フィレンツェだより第2章
2017年8月17日



 




サン・ミニアートで見かけた
フランチージェナ街道の案内板



§ポッジボンシ

地名の由来は様々で,地形,動植物,物,信仰など,その土地の特徴を表わす言葉が音を変えたりして地名として定着していることが多い.コッレ・ディ・ヴァルデルサの地名は地形に由来する.


 ヴァルデルサのヴァル(ヴァッレ)は「谷」,ディは「~の」,エルサは「エルサ川」,そして,コッレは「丘」で,エルサという固有名詞以外は,普通名詞の組み合わせでできている.“エルサ川によってできた渓谷にある丘”という意味になるだろう.


ヴァルデルサ地方
 エルサ川の源は,シエナの西にあるソヴィチッレと言う基礎自治体のテゴラ地区にあり,その周辺はモンタニョーラ・セネーゼと呼ばれる.「シエナ周辺の山岳地区」というような意味の地名と考えて良いだろう.

 川は,そこから63キロメートル北上してアルノ川に合流する.合流地点の東岸のマルチニャーナ地域の基礎自治体はフィレンツェ都市圏地域のエンポリ,西岸のイーゾラ地域の基礎自治体はピサ県サン・ミニアートだ.

 上述のようにヴァルデルサ(エルサ川の流域)のヴァルはヴァッレ(英語のvalley同様,ラテン語のウァッレースvallesが語源)「谷」なので,「ヴァル・ディ・~」と言う地名は一律に「渓谷地方」と訳すことにしているが,日本語の「渓谷」のイメージと違い,川の周囲に農地として有益な平原が広がっているところも少なくないし,コッレの地名に見られるように,丘の上の街も多い.

 上流地域(南)をアルタ・ヴァルデルサ(高地ヴァルデルサ),下流地域(北)をバッサ・ヴァルデルサ(低地ヴァルデルサ)と称し,前者には基礎自治体としてカゾーレ・デルサ,コッレ・ディ・ヴァルデルサ,モンテリッジョーニ,ポッジボンシ,ラディコンドリ,サン・ジミニャーノが,後者にはバルベリーノ・ヴァルデルサ,チェルタルド,カステルフィオレンティーノ,ガンバッシ・テルメ,モンタイオーネ,エンポリがある.

 アルタ・ヴァルデルサはシエナ県に属しているのでヴァルデルサ・セネーゼ,バッサ・ヴァルデルサはフィレンツェ都市圏地域に属しているのでヴァルデルサ・フィオレンティーナとも称し,エンポリはこの地方の首邑にあたるのでヴァルデルサ・エンポレーゼという言い方もあるようだ.

 バッサ・ヴァルデルサには,ピサ県に属していて,全体としてはヴァルダルノ・インフェリオーレ(アルノ川下流地方)になるが,一部がエルサ川流域なので,サン・ミニアートが入ることもある.エンポリも町全体としては,アルノ川下流地方になるが,バッサ・ヴァルデルサの中心として,ヴァルデルサ地方に入れるようだ.

 バッサ・ヴァルデルサの中心がエンポリなら,アルタ・ヴァルデルサの中心都市がポッジボンシである.


フランチージェナ街道
  ヴァルデルサ地方の重要性を高め,繁栄を招来した要素として,フランチージェナ街道が挙げられる.

 古代ローマから北イタリア以北に向う街道としては,アエミリウス街道フラミニウス街道があった.ローマからアペニン山脈を越えてアリミヌム(リミニ)まではフラミニウス街道,アリミヌムからパドゥス川(ポー川)がつくる平原を遡ってプラケンティア(ピアチェンツァ)までがアエミリウス街道となる.

 これらの街道の名前は人名に由来する.アエミリウス氏族出身の女性はアエミリアで,ここから英語のエミリーと言う名前も生じたように,イタリア語ではアエミリアはエミーリアになり,エミリア・ロマーニャ州と言う州名は基本的に古代のアエミリウス街道が通っていた地域とその周辺を指す.

 「街道」にあたるウィアviaが女性名詞なので,形容詞としても使われる氏族名が女性形になり,アエミリア街道(ウィア・アエミリア),フラミニア街道(ウィア・フラミニア)と言われることもある.

