フィレンツェだより第2章
2017年11月15日



 




フランチェスコ1世の肖像
ジャン=ロレンツォ・ベルニーニ作
エステンセ美術館



 フィデンツァ大聖堂に関して,その後,

Roberto Tassi, Il Duomo di Fidenza, Cinisello Balsamo, Milano: Silvana Editoriale, 1990

 Yoshie Kojima, Storia di una Cattedrale: Il Duomo di San Donnino a Fidenza: Il Cantiere Medievale, le Transformazioni, i Retauri, Pisa: Scuola Normale Superiore Pisa, 2006

の2冊をイタリア・アマゾンで入手した.前者は古書だが,博物館で買った出版年の古い案内書と違い,カラー写真を使った大型本で,すぐにも眺められる.

 後者は気鋭の研究者の学位論文が元になっているので,素人には歯が立たないところが多いと想像したが,「在庫1点のみ すぐに注文せよ」ということだったので,手に入れられるうちに買っておこうと思って注文した.新刊で送料無しの18ユーロだったので,お得感があるが,私に読めるかどうかは分からない.

 これらを読んで,前回の報告に訂正の必要があれば直すが,見て感じた印象を大事にしたいので,当面はそのままにしておく.


§モデナ行

フィデンツァに行った翌13日,フィデンツァ大聖堂を見た流れで,モデナ大聖堂の外壁のロマネスクの彫刻を見ようと思って,モデナに行った.


 8時21分発のインターシティー(車内放送はインテルスィーティに聞こえる)に乗ると,乗り換え無しで10時5分にはモデナに着く.7時半のフレッチャロッサに乗らずとも,午前中に大聖堂を見るくらいの時間は十分あると思った.

 車内放送で「聞こえる」と言えば,「モデナ」の発音はずっとモーデナだと思っていたが,車内放送はモデナで,第1音節にアクセントがあるのは同じだが,長く発音する感じはなかった.第2音節にアクセントがあるはずの「フィレンツェ」を,第1音節にアクセントを置いて発音する人も稀にいるので,こうでなければいけないということは無いのかも知れない.

 東北人の私は「盛岡」を第2音節に弱いアクセントを置いて発音するが,関西の方々は第1音節に強いアクセントを置いて発音する.

 シエナに関しても,たとえば日本語版ウィキペディア「シエーナ」では「カタカナ転記としては「スィエーナ」が現地音に近い」と典拠を2つも挙げて説明していて(2017年11月5日参照),これだと第2音節にアクセントがあるのだと思うが,電車の車内放送では「スィエナ」と「シエナ」の中間くらいで,アクセントは第1音節にあるように聞こえる.



 先日,知人とレストランで食事をしていた時のこと,見たばかりのプッチーニのオペラのことを「ラ・ロンディーネ(第2音節にアクセント)」と日本語で発音したら,イタリア暮らしが長く,音楽にも詳しい日本人の方に「あ,ロンディネ(第1音節にアクセント)ですか」と言われた.

 その方がそう発音なさるのであれば,そうだと思い,音声付の電子辞書で確かめると,確かに「ロンディネ」だった.この発音はラテン語の影響があるのかも知れないとおっしゃったので,少し考えてみた.

 ラテン語の「燕」はヒルンドー(hirundo)で,イタリア語などのロマンス語にはラテン語の対格形が残り,エリジョンする語尾のmは落ちるのが原則とされる.ヒルンドーの対格はヒルンディネム(hirundinem)で,この語形では第2音節「ルン」の所にアクセントがある.イタリア語のrondineは明らかにラテン語のhirundinemの語末のmの他に,語頭のhiも何らかの都合で落ちて,母音がuからoに代わったものと考えられるので,アクセントの位置としては確かに元のラテン語のアクセントの位置を維持していることになる.

 ロマンス語形成の過程で,相当数いたと思われる口語ラテン語話者が,今,学校で習うような「正しい」文語ラテン語のアクセントをどれだけ認識していたのか疑問だが,「燕」に関しては,ラテン語のアクセントが可能な限り維持される原則が当てはまることになる.しつこいのでやめるが,ラテン作家の固有名詞に関しては,見事なほどこの原則があてはまるのに驚く.

