には,他にピエトロとアンブロージョのロレンゼッティ(ロレンツェッティ)兄弟もいるのに,殆ど触れていない.

 3回目は,このまま予定通りルネサンスとマニエリスムについて書くのが良いのか考えているうちに,大変な勘違いに気付いた.

 前々回,「ボルドーネのマドンナ」のあるサン・クレメンテ・イン・サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂(以下,セルヴィ聖堂)は,扉口まで行ったが開いていたことが無いと書いたが,実は旧市街の街はずれにあるこの教会には,一度も行っていなかった.同じく,いつも扉の前まで行くが開いていない別の教会と勘違いしていたのだ.思い込みは恐ろしい.

 と言う訳で,3回目をどうするかは改めて考えることにして,7月25日,朝8時10分発のバスに乗って,今期4度目のシエナへ向かった.


サン・クレメンテ・イン・サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂
 まず,バス・ターミナルに近いサン・ドメニコ聖堂に行き,グイド・ダ・シエナの「サン・ドメニコのマエスタ」を確認した.

 ここは,昼休み以外の朝と夕方,必ず開いているので安心して寄ることができる.「サン・ドメニコのマエスタ」は何度も見ているが,見る度に記憶より大きな絵だと感心する.

 同じ時代の他の絵画より洗練度が高いのが意外に思えるが,聖母子の顔はドゥッチョ風に直されていることを知ったので,この絵自体の卓越性についてはペンディングで,もっぱらシエナ派の形成と言う歴史的要素に注目しながら観た.

 サン・ドメニコ聖堂を出て,いよいよセルヴィ聖堂に向かう.

 サン・ドメニコからサピエンツァ通りの坂道を登り,右折してメイン・ストリートにあたるバンキ・ディ・ソプラ通りを直進し,メルカンツィアの開廊の前で,左折してバンキ・ディ・ソット通りに出て,パンタネト通りに変わるところで右折すると,まだ一度も拝観できていないサン・マルティーノ教会がある.

 サン・マルティーノ教会がやはり閉まっているのを確認し,そこからポッリオーネ通り,名前が変わってマルティーノ通りを直進するとサン・ジローラモ通りに名前が変わり,複数の通りが交差する所で,デッリ・セルヴィ通りを選択すると,その先にセルヴィ聖堂の古格に満ちた姿が現れた.

 扉は開いていた.

写真:
サン・クレメンテ・
イン・サンタ・マリーア・
デイ・セルヴィ聖堂


 セルヴィ聖堂はラテン十字型の三廊式で,側廊と翼廊に幾つか礼拝堂がある.そこに飾られている祭壇画などを丁寧に見ていった.

 多くの祭壇画はマニエリスム以後の油彩カンヴァス画だが,後陣に向って右側廊の2つ目の礼拝堂には,13世紀のテンペラ画「ボルドーネのマドンナ」がある.1260年のモンタペルティの戦いで勝者であるシエナの捕虜となったフィレンツェの画家コッポ・ディ・マルコヴァルドが描いたオディギトリア型の聖母子だ.

 聖母子の顔は後年ドッチョ風に直されているが,1261年に描かれた古い絵であるのは間違いないようだ.これについては前々回に述べたので,今回は実物を見ることができたことを報告するにとどめる.

 何の知識も無しにこの祭壇画を観て,注目すべき作品と分かったかどうか自信はないが,おそらく,かなり古い絵だろうくらいの感想は持ったと思う.

写真:
コッポ・ディ・マルコヴァルド
「ボルドーネのマドンナ」
サルヴィ聖堂


 その左隣の礼拝堂には,「最後のシエナ派」の一人で,16世紀後半に生まれ,17世紀前半に活躍した後期マニエリスムからバロックの画家ルティリオ・マネッティの「聖母の誕生」がある.

 彼はカラヴァッジョ風の絵も描いているが,この絵も明暗対照法が顕著で,時としてカラヴァッジェスキの一人とされることに納得する.

