フィレンツェだより第2章
2017年8月20日



 




プラトン・アカデミーのメンバーとともに
ポリツィアーノ(右から2人目)
サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂 ギルランダイオのフレスコ画より



§モンテプルチャーノ

6月からシエナに関連した報告を続けているが,モンテプルチャーノがシエナ県であることも知らずに,シエナとは関係なく,ルネサンス期のフィレンツェで活躍した文人ポリツィアーノの出身地として行ってみたいと思っていた.


 ネットで行き方を調べると,サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅6時36分のローマ・テルミニ行きのローカル線に乗ると,キウージ・キャンチャーノ・テルメ到着が7時45分,キウージ・スタツィオーネというバス停で8時10分発のFT4と言う路線バスに乗ると,9時5分にモンテプルチャーノ・アウトスタツィオーネと言うバス・ターミナルに着く.

 日帰りは難しいと思っていたので,躊躇していたが,これであれば,時間的にも経済的にもそれほど負担なく,フィレンツェから日帰りできる.モンテプルチャーノはワインで知られる有名な観光地であるが,行こうと思い立ったのは,ひとえに電車とバスの乗り継ぎに抵抗が少なくなって来たからであった.

 と言う訳で,天気予報で,なるべく暑くないと予想される平日を選んで,6月13日にモンテプルチャーノに行って来た.

 鉄道は,土,日も基本的に平日とそれほどダイヤに変更はなく,バス停で確かめると,キウージからモンテプルチャーノに行くバスは,土,日もかなりの本数があるようなので,次回は平日にこだわらなくても良いかなと思った.

写真:
モンテプルチャーノ
バスの車窓から


 バスは完全に生活バスで,途中のキャンチャーノ・テルメ周辺で働いていると思われる人などがごく少数の乗客で,キウージからモンテプルチャーノまで乗っていたのは,私も含め2人だけだった.名高いワインになる葡萄がそこで育っているのであろう葡萄畑が丘の斜面に広がり,陽光を浴びていて,車窓からの眺めは良かった.

 天候にも恵まれ,気負うことのない気楽な遠足だったが,残念なこともあった.大聖堂の中央礼拝堂の祭壇画,タッデーオ・ディ・バルトロの大きな三翼祭壇画「聖母被昇天」が修復中で,最近良く見るデジタルコピーを印刷した覆いが掛けられていたのと,「シエナ派の良き時代」と題した特別展開催中の市立博物館が火曜日休館と言うことで休みだったことだ.

 後者の特別展はモンテプルチャーノの他に,サン・クィリコ・ドルチャ,ピエンツァでの3か所共同開催だったので,どっちみち全部は見られなかったのだが,いずれにしても市立博物館が一つの目当てでもあったから,大変気勢の削がれた事態だった.休館日の確認をしっかりしなかったことが悔やまれる.


サンタニェーゼ教会
 アウトスタツィオーネ(バス・ターミナル)は昔で言えば城外の丘の中腹にあり,そこから城門プラート門を目指して坂道を登る.よく探せばエレベーターや近道の階段があったようだし,城内に向かうミニバスもあったが,歩いても城門までは大した距離ではない.

写真:
円柱の上にマルゾッコ


 プラート門を入ったすぐ前の広場に石柱の上の楯に片方の前脚をかけたライオンの像がある.通称マルゾッコと言うフィレンツェを象徴するライオンで,北イタリアのヴェネト州の都市の広場に有翼のライオンの像があると,その町はヴェネツィアの支配下にあったことが分かるように,マルゾッコの像があると言うことは,モンテプルチャーノはある時代にフィレンツェの支配下にあった都市と言うことになる.

 プラート門にたどり着く前に,昔で言えば城外にあたるだろうが,町のある丘の北端に大きな教会とその鐘楼が目に入る.サンタニェーゼ教会である.

 しかし,ここで記念されているのは,有名な聖アグネスではなく,モンテプルチャーノ近傍の地域グラッチャーノで生まれ,モンテプルチャーノで亡くなった地元の聖人アニェーゼ・セーニである.本人の没年が1317年なのに,列聖は1726年とだいぶ後だが,カトリック教会公認の聖人である.ドメニコ会の修道女だったようだ.

 大きい教会だが,開いていなかった.現在の建物は20世紀のネオ・ロマネスク(ロンバルディア帯がロマネスクの雰囲気を醸し出す)だが,ファサードと鐘楼はゴシック風に見え,いずれにしても19世紀以降にできた外観と思われる.