 有名な「アッピア街道」も,建設者はアッピウス・クラウディウスなので,アッピウス街道と言う方が原義に近いだろうと思われる.岩波書店の『キケロ―選集』の翻訳者グループでは「アッピウス街道」のように男性名を使うことを申し合わせた.しかし,特にこだわらない.

 フランチージェナは伊和中辞典には登録がないが,ネット上のイタリア語辞書には,フランチージェノと言う男性形で登録されており,「チ」の所にアクセントがあることも明示されている.もちろん「街道」ヴィーアが女性名詞なので,それを修飾する形容詞として女性形になっている.

 フランチージェナは中世ラテン語の「フランス生まれの,フランスの」を語源としているので,「フランスからの道」もしくは「フランスへの道」を意味したであろう.多分,前者であろうと思うのは,基本的にローマに向う「巡礼の道」として機能したからである.

 アエミリア街道やアッピア街道と違って,これは建設者の名前ではないし,固有名詞でもないので,特に男性形にこだわる要は全く必ない.

 街道は他にも,ローマからフラミニウス街道と別れて,クルシウム(キウージ),アッレティウム(アレッツォ),フローレンティア(フィレンツェ),ピストーリア(ピストイア),ルーカ(ルッカ)を通って,ティレニア海沿岸のルーナ(ルーニ)に至るカッシウス街道(ウィア・カッシア),ローマからタルィニアを通ってティレニア海沿いに北上にしてピサエ(ピサ)に至るアウレリウス街道(ウィア・アウレリア)などがあった.

 これらの街道筋に属さなくても,ペルシア(ペルージャ),コルトーナ,ウォルテッラエ(ヴォルテッラ)など,古代から現代まで続く都市が繁栄しており,主要幹線街道に沿っていないからといって,シエナなどがローマ時代には繁栄していなかったとは言えない.

 シエナのエトルリア語名であろうサイナもしくはセイナという地名は,複数地域に残る碑文で確認できるので,発掘された陶器や石棺などから見ても,紀元前の相当早い時期(あくまでも推測だが,前8世紀よりも前)から都市もしくはその原型が存在したと思われる.

 「シエナ人」にあたるセーネンセースと言う語はプリニウスの『博物誌』に初出があり,シエナのラテン語名セーナ(サエナ)もしくはセーナ(サエナ)・ユーリアへの言及はタキトゥスの『歴史』に見られるので,現在の地名とほぼ同じ名称を持つ都市が,ローマ帝政期には存在していたことは間違いない.

 しかし,ローマ時代のシエナは幹線街道沿いにはなく,フランチージェナ街道は中世の巡礼と関係の深い街道なので,古代には存在せず,この街道筋の諸都市の繁栄は,概ね中世以降である.



 フランチージェナ街道には公式HPがあり,ツーリズムとの連携は現代なら当然のことで,「巡礼の道」としての再生がなされている.行く先が「世界の首都」ローマなので,サンティアゴ・コンポステーラの場合と全く同じではないが,巡礼証明書も発行され,サンティアゴ巡礼の道を相当意識しているように見える.

 HPは充実しており,徒歩の場合,自転車の場合の順路,経路や宿泊場所などの紹介があり,イギリス(カンタベリーからドーヴァーまで2ページ),フランス(ドゥ・ベリーからクーブランまで20ページ),スイス(ポンタリエからサン・ベルナール峠のスイス側まで12ページ),イタリア(サン・ベルナール峠のイタリア側からローマまで45ページ)の4か国別の整理,紹介が高低差の表示,近接の交通機関まで,大変な充実度である.

 街道はイタリアに入ると,アオスタ,ヴェルチェッリ,パヴィア,ピアチェンツァ,フィデンツァなど北イタリア(ヴァッレ・ダオスタ,ピエモンテ,ロンバルディア,エミリア=ロマーニャの各州)の有名な諸都市を通って,トスカーナ州のルッカに至る.

 そこからアルトパッショ,サン・ミニアート,ガンバッシ=テルメ,サン・ジミニャーノ,モンテリッジョーニなど,一応行ったことがあるか,側を通ったことがある既知の地名が並び,シエナに至る.

 シエナからローマまでの宿駅地名は,ほとんど初めて聞く名前ばかりだが,ルッカからシエナまでの宿駅の中に,今回訪れることができたヴァルデルサ地方の諸都市でも入っていないものが多いのは意外だった.

