フィレンツェだより第2章
2017年12月5日



 




初めてイタロを利用
サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅



§10月24日以降の活動報告

エミリア=ロマーニャ州の報告を続ける前に,10月24日から今日までの活動報告を簡単に記しておく.


 仕事が遅れていて,丸一日以上を費やして遠出できるような状況ではないが,季節がらずっと部屋にいると鬱々としてくるので,すぐに帰宅するつもりで外出すると,行く先々で嬉しい誤算があったり,反対に予定通りには行かずに思わぬ時間が取られたりして,また仕事が遅れる結果になる.

 残念ながら,そのいちいちを報告記にまとめている場合ではないので,大所だけは別途報告することにして,日記式にさらりと,行ったところ,観たものを書き留めておく.


10月24日,マントヴァ行
 10年前にヴェローナに2泊してマントヴァに足を伸ばした時に,時間が無くて諦めたテ宮殿の見学とサンタンドレーア教会の拝観のために,今回はフィレンツェから日帰りでマントヴァに行った.これは別途報告する.


10月25日,フリーニョ修道院
 しばらく休館になるというフリーニョ旧修道院食堂博物館をもう一度見に行った.もう修道院としては機能しておらず,学校その他の役目を果たしてきた修道院本館と附属教会も公開されており,ビッチ・ディ・ロレンツォのフレスコ画など,思ってもみなかった作品を見ることができた.

写真:
左端に
ビッチ・ディ・ロレンツォ
の「受胎告知」


 また,フリーニョ旧修道院のあるファエンツァ通りをサン・ロレンツォ聖堂方面に進むと,開いているのを見たことがなかったサン・ヤコポ・イン・カンポ・コルボリーニ教会が特別展示で開いていて,初めて拝観することができた.


10月26日,柳川邸訪問
 画家のSさんご一家が日本からフィレンツェにいらしていたので,一緒に柳川邸に招かれ,楽しく過ごさせてもらった.


10月28日,アンジェラ・ヒューイット演奏会
 由緒ある劇場だが,ずっと閉鎖されていて,今年から再開したテアトロ・ニッコリーニにアンジェラ・ヒューイットのピアノによるバッハの演奏会を聴きに行った.

 14ユーロ+予約料のガレリアだが,ペルゴラ劇場に比べると格段に条件が悪かった.それでも演奏に酔いしれることはできた.10年前,ペルゴラで彼女のゴルトベルク変奏曲を聴いて感銘を受けたが,今回も演奏には満足した.

写真:
テアトロ・ニッコリーニ
ガリレアから



10月29日,サント・スピリト教会
 在宅で仕事をし,夕方散歩に出たら,日曜は「宗教儀式で観光客謝絶」のことが多いサント・スピリト聖堂が公開されていたので,拝観した.

 相変わらず写真は撮れないが,マーゾ・ディ・バンコ,フィリピーノ・リッピ,コジモ・ロッセッリ,ラファエッリーノ・デル・ガルボ,フランチェスコ・ボッティチーニだけではなく,マニエリスム以降の画家たちの作品も見ごたえがあり,その後,時々,散歩のついでにこの聖堂に立ち寄っている.

 この日から冬時間になり,夕方は既には暗いが,ルネサンス建築を代表する堂内もいつもながら立派なので,撮影禁止の短い拝観を満喫できる.若いミケランジェロ作の木彫の磔刑像のある礼拝堂は有料の回廊の方からしか入れないと思うが,本堂からもこの磔刑像の正面だけは見ることができる.


10月30日,スカンディッチ行
 午前中にフィレンツェ都市地域圏内の比較的大きな自治体(人口はフィレンツェについで圏内で2位)スカンディッチのセッティモ地区にあるサンティ・サルヴァトーレ・エ・ロレンツォ・ア・セッティモ大修道院の教会を拝観すべく,トラムとバスを乗り継いで(どちらも市内共通のカルタ・アジーレで行ける)行った.

写真:
サンティ・サルヴァトーレ・
エ・ロレンツォ・
ア・セッティモ大修道院


 残念ながら開いていなかったので,外観の写真だけ撮って,バスの車窓からロマネスクの鐘楼と後陣が見えたサン・ジュリアーノ・ア・セッティモ教区教会を拝観し,トラムの途中駅ネンニ=トッレガッリの大型スーパーCOOPで買い物して帰宅した.