 人名と地名に関しては慣用があればそれに従うが,なかなか難しい.ずっと「ズッカーリ」(第2音節にアクセント)だと思っていた画家兄弟の姓も,どうも「ツッカリ」(第1音節にアクセント)と書く方が良いように思えてきた.

 ちなみにモデナのラテン語名の対格はムティナム,シエナのラテン語名の対格はセナムで,どちらも第1音節にアクセントがある.

 ただし,シエナの場合は,地名の辞書登録形が2音節語から3音節語に変わっているので,この場合,原則通りなら確かに共通の「エ」にアクセントのある「スィエーナ」になるように私も思う.しかし,モデナとシエナは慣用だと思うので,今後もモデナ,シエナと書く.


大聖堂の堂内
 モデナの人口は18万4千826人(2017年3月,伊語版ウィキペディア),人口2万6千770人(2015年12月,伊語版ウィキペディア)のフィデンツァよりずっと大きな都市だが,2014年のツァーでバスを降りて少しだけ町を歩いた感じでは,あまり人も歩いているように見えなかったので,有名な割には地方の中小都市との印象を持った.

 しかし,今回,駅から大聖堂を目指して歩き,道に迷いながら繁華な通りに出ると,午前中から人通りも多く,市内バスも頻繁に行き来していて,大都市とは言わないまでも,近代産業に支えられて繁栄を謳歌している地方の中核都市だと実感した.

 モデナ大聖堂はフィデンツァ大聖堂よりずっと有名で,重要な観光資源になっていることは間違いないが,それでも拝観料,入堂料を取って観光客に公開する態勢にはなっていない.長い昼休みがあることを想定して,モデナの駅に到着すると真っ直ぐ大聖堂を目指した.

 大聖堂までは意外に時間がかかったが,10時半を少し過ぎたくらいには大聖堂に着き,外壁は昼休み中でも見られるので後回しにして,堂内に急いだ.

写真:
モデナ大聖堂の堂内


 前回は,案内してくれた地元ガイドさんが,ここは写真撮影禁止だとおっしゃり,実際に写真を撮る人はごく少数だったので,堂内の様子はウェブページの写真や,何冊か書架にある案内書,紹介書で思い出すしか手段はなかった.

 しかし,イタリア各地の相当数の美術館,博物館,教会が管理の方針を変え,多くの人がスマホやタブレット端末で気軽に写真を撮る時代になったこともあろうが,観光客の写真撮影が許可,もしくは黙認されるところが多くなった流れの中で,モデナ大聖堂もカメラに×のついたプレートがまだ扉に残っていたものの,多くの人が写真を撮り,首から名札をぶら下げた管理担当と思われる方々も特に注意する様子もなかった.

 ロマネスクの教会として有名なモデナ大聖堂も,身廊と側廊を区切る壁のアーチは半円アーチだが,あちこちに尖頭アーチが見られ,天井も交差リブ・ヴォールトなので,ゴシックの時代に相当な改築を経たのであろう.前回も見たファサードのバラ窓も,見事なゴシック芸術の遺産に思われた.


大聖堂のルネサンス芸術
 ゴシックより新しい遺産も少なくない.1470年代に描かれた「玉座の聖母子と聖人たち」(聖人はヒエロニュムスとシエナのベルナルディーノ),「最後の審判」,「受胎告知」,「イエスの誕生」のフレスコ画の作者は,堂内の解説プレートによれば,ヴェネト州レンディナーラ出身のクリストフォロ・カノーチとされる.

 クリストフォロ・カノーチについては伊語版ウィキペディアにも立項はないが,1448年に生まれ,1498年頃にパルマで亡くなった画家のようだ.大聖堂のフレスコ画は1472年頃から76年にかけて描かれたとされる.

 北イタリアの画家だが,ピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を受けたとされる.ルネサンス期の画家と言えよう.午後に行ったエステンセ美術館でも,彼の「聖母子」(1479-82年)を観ることができた.

 後陣上部の聖職者席のある空間に黒檀象嵌細工の聖人図が複数あるが,この作者もクリストフォロ・カノーチとされる.堂内の説明板にはクリストフォロの名前しかないが,伊語版ウィキペディアは,彼の兄弟ロレンツォの名前も挙げており,ロレンツォに関しては伊語版ウィキペディアに立項されている.