 堂内にはシモーネ・マルティーニの影響を受けたフレスコ画「聖母子」,13世紀のドイツ,ライン川地方の様式による木彫磔刑像,16世紀末フィレンツェの画家フランチェスコ・クッラーディのカンヴァス油彩祭壇画「サタンを退治する大天使ミカエル」があると言うことなので,機会があれば拝観してみたい.

 14世紀のシモーネ・マルティーニ派,16世紀末のクッラーディと,やはり傾向として,シエナ派からフィレンツェ派へと言う流れは見えるようにも思うが,これだけでは何とも言えない.

 しかし,トスカーナの諸都市で,ネーリ・ディ・ビッチ(15世紀),フランチェスコ・クッラーディ(16世紀末から17世紀)の作品が見られる場合,宗教芸術の面ではフィレンツェの影響下にあったと判断して良いであろう.どちらも,多作で,一定の水準の作品を注文に応じて,トスカーナ各地に遺したフィレンツェの人気画家だったからだ.


サンタゴスティーノ教会
 マルゾッコの石柱のある広場から,グラッチャーノ・ネル・コルソ通りを前進すると,立派なルネサンス建築の邸宅が複数見られるが,その後ミケロッツォ広場に着く.そこには通称「プルチネッラの塔」と言う時計塔がある.通りを挟んで歩いてきた方向に向かって右側にサンタゴスティーノ教会が見える.

写真:
サンタゴスティーノ教会


 扉が開いていたので,モンテプルチャーノで初めての教会拝観が実現した.1285年の創建と言うことだが,外観はルネサンス様式で新しく見える.ギリシア神殿風の縦溝が彫られた付け柱が特徴的なファサード下部に関しては,フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿の設計者であるミケロッツォが関わったとされている.

 誰の作かはわからないが,入口上部のリュネットにはテラコッタの「聖母子と聖人たち」(聖人は洗礼者ヨハネとアウグスティヌス)が見事だ.ミケロッツォ作と言われても信じる.

 ファサードの上部もその後完成したが,19世紀末に大幅な改変を含む修復が為された.わずか百年ちょっと前とは言え,今と修復に対する考えが違うのでやむを得ないが,素人目には十分に均整の取れたルネサンス建築に見える.

 堂内もアーチとバレル・ヴォールトを組み合わせた簡素な単廊式でルネサンス風だが,漆喰が新しく真っ白なので,現代建築の産物かと見まがう.

 ジョヴァンニ・ディ・パウロの金地板絵の祭壇画パネル「トレンティーノの聖ニコラウス」がシエナ派の作品である以外は,ロレンツォ・ディ・クレーディの「キリスト磔刑と聖母,福音史家ヨハネ」,アントニオ・ダ・サンガッロの彩色木彫の磔刑像,アレッサンドロ・アッローリの「ラザロの復活」など,めぼしい作品は大体フィレンツェの芸術家に拠るものであった.

写真:
ロレンツォ・ディ・クレーディ
「キリスト磔刑と
聖母,福音史家ヨハネ」


 ヴェロッキオ工房出身でレオナルドの弟弟子にあたるロレンツォ・ディ・クレーディは,私が好きな画家だが,大作よりも小品に実力を発揮するイメージがあり,美術館ではウフィッツィ,ルーヴルはじめ諸方で観ているが,ピストイア大聖堂のために師匠のヴェロッキオと共作した「聖母子と聖人たち」以外に教会で作品を観た記憶が無い.

 サンタゴスティーノの作品も祭壇画にしては小さめである.

 教会内で観た解説板には「16世紀のキリスト磔刑」とあるだけで,作者名は無かった.スマホで読み取るQRコードが付されているので,そこには詳しい情報があるのだと思う.大聖堂の解説板も同じタイプだった.私同様「QRコード」に普段縁の無い人は日本語ウィキペディア「QRコード」を参照されたい.私は原始的だが「スマホ 読み取り 記号」で検索してこの名称を知った.

 教会ではペルジーノ作かとも思ったが,似てはいても,聖母や福音史家ヨハネの顔がペルジーノ風でないように思えたので保留した.伊語版ウィキペディアにロレンツォ作とあるので,そう言われればそうかと今は納得している.多分,堂内で1番美しい絵だと思う.フィレンツェ・ルネサンスの雰囲気を湛えた作品だ.

 アレッサンドロ・アッローリの「ナザロの復活」も華やかな色彩で,フィレンツェのマニエリスムを代表する画家の作品と言われて(これも伊語版ウィキペディアの情報で,その場ではナルディーニの作品だと思った)十分に納得が行く.