10月31日,モンツァ,ミラノ行
 ミラノ近傍のモンツァに行った.大聖堂の附属博物館では,科研費の研究課題である古代末期の詩人クラウディアヌスに関して,彼の保護者だった英雄スティリコの家族の肖像が彫られた象牙細工を見た.

 予備知識の無かった大聖堂のテオドリンダ礼拝堂で15世紀の立派なフレスコ画の有料公開を見,そこに収められた「鉄の王冠」も見ることができた.神聖ローマ皇帝になるドイツ国王はイタリアに来てまずイタリア国王になるが,その戴冠の際に用いられたものだ.公開の仕方がすばらしく思えたが,これについては別途報告する.

 モンツァであと2つの教会を拝観し,午後はミラノのブレラ絵画館を見学し,帰宅は夜になった.


11月2日,パルマ行
 パルマに行き,サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大修道院教会サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂などを拝観し,国立美術館を見学した.これについては6月に行ったパルマの報告とあわせて別途まとめる.


11月3日,ブオノーミニ祈祷堂
 在宅で仕事をし,夕方散歩のついでにブオノーミニ祈禱堂を拝観した.


11月4日,エマーソン四重奏団演奏会
 夕方,ペルゴラ劇場でエマーソン四重奏団の演奏会を聴いた.曲目はベートーヴェンの弦楽四重奏曲3曲だったが,立派な演奏だった.ブラーヴィの嵐だった.


11月9日,ガッルッツォ行
 その後4日間家に籠ったが,仕事も進まず,気持ちが沈んでくるので,ここなら午前中に帰って来られると思い,懸案だったフィレンツェ郊外のガッルッツォにあるチェルトーザ修道院にバスで行った.

 午前中に2回,午後に2回,6人以上の拝観者が集まったら,修道士の案内付きで約45分公開されるということだったが,最初の公開予定時間に入口の前にいたのは私1人だった.修道士も出てこなかった.

 2回目の公開時間の11時まで待ったが,もう一人拝観希望者が来ただけで,やはり修道士は出てこなかった.もう一人の若い女性はあきらめきれずに待っていたが,私は帰宅することにした.

  写真左:カルツァ教会外観  右:エンポリの祭壇画


 ガッルッツォからの帰りのバスがロマーナ門に差し掛かった時,未拝観のサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・カルツァ教会の門が開いているのが見えたので,近くのバス停で降り,拝観した.

 シエナ方面への行き帰りのバスの中で,夕方などに開いているのが時々見えたので,いつか拝観できるだろうとは思っていたが,午前中に開いていたのを見たのは初めてだった.絵画作品としてはエンポリの祭壇画1点があるだけなのは,知識として知っていたが,10年前から拝観したいと思いながらそれが叶っていなかったので,ともかく嬉しかった.

 教会の拝観が終わった後,せっかくなので,現在は集会所,会議場となっている隣の旧修道院食堂でフランチャビージョの「最後の晩餐」を見られるかどうか,オフィスで受付の人に訪ねたら,「可能な時には公開しているが,博物館ではないので,確約はできない.予定を確かめるので少し待て」とおっしゃり,PCで予定を確認したうえで,「今日は午後2時半からなら見せることができる」とのことだったので,一旦帰宅後,2時半に行き,フランチャビージョの「最後の晩餐」に再会できた.


  写真:ガッルッツォのチェルトーザ修道院


 フランチャビージョを観て外に出たら,旧修道院の前のバス停に,ガッルッツォ方面に行くバスがまもなく来るようだったので,だめもとで,もう一度チェルトーザに向かった.

 着いてしばらくすると4時の公開を目指すイタリア人観光客4人が別の路線バスから降りてきて,これはあと一人足りないが大目に見て公開してくれることも期待して,入口の前で待った.

 4時前にあと6人来て,総勢11人になったので,絶対大丈夫だろうと思ったが,修道士はなかなか出てこない.結局4時25分くらいに前のグループ(5人だった)が出てきて,案内人(多分,修道士ではないだろう)が,最初,今日はもう時間も遅いのでと渋っていたが,私を除く総勢10人のイタリア人が,待たされてイライラしていた勢いもあって,大声で猛抗議したので,結局見られることになった.

 既に暗くなりかけていたので,十分な拝観はできなかったが,ともかくポントルモの剥離フレスコ画その他,一応鑑賞して,まずまずの満足感を得て帰宅したが,ともかくこの日は予定外に時間がかかった.

 せっかくバスですぐ行ける場所なので.できれば朝10時に見たい.しかし,観光シーズンでないと午前中は人数が集まりそうもないので難しいかも知れない.チェルトーザに関しては,できればもう一回,明るい時間帯に拝観してから報告をまとめたい.