 今まで,この画家に注目したことがないどころか,名前も知っていたかどうかも定かではないが,今期新たに注目画家のリストに加わえられたサン・ジミニャーノのヴィンチェンツォ・タマーニとともに,これで完全に自分の視野の中に入った.

 「聖母の誕生」は光が反射してうまく写らないので,国立絵画館で見られる複数の彼の作品の中から「地獄でダンテを案内するウェルギリウス」を紹介する.

 この絵はカラヴァッジョ風に全体が黒っぽくて光が反射するのに,展示室の外の狭い通路に飾られているため,距離を取って撮影することができず,四苦八苦したが,柱の陰から斜めにカメラを向けて,ようやく反射の少ない写真を撮れた.

写真:
ルティリオ・マネッティ
「地獄でダンテを案内する
ウェルギリウス」
シエナ国立絵画館


 さらに左隣の礼拝堂には19世紀に活躍し20世紀まで生きたアレッサンドロ・フランキの「聖マリア下僕会の7人の創設者の前に現れた聖母」(1888年)がある.

 この画家の頃には既に「シエナ派」と呼ばれる画派は存在しないし,彼はプラートで生まれた.

 プラート大聖堂で彼の作品を観ている.中央礼拝堂にはフィリッポ・リッピのフレスコ画「聖ステパノと洗礼者ヨハネの物語」があり,その左隣のアッスンタ礼拝堂にはアンドレーア・ディ・ジュスト・マンツィーニとパオロ・ウッチェッロのフレスコ画「聖母と聖ステパノの物語」があるが,さらにその左隣のヴィナッチェージ礼拝堂を旧約聖書に取材したフレスコ画で装飾したのがフランキである.

 一方,彼はシエナ大聖堂のファサードを飾るモザイク,堂内の床装飾,洗礼堂の多翼祭壇画を制作し,シエナで亡くなった「シエナの画家」でもある.

 宗教画は新しいと有難みは薄れるきらいがあるが,彼の残したものは確かな技術と溢れるような宗教心に支えられた立派な作品群で,世が世なら大芸術家として扱われていたかも知れない.

 セルヴィ聖堂内には,一般信者のお祈りのための礼拝堂が少なくとも2つあるが,右翼廊の後陣からみて左に2つ目の礼拝堂の前には相当数の椅子が置かれており,熱心な信者が集まって,そこで祈るであろうと思われた.その礼拝堂にもフランキの「無原罪の御宿りと聖人たち」と言う三翼祭壇画が飾られている.見るからに新しいので,つい,他の作品を観ることを優先してしまうが,美しい作品だと思う.



 右側廊の最後の礼拝堂の祭壇画は,マッテオ・ディ・ジョヴァンニの「嬰児虐殺(下部パネル)と聖母子と聖人たち,寄進者たち(上部リュネット)」(1491年)である.

 大聖堂の床装飾に関して報告した時に言及したが,彼はサン・セポルクロ出身だが,ルネサンス期のシエナの画家で,床装飾の「サモス島のシビュラ」の下絵を担当している.

 サン・セポルクロ出身ということは,初期ルネサンスの巨匠ピエロ・デッラ・フランチェスカと同郷で,しかも1416年か17年に生まれたピエロよりも10歳以上若いのに,初期ルネサンスを代表する巨匠の同郷の後輩がこんな古臭い絵を描いていたのかと驚く.

 ピエロにも金地板絵の祭壇画があり,多分ゴシックの遺風は彼の中にも存在しただろうし,シエナ派の特徴の一つとして,ルネサンス期であってもゴシック絵画のような古式な画風へのこだわりがあるとされるので,この作品もそうしたこだわりを大事にして描かれたのかも知れない.ただ,この絵は金地ではなく,色彩はルネサンス的に感じられる. 

 好きか嫌いかで言ったら,私はマッテオ・ディ・ジョヴァンニの古風な絵が好きだ.