 それだけでは何とも言えないが,クリストフォロの死没地はパルマ,ロレンツォはパドヴァで亡くなったとされるので,ヴェネト州の小邑で生まれた兄弟が,片やエミリア=ロマーニャ州で,片やヴェネト州の都市を舞台に,腕一本の活躍を見せて人生を生き抜いたと想像したい.

写真:
セラフィーノ・デ・
セラフィーニ
「聖母戴冠と聖人たち」


 カノーチ(カノーチ兄弟)の聖人図の近くには,前回も見て,作者も確認したアゴスティーノ・ディ・ドゥッチョの彫刻「聖ゲミニアヌスと奇跡によって救われた少年」,セラフィーノ・デ・セラフィーニの華やかな多翼祭壇画「聖母戴冠と聖人たち」があり,今回は写真に収めた.

 セラフィーニの祭壇画中央の「聖母戴冠」の台座の下に「1385年3月23日の木曜日にセラフィーヌス・デー・セラフィーニースが描いた」とラテン語で記されている.日付の書き方は古典式とは違う上にアラビア数字が使われている.

 アラビア数字の使用はヨーロッパでは10世紀に始まり,13世紀に「数列」で有名なピサの数学者レオナルド・フィボナッチ以後に普及したとのことだ(日本語ウィキペディア「アラビア数字」参照).したがって14世紀末頃の祭壇画にアラビア数字が記されていても,後世の付加である必然性はないが,この時はそのことを知らなかったので,多少の違和感を覚えた.

 セラフィーノに関しては,後日マントヴァのサン・フランチェスコ教会のゴンザーガ礼拝堂で,この人の作品かも知れない,フランチェスコ会の聖人トゥールーズの聖ルイを題材にしたフレスコ画を見ているが,修復中で組み上がった足場の合間から辛うじて聖人の顔その他を認識できただけだった.

ミケーレ・ダ・フィレンツェ 「キリスト哀悼」 エステンセ美術館


 祭壇にはミケーレ・ダ・フィレンツェのテラコッタの作品があり,これもしっかりと鑑賞した(2014年の報告ページでウィキペディアには情報が無いとしたが,現在は伊語版ウィキペディアに立項されているのでリンクしておく).

 現在は赤茶色のテラコッタそのままのように見えるが,部分的に白い色が残っていて,かつては白色に塗られていたのかと思ったが,堂内の解説プレートには「もともと多色」(オリジナルメンテ・ポリクローマ)とあるので,あるいはロッビア一族の彩釉テラコッタのように華やかなものだったのかも知れない.

 ヴェローナのサンタナスタージア聖堂で類似の祭壇彫刻を見ているし,アレッツォのサンティッシマ・アヌンツィアータ教会でも,聖母子の両側に一人ずつ聖人を配した簡素なテラコッタ(やはり彩色が落ちた思われる)の上部に全能の神,下部に祭壇画の裾絵に該当する浮彫が施された,彼の作品と説明プレートのついた祭壇を見ている.

 この日は,後に行ったエステンセ美術館でも彼の彩色テラコッタ「キリスト哀悼」を見た(上の写真).

 これらの作品を見た経験から,ミケーレはテラコッタに特化した作家かと思ったが,伊語版ウィキペディアに拠れば,フェッラーラ大聖堂のファサード中央に置かれた大理石の聖母子像も彼の作品とされている.

 2007年12月18日に初めてフェッラーラに行った時に大聖堂のファサードでここの聖母子像を観て,随分印象に残る彫刻だと思ったが,ミケーレの作品とは知らなかった.



 ミケーレ・ダ・フィレンツェと上述のアゴスティーノ・ディ・ドッチョもフィレンツェの出身だが,どちらの作品も,フィレンツェで見た記憶がなかった.

 しかし,アゴスティーノ関しては,乏しい記憶をたどって撮った写真を確認すると,バルジェッロの2階(イタリア式には1階)のドナテッロらの彫刻がある広間で,聖母子と天使たちの壁龕浮彫を観ている.フィレンツェ・ルネサンスの美しい作品だ.

