フィレンツェだより第2章
2017年12月17日



 




ヤコポ・デッラ・クェルチャ 「聖母子」(部分)
フェッラーラ大聖堂博物館



§ナポリの盗人たち

前回の記事をアップした後,予定通りナポリ,コペンハーゲンへ行き,また少し経験値の上がる旅をしてきた.


 5日夜にローマから帰り,翌日は休息し,7日に高橋教授のバースディ・パーティー(私たちを招聘し下さった学部長までいらっしゃって,大人数の盛会だった)に招かれた後は外出を控え,ナポリ,コペンハーゲンの旅に備えた.

 10日にナポリに行き,戻った翌13日は留守中に届いた荷物を受け取りに,先日行ったノーヴォリ地区(プッチーニ広場)の郵便局とは別の大きな郵便局(サン・ジェミニャーノ通り)に行った.

 その翌14日,コペンハーゲンに行き,16日の2時頃,アメリゴ・ヴェスプッチ空港(フィレンツェ・ペレトーラ空港)に帰還した.

 空港行きのシャトル・バスの往復券(往復別々だと12ユーロのところ, 10ユーロ)を買っていて,打刻後2日経っているので少し不安だったが,買った時に確認した通り有効で,無事に帰宅した.

 同じイタリアでもフィレンツェやローマとナポリでは明らかに都市環境が違う.ところどころ一昔前の雰囲気の残るナポリの後に行ったコペンハーゲンは,近未来都市のように,清潔,安全,快適で夢のような町にも思えた.

 フィレンツェ,ローマ,ナポリ,コペンハーゲンを比較して,どこが良いか(好きか)は多分個々人で意見が違うだろう.現代的合理性が追及されたコペンハーゲンはスマートな魅力があって,感動したが,個人的には今のところフィレンツェが好きだ.



 ナポリという,いかにもと言う町で,いかにも怪しい人物のターゲットになり,いかにもと言うやり方でスリ被害に遭い,170ユーロ強を財布から抜き取られた.

 2日目のことだった.カポディモンテ美術館行きのバス停を探していたら,「どこに行くんだ」と声をかけてきた男がいた.この時,反射的に「カポディモンテ」と答えてしまったのが第1の失敗だった.

 だったら地下鉄の駅に案内すると男は言ったが,カポディモンテ方面に行く地下鉄などない.地下鉄に誘い込もうとしているのは明白だった.

 なんやかんやと言いすがる彼と同伴者の女(妻だと言っていたが,本当に夫婦かどうかもわからない)を振り切って,「ああ,危なかったかも知れない」と呟きながら,急ぎ足でその場を離れた.

 難を逃れたことに安堵しながら,別のバス停を探し出し,カポディモンテに行くか便があるかどうか確認していると,行先の違うバスがやって来て止まった.すると,どうやって先回りしたものか,いきなり姿を現した彼らによって,あっと思った時にはバスに押し込まれていた.

 発車した満員のバスの中で,「このバスはカポディモンテには行かない.次で降りる!」と声をあげて抗議すると,「この小さなアジア人はスリの被害に遭おうとしている」と思ったかどうか,周囲の人たちが「このバスはカポディモンテには行かないよ」と応えてくれた.

 この時,もっと激しく抵抗して,運転手に言って,すぐにバスを降ろして貰わなかったが第2の失敗だった.

 女が私を宥めるような物言いをし始め,これは女が気を引いているうちに男が怪しい行動に出るぞと警戒を強め,バッグを握りしめたその時,いきなり男が私が手にしていた地図とバス券をもぎ取った.

 取られまいと抵抗した私の手がバッグから離れた瞬間,これは想像だが,今から考えると,後ろにいた地味な中年男がおそらくバッグのファスナーを開け,財布を一旦取りだして戻したか,あるいは手を突っ込んで,指先でお札やレシートなど紙類だけをスッと抜いた.

 私と争っていた男は首尾を確認したのか,矢庭に「確かにこのバスはカポディモンテには行かない.次のバス停で降りろ,前のバス停はあっちだ」と言って,私を解放した.

 2人組だと思って,3人目に全く気付かなかったのが第3の失敗だった.

 降りてすぐにバッグの中を確認すると,財布はあったが,中身の170ユーロほどの現金と直前に本を買ったレシートが無かった.慌てて,まだ停車していたバスに乗り込んで,その3人を探したが,もう影も形も無かった.

 私の様子に,周りの人たちは「ああ,やっぱりこのアジア人はスリ被害に遭ったんだなあ」という顔をしていた(と,私には思えたが,思い込みかもしれない).

 ナポリでは2泊76ユーロのB&B(これは値段を考えればとても快適だった)を予約し,この日程の期間は割高で格安券も最安値ではなかったが,それでも東京,京都間を僅かに下回る距離のフィレンツェ,ナポリ間の高速特急料金が往復90ユーロ以下で納まったのに,旅費,宿泊費に滞在税を足した合計を上回る金額を一瞬の判断ミスで失った.