11月10,11日,モーツァルト・チクルス
 10日と11日は,夕方からピッティ宮殿で催されたモーツァルト・チクルスを聴いた.

 10日の指揮者オノーフリは,前半ヴァイオリンを弾きながら指揮して,宮廷音楽としてのモーツァルトのシンフォニアとセレナーデの雰囲気を醸し出していたが,後半最初の「アルバのアスカニオ」序曲からヴァイオリンは弾かず,指揮に専念して,曲も劇的だったが,モーツァルトの足場が宮廷から劇場へ移って行く流れを示そうとしていたように思われた.

 11日の指揮者ポール・アグニューは,英語版ウィキペディアに立項があり,日本語のウェブページでも相当数のヒットがあるなど,今回の4人の指揮者の中では最も有名な人だっただろう.

 古楽を中心にオペラ歌手(テノール)として活躍し,ウィリアム・クリスティー率いる古楽演奏団体,レザール・フロリサンとの共演が多く,指揮者としても同団体を指揮している.マルカントワーヌ・シャルパンティエの「メデ」(メデイア)でジャゾン(イアソン),「イポリットとアリシー」でイポリット(ヒッポリュトス)を演ずるなど,古典文学とも関係が深い.

 最初,こちらの期待が大きすぎたせいか,情熱に欠ける指揮に思われたが,2曲目のサリエリ「アルミーダ」序曲,4曲目のモーツァルト「救われたベトゥーリア」序曲など,オペラ関係の曲はまずまずで,特に後者には力がこもっていたように思われた.

 3曲目のハイドン「交響曲47番」,最後(5曲目)のボッケリーニ「交響曲(シンフォニア)4番」がすごく,万雷の拍手だったが,アンコールはなかった.

 このタイプの音楽家(オックスフォード大学出身)は,もちろんイタリア語も流暢なのだと思うが,恒例(?)の指揮者による熱弁の楽曲解説はなかった.ともかく感動的なボッケリーニを聴いて,多分生涯に一度(4回)のピッティ宮殿サーラ・ビアンカの演奏会体験を締めくくることができて本当に良かった.



 その後,国立図書館の前で待ち合わせ,有名企業でのご活躍を経て,引退後イタリアに足場をおいておられるご夫妻とともに,柳川さんがフィエーゾレのペンショーネ・ベンチスタに連れて行って下さり,一人28ユーロとは信じられないほどおいしい夕食をいただくことができた.

 もともとあまり美食への欲求が無く,一人で遠出した時は,気が向いたらトラットリーアやバールでも食事するが,基本的に遠出の時もせいぜいパニーニ,寓居ではスーパーで買った,肉,野菜,パンを適当に調理して食べるだけで,あまり外食しない.

 しかし,鷺山先生に連れて行っていただいたアッカーディ,アックァコッタ,こちらでお世話になっている方がお勤めのイエロー・バールは本当においしい料理を出してくれると判断できるくらいの味覚はあるつもりだ.

 ペンショーネ・ベンチスタはフィエーゾレからフィレンツェの夜景を楽しめるという雰囲気や,由緒ある建物などという環境も良かったが,やっぱり何よりも料理がうまかった.一年イタリアにいて,10回もリストランテもしくはトラットリーアに行くか行かないかの私が言っても説得力がないかも知れないが,貴重な体験だった.

 宿としては継続されるが,残念ながらレストランとしては営業最終日の前日と言うことで,なおさら貴重な機会だった.


11月12日,シエナ行
 サンタ・マリーア・デッラ・スカーラ救済院(現在は幾つかの博物館の複合体)で開催されている「アンブロージョ・ロレンゼッティ(ロレンツェッティ)展」を見にシエナに行った.

 特別展と連動して,教会に残るアンブロージョの作品も修復が終わって公開されているが,そのうちサンタゴスティーノ教会の公開が金,土,日の午前11時から午後5時で,金,土と行けなかったので,バスの条件が悪い日曜ではあるが行って来た.これについては前回報告した.


11月14日,ポッジョ・ア・カイアーノ行
 午前中に帰宅できると踏んで,ポッジョ・ア・カイアーノに行き,10年ぶりにメディチ家の別荘を見学した.この別荘の「レオ10世の間」にフランチャビージョのフレスコ画「キケロの帰還」があり,これを何とかもう一度しっかり見たいと思い続けていた.

