フィレンツェだより第2章
2017年11月1日



 




大聖堂
フィデンツァ



§フィデンツァ行

フィデンツァに行ってみたいと思ったのは7月のことだったか,その頃,活動範囲がようやくトスカーナの境を越えて,エミリア=ロマーニャ州の町に及ぶようになっていた.


 最初に行ったエミリア=ロマーニャ州の町は6月29日のピアチェンツァで,翌30日もピアチェンツァに行き,その帰りには,パルマに寄った.7月4日にはラヴェンナ,7日にボローニャ,14日にフェッラーラ,8月11日に再度ボローニャと,堰を切ったようにエミリア=ロマーニャの町に行き始めた.

 その間もトスカーナの中の活動が止むことは無く,ベノッツォ・ゴッツォリとその工房によるフレスコ画を追いかけることから始まって,連日のようにヴァルデルサ地方の諸都市を訪ね歩いていた.

 そして,ヴァルデルサ地方のあちらこちらに残っているものをこの目で見て,その繁栄を考察する過程で,新たな学習項目となったのが,ローマと遠くイギリスを結ぶフランチージェナ街道の存在だった.

 丁度その頃,家族が旅行会社のパンフレットを見ていて,よくぞそんなコースを企画するものだと思うが,フランチージェナ街道のロマネスク芸術を訪ねるツァーがあるのを教えてくれた.そこで重要な見所の一つとされていたのが,フィデンツァ大聖堂だった.

 今期のエミリア=ロマーニャ体験の最初の都市ピアチェンツァは,もう少し先に行くとロンバルディア州で,ミラノまでそれほど離れていない.フランチージェナ街道の重要な宿駅であるフィデンツァはその手前にあって,2度行ったピアチェンツァより近いというのはハードルが低く,すぐにも行けそうな感じがした.

 しかし,8月の暑さに遠出を躊躇しているうちに,ひと月ほど一時帰国することになり,戻ってきたらイタリアはもう秋だった.ピアチェンツァの行き帰りに,明らかに,「信仰」とか「信用」,「信頼」,「信義」を意味するラテン語が語源であろう駅名が印象に残っていたこの町を訪れるのに,丁度良い季節になっていた.



 10月12日,7時半サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅発のフレッチャロッサに乗り,ボローニャ・チェントラーレで8時28分発ピアチェンツァ行きのレジョナーレ・ヴェローチェ(ローカル線快速)に乗り換えて,9時37分にフィデンツァに着いた.

 駅のすぐ近くだと思い込んでいた大聖堂は思ったよりも遠く,すぐには辿り着けなかった.地方都市だと大聖堂でも長い昼休みがあると予想されたので,ともかく午前中に大聖堂を拝観しようと思って,必死で探した.

 駅から真っ直ぐカヴール通りまで行き,右に曲がって直進し,その先のT字路を左に曲がればドゥオーモ広場だったはずだが,一本手前で曲がったようで,大聖堂の裏側に出た.

 後陣外壁と鐘楼は修復中らしく,覆いが掛けられていたので,一番見たいファサードはどうだろうか不安になりながら,左の側壁に沿ってファサードの前の広場に出ると,大丈夫,ファサードには覆いが掛かっていなかった.


写真:大聖堂のロマネスクのファサード 入り口部分



ファサードの浮彫
 後陣外壁から側壁にかけて「聖母子」の彫刻,「受胎告知」の浮彫などを見ながら正面に回り,3つのポルターユがあるファサードの前に立った.両側には円錐のとんがり屋根を乗せた塔が立っている.

 ファサードの装飾を向かって左側の塔の部分から右に向かって見ていく.

 左側の塔には「玉座のヘロデ王」,「騎馬で礼拝に向かう三王」,左側ポルターユのタンパンには「玉座の聖母子と聖人たち」,ポルターユを覆うプロテュルム(張り出し玄関)の上にある三角破風には「カール大帝と侍者」,「司教を任命する教皇ハドリアヌス2世」,「馬を木につないで教会に詣でる病人」が彫られている.

 また,張り出したアーチを支える2本の柱は人(テラモン)が支える形になっている.アーチに施された動物の浮彫も目を引く.

 左側ポルターユの右に装飾柱があり,その柱頭には「ダニエルとライオン」,柱頭の上には「ローマ巡礼の道を示す使徒シモン」がある.

 中央ポルターユの左側の壁龕には「ダヴィデ」像があり,その上の穹窿部に「神殿奉献」,その両側に「豊かな巡礼の家族」と「導きの天使」の浮彫がある.その上の浮彫は「マクシミアヌスを戴冠させるドムニヌス」,「マクシミアヌスに辞意を告げるドムニヌス」で,さらにその上には「三王礼拝」が彫られている.