 初めてシエナに行った時,サン・ベルナルディーノ祈禱堂にある教区博物館で,彼の「受胎告知」の写真を2007年10月29日の報告で紹介した.ただし,その時は作者名の書かれたプレートの写真を撮っておらず,メモも取らなかったので,誰の作品かは分からず,作者名が分かったのは,帰国後だいぶ経って,インターネット書店ウニリブロでシエナ派の参考書を入手してからだった.

 この「受胎告知は」は金地板絵だったし,雰囲気も似ていたので,シモーネ・マルティーニの追随者が描いた14世紀のゴシック絵画か,せいぜい国際ゴシックの影響のある14世紀末から15世紀初頭の絵に思われたが,15世紀も半ば過ぎのマッテオの作品だったのは意外で,ここにもシエナ派の保守性が読み取れるものと,後では思った.

 サン・ドメニコ聖堂のグイド・ダ・シエナのマエスタが飾られている左翼廊の礼拝堂の右側壁に,マッテオの代表作とされる「玉座の聖バルバラと聖人たち(下部パネル)と三王礼拝(上部リュネット)」がある.その向かい側の左側壁にあるベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニの「聖母子と聖人たち(下部パネル)とピエタ(上部リュネット)」(1483年)と良く呼応して,礼拝堂全体のバランスも良い.サン・ドメニコは撮影厳禁なので,写真で紹介できないのが残念だ.

 マッテオとベンヴェヌートは同じく「ジョヴァンニの息子」と言う父称(patronymic / patronimico)だが,特に兄弟でも親族でもないようだ.父親がジョヴァンニと言う名前のイタリア人は山ほどいただろうし,今もいるので,特に不思議なことではないだろう.

 殆ど体一つでこちらに来ているので,参考書が不足し,専門家ならばネット情報に頼りはしないだろうが,英語版,伊語版,また時として日本語版のウィキペディアを参照している.私程度の知識であれば,有益な情報が得られる.シエナ派全体に関してはもちろん伊語版の方が情報豊富だし,紹介されている作家の数も多いのだが,個々の作家にリンクされている情報が英語版の方が詳細なことも稀ではなく,驚く.

 マッテオ・ディ・ジョヴァンニに関してはどちらも同じくらいの情報量だが,ベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニに関しては英語版が圧倒的だ.伊語版の情報が明らかに多い場合以外は英語版にリンクする.ベンヴェヌートはマッテオの影響を受けたとされるが,それにしても,聖母の表情などが良く似ている.

 しかし,これはこの2人に限ったことではなく,目がパッチリした,昔の少女雑誌に登場する「お人形さん」風の顔をした聖母や女性聖人を描く人が,15世紀のシエナの画家には多いような印象を受ける.

 その代表が国立絵画館その他で相当数の作品を観ることができるサーノ・ディ・ピエトロである.

 左:マッテオ・ディ・ジョヴァンニ    右:サーノ・ディ・ピエトロ
    ともにシエナ国立絵画館


 マッテオ・ディ・ジョヴァンニは十数歳年長のサーノの影響を受けたと考えられている.もちろんそれは女性の顔だけのことではなく,構図とか,色彩とか,様々な要素を含んでのことであろうが,「シエナ派」の中の一定数の画家が「美しい」と言うよりは,「綺麗な」顔の女性たちを描いたことには注目して良いのではないだろうか.

 マッテオ・ディ・ジョヴァンニの「嬰児虐殺」(1482年)はサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ救済院の礼拝堂でも観ているが,セルヴィ聖堂の同主題作品より,先行するこちらの作品の方がサーノの影響が強いように思える.

写真:
ルーカ・ディ・トンメ
多翼祭壇画の中央パネルの
聖母子
シエナ国立絵画館


 そうした画家たちの最初に位置しているのが,ルーカ・ディ・トンメではないかという印象を持つ.