 2007年4月25日に柳川さんに車で連れて行っていただいた時は,この別荘で見られるものについて十分に理解していないまま見学したので,初めて見るようなつもりで各部屋を見て回った.バスが1時間に1本なので,予定以上に時間がかかったが,午後1時には帰宅できた.


フランチャビージョ「キケロの帰還」 右はキケロと思われる人物のアップ


 フランチャビージョがキケロのラテン語を読解できたかどうかわからないが,典拠があるとすれば,岩波の「キケロ選集」に私が訳した「セスティウス弁護」の一節であろうと思われる.

 カティリーナの国家転覆の陰謀を執政官として阻止し(前63年),若くして(43歳)「祖国の父」の尊称を得たが,護民官クロディウスの弾劾(前58年)によって亡命を余儀なくされ,翌57年元老院の決議により免罪,召喚され,帰国した.

 いかに,ラテン語のテクストを通じて,多少の様子がわかり,古代遺跡の発掘が進み始めた時代で,一流の人文主義教育を受けた教皇のために描かれたとはいえ,職人芸術家フランチャビージョの絵が当時の様子を忠実に再現しているはずもなく,キケロの肖像性もあるとは思えない.

 世界中の博物館,美術館に相当数残っているキケロ像は,老人と言っても良いかもしれない壮年期終盤の本人を反映していると思われるが,前57年のイタリア帰還の時には49歳だったので,現存する彫像が当時既に発見され,参照できたとしても,参考にならなかったと思う.

 中央左寄りで複数の人間に抱えられている人物がキケロと思い,アップ写真を撮って来たが,逆に49歳にしては随分若い青年として描かれているように思われる.肖像性があるはずもないが,人文主義で育った教皇の意を受けた助言者がいたと思われるので,当時キケロを読んでいた人たちのイメージがある程度は反映しているのではないかと思われる.



 ロレンツォ・イル・マニフィコの死後,後のレオ10世ことジョヴァンニ・デ・メディチ(当時は枢機卿)は,兄である「愚か者ピエロ」ともにフィレンツェから追放されたが,教皇ユリウス2世の支持を得て,1512年にメディチ家のフィレンツェ帰還を果たした.

 おそらく,その史実の寓意として「キケロの帰還」が題材に選ばれたのではないかと思う.ジョヴァンニは翌1513年に37歳の若さで教皇に選ばれ,1519年から「キケロの帰還」の制作が始まり,完成は1521年とされる(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート)が,どちらが先かわからないが,この年にレオ10世は死去する.

 そもそも凱旋将軍のように帰還したキケロも,その後,カエサルやポンペイウスなど有力政治家たちに翻弄され,彼らの決戦であるパルサロスの戦いの際はその対応を誤り,カエサルの寛容にすがって保身には成功したが,最後はカエサル暗殺後,一時的に内戦の勝利者となった政敵のマルクス・アントニウスの意を受けた者の手で暗殺された.

 そこまで考えると「キケロの帰還」は,永続する権力を願う者たちにとって決してめでたい画題ではなかったように思われる.

 しかし,レオ10世や,彼の一代置いた後継者となる従弟のクレメンス7世にとって曾祖父にあたるコジモ・イル・ヴェッキオが,キケロと同じく「祖国の父」と呼ばれたことでもあり,ペトラルカがキケロの写本を各地に求めながら人文主義思想が醸成されて行ったことを考えあわせると,フィレンツェという都市国家に君臨し,人文主義の保護者であるメディチ家の栄光を希求する人たちには意味のある題材だったかも知れない.

 レオ10世と,クレメンス7世ことジュリオ・デ・メディチは,無能な甥や近い親族を封建領主にし,クレメンスは自分の実子と考えられているアレッサンドロをフィレンツェ公爵の地位につけた(1532年)が,結局アレッサンドロは,父が1534年に亡くなった後の37年に親族に暗殺され,フィレンツェ公の地位は傍系出身のコジモに引き継がれ,彼はトスカーナ大公コジモ1世となり(1569年),メディチ家のフィレンツェ,トスカーナ支配を確立する.

 一方,人文主義とルネサンスで世界をリードしたフィレンツェは,英邁な君主の死後は,大国の利害に翻弄されるイタリアの,さらに一地方の小国になっていく.まるでキケロの人生のように栄光の後に没落がメディチ家にもフィレンツェにも待っていた.