 その他にも,きちんと描かれたカンヴァス油彩の祭壇画が複数あったが,今の所情報がないので,コメントは控える.

 サンタゴスティーノ教会は,外観,堂内ともにフィレンツェのルネサンス,マニエリムの影響が色濃く見られ,祭壇画のパネル1枚だけだがシエナ派の実力者ジョヴァンニ・ディ・パオロの作品も残っている.非キリスト教徒であっても,宗教芸術に興味があれば,拝観には十分な意味があるだろう.

 実は,この教会の堂内で,喜捨で,

 Remo Piccolomini, Sant’ Agostino, Gorle, BG: Editrice VELAR, 2010

と言う小冊子をいただいた.アウグスティヌスの生涯と思想を解説したアゴスティーノ修道会のいわば広報冊子のようなものだが,内容的にも力作である上に,グッビオのオッタヴィアーノ・ネッリ作,サン・ジミニャーノのゴッツォリ作の「アウグスティヌスの生涯」のフレスコ画を初めとする,アウグスティヌスを描いた多くの芸術作品の写真を使いながら説明してくれていて,大変参考になる.値段がついているので,市販されていると思われる.

 修道会が編集したものなので,思想家としてのアウグスティヌスの専門家には不満もあるだろうが,非専門家にとっては十分に有益であると思う.イタリア語ができなくても,印刷鮮明な写真による図版が豊富で,眺めているだけでも宗教芸術に描かれたアウグスティヌスに関して相当量の情報が得られる.今回のモンテプルチャーノ行で,私にとって最大の収穫である.


町の南端まで歩き,中心部へ戻る
 サンタゴスティーノ教会を出て,ポリツィアーノの生家とされる建物が残るポリツィアーノ通りへ向かった.

写真:
カーサ・ポリツィアーノ


 ポリツィアーノ通りの登り坂を進むと,町のある丘の南端に出た.そこにゴシック様式のサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会があったが,扉は閉まっていた.

 ポルターユはゴシックだが,ファサード上部にある装飾はロンバルディア帯に見え,であれば教会としての創始が1200年とのことなので,ロマネスク教会とも言えようか.

 鐘楼も古くは見えるが,18世紀のものとのことだ.堂内には入っていないので分からないが,やはり17世紀,18世紀に改築されて新しいようだ.ただし,ウゴリーノ・ディ・ネリオに帰せられる「聖母子」が残っており,であれば,14世紀初頭のシエナ派の作品が飾られていることになる.

写真:
パラッツォ・コムナーレ
(市庁舎)


 南端のセルヴィ教会から,サン・ドナート通りを北進して,町の中心部グランデ広場に向かった.

 パラッツォ・コムナーレ(市庁舎),プレトゥーラ宮殿,ノービリ・タルージ宮殿,コントゥッチ宮殿などのルネサンス建築と,大聖堂がその広場に面している.

 市庁舎は多くの人がそう思うであろうように,フィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオ(これも観光資源であるとともに市庁舎の役割も果たしている)に似ている.

 石の素材が多分違うので,色が白っぽいのと,ヴェッキオ宮殿は現在の建物はアルノルフォ・ディ・カンビオが設計したゴシック建築であるのに対し,モンテプルチャーノの市庁舎はミケロッツォが設計に関わったルネサンス建築である.もちろん,フィレンツェの芸術家ミケロッツォはヴェッキオ宮殿を意識していたであろう.

 ノービリ・タルージ宮殿の設計は,アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオとされ,これもまたフィレンツェの芸術家である.個人的にはこの宮殿(邸宅)がグランデ広場で最も美しいように思われるが,19世紀の木版画をウィキメディア・コモンズで見ることができ,それを見ると,以前は最上階に開廊があり,今の姿とは少し違うように思える.


大聖堂
 大聖堂が意外に新しいのは,コッレ・ディ・ヴァルデルサのケースと似ている.大聖堂(司教座教会)が新設されると言うことは,司教が任命されるということであり,あるいは時代的には「カトリック改革」とも言われる対抗宗教改革と関係があるだろうか.

 それ以前にあったサンタ・マリーア教区教会の上に創建が開始されたのが1594年,完成が1680年,献堂が1712年とされる.