 この画家は1330年頃の生まれで,14世紀の後半に活躍したので,サーノに比べても,70歳以上の年長と考えられ,直接の影響は考えにくいが,多くの現存作品があり,活動期間も長かったし,彼が描く「綺麗な」祭壇画は,後続のシエナの画匠たちや彼らを支持する注文者たちの趣味に合ったのではないかと想像する.

 ルーカの作品は,ウフィッツィ美術館で受胎告知を中心とする多翼祭壇画を観ることができるし,シエナの国立絵画館には複数の作品がある.これらの作品の中には「綺麗な」女性を描いた作品だけではなく,聖母や女性聖人の表情にも,切れ長で鋭い視線を持つ,相当の目力を付加した絵もある.

 「目力」の強い聖母はシモーネ・マルティーニやリッポ・メンミの作品にも見られたが,シエナ派の画家たちの中で,人物の表情で最も目力を強調するのがタッデーオ・ディ・バルトロであろう.

 この画家も現存作品が多く,大型祭壇画やフレスコ画も得意とする実力者だが,セルヴィ聖堂の左翼廊東側の,後陣から見て2つ目の礼拝堂に「牧人礼拝」がある.タッデーオにしては小品だが,シエナ派らしい華やかな作品だ.

写真:
タッデーオ・ディ・バルトロ
「牧人礼拝」
セルヴィ聖堂


 左翼廊奥の礼拝堂には,やはり人物像の「目力」が印象に残るジョヴァンニ・ディ・パオロの「マントの聖母」(1436年)があり,とてもインパクトのある作品だ.

 ジョヴァンニはタッデーオ・ディ・バルトロの工房で修行した可能性が指摘されており,現存する作品の中では古い方に属する.「マントの聖母」も作者が30代後半の時に描かれており,決して若い頃の絵とは言えないが,80台まで生き,70代半ば過ぎに描かれたと思われる作品も残っているジョヴァンニとしては初期のものと言えるかもしれない.

 タッデーオの門下から出発して,国際ゴシックのジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの影響を受けながら,祭壇画も量産し,ダンテ『神曲』の写本挿絵など彩色細密画に傑作を残し,後世の評価も高いようだ.

 正直なところ,私は今までこの画家に対する認識が乏しく,国立絵画館に思ったよりも多くの作品が展示されているのを見て,重要な作家なのだなあと思った程度だったが,タッデーオの影響が明らかでありながら,個性に満ちた魅力が感じられるセルヴィ聖堂の「マントの聖母」,多分15世紀のシエナ派では最も天才肌のサッセッタの同主題作品に繋がると思われる国立絵画館の「謙譲の聖母子」によって,この画家の魅力に開眼できたように思う.

 英語版,伊語版のウィキペディアに掲載されたジョヴァンニの作品リストの中で,国立絵画館所蔵とされる作品が,自分の目で見て,写真を撮ってきたどの絵に対応するのかも,これから確認して行かなければならないくらいの勉強しかできていない.

 しかし,ともかく歴史的にも重要な画家だし,実際に見て印象に残った幾つかの作品によって,この画家が魅力的だと分かったので,出発点には立てたと思う.

写真:
ジョヴァンニ・ディ・パオロ
「マントの聖母」
セルヴィ聖堂


 セルヴィ聖堂にはドゥッチョの作品はないが,ドゥッチョ風の聖母子が1点ある.

 右翼廊から聖具室に行く入口の上方に解説プレートもなくただ飾られている「聖母子」を観て,ドゥッチョの「聖母子」のコピーかと思ったが,伊語版ウィキペディアに拠れば,セーニャ・ディ・ボナヴェントゥーラの「聖母子」とのことである.

 彼の息子の作品もある.右翼廊奥の礼拝堂には見事な十字架型彩色板絵の磔刑像があって,堂内の解説プレート(紙に簡単に印刷された「プレート」とも言えないようなものだが)にはセーニャの息子であるニッコロ・ディ・セーニャの作品とある.伊語版ウィキペディアでは父セーニャ,もしくは息子ニッコロの作品とされている.