 金額の大きさと掏られたことはショックだったが,クレジットカード,パスポート,スマホが無事だったのは不幸中の幸いだった.それらを失ったら一大事だった.

 ナポリのスリ被害を除けば,ローマ,ナポリ,ポンペイ,コペンハーゲンでまたしても貴重な体験を積み重ねることができたので,それらについてはいつになるかは分からないが,なるべく早いうちに報告をまとめたい.


§フェッラーラ行 2

フィデンツァ,モデナに続く,エミリア=ロマーニャ州の諸都市巡りの第三弾として,今期,7月14日,11月16日の2度(通算3度)行ったフェッラーラについて,2回分をまとめて報告する.最初に予告していたピアチェンツァは,次回とする.


 11月の訪問の目的は,7月に見られなかった国立絵画館を見ることだったが,絵画館のあるディアマンティ宮殿では特別展「カルロ・ボノーニ展」が開催されていたので,この貴重な体験についても報告したい.

 7月のフェッラーラ行では,大聖堂,大聖堂博物館,考古学博物館,スキファノイア宮殿,石碑・石彫博物館,サンタ・マリーア・イン・ヴァード聖堂,11月は,大聖堂,サン・フランチェスコ聖堂,サント・スピリト教会,ディアマンティ宮殿が主たる見学先で,その他幾つかの教会の前まで行ったが,上記の4教会以外は閉まっていて拝観できなかった.

 大聖堂については,7月も11月もファサードが修復中だったので,ロマネスクの浮彫彫刻等に関しては覆いの隙間から僅かに見えるものを見るにとどまった.また,フランチェスコ教会も身廊部分は大規模な修復が行われていて,翼廊南側にある扉から入って,後陣と翼廊だけしか見られなかったので,十分な拝観はできなかった.

 2007年12月18日も日帰りの旅だったので,訪問先は,大聖堂,フランチェスコ教会,エステンセ城,スキファノイア宮殿,ディアマンティ宮殿(特別展「コスメ・トゥーラとフランチェスコ・デル・コッサ展」と国立絵画館)に絞られていた.今期2回のフェッラーラ行で,新たに3つの博物館,2つの教会を見学できたことになる.

 幾つかの教会と詩人ルドヴィーコ・アリオストの家など,拝観,見学が可能なら行って見たい所もあるし,10年前も今回も絵画館を最後に回したため,帰りの電車の時間が迫って,幾つかの重要作品の鑑賞をあきらめたので,できればフェッラーラにはもう一度行きたいが,往復にある程度は時間がかかるので,調整が難しいかも知れない.


大聖堂
 最も興味深いファサードが修復中で残念だったが,ロマネスクの鐘楼と後陣は見事だ.

 柱頭彫刻は一部残っているものの,平板で比較的地味な北壁に比べ,ファサードに向かって右側の南壁面は屋根と三角破風を備えた張り出しが3棟あって,その下のアーケードのさらに下には屋根が掛かってポルティコを形成しており,商店が軒を連ねている.

 他にもどこかで大聖堂の壁面に店が連なっている光景が見られるのかも知れないが,少なくとも私は見たことがない.さらにそれらの店の前には広場と道があり,市も立つので,露店が林立する様子はなかなかの偉観である.

 ただ,人が集まる場所に店ができるのは,ごく当たり前の現象で,そこで人々が生活の糧を得ることは,19世紀までは本当はよくあったことだと思う.宗教施設などが歴史遺産(観光資源)として整備されるようになった今は,諸方で昔の姿を復活させたり,生活臭を排除したりする措置が取られているが,たまたまフェッラーラではその痕跡が残っているということなのかも知れない.


写真:大聖堂南側 ポルティコには商店が入っている(右写真)


 大聖堂には,昔は洗礼志願者がそこまで入れたと言うナルテックスがある.日本語ウィキペディアには「拝廊」で立項されていて有益な情報がわかりやすく得られる.「玄関廊」と言う専門家もいる.

 ナルテックスには,スティローフォロとして柱を支える2頭一対のロマネスクのライオンがあって,他にもキリスト教が優勢な時代になってからのものだが,古代の石棺などもあり,一見,小さな博物館のようだ.


大聖堂博物館
 10年前に来たとき,ナルテックスの左手に,鉄柵で閉ざされてはいるが,どこかに通ずる階段があるように見え,その階段が大聖堂博物館に通じているのだとずっと思っていた.その時の報告を読み返しても,「旧サン・ロモロ教会にある博物館」と言っている.

 この階段を使って,大聖堂とは別の建物,もしくは大聖堂に付随する地下教会のようなところにある博物館に行くのだと思い込んだ理由の一つは,その鉄柵に,大聖堂博物館で是非見たいと思った作品の写真が貼ってあったからである.それを見て,この鉄柵の向こうに博物館があるが,今日は閉まっていて見られないと単純に思い込んだ.

 しかし,実は大聖堂博物館は,大聖堂南側の広場と道を挟んだ向かい側の旧教会にあり,今期1回目のフェッラーラ行で,10年(正確には9年半)が経ってようやくこの博物館を見学することができた.