写真:
大聖堂


 外観は,鐘楼は明らかに新しく見えるが,本堂のファサードはゴシック風に見える.しかし,大聖堂の基本設計をしたのは,オルヴィエートのイッポリート・スカルツァで,1532年に生まれ,1617年に亡くなったマニエリスム,もしくは後期ルネサンスの芸術家である.

 建築家としては初めて聞くが,彼の彫刻家としての作品は,オルヴィエート大聖堂で,死せるイエスを抱えた聖母の後ろに梯子を持ったニコデモのいる大理石の彫刻を観ている.影響したのがシエナの芸術かフィレンツェの芸術かということばかり考えている時に,トスカーナの外のウンブリア州オルヴィエート出身の人物の名前が挙がって,やや驚いた.

 しかし,伊語版ウィキペディアによればイッポリートはシモーネ・モスカラファエロ・ダ・モンテルーポと仕事をともにしていて,前者はフィレンツェ周辺のサン・マルティーノ・ア・テレンザーノの出身で,オルヴィエートで亡くなった彫刻家・建築家で,フィレンツェの芸術家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネと仕事をともにし,後者はモンテルーポ出身だが,フィレンツェを中心に活躍したバッチョ・ダ・モンテルーポの息子で,ミケランジェロの友人であり,2人ともフィレンツェの芸術家と言えるので,イッポリットもフィレンツェ芸術の影響を受けた人物であろう.

 いずれにせよ,大聖堂はイッポリートの存命中は完成せず,17世紀末までかかった.さらに意外なことに一見新しく見える鐘楼が,唯一の教区教会時代の遺産で,15世紀の建築とのことだ.



 三廊式ラテン十字型の堂内もルネサンス様式の均整の取れた様子で,身廊の天井はバレル・ヴォールト,側廊の天井は交差リブ・ヴォールト,身廊と翼廊の交差部の上にペンデンティヴとタンブールで支えられたクーポラ(丸屋根)がかけられている.

 建築家が様々な工夫を施したので,もっとじっくり見れば良かったと思うが,どうしてもまず絵,それから彫刻に目が行き,特に目当てのタッデーオ・ディ・バルトロが修復中で気落ちして,あまり教会自体の鑑賞ができなかった.

 堂内に飾られている主な芸術作品は.タッデーオ・ディ・バルトロ「聖母被昇天」を除けば,殆ど見ることができ,サーノ・ディ・ピエトロ作とされる「付け柱(ピラストロ)のマドンナ」と言う通称を持つ小さな「聖母子」,フランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノの「受胎告知の天使」と「受胎告知の聖母」はタッデーオの祭壇画とともにシエナの芸術家の作品で,他にもバルトロメオ・ネローニ「救世主キリスト」など探せば他にシエナ出身の芸術家の作品もあったかも知れない.

 実はフィレンツェの芸術家たちの作品がどのくらいあったのかも把握できていない.

 確実にそれとわかるのは,「百合の礼拝堂」(カッペッラ・デイ・ジーリ)にあるアンドレーア・デッラ・ロッビア作の彩釉テラコッタ祭壇装飾「受胎告知と聖人たち」(聖人はステパノ,ボナヴェントゥーラ,シエナのカタリナ,ベネディクトゥス)(1512年),それと17世紀の氏名不詳のフィレンツェの画家による「聖セバスティアヌス」,そして, ミケロッツォが制作した「バルトロメオ・アラガッツィの墓碑」(1428-37年)である.

写真:
ロッビア作
彩釉テラコッタ祭壇装飾
「受胎告知と聖人たち」


 アンドレーア・デッラ・ロッビアの祭壇装飾のある「百合の礼拝堂」に古い洗礼盤があるが,これはジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノの作とされている.伊語版ウィキペディアではティーノ・ディ・カマイーノの可能性も示唆されているが,いずれにしてもシエナ出身の芸術家によるゴシック期の作品である.

 ロッビアの華やかなルネサンス芸術と,地味で簡素だが,じっくり見ると見事な浮彫が施されたゴシックの洗礼盤が礼拝堂と言う空間を共有している.

 大聖堂の堂内を見ている限り,宗教芸術の面で,シエナの影響が強いのか,フィレンツェの影響が強いのかは,俄に判断できないが,シエナ出身の芸術家の作品はより古く,フィレンツェ出身であったり,その影響を受けた芸術家の作品がより新しいことを考えると,モンテプルチャーノでも,その他のシエナ周辺の都市と同じく,シエナの影響からフィレンツェの影響へと移行して行く傾向が見られるのではないかと思う.