 中央のポルターユには,タンパンの下のラント―(楣石)の他に,そこからポルターユを覆っているプロテュルムのアーチの内側にも左右に伸びる楣石があり,それぞれ浮彫が施されている.中央ポルターユの浮彫装飾はドムニヌスの殉教と彼にまつわる奇跡に関するもので,詳細については後述する.

 中央ポルターユの右側の壁龕には「エゼキエル」像があり,上部の穹窿部分には「聖母子」,穹窿部分の右側には「貧しい巡礼の家族」,左側に「導きの天使」,壁龕の上には「妊婦が壊れた橋から落ちても助かる奇跡」,その上の装飾浮彫のさらに上には「馬車で天に運ばれる預言者エリア」(「列王記」下8章),さらにその上には「族長エノク」(「創世記」5章)の浮彫がある.

 それらの右側にはコリント式の柱頭を持つ飾り柱があり,その隣に右側のポルターユがある.これを覆うプロテュルムの柱は仔羊が支えている.タンパンの浮彫は「悪龍を踏みつける大天使ミカエル」であるが,このポルターユを覆うプロテュルムの三角破風の浮彫は司教姿の人物(司祭長ゲラルド・ダ・セッサと推測)で,破風の上には荷物を背負った「聖ライモンドゥス」がいる.

写真:
ベルタとミロン
ミロンの手はベルタの
衣服の中に


 右側の塔の正面外壁には「アレクサンドロス大王の昇天」,さらに上の帯状の浮彫には,カール大帝の父ピピン短躯王の英雄譚,大帝が狩りに行っている間に,カールの姉妹ベルタと有力な廷臣ミロンが結ばれ,その間に英雄ローラン(イタリア語ではオルランド)が生まれるというフランク王国を題材にした武勲詩に典拠のある物語が彫り込まれている.

 正面からは見えないが,右側の塔に右側壁には,「ローマをイスラム教徒の脅威から解放してフランスに戻るカール大帝の一行」を題材とする浮彫が刻まれている.

写真:
「アレクサンドロス
大王の昇天」


 「アレクサンドロス大王の昇天」については,コンクのサント・フォワ教会の柱頭にもこの主題が見られた(2016年2月12日に報告).そこではプーリア州のオトラント大聖堂とトラーニ大聖堂に同主題の床モザイクがあるとしているが,この時点ではフィデンツァ大聖堂の浮彫のことは知らず,そもそもフィデンツァという都市のことも知らなかった.

 フィデンツァ大聖堂の見事な浮彫彫刻群の中にあって,特に優れたものとは思えないが,それでも,思い出深いコンクで,この主題の柱頭彫刻に出会っていて,気になる図像であったので,見られて嬉しい.

 この浮彫は,ラテン語でアレクサンドロス大王という文字が付されているオトラント大聖堂の床モザイクと違い,何も記されていないし,アレクサンドロスが両手に糸巻き棒のようなものを持っているので,別の伝承と結びつける考えもあったようだが,両側にグリフィンがいることから「アレクサンドロス大王の昇天」とされているのだと思う.


フィデンツァの歴史
 フィデンツァは,古代にはケルト人が都市を作っていて,皇帝アウグストゥスになる前のオクタウィアヌス・カエサルが,フィデンティア・ユリアというローマ人植民都市を築いた(前41年)ことが知られており,由緒ある古代都市だった.

 もちろんフィデンティアが現在の地名フィデンツァの由来で,この地名フィデンティアは通常のラテン語辞書に普通名詞としての登録は無いが,「信じる」という動詞の現在分詞から造語した地名であることは,初歩だけでもラテン語を学んだ者なら容易に理解できる.

 近傍のピアチェンツァ(プラケンティアは「快適な町」とか「お気に入りの町」を意味し得る)も同様の語形成を経たものと思われ,フィレンツェの場合も,間の過程に曲折はあるが,ラテン語名はフィオレンティア(「花が咲くように栄える町」)で,同じ作り方である.

 イタリア語,英語,ラテン語にそれぞれフィデンツァ,フィデンス,フィデンティアという語の普通名詞としての辞書登録はないが,たとえば「しっかりと」などを意味する接頭語のコンがついたコンフィデンツァ,コンフィデンス,コンフィデンティアは普通名詞として辞書に登録されている.