 これらの都市を歩いたり,バスで通ると,必ずフランチージェナ街道を示す標識を見た.多くの小都市は宿駅ではなかったけれども,フランチージェナ街道の近傍にあり,その往来(巡礼と,巡礼路の充実による交易の振興)のおかげを蒙って繁栄を享受したと考えて良いのであろう.

 古代の都市文明は首都ローマの求心力の低下とゲルマン人の侵入で終焉を迎えたが,中世は司教座聖堂が置かれた都市の拠点化と,交易路,巡礼路は発達によって,徐々に都市文化が復興して行く.

 そのためには技術革新による農業生産の増大と,農業生産に従事しない職人,商人,宗教者,文化人,貴族を養っていける社会の実現が前提となる.そうした都市の形成と都市文化の発展が,中世からルネサンスの西欧世界の繁栄を齎し,近代以降に西欧が世界の中心になって行く基盤となった.

 ヴァルデルサ地方の小都市を幾つか見て,フランチージェナ街道の重要性を考えながら,近代以降のヨーロッパの発展に思いが至った.

 観光地としてはシエナとサン・ジミニャーノが圧倒的だが,コッレ・ディ・ヴァルデルサやポッジボンシは,近代産業が発達して,産業革命期以降の先進国としてのイタリアの形成にそれなりの役割を果たしたと思われることも興味深かった.

 今回,コッレに行くまで全く知らなかったが,ポッジボンシとコッレの間に1991年まで鉄道が通っていた.産業革命期以降の近代化の一翼を担っていたのではないかと想像する.

 鉄道の廃止にはもちろんモータリゼーションの影響が最大の要因となったと思うが,近代産業の形成期におけるコッレとポッジボンシの存在意義が,現代において相対的に小さくなったことも意味しているのではないかと思う.


ポッジボンシ
 やっと長い前置きが終わり,さて本題だが,実はポッジボンシで見られたものはそう多くない.

 ポッジボンシ駅前でバスを降りて,いつものようにツーリストインフォメーションを探したが,矢印はあるものの,その通りに進んでも辿り着かない.このパターンはこれまで何度も経験しているが,多くの場合は,観光をしているうちに見つけたりして,帰るまでには何とか辿り着き,地図だけは貰ってきたのに,ポッジボンシでは最後まで見つけられなかった.

 しかし,市街地は狭いので,目当ての教会のうち2つはすぐに見つかった.最大の観光ポイントであるサン・ルッケーゼ教会も,方向を示す標識が幾つかあったので,無事に辿り着いた.

 という訳で,地図は入手できなかったが,この3つの教会,サン・ロレンツォ教会サンタ・マリーア・アッスンタ参事会教会サン・ルッケーゼ聖堂の拝観は叶い,これがポッジボンシで見ることができた全てになる.

写真:
サン・ロレンツォ教会


 駅とバス停前の広場から最も近いサン・ロレンツォ教会はロマネスク風の外観をしており,堂内でロマネスクやゴシックの遺構が見られることを期待して胸がふくらんだ.

 しかし,中に入ると,その期待は裏切られる.天井は簡素な木組みで魅力的だったが,内壁は概ね新しく漆喰で塗り固められており,現代の信者が気持ち良くお祈りに専念できるための空間として整えられている.

 堂内を飾る芸術作品としては,ジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ(ダゴスティーノ)の木彫磔刑像(14世紀中頃),ネーリ・ディ・ビッチのおそらく多翼祭壇画のパネルの1枚「トレンティーノの聖ニコラウス」(1460年代),フランチェスコ・ボッティチーニの「キリストの復活」(1499年頃)が注目される.

 ジョヴァンニはシエナの芸術家,ネーリとフランチェスコはフィレンツェの画家で,かつ,ジョヴァンニが100年以上先行している.シエナ周辺の都市としてシエナの影響を受けたが,フィレンツェの支配力が強まっていくトスカーナで,宗教芸術もその影響下に入ったという文脈に好都合な組み合わせだ.

 歴史的には1269年のコッレ・ディ・ヴァルデルサの戦い以降,それまで皇帝党が優勢だったポッジボンシで教皇党が優勢になる.この勢力逆転の背景には,都市全体がフィレンツェ共和国の勢力下に入ったことがあるようだ.ジョヴァンニの木彫磔刑像が制作されたころには,ポッジボンシは政治的には既にフィレンツェに支配されていたと言って良い状況だったであろう.