 いずれにせよ,ドゥッチョの影響を親子二代に渡って堅持した画家たちの作品と言えよう.ただし,磔刑像に関してはドゥッチョの影響が見られるのかどうかは確信がない.

写真:
ニッコロ・ディ・セーニャ
磔刑像
セルヴィ聖堂


 セルヴィ聖堂の磔刑像は,13世紀以前によく描かれた「勝利のキリスト」(クリストゥス・トゥリウンパンス)型の磔刑像ではなく,ジュンタ・ピザーノなどの革新を経た「受難のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)の中でも,ジョットが実現した死後のキリストの姿が描かれたタイプだ.

 どのような影響経路かは調べていないが,ジョットの磔刑像が描かれて以後は,シモーネ・マルティーニを含め,シエナ派の画匠たちによる磔刑像も,ほぼ例外なく「死せるキリスト」(クリストゥス・モルトゥウス)である.

 プッブリコ宮殿の特別展に,ドゥッチョ作とされる十字架型彩色板絵の磔刑像が展示されていて,それは「勝利のキリスト」型だった.しかし,私にはどう見てもドゥッチョという巨匠の作品には思えなかった.

 ドゥッチョの同時代の先人で,師匠だと言う説もあるチマブーエの現存する磔刑像が2つとも「受難のキリスト」であるのに,この「勝利のキリスト」がドゥッチョの作品と言われても,個人のコレクションをベースとした特別展なので,コレクターの願望が反映した結果の同定なのではないかと疑問に思った.

 しかし,特別展を2回目に観た時に入手した図録では,専門家が同定の経緯について簡単に触れながら,「クレーヴォレの聖母子」の幼児イエスの透明な衣と,磔刑像でキリストの腰部を覆っている布の類似などを根拠として,ドゥッチョの作品として解説している.啓蒙的なドゥッチョに関するモノグラフでもこの作品をドゥッチョ作として紹介しているものもある.

 そう言われると,目が明いている「勝利のキリスト」型でありながら,表情には苦悩も垣間見えるように思え,単純な「勝利のキリスト」ではなく,あるいは後に巨匠となる新進気鋭の芸術家の独創性も読み取れるのか知れない,などと都合の良い事後修正を自分の中で行なってしまう.

 いずれにせよ,サリーニ・コレクションのドゥッチョ作とされる磔刑像とセルヴィ教会の磔刑像の中に有機的関係性を見出すことは私にはできないが,多分,専門のシエナ派研究者が見れば,ジョットとは違うシエナ派ならでは特徴をすぐさま列挙できるのであろう.



 右翼廊の礼拝堂の一つに,ピエトロ・ロレンゼッティがセーニャ・ディ・ボナヴェントゥーラの息子たち(フランチェスコとニッコロ)と共作したとされるフレスコ画「嬰児虐殺」がある.

 どこがピエトロの担当部分で,どこがセーニャの息子たちの担当部分なのかは,私には全く分からないが,ドゥッチョの影響を受けた第二世代の画家たちと,ドゥッチョの影響を受けながらも独自性を確立して巨匠に成長して行く画匠の共作と言いう事実には心惹かれる.

 私はロレンゼッティ兄弟の偉大さを理解するに至っていないが,セルヴィ聖堂のフレスコ画「嬰児虐殺」は「シエナ派」の歴史に大きな意味を持っているであろうと想像する.

 この礼拝堂には「シモーネ風」の聖母子が飾られているが,これは国立絵画館所蔵で前回紹介したリッポ・メンミの「聖母子」のコピーである.国立絵画館の「聖母子」は元々セルヴィ教会のために描かれた作品だった.

 左翼廊の礼拝堂の一つには,ピエトロ・ロレンゼッティの影響を受けた画家が描いた「ヘロデの饗宴」,「福音史家ヨハネの被昇天」などのフレスコ画がある.