 歴史的関係は調べ切れていないが,オクタウィアヌス・カエサルに先立って,内乱時代に独裁恐怖政治を行ったスッラに反旗を翻した平民派の有力者を閥族派(元老院派)が鎮圧した戦いを「フィデンティアの戦い」(前82年)と言うようだ.

 典拠はプルタルコスの「スッラ伝」とオロシウスの『歴史』で,前者は後1世紀から2世紀の比較的時代が近い資料だが,ギリシア人がギリシア語で書いたもので,後者はラテン語著作だが作者が5世紀まで生きた人なので,時代は随分下る.したがって,フィデンティアと言う地名が前1世紀の前半にはもうあったのかどうか確証はないが,多分あったと思う.

 4世紀前半には,いかなる事情かは調べていないが,有力者同士の権力闘争に巻き込まれたのであろうか,コンスタンティヌス大帝がこの町を破壊する.

 その後この町がどうなったかは,古代に関してはわからないが,中世のある時期から,10世紀には確実にボルゴ・サン・ドンニーノと呼ばれていたことがわかっている.古代都市フィデンティアの名を復活したフィデンツァに改称されたのは1927年のファシズム政権下ということなので,まだ100年経っていない.


ドムニヌスとマクシミアヌス
 中世の時期の町の名ボルゴ・サン・ドンニーノは,今期新たに知った聖人サン・ドンニーノに因んでおり,この聖人とは3度目の出会い(1度目はカンピ・ビゼンチオ,2度目はバーニョ・ア・リーポリ)となる.

 ドンニーノはラテン語ではドムニヌスというようで,英語では読み方は英語風(ドムニナスか?)になるだろうが,綴りはラテン語と同じになるようだ.

 伝承に拠れば,ドムニヌスは皇帝マクシミアヌスに仕えていたが,キリスト教に入信し,皇帝の怒りを買い,兵士たちに追われて十字架を掲げながら騎馬で逃亡し,ピアチェンツァ(当時はプラケンティア)の近辺で捕らえら,フィデンティアの近くを流れるスティローネ川の岸辺で斬首された.

 斬首された遺体が首を持って歩き,それを置いたのが,現在フィデンツァ大聖堂が建っている場所とされる.

写真:
自分の首を持つ
ドムニヌス


 自分の首を持って歩く奇跡は,エクサンプロヴァンスのサン・ソヴール大聖堂で聖ミトルの伝説と出会っている(2011年2月25日:その報告)し,カンピ・ビゼンチオのサン・ドンニーノ・ア・カンピ教会で,マッテーオ・ロッセッリに帰せられる祭壇画「聖ドンニーノの奇跡」を見たので,予備知識は不十分ながら有った.

 彼の死は304年とされ,キリスト教が公認される313年のミラノ勅令の9年前なので,もし史実だとすれば,異教の皇帝による殉教者としては最後の方に属する聖人ということになるだろう.

 マクシミアヌスは,古代後期最大のキリスト教の迫害者とされるディオクレティアヌス帝の副帝となり,後に広大なローマ帝国を分割統治するべく「4皇帝制」テトラルキア(東西にそれぞれ正帝=アウグストゥスと副帝=カエサルが1人ずつの4人による統治)が確立した時,東のディオクレティアヌスの指名で,西の正帝になった.

 彼の副帝になったのが,後のコンスタンティヌス大帝の父であるコンスタンティウス1世である.

 ディオクレティアヌスの意向で不本意ながらディオクレティアヌスと同時に退位したが,野心家であるマクシミアヌスは,その後2度「正帝」を自称している.彼の義理の娘がコンスタンティウス1世と政略結婚し,その間に生まれた息子ユリウス・コンスタンティウスの子が辻邦生の小説等で有名な背教者ユリアヌスである.

 マクシミアヌスの義理の娘との結婚によりコンスタンティウス1世が離婚したヘレナから生まれていたのが,後のコンスタンティヌス大帝で,コンスタンティヌスはマクシミアヌスの娘ファウスタと結婚し,3人の男子,2人の女子を儲けた.

 3人の男子コンスタンティヌス2世,コンスタンティウス2世,コンスタンスはそれぞれ皇帝となり,2人の女子コンスタンティナは二度目の結婚で副帝となる従兄弟ガルスと,ヘレナはガルスの弟で正帝になり背教者と呼ばれるユリアヌスと結婚した.

 上記のコンスタンティヌス大帝の5人の子はマクシミアヌスの実の孫であり,ガルスとユリアヌスは養女の孫なので,義理のひ孫ということになる.さらに彼の実の子が,コンスタンティヌス大帝のライヴァルでミルヴィオ橋の戦いで敗れたマクセンティウスである.