 シエナ出身のジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノは数多くの仕事をトスカーナ諸方に遺した彫刻家アゴスティーノ・ディ・ジョヴァンニの子で,本人も相当の仕事をトスカーナの諸方に遺している.

 名前が少しややこしいが,「私は〇〇の子,△△」という名乗りを連想してもらうと分かりやすいかも知れない.アゴスティーノの父の名がジョヴァンニなので,彼の通称はアゴスティーノ・ディ・ジョヴァンニ(ジョヴァンニの子,アゴスティーノ),さらにアゴスティーノが我が子に父と同じジョヴァンニという名を付けたので,その通称はジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ(アゴスティーノの子,ジョヴァンニ)ということだ.

 一般人の姓や家名が明確ではない時代なので混乱しやすいが,私たちは2007年に,ネーリ・ディ・ビッチ,ビッチ・ディ・ロレンツォ,ロレンツォ・ディ・ビッチの三代の画家でこれを学習した.

 父アゴスティーノはピサでジョヴァンニ・ピザーノの工房,シエナでティーノ・ディ・カマイーノの父カマイーノ・ディ・クレシェンツォの工房で修行し,それぞれ助手として活躍していたと推定されている(伊語版ウィキペディア).

 彫刻家に関しては画家ほど「シエナ派」の存在が明確ではないが,概ねピサのニコラ,ジョヴァンニと言うピザーノ親子の影響を受けながら,シエナ出身の彫刻家がトスカーナ諸地域で活躍するようになり,その代表がティーノ・ディ・カマイーノ,ヤコポ・デッラ・クェルチャ,フランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノであり,後進の「万能人」フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニへと繋がり,その伝統は彫刻にも優れた作品を遺したベッカフーミまで続くとおぼろげながら理解していた.

 しかし,アゴスティーノとジョヴァンニの親子に関しては,全くその名前と作品が結びつくことがなく,「知らない」も同然であったが,伊語版ウィキペディアのそれぞれのページを見ると,彼らが遺した傑作の名に値する彫刻を,アレッツォ大聖堂,ピサのサン・マッテーオ絵画館,オルヴィエート,コルトーナ,シエナの諸教会,シエナの国立絵画館で観ていたことに愕然とする.

 今は「シエナ派」の奥深さを思うのみで,この彫刻家(建築家でもある)たちについて考えるのは後日のこととする.ポッジボンシのサン・ロレンツォ教会に残る木彫磔刑像は巨匠の作品としては小品で,これが傑作なのかどうかは俄に判断がつかない.

 いずれにせよ,既に政治的にはフィレンツェの影響下にあったポッジボンシの由緒ある教会に「シエナ派」の名匠の作品が残っていることは注目しても良いと思われる.

 政治と芸術(もしくはその背景にある宗教)は別だと言う考えもあり得るが,今までに見てきたように,シエナ近傍の諸都市では,フィレンツェの影響力が強まるにつれて,フィレンツェ派の芸術家の作品が多くなる傾向は否定できない.

 14世紀中頃のポッジボンシには少なくとも宗教芸術の面ではまだシエナの影響が深かったと考えるべきか,そのような政治的背景を超えてジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノと言う彫刻家の作品がポッジボンシの有力者たちにとって魅力的だったのかは,この小さな磔刑像一つでは何とも言えない.

 ジョヴァンニの死は黒死病流行の1348年のことで,ここにもシエナの盛衰が読み取れるかも知れない.



 ネーリ・ディ・ビッチとフランチェスコ・ボッティチーニはルネサンス期のフィレンツェ派の画家として巨匠とはとても言えないが,ネーリは三代続いて栄えた工房の親方で,自身もトスカーナ諸方に多くの作品を遺している.

 フランチェスコはネーリの工房の出身で,工房の助手としては親方を忠実に支えたかも知れないが,自身の名前で残る作品はボッティチェリ,その師フィリッポ・リッピ,その他の巨匠たちの影響を受けたフィレンツェのルネサンス絵画らしい作品群で,息子のラファエロ・ボッティチーニとともに,教会や美術館でその作品を見ることができれば,一応注目する.

 これまで複数の彼の作品を観ているが,フランチェスコの最高傑作は,フィレンツェのサント・スピリト聖堂の祭壇画「玉座の聖モニカとアゴスティーノ会修道女たち」(1478年)であろう.