 政治的には南トスカーナの要衝であるモンテプルチャーノを近傍のシエナが支配下に収めようとして,軍事的緊張関係が高まり,モンテプルチャーノはむしろシエナとの対抗上,他都市に助力を求め,その中に早い時期からフィレンツェも含まれていた.したがって.モンテプルチャーノはシエナとフィレンツェの拮抗関係の中では比較的初期の頃からフィレンツェとの関係が深かった.


人文主義者の墓碑
 「バルトロメオ・アラガッツィの墓碑」は,もともとは大聖堂ではなく,同じ敷地にあった教区教会の時代に作成された.

 大聖堂建設以降の事情により,解体され,現在残っているのは,本人の彫像部分(石棺の蓋)と,2枚の浮彫パネルなどごく一部の断片である.ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に墓碑の一部の2体の天使像があるとのことなので,売却された部分もあると言うことだと想像する.

 この墓碑の重要性は,史上最初に作成された人文主義者の墓碑であるということだ.

 古風な字体でラテン語が刻まれた碑銘が司教館に残っていて,文章作成者も人文主義者で,アラガッツィと直接交友があったポッジョ・ブラッチョリーニか,現在のラウレンツィアーナ図書館の蔵書の大元を収集したニッコロ・ニッコリではないかと推測されている(伊語版ウィキペディア).

 ポッジョは,現在アレッツォ県に属しているテッラノーヴァの出身で,フィレンツェで亡くなり,ニッコロは生没地ともにフィレンツェなので,二人ともフィレンツェの人文主義とルネサンスに貢献した学者である.

 11世紀にポンポーザの修道士が写字したセネカの悲劇の写本を,14世紀初頭まで生きたパドヴァの文人ロヴァート・ロヴァーティがその他の写本群とともに発見して,研究成果を公表し,それがアルベルティーノ・ムッサート,フランチェスコ・ペトラルカ,ジョヴァンニ・ボッカッチョと言ったルネサンスの先駆けとなる人文主義の文人たちに霊感を与え,E写本はその後ニッコロが手に入れ,それをコジモ・デ・メディチが購入し,ニッコロの旧蔵書を基盤にサン・マルコ修道院に図書館が設けられた.

 メディチ家追放の際に,その蔵書はローマに運ばれたが,同家の復権とともにフィレンツェに戻され,新たにサン・ロレンツォ教会に付随するラウレンツィアーナ図書館が創設された.そうした経緯があって,先日閲覧を許されたセネカのE写本(コーデックス・エトルスクス)はラウレンツィアーナ図書館に所蔵されている.

 今のところ,人文主義の歴史に関しても,わずかな固有名詞をつなぎ合わせて,不正確な知識によって全体像を大雑把に再構成する程度のことしかできないが,人文主義もルネサンスも暗闇の中世に突如古代文化復興の光が射して現出したのではなく,中世の営みを人文主義者たちが受け継ぎ,それを発展させる形で,ルネサンスと言う現象が生まれたのだと言う感をますます深くする.

写真:
「バルトロメオ・
アラガッツィの墓碑」


 人文主義者の墓碑としては,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にあるベルナルド・ロッセリーノ作の「レオナルド・ブルーニの墓碑」(1444-45年),デジデリオ・ダ・セッティニャーノ作の「カルロ・マルスッピーニの墓碑」(1453-55年)が有名だが,それらに比べれば,アラガッツィの墓碑は完成時の1437年でも,ブルーニの墓の着手年(本人の没年)より約7年古い.

 バルトロメオ・アラガッツィと言う人物が人文主義者として具体的にどういう事績があったのか,残念ながら今のところ情報がないが,教皇マルティヌス5世に重用された人物であり,この教皇はローマの名門コロンナ家の出身で,長く続いた教会大分裂を収拾するために選出された.したがってアラガッツィもローマ・カトリック教会にとって非常に大事な時期に活躍した人物と言って良いだろう.

 アヴィニョン捕囚,大分裂と混乱の続いた教皇庁が,ローマに再定着して,宗教改革以前の最盛期を迎え,ローマにもルネサンス文化が花開いていく.そこでもその思想的基盤になったのは人文主義であり,人文主義教育を受けた聖職者が教皇や枢機卿になり,ローマ教会の運営にも人文主義者が登用される.

 アラガッツィはその先駆けとなったと考えられ,ミケロッツォによって,最初の人文主義者墓碑を作成されるに値する人物だったと言えるだろう.