 マクシミアヌスはミルヴィオ橋の戦い(312年)に先立つ310年に亡くなっている.詳細は不明だが,義理の息子であるコンスタンティヌスの暗殺を企てたことが露見したことが関係する死と考えられている.

 マクシミアヌスがローマ帝国の正帝(西方担当)であったのは,286年からの305年までで,306年からの2年間と310年に短期間,正帝を名乗っているが,ドムニヌス殉教の年とされる304年はディオクレティアヌスの下風に立っていたとはいえ,正式の正帝としてローマ帝国西方に君臨していたことになる.


左:マクシミアヌスに王冠を被せる聖人 右:マクシミアヌスに辞意を告げる聖人


 フィデンツァ大聖堂の浮彫にマクシミアヌスは3度登場する.そのうち2つは左側のポルターユと中央のポルターユの間の壁面にあり,マクシミアヌスに仕えていたドムニヌスが主人に王冠を被せている場面,キリスト教に改宗したドムニヌスがマクシミアヌスに辞意を告げている場面である.

 3つ目は,中央のポルターユの楣石にあり,左端で髭を撫でながら,ドムニヌスを捕らえて殺すように兵士たちに指示しているマクシミアヌスが描かれている.3場面に彫り込まれたマクシミアヌスはいずれも髯が生え王冠を被った,まるで中世の国王のように表現されている.

写真:
ドムニヌスの首が
天使によって天上に
運ばれる


 中央ポルターユのタンパンの下の楣石彫刻は,この教会にとって最も重要な浮彫で,ローマ兵たちはドムニヌスを追捕して斬首するが,天使たちが聖人の霊を天に運び,聖人の遺体が自分の首を運んでいる場面が彫られている.

 天使が天上に運ぶ首には髯が無く,地上に残って祭壇に収まる首と,聖人の遺体が自ら運ぶ首には髯がある.天上にはより若い純化された姿で運ばれるということだろうか.自らの首を運ぶ聖人の足許には川が流れており,これがフィデンツァ近郊を流れるスティローネ川で,それを超えて自らの墓所を現在のフィデンツァに定めたと言うことだと思う.

 刻銘によって,この川のラテン語名はシステリオーニス(この形が属格でその前後に「川」を意味するたとえばフルーメンかフルウィウスと言う語があった場合,主格はシステリオーの可能性もある)であったことが分かる.

 この出来事が304年のことであれば,コンスタンティヌスの破壊以前なので,この時点では古代都市フィデンティアは存在していたことになる.

 右側の楣石の浮彫には聖人の奇跡の物語が彫り込まれ,墓所に休まる聖人の遺体を詣でた病人が治癒する話と,盗まれた馬を取り戻す話が刻まれている.聖人となる要件の一つである奇跡物語であろう.

 聖人の遺体の上には「殉教者の遺体ここに横たわる」,墓を詣でる病人の上には「ここで病人が癒されている」,馬の浮彫の上には「ここで馬が取り戻されている」と中世風の綴りではあるが,古典語の知識で簡単に読み解けるラテン語の刻銘があるので,それぞれの場面の意味が大体推測できる.

 中央の楣石の浮彫で,聖人を追う兵士たちがそこから出動する城砦の上には「都市プラケンティア」と言う刻銘があり,皇帝の軍団の駐留地として現在のピアチェンツァが有力都市であった(と少なくとも中世の人は考えていた)ことが想像される.

 PLACENCIAと言う中世風の綴りは,中世にはPLACENTIAと書いても,PLACENCIAと書いても,おそらく「プラチェンツィア」もしくは「プラシェンシア」のように発音されたのだろうと推測される.pla-がpia-になるのは,ラテン語の動詞プラケーレplacereがイタリア語の動詞ピアチェーレpiacereになるのと同じ理屈であるが,中世でもラテン語の綴りとしてはPla-と言う綴りが生きていた.

 一見漫画のようで(もちろん漫画は漫画でおもしろく興味深いし,場合によっては絵としての水準も高いこともあるわけだが)単純な造形に見えるロマネスクの浮彫が何でこんなに魅力的なのかは,今考えても結論は出ないが,フィデンツァ大聖堂のファサードの浮彫は観ていて,ぐいぐい引き込まれる.


ヘラクレス
 古典古代を想起させる浮彫としては,「ネメアの獅子を倒したヘラクレス」があった.中世の人たちも教育を受けていればラテン語は読めたし,そもそも他言語を話す人たちとのコミュニケーション手段だったわけだから,ラテン語を通じてヘラクレス(ラテン語ではヘルクレス)のことを知っていても何も不思議は無いわけだ.