 フランチャビージョという職人芸術家が描いた絵から,そこまで考えるのは飛躍が過ぎるかも知れないが,ようやく再会を果たすことができたこの絵の前で,様々な人の人生や歴史を思わないではいられなかった.


11月16日,フェッラーラ行
 この日は始めから一日かけるつもりで,フェッラーラに行き,7月に行った時に時間切れで見られなかった国立絵画館を見学した.予定外だったが「カルロ・ボノーニ展」も見た.これについては7月のフェッラーラ行と合わせて報告する.


11月18日,サンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会
 夕方から散歩がてら,開いている教会を拝観しようと思い,オンニサンティ教会,サント・スピリト聖堂の後,クリスマスが近いから開催されていたのか,サン・フィレンツェ教会のバザーに立ち寄った後,町中のそれほど小さくはない教会なのに,何度行っても開いているのを見たことがなかった,サンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会に行って見た.

 扉が開いているのが見えたので,拝観しようと入ってみた.堂内は暗く,ロシア語話者のような男女が,翌日が日曜で午前中のミサのためだろうか,奥の部屋で忙しく準備をしているようだった.イコノスタシスが後陣の前に設置され,他にもイコンが並んでいて,ロシア正教の礼拝所として機能しているのかと思った.

 不勉強で全く知らなかったが,ウクライナ東方カトリック教会(ウクライナ・ギリシア・カトリック教会)という「宗派」が存在するようだ.16世紀に正教会から分かれ,正教の典礼様式を維持しながらも,ローマ教皇の指導的地位を認め,その指導を受けいれる人たちという理解を,今のところしておくことにする.

 現在のウクライナの人口の8パーセント(日本語ウィキペディア「ウクライナ」,2017年12月2日参照)くらいがこの「宗派」に属しているとのことだ.

 他にキエフの総主教の指導下にあるウクライナ正教会,モスクワの総主教の指導下にあるロシア正教会,ウクライナ独立正教会などの「宗派」がウクライナには存在し,ウクライナ正教会の信者が約半数で最も多いが,それぞれ一定の信者数を持ち,社会にも影響力を持っているようだ.

 ロシア語に聞こえた言語はウクライナ語だったかも知れないし,あるいはウクライナ出身のロシア語話者だったかも知れない.旧ソ連時代の教育政策の影響もあり,ウクライナ語使用を独立後の政府が推奨しても,ウクライナ人でもロシア語話者であると言う場合が少なくないようなので,何とも言えないが,もともとロシア語もウクライナ語も勉強したことがないので,どちらだったかは本人たちに聞いてみないとわからない.私にはイタリア語で話しかけたので,普段は仲間内以外ではイタリア語を使って生活しているのだろう.

写真:
サンティ・シモーネ・
エ・ジューダ教会


 この教会にあるということで,ずっと見たいと思っていたサンタ・チェチーリアの親方の祭壇画「玉座の聖ペテロ」は外されていた.何の断り書きも無かったので,修復か特別展出張で,いずれ戻って来るのか,あるいは貴重な作品なので.調査,修復の後に博物館,美術館に展示するのかは全く分からない.

 それでも単廊式,納屋型の堂内側壁にはヤコポ・ヴィニャーリ「十字架から降りて,聖ベルナルドゥスに傷を示すキリスト」,「天使たちに支えられた法悦のサン・フランチェスコ」,フランチェスコ・クッラーディ「聖母被昇天」,フランチェスコ・グラナッチ「アルメニアのアララト山での聖アカキウスと一万人の殉教」,ファブリツィオ・ボスキ「磔刑像の前で跪いて祈る聖カルロ・ボッロメーオと聖フィリッポ・ネーリ」,オノーリオ・マリナーリ「洞窟の聖ヒエロニュムス」, ルネサンス期のグラナッチを除けば,マニエリスム後期からバロック初期のフィレンツェの画家たちの丁寧に描かれた宗教画を見ることができる.

 堂内にも紹介が無かったので作者はわからないが,暗い所では立派に見えた油彩画「我に触れるな」と「キリスト磔刑と聖母,福音史家ヨハネ,マグダラのマリア」もあった.

 オラツィオ・モーキ作の,教会の名になっている二人の聖人聖シモン(シモーネ),聖ユダ(キリストを裏切ったイスカリオテのユダとは別人)の大理石彫刻があると堂内の案内板にあったが,多分写真に写っている後陣左右の壁面の壁龕に置かれている立像であろうと思うが,後陣のだいぶ前にイコノスタシスが置かれているので,ちゃんとは見ていない.