 ネーリの絵はこの教会で大事にされており,ネーリが好きな私としては嬉しかった.この画家の絵がフィレンツェ以外の都市や村落にあるということは,宗教芸術という点ではフィレンツェの影響下にあったのだと断言することができるだろう.

 時折参照させてもらっている日本語ブログに,ネーリの作品はゴシックやルネサンスの芸術が海外に流出した時代にも「人気が無かったので売れ残った」と書かれていて,そうかも知れないとも思う一方,アメリカやロシアの美術館にもネーリの作品はあるところから,この画家の絵が好きな人は,同時代にも後世にも結構いたのではないかと思う.

 「村」と言っても良いくらいの小都市の宗教芸術博物館でネーリの作品が大事にされ,その博物館を代表する作品として扱われているのを見ると,ネーリが好きな私は幸福感に浸れる.

 これだけ諸方にその作品が残っているところを見ると,人気工房として作品を量産していたことは間違いないし,価格設定も戦略的だったかもしれない.金地板絵の金をふんだんに使っているところを見ても,成功したビジネスモデルとして注目しても良いのではないかと思う.

 「トレンティーノの聖ニコラウス」は,金は枠だけで,絵は全体に黒く,ガラスで保護されている(=大切にされている)ので,写真はうまく写らなかった.ネーリの作品としても上質ではないが,特徴は良く出ている.この聖人の絵があるということは,この教会がアゴスティーノ会の教会であることがわかる.

 他に,幾つかの彩色木彫と,ブロンズの十字架,フレスコ画断片があり,新しいカンヴァス油彩画でも,天上に聖母子と聖アンナ,天使たちが描かれ,雲の下で2人の聖人が拝跪している絵はそれなりの水準の作品に思われたが,残念ながら情報がない.

 サン・ロレンツォ教会は,これを目指してポッジボンシに観光にくる対象にはなり得ないが,もし乗り換え等で時間があり,教会の開いている午前中か夕方であれば,駅から遠くないし,立ち寄ってみる価値はあると思う.

写真:
カヴール広場

左手奥はサンタ・
マリーア・アッスンタ
参事会教会


 サンタ・マリーア・アッスンタ参事会教会は,由緒は11世紀まで遡るとは言え,19世紀の再建で見た目にも新しく,堂内にも14世紀の洗礼盤が残るくらいで,後は新しい作品ばかりだ.

 その中では,もしあるのならフランチェスコ・ボッティチーニの「キリストの復活」が15世紀ぎりぎりの絵と言うことになるが,実はこれは「後陣にある」と書いてある(伊語版ウィキペディア)のに,見つけられなかったし,撮って来た堂内の写真を見ても,後陣と言っても一目で見てしまえるほどなので,無かったのだと思う.

 この絵があることは,自治体が設置した堂外の説明板にも書かれているが,サン・ロレンツォ教会の作品と混同しているのではないかと想像する.

 他には,1556年にピサで生まれ,1624年に同地で亡くなったアウレリオ・ローミの絵がある(伊語版ウィキペディア)とされ,それらしい絵の写真は撮ったが,ピントが合ってなくて,本当に一流の画家が描いた絵かどうかも確認できない.

 という訳で,参事会教会に関しては,やや不全感の残る拝観で,正直なところ,わざわざ時間を作って拝観する対象ではないと思われた.

 ただ,この教会が面しているカヴール広場にある噴水と,修復,再建でオリジナルな姿はとどめていないかも知れないがゴシック風のプレトリオ宮殿の塔と,それとよく似た参事会教会の鐘楼が,ゴシック風の統一感を齎していて,その点は私の好みに合う.

写真:
オリーヴの樹で
縁取られた葡萄畑


 市街地から遠い小さなロマネスク教会を除けば,これ以上の観光ポイントはポッジボンシには存在しないと言い切っても良いと思うので,ともかくサン・ルッケーゼ聖堂だけは拝観したいと思っていた.

 しかし,サン・ルッケーゼ聖堂に辿り着くには多少の苦労を伴った.市街地を出発点として,「サン・ルッケーゼ聖堂」の方向を示す矢印付きの標識を辿って,市街地外れの坂道を登り,今度はそれを下って郊外の山中を通る自動車道に出て,再び坂をさらに登って,おそらく30分くらいは歩いたであろうか,葡萄畑の中にサン・ルッケーゼ聖堂はあった.