 この浮彫が間違いなくヘラクレスと思われる傍証として,この浮彫にはラテン語の刻銘があり,「強いヘラクレス」(フォルティス・ヘルクレス)(ラテン語は語順が自由で,繋辞の省略がごく普通なので「ヘラクレスは強い」とも読める)と刻まれているので,作者もしくは同時代の人物が記したのだとすれば,間違いなくヘラクレスとして造形されたと考えられる.

 フィデンツァのヘラクレスは左手でライオンの尻尾を持っているが,右手は欠けていて棍棒を持っていたかどうかはわからない.そして,ライオンを退治し終えたばかりのこの段階で既に,ライオンの毛皮らしきものを首のところでしめて背中に垂らしている.

 へラクレクスの衣はネメアの獅子の毛皮とされるのが普通だが,十二の難行の最初であるネメアの獅子と戦う前に,キタイロンの山でライオンを退治しており,ヘラクレスの身に着けている毛皮はこちらのものとする話もあって,古代の伝承と必ずしも矛盾しない.刻銘が作者の同時代のものでないとしても,この浮彫がヘラクレスを表していることは間違いないだろう.

写真:
ネメアの獅子を
倒したヘラクレス


 中世も時間が長いが,「カロリング・ルネサンス」(9世紀),「オットー朝ルネサンス」(10世紀),「マケドニア朝ルネサンス」(10世紀),「12世紀ルネサンス」,「パレオロゴス朝ルネサンス」(13世紀から15世紀)などと,もちろん遥か後世の造語だが,「~ルネサンス」と言われるとき,常にギリシア・ローマの古典文芸や学問の復興が伴ったと考えられる.

 であれば,13世紀の浮彫にヘラクレスが出てきても,不思議はないとは思うが,それなら,もっとたくさんあっても良いのに,私が知らないだけかも知れないが,中世の図像にヘラクレスが出てくると,何か不思議なものを見てしまったような感覚に陥る.

 アレクサンドロスの場合は,キリスト教的立場から否定されるべき人間の傲慢さを寓意していると考えれば,キリスト教的図像としてもまずまず納得が行くように思えるし,そもそも何らかの形で伝カリステネスに遡る元の話を知らないと,アレクサンドロスだと言うこともわからない.

 しかし,ヘラクレスの場合は棍棒とライオンが出てくれば,殆どの人がヘラクレスと認識するくらい有名な話なのに,キリスト教的図像としてはそぐわないのか,すくなくとも私は,13世紀と14世紀の例を1つずつ知っているだけだ.

 ヘラクレスの物語であっても,例えばエウリピデスのギリシア語による悲劇『ヘラクレス』をラテン語で翻案したセネカの『狂えるヘルクレス』には,合唱隊の歌の中に「野心の満ちた勇気が高みから落ちる」(alte virtus animosa cadit)と言う警句があり,この劇を,増長を戒める教訓と読むことが全くできないわけではない(私はその立場を取らない).

 しかし,一般にヘラクレスの神話は苦難を経て栄光に至る勝利の物語と考えられるし,この浮彫のある右側のポルターユには,反対側には,「鹿を捕らえるグリフィン」,正面のタンパンには「悪龍を踏みつける大天使ミカエル」が彫られていて,グリフィンは他にも解釈が可能かも知れないが,ミカエルの場合は「悪に対する善(正義)の勝利」を表すとしか考えられず,であれば,ヘラクレスもここでは否定的に描かれているのではないように思える.

 古代的図像としてはグリフィンの他に,スフィンクスやケンタウロスと思われる浮彫もあり,それぞれが彫り込まれている位置を考えると,固有の意味がありそうなので,考えてみたい誘惑に駆られるが,煩瑣になるので踏み込まない.

写真:
アンテーラミの
ライオン


 中世に造形されたヘラクレスの図像としてすぐに思いつくのは,不勉強なため今のところ,ピサ大聖堂のジョヴァンニ・ピザーノ作の説教壇の柱の丸彫りに近い高浮彫くらいだ.裸体の男性が,棍棒を持って,ライオンの毛皮を肩にかけており,明らかにヘラクレスと思われる.

 ジョヴァンニ・ピザーノの作品は,14世紀初頭のゴシックの時代のものだが,フィデンツァ大聖堂の浮彫は,ベネデット・アンテーラミとその工房の作品とされ,この芸術家は12世紀後半から13世紀前半に活躍したロマネスクの彫刻家,建築家である.

 中央のポルターユの張り出しアーチの柱を支えるライオンもアンテーラミの作品とされる.ロマネスク教会の入り口に置かれているライオンはどれも魅力的だが,フィデンツァ大聖堂のライオンの造形は特に立派に思える.