 解説プレートに拠れば,壁龕とそれに付随する天使はオンニサンティ教会から,一緒に飾られている聖母子と天使たちの浮彫パネルはサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会から持って来られた.後者は1455年から60年の間の作品とされている.と言うことは,少なくともアゴスティーノはフィレンツェでも仕事をしたことになる.

 アゴスティーノはプラートでドナテッロの仕事を手伝ったと考えられている.さらにミケロッツォの仕事にも関係したかも知れない.

 しかし,バルジェッロの彼の作品を意識していなかったので,彼との出会いはミラノのスフォルツァ城の古美術博物館と言える(その時の報告参照).ただし,この作品は元々ミラノではなくリミニにあったらしい.アゴスティーノの代表的な仕事の多くはリミニとペルージャで為された.亡くなったのもペルージャとされている.

 ドナテッロ,ヴェロッキオ,ミケランジェロであれば,多くの人がフィレンツェ出身の偉大な彫刻家と認識しているであろうし,デジデリオ・ダ・セッティニャーノ,ミーノ・ダ・フィエーゾレの作品をフィレンツェで見たら,傑出した芸術家であったとかなりの人が思うであろう.兄弟で活躍した,ロッセリーノ,ダ・サン・ガッロ,ダ・マイアーノという名前の芸術家たちに関しても,彼らの設計による建築や彫刻作品をフィレンツェで実見すれば,フィレンツェのルネサンスを支えた人々であったことが理解できる.

 ルネサンス期のフィレンツェからは多くの芸術家が輩出している.工房に多くの優秀な弟子が集まり,フィレンツェだけでは仕事が得られない場合は,トスカーナ,さらにその他の地方に仕事を求める.巨匠であれば招かれて有力都市で大きな仕事をして,それがまたフィレンツェ芸術の名声を高める.

 アゴスティーノもミケーレも残っている作品を見る限り,間違いなく優れた技量を持った芸術家と思われる.彼らのような,フィレンツェでは中堅の職人芸術家が,イタリア各地にフィレンツェで生まれたルネサンス芸術を広めて行ったのだろう.

 ロマネスクの時代には芸術面ではフィレンツェに先行していたかも知れないモデナの教会関係者や市民たちが,後にはフィレンツェの芸術家に大聖堂での仕事を依頼したのだと思うと,15世紀という時代にイタリア各地においてフィレンツェのルネサンス芸術がいかに輝いて見えたかを想像してしまう.


アーサー王伝説
 そうは言っても,現代の視点から見て,モデナ大聖堂で最も魅力的なのは,ロマネスク芸術である.前回は言及にとどまったが,今回は,英語版ウィキペディア等を参考にして,北側の「魚市場の門」のアーキヴォルトの浮彫について整理してみる.

 アーチの頂点である中央部分に2つの塔に囲まれた城砦があり,そこに2人の人物がいる.向かって左は女性で,WINLOGEEと名が記され,右の男性にはMARDOCと記されている(下の写真右下).

 そして,アーチの左下から2人目の騎馬の人物(下の写真左下)にはARTVSDEBRETANIAと記されている.これをエラスムス式なら「アルトゥス・デー・ブレタニアー」と読むと,大体「ブリテン島(出身)のアーサー」という意味であろうことが分かる.

 とすれば,この浮彫はアーサー王伝説に関係する物語を表現していることが想像される.



写真:「魚市場の門」のアーキヴォルトの浮彫  下段は部分拡大


 アーサーの左下の甲冑の人物にはISDERNVSとの記名があり,エラスムス式ならイスデルヌスとなるが,英語ではEdern(この綴りなら現代英語ならイーダーン,中世の英語ならエデルンと読むであろう),フランス語ではYderと呼ばれる騎士のようだ.

 日本で知られているアーサー王伝説は15世紀のトマス・マロリーが英語で書いた『アーサー王の死』に拠っているものが殆どで,それに登場しないと,なかなかアーサー王周辺の人物と認識できない.

 しかし,マロリーだけでなく,中世後期にはフランスのクレティアン・ド・トロワ,ドイツのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハなど名を残した詩人,作家が伝説を集成しているし,それ以前にも11世紀くらいから,ウェールズ語,ラテン語(モンマスのジェフリー『ブリタニア列王記』1136年頃),フランス語でまとめられたテクストが残っている.