 キリストの胸像を収めたアンドレーア・デッラ・ロッビア作の彩釉テラコッタの壁龕が,後陣に向って身廊左側を飾っていて,その反対側に,1465年にフィエーゾレで生まれフィレンツェで活躍したルネサンスの彫刻家アンドレーア・フェッルッチの「聖母子」の浮彫(暗かったので撮って来た写真では確認できないが,彩色木彫か彩色テラコッタ)あった.

 伊語版ウィキペディアはこの「聖母子」をニコデモ・フェッルッチの作品としているが,ニコデモはその親族関係に関しては情報が無いが,アンドレーアの110年後に同じフィエーゾレで生まれた画家なので,アンドレーアとするのが正しいであろう(堂内の説明板参照).ただし,現在フィエーゾレ大聖堂の後陣の半穹窿天井を飾っているフレスコ画を描いたニコデモの作品もこの教会にあるようだ.

 ファサードのリュネットに描かれたフレスコ画「聖母子と聖シモン,聖ユダ」は彼の作品のようで,教会が開いていなくても,この作品だけはフィレンツェにいればいつでも見ることできる.また,これもイコノスタシスの向こうなので,ちゃんと観ていないが,多分モーキの彫刻であろう聖人像のある壁龕の上に,それぞれ聖シモンと聖ユダの殉教が描かれたフレスコ画があるが,これもニコデモの作品らしい.

 たった一回だけでも拝観できたので幸運だったとは思う.できれば明るい光の中で堂内をゆっくり拝観したいが無理だろう.やはり今期初めて拝観できたアルノ川南岸沿いのボルゴ・サン・ヤコポにあるサン・ヤコポ・ソプラルノ教会でも堂内にイコノスタシスとイコンがあり,現代ギリシア語による宗教儀式が行われていた.

 ローマ教皇の指導性を認めるカトリックに属しているが,典礼は正教風に行うと理解して良いのかどうか日本語の定訳としては「東方典礼カトリック教会」(同名で日本語ウィキペディアに立項されていて詳細)と総称される「宗派」群があり,その中でも「ギリシア・ビザンティン典礼カトリック教会」の儀式を行う教会として現在は機能しているのであろう.

 やはりオルトラルノで,サント・スピリト聖堂の西側に南進するとロマーナ門に通じるセッラーリ通りがあるが,この通りにあるサンタ・エリザベッタ・デッレ・コンヴェルティーテ教会も今期初めて拝観できたが,ここにもイコノスタシスがあり,私の貧しい知識ではギリシア正教あるいはロシア正教の教会なのかと思ったが,もともとはカトリックの教会で,現在はグルジア正教の典礼を行なう教会として機能しているとのことのようだ.

 「グルジア」と言う国名に関しては,サカルトヴェロと言うのが原語名(日本語ウィキペディア「ジョージア(国)」参照)に近いそうだが,旧ロシア帝国,旧ソ連の支配下にあってロシア語名のグルジアが一般化し,最近それならむしろ英語名の「ジョージア」を国際的呼称とするという国家の意思表示があったことはおぼろげながら知っているが,それを踏まえた上でアメリカの州名と区別するために慣用の「グルジア」を用いる.

 グルジア正教会は,ロシア正教,ギリシア正教と同じ「正教会」に属し,特に信仰上の顕著な違いはないとのことだが,現状の私の理解は,上記2つの「東方典礼カトリック教会」とは異なるというだけに留まる.

 サンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会,サン・ヤコポ・ソプラルノ教会,サンタ・エリザベッタ・デッレ・コンヴェルティーテ教会は,それぞれ元々地元のローマ・カトリック教徒のための教会で,たとえばサンタ・エリザベッタには現在は世界各地に散逸しているボッティチェリの複数の作品があったとのことだし,サンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会の現存作品群を見ても,十分以上に魅力的なカトリックの宗教芸術が残されている.

 フィレンツェに立派なロシア正教の教会があることは10年前から知っているし,何度か近くを通っているが,1899年の創建の最初からロシア正教の教会なので,ここにはカトリックの宗教芸術の遺産は無い.

 サンクトペテルブルグやモスクワの美術館,博物館で見た古いイコンや,同僚の論文,著書を拝読すると見ることができるビザンティンのモザイクやフレスコ画には大変な魅力を感じるが,今のところ,新しいイコンやイコノスタシスがあっても,その教会を拝観しようと言う意欲を掻き立てられない.