 ロマネスクの彫刻家や建築について,整理できていないが,アンテーラミの活躍が12世紀後半からだとすれば,モデナ大聖堂を設計したとされるランフランコ(11世紀から12世紀),そのファサードに浮彫彫刻を施したヴィリジェルモ(11世紀から12世紀)はさらに先行していることになる.

 アンテーラミの代表作とされ,フィデンツァ大聖堂の浮彫に先行しているものとして,パルマ大聖堂の洗礼堂とそこを飾る彫刻群があるが,パルマ洗礼堂の建築開始が1196年とされているので,12世紀も終わろうとしている時期であり,ランフランコやヴィリジェルモより100年近く遅い活動と言うことになる.

 ゴシック建築が北フランスで始まるのが12世紀半ば(1150年頃)とされるので,既にゴシックの時代は始まっているが,イタリアのゴシックの開始はアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の建設開始(1228年)からとされるので,その点ではアンテーラミは確かにロマネスクの芸術家と言えるだろう.

 いずれにせよ,アンテーラミはジョヴァンニ・ピザーノより,さらに言えばジョヴァンニの父でやはりゴシックの彫刻家として知られるニコラ・ピザーノより前の芸術家であり,ヘラクレスの図像もフィデンツァの浮彫が,ピサ大聖堂の説教壇に先行している.

 ピザーノ親子の彫刻がゴシック芸術でありながら,古典的(ギリシア・ローマ的)均整と調和が見られ,ルネサンス絵画に遥かに先立っていることに関して,ピサのカンポ・サントに古代石棺が多数あり,その浮彫彫刻が影響したかも知れないという推測は成立するかも知れない.

 しかし,4月にカンポ・サントで見られる石棺を全て見たつもりだが,撮って来た写真にはヘラクレスの図像はないと思う.


堂内で見られる作品
 ファサードの浮彫は昼休みの間も見られるが,堂内はおそらく正午には閉まると思われたので,鑑賞と撮影と中断して堂内を拝観した.

 堂内には,見た限りではアンテーラミ工房(もしくはその影響を受けた職匠)の浮彫は僅かしかない.その一つが,三廊式の堂内の身廊と右側廊を区切る柱列の上の壁にある「堕天使の失墜」である.

写真:
「堕天使の失墜」


 中段には2人の堕天使が真っ逆さまに墜ちている姿と左端にそれを確認しながら飛んでいると思われる天使,下段ではその堕天使たちが怪物の姿で地獄に達し,彼らを大天使ミカエルが討伐している姿が彫り込まれ,上段のマンドルラの中で玉座に座るキリストは左手に巻紙(カルトゥーシュ)を持ち,そこにはラテン語で「審判と正義を私は行なった」(※)と書かれている.

(※ この文章の伊語版ウィキペディアのイタリア語訳はそうなっているが,引用されている原文の主語は1人称ではなく3人称になっている.しかし,写真で確認すると伊訳の通りでラテン語原文も3人称・完了時制のFECITではなく1人称・完了「私は行なった」FECIである.単純なミスだろう.2017年11月4日参照).

 芸術として優れているかどうかは分からないが,堂内に残る数少ないロマネスクの遺産と思えば,有り難く見える.身廊と側廊を区切る壁のアーチは上部が丸くロマネスク風だが,天上はリブ・ヴォールトなのでゴシック期のものだろう.

写真:
後陣に残る13世紀の絵と
アンテーラミ工房の
彫刻


 堂内には後陣の内壁奥に古拙なフレスコ画に見えるが,案内書には13世紀のテンペラ画とある壁画が残っている.「審判を下す全能のキリスト」を中心とする「最後の審判」の両脇に聖人(左はフランチェスコ)の絵が描かれているように思われるが,遠目でよく見えず,写真もちゃんと写らなかったのでよくは分からない.

 この壁画を5つに区切っている飾り柱のコリント式の柱頭の上から伸びるリブに囲まれた5つの三角面の中央には「祝福するキリスト」,その両側に福音史家の象徴物が2つずつ,両端にそれぞれ天使の彫刻がある.

 この彫刻も,後で博物館で買った大聖堂の案内書によるとアンテーラミ工房の作品で,特に「祝福するキリスト」は親方自身の作品の可能性があるとしているが,遠目には新しく見えた(リブはやはりゴシック期のものだろう)ので,ズームの写真は撮ったが,持って行った単眼鏡で丁寧に観るということもしていない.もう一度行くことがあれば,じっくり観てみたい.