 そこには様々な騎士や女性が登場し,当然だが敵役もいる.ファンタジーや中世趣味の流行で19世紀以降には復権しているとは言え,近代の啓蒙思想や合理主義と合わない荒唐無稽な伝説として忘れられていた時代もあったが,中世の精神文化を支える一つの要素である騎士道物語の主流として,字が読めて,本を手に取ることができる人は読み,文字の読めない人は耳で聞き,大いに流布した伝説だったようだ.

 その中の一つにエデルンは登場する.モデナ大聖堂の浮彫では,アーサー王の後詰を務める役割から言って,円卓の騎士の一人として登場していると考えて良いのだろうか.『ブリタニア列王記』にはエラスムス式で発音するとヒデルスとして言及されている.

 アーサーの右上の甲冑姿の騎馬武者には記名がないが,左の塔のところで斧を持って迎え撃っている敵方の人物にはBVLMARTVS(ブルマルトゥス),右の塔から出てくる騎馬武者はCARRADO(カッラードー),彼に向かって城を攻める3人の騎士は順に,GALVAGIN(ガルウァギン),GALVARIVN(ガルウァリウン),CHE(ケー)と記名がある.順に有名なガウェインガレシン,やはり良く知られているケイと考えられ,いずれも円卓の騎士である.

 これは推測になるが,WINLOGEEという女性がアーサーの王妃ギネヴィアであれば,伝説の中に「ギネヴィアの誘拐」があり,カッラードーはカラドック,マルドックはカラドックの名との混淆が起こり,誘拐伝説に登場する悪役メルワス(この人物の英語,仏語名Maleagantはラテン語から造語した「悪く行動する者」から来ているだろう)をこのように称したと考えられる.

 ウェールズ語などのケルト語(ゲール語)を勉強したことがないのでわからないが,ギネヴィアのウェールズ語表記の綴りはGwenhwyfarで「白い魅惑者」が原義とのことだ(英語版ウィキペディア).英語名のウィリアムが,フランス語ではギョーム,イタリア語ではグリエルモになるように,言語によってWで始まる名詞と,Gで始まる別の言語が対応することは良くある.

 だからと言うのは乱暴だとは思うが,WINLOGEEがギネヴィアと言うのもそれほど無理ではない(そもそもラテン語には本来Wと言う文字は存在しなかった)ように思えるし,ここではアーサーが登場する以上,どうしてもギネヴィアであったほしい.

 これ以上は,話をややこしくするだけなので,これくらいにするが,このアーキヴォルトの浮彫彫刻は,概ね悪漢に誘拐されたギネヴィアをアーサーが円卓の騎士たちとともに救う物語を表現していると考えて良いだろう.

 おそらくキリスト教以前,少なくともケルト人のキリスト教改宗以前の非キリスト教的環境の中から出てきたアーサー王伝説は,聖杯伝説に代表されるように,物語の中にキリスト教的要素を取り込んで,むしろキリスト教世界という枠の中で展開を見せる.

 無理やりそう考える必要もないかも知れないが,悪(ギネヴィアの誘拐)に対抗して,善(=キリスト教的正義)を実現する物語と考えれば,教会の装飾の題材としてそれほど不適切ではないだろう.

 なおブルマルトゥスに関しては,このラテン語系であればブルマルト,バーマルト,バーモルト,ビュルマルト,ビュルマール(Burmalt)というような人物名が想像されるが,ウェブ上で参照できる(Burmaltでグーグル検索すると2番目にヒットする.2017年11月14日参照)『アーサー王伝説人名事典』(Christopher W. Bruce, ed., The Arthurian Name Dictionary, Routledge, 2013)にこの形で立項されている.

 そこでは,モデナ大聖堂に浮彫に見られる人物で,その図像から考えると,ギネヴィアを誘拐したマルドックのために,城門の橋をアーサー王と騎士たちの攻撃から防御している,とされ,リチャード・バーバーがこの人物をフランスのロマンスに出てくるデュルマルト(デュルマール)(Durmalt)に同定しているという情報が付加されている.