 確かに巨匠の作品のようなインパクトはない.ただ,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂のペルッツィ礼拝堂に残るジョット作のセッコのフレスコ画「ヘロデの饗宴」で弦楽器を奏でる楽人の姿と楽器の形が良く似ているように思われ,心に残った.

写真: ベルナルディーノ・フンガイ 「聖母戴冠と聖人たち」



 中央祭壇には大きな横長長方形の祭壇画「聖母戴冠と聖人たち」(1501年)が飾られている.中心の絵が聖母戴冠ではなく玉座の聖母子であれば「マエスタ」(荘厳の聖母子)と言って良いほどの堂々たる作品である.もちろん,長い時間の中で修復が施されているだろうが,伝統的な主題で描かれたシエナ派の祭壇画にしては新しい絵と言う印象を受ける.

 作者はベルナルディーノ・フンガイという画家で,洗礼などの記録が残っているものか,生まれたのは1460年9月14日(伊語版ウィキペディア)と分かっている.1452年4月15日生まれのレオナルド・ダ・ヴィンチより約8歳5か月若いことになる.

 レオナルドの数少ない現存の完成作がルネサンスというものを体現しているならば,フンガイの絵は主題といい,技法といい,ゴシックの遺風が残る古臭い感じの作品と言うことができるかも知れない.

 しかし,さすがにこの時代になるとシエナ派絵画も,後期ゴシックや国際ゴシックの痕跡は残していても,14世紀のゴシック絵画とはやはりだいぶ異なる絵に思われる.

 フンガイはサッセッタやジョヴァンニ・ディ・パオロの影響を受けた,間違いなくシエナ派の画家ではあるが,ローマにも行き,ペルジーノ,アントニアッツォ・ロマーノ,ルーカ・シニョレッリ,ピントリッキオなどの影響も受けたようだ.16世紀にさしかかる時代にシエナの画家たちも,特にローマなどで活躍するシエナ以外の出身の画家たちを意識しないではいられなくなったと言うことであろう.

 フンガイより若い世代では,ベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニの息子,ジローラモ・ディ・ベンヴェヌートまでは,まだ金地板絵の聖母子も含む古い「シエナ派」風の宗教画が描かれたが,ジローラモよりわずかに7歳年下(1477年生まれ)のソドマのシエナでの活躍は,16世紀の「シエナ派」に革新を齎し,これ以後は例外もあるかも知れないが,ゴシックの遺風を感じさせる宗教画は描かれなくなる.



 セルヴィ聖堂にはソドマの作品も,ベッカフーミの作品もないが,ソドマとベッカフーミの影響を受けたアルカンジェロ・サリンベーニを義父(母の再婚相手)とするフランチェスコ・ヴァンニの「受胎告知」が2点ある.シエナのマニエリスム絵画を代表する美しい作品だと思う.

 1つは左側廊のファサード裏から1つ目の礼拝堂にあってすぐ見つけられるが,もう1作は天使と聖母が別々に描かれているうえ,左翼廊の西側の壁の上部と,右翼廊に離れてあるため,分かりにくい.「告知する天使」が特に立派だ.

 ヴァンニは伊語版ウィキペディアの「シエナ派」のリストから外れている(2017年7月31日参照)が,独立して詳細に立項されているので,リスト作成者のうっかりミスであろう.アルカンジェロの息子ヴェントゥーラ・サリンベーニとともに,ベッカフーミ以降のマニエリスムからバロックの「シエナ派」を支えた芸術家と言えよう.

 彼らの作品は国立絵画館や諸教会で複数見ることができるが,国立絵画館の16世紀以降の作品ではソドマとベッカフーミが圧倒的で,他の画家たちの実力がかすんで見えてしまう.それでも,教会の礼拝堂などに飾られているフランチェスコ・ヴァンニ,ヴェントゥーラ・サリンベーニの華やかな色彩の絵は十分以上に美しい.