11月19-22日,在宅の日々
 夕方散歩のついでに,サント・スピリトなど既訪の諸教会を拝観したくらいで,基本的に買い物以外は在宅した.


11月23日,たこ焼きパーティー
 高橋教授宅でたこ焼きパーティーがあり,いつものメンバーにイタリア語堪能なイギリス人男性が加わり楽しく過ごした.あまり自分からしゃべらないので,久しぶりに「東洋の神秘」と思われたようだ.


11月25日,日本の若い友人と会う
 ピサ高等師範学校(イタリアでも指折りの名門高等教育・研究機関)に留学中の若い友人がフィレンツェに出てきたので,昼食をともにした.数年前から知り合いだが,そもそもイタリア語を勉強していたことも知らなかったので,こちらに来ていると聞いて驚いた.

 高等師範学校ではギリシア悲劇,ギリシア喜劇の授業に出席し,先生の紹介で,リチェーオ・クラッシコ(ギリシア語とラテン語が必修の中学・高校で,伝統的に医師や法律家を目指す秀才が通うとされていたが,現状は把握していない)でプラトン『饗宴』の講読の授業を毎週見学させてもらっているそうだ.

 この能力の高さと抜群の行動力に同世代なら嫉妬したかも知れないが,親子くらいの年齢差なので,たのもしく,まぶしく思うのみだ.

 私と同じ領域の学問に志し,他大学の大学院に進学した旧ゼミ生が今まで一人だけいるが,先日,彼からまもなく提出すると言う修士論文の原稿が送られて来て,そのレヴェルの高さに驚いた.こちらは親子以上に歳が違うので,ただただ,順調なキャリアを歩んでくれることを祈るばかりである.

 ピサ留学中の若い友人に,彼が昨年フィレンツェに語学留学した際に,たまたま行ったのをきっかけにお世話になったという日本人女性が経営するリストランテ「ビアンコロッソ」(この名前は日の丸のイメージから来たのだろうか)に連れて行ってもらい,ご飯とみそ汁のつく「日替わり定食」をおいしくいただいた.

 サンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院の真向いで,ペルゴラ劇場に行く時など,何度か通りかかったことがあるが,不明にして評判の良い店(ウェブ情報参照)とは知らず,一度も行ったことが無かったが,これからは一人でも行き,その時は日本風の日替わり定食を,ゼミ生や卒業生が遊びに来た時にはイタリア料理(これもネット上の評判が大変良い)を食べたいと思う.


11月25日,トリノ行
 ついに遠出を我慢する限界に達し,トリノに日帰りで行ってきた.

 フレッチャロッサの直通がないので,朝の7時22分に出るイタロという別会社の格安高速特急のトリノ行きを試した.直後に発車する当日券だったので,スマートというフレッチャロッサの2等下級にあたる席でも格安券は売り切れ(エザウリート)だったが,それでもフレッチャロッサ乗継より,往復で40ユーロ近く安かった.

 同じ駅,同じ線路を使うが,フレッチャロッサを運行させているトレニターリアほど自動券売機の数が少ない上に,当日はうまく動かず,結局,窓口の人に対応してもらった.彼曰く「イタリアでは故障は日常茶飯事」と言うことだったが,確かにこの日は,フィレンツェに戻って,ついでにローマに行く電車を早めに確保しようと思った時には,1台も動いておらず,結局,自宅でインターネットで入手した.幸い,この日のトリノからの帰りは,トリノでは券売機が動いていたので,無事当日券を買えて直通で帰って来ることができた.

 飛行機で上空を通ったことがあるかもしれないが,地上に関しては多分,通過も含めて初めてピエモンテ州に行ったことになると思う.

 トリノで拝観した大聖堂など複数の教会と,一番の目当てだったサバウダ美術館に関しては,後日報告をまとめる.ただ,今回見られなかった美術作品,考古学遺産を見るためにもう一度行くつもりで,一月に往復のチケットをインターネットで取っているので,報告はその後になるかも知れない.

 一月の先行予約は日時によって値段が違うが,格安券が取れたので,今回の当日券の半額以下だった.


11月26日,オペラ「夢遊病の女」
 家で仕事をした後,15時半からオペラ・ディ・フィレンツェで,ヴィンチェンツォ・ベッリーニ作曲の「夢遊病の女」を見た.これは多分,今期最高のオペラ体験だったと思う.

 いつもの10ユーロのガレリアが売り切れで,50ユーロのプラテア(平土間)だったが,舞台が一部見えない悪条件にもかかわらず,歌手の声が心に迫って来るように聞こえ,何よりも音楽が素晴らしかった.