 と言うことは,デュルマルトへの同定以外は,モデナ大聖堂の浮彫しか資料の無い人物ということになる.もちろん,失われたテクストも多いであろうし,口承で伝えられ,流布した話も少なくないだろうから,当時は良く知られていたかも知れないが,少なくとも現在はアーサー王伝説の中でもごくマイナーな人物ということになる.



 アーキヴォルトに僅かに10人の人物と城砦の浮彫があるだけだし,アーサー王伝説に関してはウェブ情報も比較的豊富にあるので,もう少し簡単に整理できるかと思ったが,意外に難航した.

 浮彫の絵柄だけでアーサー王伝説を想起することは難しいだろう.女性が閉じ込められている城砦を騎士たちが攻撃して,女性を解放しようしている場面であろうと朧気に想像したところに,アルトゥスという記銘があって初めてアーサー王の物語と推測することができる.

 記名自体がそれを前提にしていると思うが,アーサー王伝説を語ったテクストもしくは口頭での伝承があって,こうした浮彫も意味を持つのだと思う.図像とテクストの相補性を考えさせられたと言っておく.

 今回,天気が良かったし,日差しもそれほど強くなかったので,外壁の浮彫や柱頭彫刻がコンデジ,ズームでも比較的良く写った.やはりモデナ大聖堂のロマネスクは魅力的だが,まだまだ勉強が足りないので,それぞれの図像解釈等は今後の課題ということにしておく.

 今後の課題に取り組む前に寿命がつきる可能性が高いが,それでも出発点に立っているかどうかは,少なくとも私にとっては意味があるように思える.

 ただし,今回気持ちよく撮影もできたが,ファサード以外の外壁浮彫のめぼしいものの幾つかはコピーで,オリジナルは,今回も見学しなかった,「魚市場の門」の向かいにある大聖堂付属の石碑・石彫博物館(ムゼーオ・ラピダリオ)に置かれているようだ.

 この日(金曜日)は大聖堂の裏側にあるツーリスト・インフォメーションが13時で閉まる日だったようで,めずらしくツーリスト・インフォメーションを簡単に見つけることができたのに,十分な情報が得られなかった.モデナにはもう一度行けと言う天の声だろう.


クリプタ(地下祭室)
 後陣上部の聖職者席の下には地下祭室がある.地下と言うほど掘り下げられてはおらず,他の教会の地下祭室のように,段数のある階段を降りて暗い祭室に至るような感じではなく,ちょっと低くなった場所が全面開口で解放されているという感じだ.

 しかし,境目のようなものは明かにあって,聖職者席からの張り出し部分にはアンセルモ・ダ・カンピオーネの「最後の晩餐」その他の場面の浮彫があり,左端の説教壇には「祝福するキリスト」と福音史家たちの象徴物の浮彫がある.

アンセルモ・ダ・
カンピオーネ
「最後の晩餐」


 説教壇と張り出し部分を支える数本の柱のうち,中央部分を半円形に囲む柱にはスティローフォロ(伊和中辞典「ロマネスク教会正面の柱などを支える動物(ライオンなど)の彫刻」)があって,ライオンとテラモン(で良いかどうか,ともかく人の姿)が柱を支えている.

 このあたりは,ピサのサンタンドレーア教会などで見られるゴシックの説教壇のスティローフォロのイメージに近いが,ロマネスクのスティローフォロであっても不自然ではない.

 フィデンツァ大聖堂のファサードのプロテュルムでは人,ライオン,仔羊が支えていた.プロテュルムの場合はスティローフォロで良いが,説教壇等の場合もそれで良いかどうかは確認していないが,他に用語を知らないので,とりあえずそう言っておく.

 説教壇と張り出し部分の左端(そこには「ペテロの足を洗うイエス」の浮彫)の境目を支えるスティローフォロの無い柱の柱頭には「イサクの犠牲」の浮彫があった.

 オリジナルのままかどうかはわからないが,彩色が残っている(祭壇や羊を差し出す天使には彩色は残っていない)ので,その写真を紹介して,興味深いものが多いモデナ大聖堂の柱頭彫刻を代表させることにする.