 絵画作品は,それほどたくさんはないが,地元の画家ジョヴァンニ=バッティスタ・タリアサッキの「聖アンドレーア・アヴェッリーノの死」(1731年),フランチェスコ・ルッキの「最後の晩餐」(1611年)などが見られた.

 右側廊のファサードから4番目の礼拝堂(フェッラータ礼拝堂)の正面リュネットにはやはりフィデンツァの地元の画家であるジャーコモ・ボナッツィ・デ・ピッツァマーリに帰せられる「聖母子」の古拙なフレスコ画(1400年代)がある.

 その下に美しい祭壇画があって目を引いたが,写真で確認すると明らかに現在はパルマ国立美術館にあるコレッジョの「聖ヒエロニュムスのいるアレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」なので,上手だがコピーだろう.上記案内書が描かれた時代(初版1983年で写真は全て白黒)には違う絵がかっていたようなので,元からあったわけではないようだ.

 このコレッジョのコピーの前に,彩色木彫と思われる「首を運ぶ聖ドムニヌス」が置かれているが,これも案内書には言及されていないし,礼拝堂の説明板でも触れられていない.

写真:
地下祭室(クリプタ)


 後陣下部には地下祭室(クリプタ)があり,ここの祭壇に聖遺物(聖人の遺体もしくは遺骨)が安置されている.

 それを収めた聖櫃とは別に,15世紀に制作された高水準の職人技が発揮されている聖櫃が地下祭室右側に安置されている.安置されている場所は19世紀に増築された「聖櫃礼拝堂」(カッペッラ・デッラルカ)と称されている.この聖櫃には聖人の物語の浮彫が施されており,上部には首を持つ聖人像がある.

 地下祭室は三廊式で,柱頭に施されている「ダニエルとライオン」などの浮彫はロマネスクだが,交差リブ・ヴォールトの天井と尖頭アーチはゴシック期の改築であろう.ローマ時代(後3世紀)のシンプルな石棺もある.


大聖堂附属博物館
 大聖堂付属の博物館の開館時間も気になったので,堂内の拝観も十分ではなかったが,隣接する博物館に入館した.

 ミラノで活躍したクレモナ出身のジュリオ・カンピ,ヴィンチェンツォ・カンピの絵が見られた他は,絵画では取り立てて優れた作品はなかったが,ロマネスクの彫刻に興味深いものがあり,特に12世紀の洗礼盤が良かった.

 元々は鐘楼外壁にあり,現在はそこにはコピーが置かれているアンテーラミ作の「聖母子」は今年の12月まで修復中で展示されていなかった.

 また,フィデンツァのサン・ジョルジョ祈禱堂にあった剥離フレスコ画「悪龍を倒して王女を救う聖ゲオルギウス」はヴィターレ・ダ・ボローニャ作とされたこともあったが,現在は14世紀のエミリア=ロマーニャの画家(館内の解説板はレッジョ出身のバルトロメオとヤコピーノの名前を挙げている)作品とされている.

 ヴィターレへの帰属の可能性があるとされた時代があっただけのことはある,躍動感に満ちた魅力的な絵だ.

写真:
「悪龍を倒して
王女を救う
聖ゲオルギウス」


 博物館入館の特典として,一定人数が集まるのを待って,イタリア語でマトローネオと言う側廊上部の女性信者専用歩廊を案内付きで見せてもらえた.そこではロマネスクの柱頭彫刻,フレスコ画断片など見ることができるが,何よりも上から堂内を眺められるのが素晴らしい.

 一通り博物館を見終えた段階で,もう正午を回っていた.大聖堂の扉は閉められていたし,博物館も延長してくれていたが正午から昼休みになるので,後はファサードの浮彫をもう一度丁寧に見直すことしかできることはなかった.

 しかし,フィデンツァ大聖堂の最大の魅力はファサードの浮彫なので,ともかくしっかり観て,写真を撮ることに専念した.


左:「ローマ巡礼の道を示す使徒シモン」 上:三王礼拝 
下左:)ダニエルとライオン 下右:)カール大帝 右:マクシミアヌス


 全体として雑多に見える内容だが,「旧約聖書」,「新約聖書」,「ドムニヌス伝説」,「カール大帝伝説」が題材になっており,それらを大きく統一する主題が「巡礼」と「救済」になっているように思える.

 それを支える材料として「ヘロデ大王」(異教徒で迫害者)と「三王(東方三博士)」(誕生したイエスを礼拝),「皇帝マクシミアヌス」(異教徒で迫害者)と「廷臣ドムニヌス」(キリスト教徒で殉教者),「アレクサンドロス大王」(傲慢な異教徒)と「カール大帝」(敬虔なキリスト教徒でその保護者)と言った対立項が見られるように思う.