 とは言え,この時代になると「シエナ派」も,シエナ・ローカルな印象は免れない.それでもシエナの地元の画家たちが相当数活躍していたところに,「シエナ派」の最後の光芒を見ることができるように思われる.その代表がバロック期の画家ルティリオ・マネッティと考えて良いだろう.

 なお,セルヴィ聖堂には,やはりローカルな画派になってしまった時代のフィレンツェの画家フランチェスコ・クッラーディの「聖フィリッポ・ベニーツィの幻視」が飾られている.フランチェスコ・ヴァンニが1563年,ヴェントゥーラ・サリンベーニが1568年の生まれだから,1570年の生まれのクッラーディは,同世代のやや後進と言える.

 中世からルネサンスに輝きを放ったシエナ共和国が,間もなく(1569年から)トスカーナ大公国になるメディチ家のフィレンツェ公国に併合されるのが1559年,最後の「シエナ派」の画家たちは生まれもそれ以後で,シエナ共和国の栄光が全く遠い過去となった時代の人たちである.

 ルティリオ・マネッティは1571年の生まれだから,クッラーディを含め彼らは,シエナ生まれ,フィレンツェ生まれを問わず,中世,ルネサンスの共和国市民ではなく,生まれながらのフィレンツェ公国,トスカーナ大公国の臣民であった.時代は大きく変わり,フィレンツェもシエナもヨーロッパの中心都市ではなくなってしまっている.


サン・マルティーノ教会
  この日は,今期はまだ未訪(2007年に1回行っている)の司教区博物館に行く予定だったが,大聖堂(4ユーロ),大聖堂博物館(7ユーロ)の入場券を列に並んで購入し,見終えた時点で3時近く,さらにプッブリコ宮殿の特別展をもう一度見たかったので,結局,司教区博物館は諦め(今期4度目の断念),全て見終えた時には夕方の午後の4時半近かった.

 カンポ広場から,5時10分の急行(ラピーダ)フィレンツェ行きを目指して歩き出したが,右手の通りの奥にサン・マルティーノ教会のファサードが見え,扉が開いているように思われた.行ってみると,確かに扉が開いていた.この教会こそが,シエナに来るたびにファサードの前に立つが,なかなか拝観が叶わない教会だった.

 バスの時間が迫っていたし,前日あまり寝ていなかったので,倒れない内に帰ることを優先したので,わずか20分くらいの拝観だったが,拝観できた意味は大きかった.数はそう多くないが,思った以上に優れた芸術作品のある教会で,もちろん,最高傑作はベッカフーミの「キリスト降誕」である.

写真:
ドメニコ・ベッカフーミ
「キリスト降誕」


 「シエナ派」の枠をはずせば,この教会にはベッカフーミ以上に有名な画家の作品もあった.グイド・レーニの「イエスの割礼」(1636年)と,グエルチーノの「聖バルトロマイの殉教」(1637年)である.

 教会の説明プレートで彼らの名前を見たときは「まさか」と思ったが,伊語版ウィキペディアその他の資料を見ても,本当に彼らの作品であるようだ.ボローニャ派の巨匠たちの,最良ではないにせよ,優れた絵で,教会全体の雰囲気に違和感を醸すようなものではない.

 巨匠たちの作品を観られたことはもちろん嬉しいが,一方で,セルヴィ聖堂のクッラーディなら,トスカーナの画家なのでまだしも,サン・マルティーノ教会にレーニとグエルチーノの作品が飾られているのを見るのは一抹の寂しさがあった.

 ボローニャ以北の地から天才が輩出し,彼らがローマを中心に活躍するバロックの時代となり,シエナのゴシック芸術,フィレンツェのルネサンス芸術が遠い過去へと押しやられたことを,まさにシエナの代表的な教会の一つで実感することになるとは思わなかった.