写真:
「イサクの犠牲」の
柱頭彫刻


 地下祭室では柱頭彫刻の鑑賞に夢中になってしまうが,いわゆるプレゼピオ型の「イエスの誕生」のテラコッタ彫刻(テラコッタなので塑像を焼き固めるわけだから「彫刻」ではないかも知れないが,「彫刻」としておく)ある.

 作者はグィド・マッツォーニで,モデナで生まれ,モデナで亡くなった地元の芸術家だが,作品は諸方に残っているようだ.この後,エステンセ美術館で「老人の肖像」を見ているが,初めて知る彫刻家だ.

写真:
グィド・マッツォーニ
「イエスの誕生」


 テラコッタの彫像に関しては,ロッビア一族の彩釉テラコッタが2007年の滞在初期から印象に残り,フィレンツェのルネサンスの一つの象徴であると考えている.

 ただし,彫刻で言えば丸彫りに近い彫像は,先日ルッカで初めてルーカ・デッラ・ロッビアの「エリザベト訪問」を見ただけで,他は,大きいものも小さいものもはあるが,概ね祭壇や壁龕に飾られることを意識した祭壇画型のものが殆どであろう.

 2007年の11月にウルビーノに行き,大聖堂で「大聖堂の岩屋」と称される地下に降りていく場所で,多分初めて丸彫り彫刻のようなテラコッタの塑像群を見たように思う.

 「岩屋」(グロッタ)は複数(グロッテ)あり,その中の一つが「墓所の礼拝堂」(カッペッラ・デル・セポルクロ)で,そこには15世紀の作品とされる,本来は彩色が施されていたであろう赤茶色の人物群がいる「キリスト哀悼」があった.作者などの詳しい情報がなく残念だが,ともかく初めてなので印象に残った.

 あちこちで見たのに忘れているだけかも知れないが,このタイプの芸術を少なくともフィレンツェではあまり見た記憶がない.しかし,まさにそのフィレンツェ出身のミケーレ・ダ・フィレンツェの作品を大聖堂とエステンセ美術館で見たし,先日はミラノのサン・セポルクロ教会でも見た.

 まだなかなか,それが彩色木彫なのか,彩色テラコッタなのか,一見して区別がつくほど見る目が養えていないが,今後少しずつ注目するようにしたい.

 大聖堂についてあまた語りたいことはあるが,もう長くなったので,また別の機会ということにし,今回初めて見学することができたエステンセ美術館について述べて,今回の報告を終えたい.


エステンセ美術館
 ルネサンスの開明君主が輩出したエステ家は長い間フェッラーラに君臨し,同時にモデナ(1288年以降),レッジョ・エミーリア(1452年以降)もエステ家の支配下にあった.

 1598年に教皇クレメンス8世によってフェッラーラが教皇領に組み込まれ,当時フェッラーラ,モデナ,レッジョ・エミーリアの公爵だったチェーザレ・デステは,モデナに公爵領の宮廷を移す.

 チェーザレの時代,アルフォンソ3世の時代には,モデナのエステ家の美術コレクションの充実はまだ無く,コレクションが充実したのは,モデナ=レッジョ公国になってから3代目のフランチェスコ1世の時代(1629年から58年)だ.彼は政治家,軍人としても優れ,まずまず英邁な君主で,危機にあった公国を立て直した.

 エステンセ美術館には,フランチェスコ1世がスペインでベラスケスに描かせた彼の肖像画があるが,それ以上に優れた肖像彫刻が美術館にある.入場してすぐに目に入るところに置かれているジャン=ロレンツォ・ベルニーニの作品(トップの写真)だ.

 一般的な評価はまだ調べていないが,個人的な感想としてはベルニーニの彫刻としても傑作に入るのではないかと思う.一目見て注目し,ベルニーニ作と確認してさらに凝視した.

 その後の君主と家族たちによって,モデナ・エステ家の美術コレクションは充実していったが,1869年にイタリア統一運動の中モデナの公国は消滅し,公爵家の美術コレクションは1884年に設立された美術館に収められた.

 美術館のある建物の中庭には,古代石棺や中世の石造芸術品も展示されており,これらもやはりモデナ公爵エステ家のコレクションと思われるが,どの作品がどの時点での収集品か全く調べていない.