 モンテプルチャーノの人文主義と言えば,一にも二にもポリツィアーノの名前が思い浮かぶ.アラガッツィの死後26年たってからの生まれで,だいぶ後進となるが,直接の影響は無いにしても,そうした先人が生まれた町に,フィレンツェのルネサンス文学を代表するポリツィアーノは生まれ育った.

 フィレンツェで活躍したポリツィアーノの本名はアンジェロ(もしくはアーニョロ)・アンブロジーニだが,彼にはラテン語による著作もあり,作者名をラテン語風にポリティアヌス(ポリティアーヌス)とすれば,それがイタリア語風にポリツィアーノと称され,通称になったと想像する.

 実際に,モンテプルチャーノのラテン語名はモンス・ポリティアヌスで,現代イタリア語でモンテプルチャーノの人たちをモンテプルチャネージと言う他に,ポリツィアーニ(単数形がポリツィアーノ)と言う言い方もあり,少なくともネット上では後者の方が多いようだ.

 ただし,ポリティアヌスの語頭のpolはラテン語由来ではなく,エトルリア時代に近くの有力都市キウージ(エトルリア語ではクレヴスィン,ギリシア語ではクリュシオン,ラテン語ではクルシウム)の王ラルス・ポルセンナによって建設され,その名に由来するとの説もある.

 ポルセンナの名もエトルリアで指導者,指揮官を意味するプルトゥ(「トゥ」は有気子音)からの造語であると言われる.この場合モンテプルチャーノの「ル」はLで,ポルセンナの「ル」はRであることはどう説明されるのかは疑問だ.

 いずれにせよ,厳密にはわからないが,エトルリア語源の(モンテはラテン語のモンスに由来)地名であるとされる.

 トスカーナという名称もエトルリア人が住んでいたことに由来するものであり,トスカーナの諸都市にとって,エトルリアに起源を持つ,もしくは起源はそれよりも古いが,エトルリア人によって栄えたというのは,ごくごく一般的なことであり,フィレンツェのようにローマ人の植民都市が起源で,エトルリア人の町ではなかった方が珍しいと言えるだろう.


その他の教会
 サンタゴスティーノ教会,大聖堂の他には,プラート門からセルヴィ教会に向って南進し,ヴォルタイア通りからオピオ通りに代わるあたりで,左側にあるジェズ教会,グランデ広場からサンタゴスティーノ教会の方に降りて行く途中にあったサンタ・ルチーア教会は扉が開いていたのでは拝観できたが,グランデ広場からリッチ通りを北進して少し小高い所にあるサン・フランチェスコ教会は閉まっていた.

 ジェズ教会は1736年,サンタ・ルチーア教会は1653年の献堂でいずれも新しい.前者は1691年にミラノ出身のジョヴァンニ=バッティスタ・オリゴーニの設計によるバロック建築で,アンドレーア・ポッツォが設計上の変更を加え,1712年にシエナの建築家セバスティアーノ・チプリアーニによって完成した(伊語版ウィキペディア).

 ポッツォは,ローマのサンティニャツィオ聖堂の壮大な天井画「聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光」などで画家として有名だが,建築家の仕事もしたようなので,この情報は信じて良いだろう.もう芸術家の出身地域がどこかなどと言うことよりも,どんな仕事ができるかが大事だったのだろうと想像する.

 他の建築家については情報が得られていないが,堂内の彫刻を担当したバルトロメオ・マッツォーリは17世紀から18世紀にかけてのシエナ出身の一応有名な彫刻家である.

 サンタ・ルチーア教会も時代的にはバロック建築だが,新古典主義のようにすっきりしたデザインになっている.イタリアの教会としては新しいが,それでも献堂から350年以上経っているので,見た目にはかなり古い感じがする.

 担当した建築家はフラミニオ・デル・トゥルコと言う人物だが,どのような人か今の所情報は得られていない.堂内にルーカ・シニョレッリ作の「聖母子」があるが,小品で,ルーカ的な特徴も読み取れず,言われなければ巨匠の作品とは気づかない.

 サン・フランチェスコ教会はゴシックのポルターユが印象に残るが,拝観できなかったので,特に感想は無い.

 モンテプルチャーノはフィレンツェからの日帰りもけっして難しくないことがわかったので,ぜひもう一度行って,大聖堂のタッデーオ・ディ・バルトロ作の祭壇画を観て,市立博物館を訪れたい.できれば,考古学博物館のあるキウージやキャンチャーノ・テルメにも行って見たい.






フランチェスコ・ディ・
ヴァルダンブリーノ
「受胎告知の天使」