 サン・マルティーノで見られる最も新しい「シエナ派」の絵画作品は,制作年代は堂内のプレートにも情報は無かったが,おそらく1590年生まれのラファエロ・ヴァンニの「聖イヴォの法悦」であろう.

 特に優れた作品という印象はないが,フランチェスコ・ヴァンニの息子である彼の名前に注目した.ラファエロは天使の名前であり,イタリア・ルネサンスを代表する天才ラファエロ・サンツィオの場合もファースト・ネームが通称になったわけで,ラファエロという名前の男性はイタリアでは珍しくない.

 しかし,彼の兄弟で,やはり画家だった人物の名がミケランジェロ・ヴァンニと聞くと,命名のミケランジェロも「大天使ミカエル」の名なので,こちらもよくあるファースト・ネームといえばそうだが(カラヴァッジョの本名もミケランジェロ・メリージ),画家を父とする息子たちの名がラファエロとミケランジェロであれば,命名の際にローマで活躍した世界的な巨匠たちのことが念頭にあったのは間違いないだろう.

 最後の「シエナ派」の画家たちにとっても,もはや理想は地元出身の先人たちではなく,ローカルを遥かに超えて「世界の首都」ローマで活躍した大芸術家たちだったと思わないではいられない.

 命名には生まれた日がどの守護聖人の記念日かとか,代父が誰かとか,その家に伝統的な名前が何かなど様々な要素があるので,私の誤解かも知れないが,画家が自分の子どもたちにラファエロとミケランジェロという名前をつけるのは偶然ではないように思われる.


「サリーニ・コレクション」の特別展
 「シエナ派」について延々と書き連ねながら,結局予告した「サリーニ・コレクション」の特別展についてまとめられないまま,一旦シエナの報告を終えざるを得ない.

 この特別展には,小品ではあるが,シモーネ・マルティーニ,リッポ・メンミ,ロレンゼッティ兄弟,タッデーオ・ディ・バルトロたちといった巨匠たち作品が並んでいたし,ドゥッチョの十字架型彩色板絵の磔刑像など貴重な作品も観られたので,感動するかどうかは別にして,シエナ派の理解を深める良い機会となった.

 トレッサの親方の「ヘラクレイオスによるホスローの斬首」(1215年頃)は「真の十字架」伝説に関係する作品で,ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』(1265年頃)に先立つこと約50年という,資料的価値の高い作品だった.

 個人的には絵画もさることながら,彫刻のコレクションがすばらしいと思えた.ティーノ・ディ・カマイーノの断片だけではなく,ヤコポ・デッラ・クエルチャの大理石の「聖母子」(1410年頃),木彫に実力を発揮するフランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノの大理石の「洗礼者ヨハネ」(1406-08年)が見事だった.

 セルヴィ聖堂の左翼廊の礼拝堂にもフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの彩色木彫の「死せるキリスト」があり,シエナ派の彫刻も見逃せないレヴェルの作品がたくさんあるが,今回はそれについての報告は断念する.



 結局,「シエナ派」の最終回は,当初の予定を変更して,7月25日に拝観が叶った2つの教会で見られた作品について報告することとなった.

 間違いなく「シエナ派」の巨匠であるロレンゼッティ兄弟,重要な画家バルトロ・ディ・フレーディ,アンドレーア・ディ・バルトロ,サンタ・マリーア・デッラ・スカーラ救済院に大きな連作フレスコ画の仕事を遺したドメニコ・ディ・バルトロ,そして何と言っても15世紀のルネサンス期の巨匠ヴェッキエッタとサッセッタにほとんど言及することなく報告を終了するのは心残りではあるが,これらの芸術家について語る機会は間違いなくあるだろう.

 次回こそ,コッレ・ディ・ヴァルデルサに関して,「来た,見た,感動した」と言う簡単な報告をまとめる.






フランチェスコ・ディ・
ジョルジョ・マルティーニ
「死せるキリスト」