 市街地の方を振り返ると,別の丘の頂に,シエナやフィレンツェなどがそれぞれ築いた要塞などが見えるが,どれがどれか確かめていない.

 13世紀にトスカーナで皇帝党と教皇党の対立が深刻だった時代に,皇帝党が優勢でシエナ寄りだったポッジボンシが,1269年のコッレ・ディ・ヴァルデルサの戦いで皇帝党の中心シエナが敗北することにより,教皇党のフィレンツェの影響,支配を受けるようになる.その歴史が葡萄畑の広がる丘陵の向こうに僅かでも形として目に入るはずだが,数時間ポッジボンシの周辺を歩いただけなので,ペンディングとする.

写真:
サン・ルッケーゼ聖堂


 聖堂はサン・ルッケーゼという聖人らしい人物の名を冠しているが,厳密には列聖はされておらず,列福された「福者」なので,ベアート・ルッケーゼというのが正しい言い方になる.

 ポッジボンシの守護聖人(そういう言い方があるかどうかわからないが,これも厳密には「守護福者」になるだろう)として通称サン・ルッケーゼと言われ,修道院とその教会が彼の名を冠し,教会は「聖堂」の呼称を許されている.

 ルッケーゼは,ポッジボンシ近郊のガッジャーノで1180年かその翌年に生まれ,教皇党の軍人として活動した後,敗戦を機に,当時ポッジョボニツィオと呼ばれていた現在のポッジボンシに移り,その地の貴族の娘と結婚して,商業に従事し,成功を収めた.

 経済的成功によって貪欲で傲慢になりがちな彼を立派な妻ボナが抑制していたが,子供たちの早世を機に宗教心に目覚め,1221年にアッシジのフランチェスコがポッジボンシに来た際に,彼を家に迎え,その教え(貞潔,従順,清貧)に帰依した.

 この1221年という年は,フランチェスコの教えを在俗(聖職者,修道士ではない)のまま奉ずる信徒たちの組織,「小さな兄弟団」(フランチェスコ会)第3会が結成された年と考えられ,あくまでも伝説ではあるが,ルッケーゼとボナがその最初の会員となったとされる.

 サン・ルッケーゼ聖堂がゴシック様式で建設される1252年頃以前にはサンタ・マリーア・イン・カマルド教会があり,古い教会の名残も一部見られるとのことだ.

 T字形のエジプト十字型単廊式の典型的なフランチェスコ会のゴシック教会だが,創建年代の早さが,1251年に亡くなったルッケーゼの伝説に説得力を持たせている.ただし,ファサードから側面に付された装飾的なポルティコは17世紀に加えられたものである(英語版ウィキペディア).

 聖具室にメンモ・ディ・フィリップッチョが17人の使徒と聖人たちを描いた戸棚があり,そこにルッケーゼも描かれているようだ,聖具室に入れなかったので見ていない.

 メンモが描いたルッケーゼは,ウェブ上の写真で見る限り,女婿となるシモーネ・マルティーニが描く人物のような顔と髪型であり,描かれた時代が近いので幾分かの肖像性があるかも知れないが,同時代の類型的な男性像のようにも思われる.

写真:
バルトロ・ディ・フレーディ
「殉教を待つ聖アンデレ」


 堂内に残る芸術作品としては,身廊の左右の壁面にそれぞれ描かれたバルトロ・ディ・フレーディのフレスコ画「聖ニコラウスと3人の貴族の娘たち」,「殉教を待つ聖アンデレ」(14世紀の第3四半世紀)がある.

 「殉教を待つ聖アンデレ」の上方に壁龕のように穿たれた部分には,三翼祭壇画の形式で描かれたフレスコ画「聖母子と聖人たち」があり,ガラスで保護され,明かりが点けられて下からも良く見えるようになっている.作者はパオロ・ディ・ジョヴァンニ・フェイもしくはその工房とされる.

 バルトロもパオロもシモーネ・マルティーニ,ロレンゼッティ兄弟の影響を受けたシエナ派の画家である.

写真:
チェンニーノ・チェンニーニ
「聖ステパノの物語」

サン・ルッケーゼ礼拝堂


 左翼廊奥のサン・ルッケーゼ礼拝堂の入り口に外アーチと内アーチがあり,外アーチの下側左下部にはチェンニーノ・チェンニーニ作とされる3場面のフレスコ画「聖ステパノの物語」(1388年)がある.真作であれば,数少ないチェンニーノの貴重な現存作品だ.