 苦難と遍歴を経て救済に至る旧約の預言者たち,救世主の誕生を礼拝するために東方からやって来る三王,ローマから北イタリアに逃避して,そこで殉教した後,巡礼の対象となる墓所に祀られ,より大きなローマ巡礼の道標となる宿駅の象徴になるドムニヌス,フランスを含む北方からローマに至って,キリスト教を異教徒から守り,フランス方面に帰還するカール大帝など,一見雑多に見える浮彫群もよく見ると,巡礼街道にふさわしいテーマが選ばれているように思える.

 ヘラクレス,ミカエル,グリフィンの浮彫も,力を得た善(正義)が悪に勝利する物語と考えれば,「巡礼」と「救済」のテーマと矛盾しないだろう.身も蓋もないことを言うようだが,以上のようは解釈が全く見当外れだったとして,アンテーラミとその工房による浮彫群は魅力的である.

 パルマの洗礼堂をこれに先行して観ているが,これについて考察する前に,フィデンツァ大聖堂を拝観できたことは貴重な体験だったと思う.今後,私にとってベネデット・アンテーラミは中世を代表する芸術家として銘記されるだろう.



 伊語版ウィキペディア「フィデンツァ大聖堂の彫刻装飾」と博物館で入手した数冊の案内書(中には武勲詩の古仏語テクストまで掲載した本格的なものもあるが,もちろん全部は読んでいない)を参考に,青息吐息でファサード浮彫に関してまとめてみたが,興味深く思える後陣外壁の浮彫は今回は修復の覆いがかかっていて見ていない.

 報告しきれていないが,ファサード,地下祭室,マトローネオで見ることできた柱頭彫刻が素晴らしかった.ロマネスクの柱頭彫刻はフランスやスペインに行かないと優れたものは見られないのかと思っていたが,フィデンツァ大聖堂の柱頭彫刻群は立派だ.古拙感と洗練性が見事に融合していうように思え,古代彫刻とは全く別の魅力がある.

 アーチ等に施された聖人や動物の浮彫も興味深いし,それぞれ固有の聖書的背景や寓意画があることは想像がつくが,今回は考えている余裕がないので,ペンディングとする.

 今回参照したウェブページも参考書も部分的には詳しい解説もあるが,全体像がわかるような説明がなされていないように思え,やや不全感が残ったが,探し続ければどこかに求めるような資料があるだろう.

 日本語検索すると,フィデンツァ大聖堂に関して専門的考察を行なった研究者がおられるようで,驚くべきことにその研究代表者の方は,私がいない間に,所属学部は違うが合同教授会を行なう文学学術院という組織の同僚になられたようだ.

 個人的には面識はないが,その方が所属する小組織には,一緒に仕事をした共通の知人が複数いるのでいつか紹介して下さるだろうと思っている.その際は,是非フィデンツァ大聖堂の浮彫について教えを乞いたいと願っている.

 検索の仕方が悪いのか,ウェブ上で読めるはずのその方のpdf論文に到達できなかったので,今回は参考にできておらず,頓珍漢なことを言っている可能性が高いが,あくまでも自分で見て思った感想なのでこれはこれで良しとする.

 明らかな間違いを犯していても,その指摘があれば,臆面もなく速やかに訂正することができるのは非専門家のウェブ報告の強みであろう.

 結局,フィデンツァでは大聖堂と附属の博物館だけ見て,14時53分ボローニャ・チェントラーレ発のフレッチャロッサに間に合うように,13時15分発のレジョナーレ・ヴェローチェに乗り,ボローニャには14時28分に着き,フレッチャロッサに乗り換えて,フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅には15時30分に着いた.一旦帰宅し,18時から高橋教授新居のハウスウォーミング・パーティに参加し,5人で楽しいひと時を過ごした.

 次回は,モデナ再訪,その次は2日連続で行ったピアチェンツァ,さらに再渡伊後に再訪したパルマに関して報告し,ラヴェンナ,フェッラーラの順で簡単にまとめ,最後にボローニャについて述べて,一連のエミリア=ロマーニャの報告を終えたい.

 ロンバルディア州に関してもミラノ,マントヴァの他にミラノ近傍のモンツァにも行ったので,エミリア=ロマーニャの次はロンバルディアの諸都市に関する報告かなと思っている.






ロマネスクは本当に動物の造形が魅力的
柱を背に乗せている愛らしい仔羊