写真:
アイオンあるいは
ファネス


 厳選された古代作品の展示の中に,ローマのディオクレティアヌス浴場跡国立考古学博物館で見た「ジャニコロの偶像」を思い出せるような,蛇に巻き付かれた神の浮彫があった.

 「ジャニコロの偶像」は諸説あって,いかなる神かは特定されていないが,こちらは「時」,「永遠」を象徴するアイオン(アイオーン),「再生」,「新生」が神格されたファネス(パネース)とされている.アイオンとファネスは同一神と考えられることが多いようだ.

 いずれにしてもギリシア語名ではあるが,私たちにおなじみのギリシア神話の神と言うよりも,古代ギリシアの神秘思想であるオルフィック教の影響で形成されたヘレニズム時代の信仰が,ローマ時代に東方宗教特にミトラ教と結びついて崇拝された神とされる.

 神の周りに黄道十二宮を表す浮彫があり,類例は少なくないかも知れないが,古代の遺産としても貴重な作品と思われる.見ることができて勉強になった.

 館内の解説プレートに拠れば,紀元後2世紀のもので,1507年まで,現在はレッジョ=エミリア県に属するサン・マルティーノの領主だったシジスモンド・デステのコレクションだったものが,1752年以降,公爵フランチェスコ3世の所有となったとのことだ.

 やはり紀元後2世紀の石棺断片の浮彫「バッカスとアリアドネの凱旋行進」がやはり素晴らしい作品に思われたし,比較的小さなものが多かったが,心惹かれる古代芸術の佳品があったように思う.

 最後の方は電車の時間が迫って来て,エミリア=ロマーニャ,ロンバルディアのマニエリスム,バロックの作品をじっくり鑑賞することができず残念だったが,それでも,トンマーゾ・ダ・モデナ,バルナバ・ダ・モデナと言ったゴシック期の地元の画家たちの小品,小品だがコレッジョの作品を2点(油彩画の「聖母子」と,剥離フレスコ画の「聖母子と聖人たち」),フェッラーラの芸術家ガロファロ,ドッソ・ドッシの複数の作品,カッラッチ一族,グイド・レーニ,グエルチーノのまずまずの作品を見ることができた.

 ティントレットの作品も数点あった.「モデナの三翼祭壇画」と通称されるエル・グレコの小品も目を引いた.

写真:
グエルチーノ作
「軍神マルスと
愛の神ウェヌスの
間で弓矢を構えて
いるクピド」


 バロック絵画では,グエルチーノの「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」は,ここのところ同主題の優れた作品を諸方で見ているので興味深かったし,神話画である「軍神マルスと愛の神ウェヌスの間で弓矢を構えているクピド」は,この美術館の一押しの作品であるらしく,美術館の案内書や特別展の図録にこのクピドの写真が良く使われている.

 もとよりエルミタージュやルーヴルなどの巨大美術館,ウフィッツィやブレラなどの有名美術館には遠く及ばないとしても,長い間フェッラーラ,モデナと言うイタリアの代表的な文化都市の君主だったエステ家のコレクションが基盤になっているだけに,見応えはあると思う.

 今回きちんと勉強できていないが,地元の画家の作品もきちんと収集,展示されている.少なくとも私にとっては,大変立派な美術館に思われた.



 最後に,この美術館で最も見たかったフェッラーラ・ルネサンスの巨匠コスメ・トゥーラの「パドヴァの聖アントニウス」(1484-90年)の写真を紹介して,今回のモデナ再訪の報告を終えたい.

 もとはフェッラーラのサン・ニッコロ教会にあった作品だが,多くの個人所有者の手を経て,1906年に美術館が入手したということなので,公国時代のエステ家のコレクションではなかったことになる.今までに見たコスメの作品の中でも大きな絵なので,特に嬉しかった.

 この次は余裕を持ってこの美術館の作品を鑑賞し,未訪の大聖堂付属石碑・石彫博物館を見学したい.大聖堂で少数だが見落とした浮彫もある.それを見るためにも,あと一回は今期の滞在中にモデナに行きたい.

 次回はピアチェンツァの予定だったが,シエナで「アンブロージョ・ロレンゼッティ展」を見て,感銘を受けたので,その報告を先にする.






「パドヴァの聖アントニウス」
コスメ・トゥーラ