 内アーチも聖人の絵などで装飾されていて,多分これらもチェンニーノの作品であろう.

 チェンニーノの「聖ステパノ」の物語は3場面しか残っていない.解説がどこにも無いのでわからないが,多分反対側のアーチ右下側下部にも3場面くらいの物語があったが破却されて残っていないのではないかと想像する.というのは,残っている3場面にはステパノの物語にはつきものの,「最高法院(サンヘドリン)での説法」,「石打による殉教」の場面が無いからだ.

 プラート大聖堂のフィリッポ・リッピ「聖ステパノの物語」,東京の国立西洋美術館の「「聖ステパノ伝」を表した祭壇画プレデッラ」のウェブ上の解説などを参考にして考えると,残っている3場面は「ステパノの誕生」,「ステパノの聖遺物(遺体)の海上搬送」,「ローマのラウレンティウスの隣に埋葬する際の奇跡」と想像しているが,いずれも大きな疑問が残り,確信がないのでペンディングである.

 チェンニーノのフレスコ画によって装飾されたアーチの奥にあるサン・ルッケーゼ礼拝堂には,20世紀の画家アルトゥーロ・ヴィリジャルディによる「ルッケーゼの物語」(1910年)のフレスコ画があるとのことで,これも自分の目で見たのだが,暗くてよくわからず,写真もほとんど写っていない.

 ヴィリジャルディは1869年シエナ生まれの宗教画家で,イタリア各地で活躍し,1936年にピエモンテ州のアレッサンドリーアで亡くなった.19世紀から20世紀のイタリア宗教画を考える余裕があれば,大事な画家なので,よく見えなくて残念だ.

 ルッケーゼは,上述のように厳密には「聖人」と認定されておらず,列福も1697年と随分後の時代である.カトリック教会による正式な列聖,列福とは別に地元で「聖人」として崇敬され,事実上の守護聖人となっているのは,サン・ジミニャーノのバルトロの場合と似ている.

写真:
ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア
「無原罪の御宿りと聖人たち」


 ファサード裏から近い左壁面には,ジョヴァンニ・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタの祭壇装飾「無原罪の御宿りと聖人たち」(1517年)がある.

 ロッビア工房の作品としても大作で見応えがあるし,王冠を被った嬰児マリアを老女アンナが抱えて立っていて,玉座に腰掛けてはいないがニコポイア型の聖母子のような姿をしていて,図柄としても珍しいのではないかと思う.

 伊語版ウィキペディアは,中央部分を「聖母子」としている(2017年8月17日参照)が,聖母が嬰児イエスを抱えているにしては随分老けて見えるので,その他の作品に関しても参考にしたウェブページの「無原罪の御宿り」が正解だと思う.

 ただ,アンナが嬰児マリアを抱えた「無原罪の御宿り」は他で見たことがないので,他に適切な名称があれば,そちらの方が良いかも知れない.

 受胎告知の両脇にある祭壇画なら「裾絵」にあたる部分から分かるように,マリアを抱くアンナの両脇の聖人はフランチェスコ(左)とパドヴァのアントニウスで,それぞれの上方のメダイオンの中には司教姿の教会博士アウグスティヌスとアンブロシウスがいる.

 上部リュネットには熾天使たちに囲まれた「聖母戴冠」,「裾絵」部分の中央は「受胎告知」で,「無原罪の御宿り」は聖母マリアの生涯のハイライトシーンに挟まれている.

 ポッジボンシは巡礼路であるフランチージェナ街道の近傍にあることで,経済的な恩恵を被り,繁栄した町である.周辺地域にはその影響もあってか,小さなロマネスク教会も幾つか見られるようで大変興味深いが,残念ながら交通手段がないので,それらの拝観は諦めている.

 それにしても,交通の要衝でもあり,古くから繁栄している町の教会をたった3つしか拝観できなかったのは寂しいことだ.

 それでも,教会にある宗教芸術作品を見れば,最初は近傍のシエナの影響を受けていたが,勢力を拡大して来たフィレンツェの影響下に入ったことが,ある程度推測できる.たった3つの教会の拝観で簡単に結論づけることはできないが,サン・ジミニャーノやコッレ・ディ・ヴァルデルサの場合と同じと考えて良いのではないかと思う.