 ガレリアからは老眼では見えにくいイタリア語の字幕がプラテアからは良く見え,英語の字幕の方はあまり見えなかったので,意味が分からないところがあっても,ともかく原詞を確認しながら,よく分かったつもりで聞くことができた.

 しかし,歌詞やストーリーよりも,また歌手の技量よりも,僅か34歳で夭折した作曲家の天才性にただただ圧倒されるばかりだった.


11月28日,宅配便を取りに行く
 トリノに行っている間に,予告よりもだいぶ早く,普段は配達があったことがない土曜日に注文した荷物が届き,不在配達通知が入っていた荷物(再配達は無い)を受け取りに,ノーヴォリ地区の郵便局まで行った.

 歩いて行ける距離だったが,証明書として普段使っているパスポートのコピーではだめで,現物を見せろと言われたので,時間ぎりぎりだったけれども,パスポートを取りに寓居に戻って,何とか荷物を受け取った.


11月29日,パヴィア行
 インターネットでミラノまで往復のイタロの乗車券を格安(ロー・コスト)で買い,ミラノからはトレニターリアのローカル線に乗り換えることにして,パヴィアに行った.

 アウグスティヌスとボエティウスの墓と称するものがあるサン・ピエトロ・イン・チエル・ドーロ聖堂など幾つかの教会,パヴィア大学,ヴィスコンティ城でのランゴバルド族の遺品の特別展と絵画館,かなり郊外のシトー派ベネディクト会修道院(チェルトーザ)を拝観,見学したが,最大の目当てだったロマネスクのファサードが残るサン・ミケーレ・マッジョーレ教会は時間切れで拝観できなかった.

 この日は,行きも帰りも不測の事態が発生して即応を余儀なくされたが,これについても後日パヴィア行の報告をまとめる際に述べる.

 ロンバルディアは寒く,フィレンツェに戻ったのは夜の9時を過ぎていたのに,空気が温かいように思えた.


締め切りを延ばしてもらう
 11月末までに原稿を出す予定で,12月にローマ,ナポリ,コペンハーゲンへの科研費による研究出張を入れていたが,訳稿が完成までまだだいぶかかる状態なので,編集者の方と相談して,これもいつものことでもあり,反省しなければいけないが,出版時期を延ばしてもらうことにした.電車,飛行機,宿とどれもインターネットで格安で確保していて,変更は効かない.


12月2日,オペラ「ラ・トラヴィアータ」
 15時半からオペラ・ディ・フィレンツェで「ラ・トラヴィアータ」を観た.「夢遊病の女」ほど歌手が充実していなかったし,有名な曲の難しさだろうか,さまざまな不全感が残ったが,いつものガレリアで,素直に喜ぶ観客の中で幸福感を味わった.

 不調に思えた歌手たちも最後の場面はすごく良かった.「終わりよければ全てよし」である.


12月3日,ローマ行
 3日の日曜をローマ出張の初日にしたのは,10年前に家族と泊って,ほぼ最高に近い満足感が得られた宿に泊まりたかったからだ.拝観したい教会があって,土曜日に開くと思っていたら,実はリクエストが必要と分かったが,土曜日はなかなか宿が確保できない.少なくとも今回泊った宿は,土曜日はもう満杯で,日,月なら取れ,特に日曜は需要が少ないので値段が安かった.

 月曜は国立の博物館,美術館が休館になるので,できれば避けたかったが,ヴァティカン博物館は月曜も開いているので,インターネットでヴァティカン博物館を予約し,ついでに火曜日にボルゲーゼ美術館の予約もした.

 電車はイタロの格安で,前回フレッチャロッサで行った時の,3分の一までは行かないが,半額を大きく下回る金額で確保できた.

 今回もまた,常々見たかったものが,あれも見られ,これも見られるという,予想を遥かに超える満足感が得られるともに,あれも時間切れ,これも時間切れという不全感も味わった.やはり,ローマは特別である.

 ローマでは,宿のロケーションと快適さが重要だと思う.できれば,割高でも次回も今回と同じ宿に泊まりたいので,宿が取れるかどうかを基準にして次回の計画を立てたい.今回のローマ行ではすぐにも報告したいほど,古代遺産を中心に多くのものが見られたが,少なくとも,フェッラーラ,ピアチェンツァの報告が終わってからにする.

 次回は,フェッラーラ行の報告をまとめる.






夜風に包まれて
アルノ川の橋を渡る