 サン・ルッケーゼ聖堂では,時間的に,古いシエナ派の作品と,フィレンツェ・ルネサンスを代表するジョヴァンニ・デッラ・ロッビアの作品の間に,チェンニーノ・チェンニーニのフレスコ画が来るが,チェンニーノはコッレの出身だが,フィレンツェのアーニョロ・ガッディの工房で修行し,フィレンツェで亡くなったので,実際にはフィレンツェの芸術家と言って良いだろう.

 様々な留保がつくが,13世紀末には政治的にフィレンツェの影響下に入ったポッジボンシは,なお14世紀後半の始め頃まではシエナ芸術への志向が見られたが,14世紀末からは,宗教芸術の面からもはっきりとフィレンツェの最後のゴシックからルネサンス芸術を志向しているように感じられる.

 ポッジボンシの地名の変遷や歴史の背景には,エトルリア,ローマ,ゲルマンの影響があり,ここ数日,随分調べたが,残念ながらまとめきれないので,それに関しては後日を期す.フランチージェナ街道や,キャンティ渓谷との関係もきちんと整理して理解できるかどうかは今後の課題だ.

 ポッジボンシは観光地としては地味すぎるくらいだが,アルタ・ヴァルデルサの要として非常に重要な意味を持っていると思うので,今後とも注目したい.



 シエナ行きのバスがエルサ川にかかる橋を渡って,ポッジボンシの市街地に入ると,大きな集合住宅の1階の角に「ikebana」の看板を掲げた店(下の写真)があった.

 10年前と比べると,フィレンツェでは中華料理店が減って,代わりに「日本食レストラン」(リストランテ・ジャッポネーゼ)の看板を掲げる店が増えている.店名から推察すると,多分,経営しているのは日本人でないケースが多いのではないかと思われるが,それでもイタリア文化の中で細々でも日本の影響があるのであれば,それはそれで嬉しいことだ.

 6月7日にスティバート(スティッベルト)博物館を訪ねた時,「ロボット・フィーヴァー 超合金時代のサムライ」と題する特別展をやっていて,解説の青年がガンダムと関係づけながら武士道と三島由紀夫について熱弁を振るっていた.

 この博物館には武器や甲冑のコレクションが大量にあり,確かにその中には日本の鎧兜のコレクションもあるが,こんな特別展が開かれていることに驚き,熱弁を聞いている女性の大学生たちが,私が全く知らないアニメ・ソングを口ずさむのを聞いて,さらに驚いた.

 いつまで残っているかわからないので,リンクはしないが「Stibbert mostra gundam」で検索するとYou Tubeでのその特別展の映像が見られる.私がシエナ派の宗教芸術にのめり込むのも,一部のイタリア人が超合金のアニメに武士道の精神を見出すのと大差はないかも知れないとも思う.

 此処へは勤務先の制度を利用して来ており,古代精神の影響と言う意味でのヘレニズムとの関連を見出すことを重要課題として,中世,ルネサンスの宗教芸術を追いかけているが,今はシエナ派の宗教芸術を追いかけたい気持ちを抑えられない.

 シエナ近辺の各都市ごとに,自分が心惹かれるシエナ派の影響を検証してみて驚いたのは,想像以上にフィレンツェの影響が大きいことだった.未だシエナ派の魅力と影響を理解するに至っていないが,シエナ周辺の都市の見聞報告は今回で一区切りとする.

 ただし,6月13日に訪ねたモンテプルチャーノがシエナ県に属しているので,次回は「シエナ派」のことは脇に置いて,モンテプルチャーノに関して,「行った,見た,感動した」という簡潔な報告をし,その次からは,トスカーナ州から出て,エミリア=ロマーニャ州の都市に関して,順次報告して行くことにする.

 アレッツォ周辺の諸都市,既に5回行っているピストイアを始め,ルッカ,ピサなど再訪した町々,フィレンツェ都市圏地域の小さな町の宗教芸術博物館,2012年までに未拝観だったフィレンツェの諸教会,随分前になってしまったが,フィレンツェ周辺の教会でのオルガン・コンサートとその会場となった教会や礼拝堂など,報告をまとめたい題材は幾つもある.少しずつ進めていきたい.






ローマ字で生け花の看板を掲げる店
ポッジボンシ