 写真:「受胎告知」と「悪龍を退治して王女を救うゲオルギウス」


 ここで一番見たかったのは,もちろん10年前に鉄柵に貼ってあった写真の作品で,大聖堂のオルガンを保護していた大きなパネル画の「受胎告知」と「悪龍を退治して王女を救う聖ゲオルギウス」,作者はコスメ・トゥーラだ.

 大きくて立派な絵なので,彼の絵を知っていて,元々ファンであれば,コスメへの想いを一掃深くするであろうし,彼を知らない人が初めて見ても,その迫力に圧倒されてファンになる人も少なからずいるだろう.

 美しい絵かと聞かれて,自信を持ってそうだと言うには個性に溢れすぎているように思われるが,ともかく故郷フェッラーラに残る彼の代表作を観ることができて,満足した.

 今考えると,恐らくナルテックスの鉄柵の先の階段を上るとパイプ・オルガンのところに行くのだと思う.それで,かつてはオルガンのパイプの蓋にこの絵が描かれていたということで,写真が貼ってあったのではないかと推測する.説明もあったのかも知れないが読まなかった.



写真:「悪龍を倒して王女を救うゲオルギウス」の挿絵4つ


 聖ゲオルギウスはフェッラーラの守護聖人で,大聖堂も殉教者ゲオルギウス(サン・ジョルジョ・マルティーレ)に献じられた教会で,フェッラーラの町には,現代彫刻を含め,ゲオルギウスの図像が相当数あったように思う.

 大聖堂博物館で見ることができた,グレゴリオ聖歌の楽譜写本に描かれた細密画挿絵が美しかったが,その中に少なくとも4点「悪龍を倒して王女を救うゲオルギウス」があり,印象に残った.

写真:
12カ月の浮彫


 ロマネスク以前からの石造彫刻が浮彫,丸彫りともに見応えがあったが,中でも農事暦の図像としても興味深い,一年の各月を表した高浮彫の彫刻が素晴らしかった.

 私が確認した限り,「一月」,「二月」「三月と四月」,「五月」,「七月」,「九月」,「十一月」(断片)が,「フェッラーラの諸月の親方」と通称される職匠の作品とされ,もう一つこの親方の作品とされる断片があった.ほぼ完全な姿をとどめている作品に関しては,見事な出来と言う他は無い.いずれも1225年から30年にかけての作品で,大聖堂の参事会室にあったとされている.

 この職匠は,パルマ大聖堂の洗礼堂に同種の高浮彫彫刻を遺したアンテーラミの追随者とされ,さらに「諸月」を図像化した浮彫彫刻に関してはモデナ大聖堂が先行している.いずれも興味深いものだが,これらについては,もう少し勉強してから考えてみたい.

 中世の生活を農事暦的な図像を交えながら表現する作品を見たのは,アレッツォのサンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会のポルターユのアーチの下側の彫刻が最初で,スペインのレオンにあるサン・イシドーロ教会の歴代国王の墓所のフレスコ画にも同主題が見られたと思う.中世芸術の魅力の大きな要素と言っても良いだろう.

 しかし,そうしたロマネスク,ゴシックの傑作を凌駕する作品が大聖堂博物館にある.中世がルネサンスに移り変わって行く時代のシエナの巨匠,ヤコポ・デッラ・クェルチャの彫刻「聖母子」(トップの写真)は,コスメ・トゥーラの絵と並ぶ最高の作品で,美しい,素晴らしい,心打たれるとしか言いようが無い.

 またこの博物館がある旧教会に付属する回廊も,小さいが,立派なものに思われた.


国立考古学博物館
 フェッラーラで感銘を受けたものの中に,間違いなく国立考古学博物館が入る.展示品が多すぎて,とても整理しきれないが,とりあえず,これだけはしっかり観ようと思っていた作品を紹介する.

 ひとつは古代の皿絵で,赤絵式アッティカ陶器「斧を振り上げてカッサンドラを殺そうとするクリュタイメストラ」だ.この皿絵の写真はウェブ上でも見ることができ,ギリシア悲劇を解説する授業でいつも使わせてもらっていたが,実物を観たのはもちろん初めてだ.

写真:
「斧を振り上げて
カッサンドラを殺そう
とするクリュタイメストラ」

斧と右足が円装飾まで
はみ出して描かれており
激しい動きが表現されている


 ミュケナイ王アガメムノンはギリシア軍の総帥として,トロイアを陥落させて,王女カッサンドラを愛人として連れ帰る.

 トロイア遠征にあたってアガメムノンは,船の帆に吹く風を呼ぶために,予言者カルカスの言に従い,長女イピゲネイアをアルテミスへの犠牲として捧げることにし,妻のクリュタイメストラには,娘をギリシア一の英雄アキレウスと結婚させるからと騙して,イピゲネイアをアウリス港まで連れて来させる.

 騙されて娘を殺された(殆どの伝承ではこの時イピゲネイアは女神の慈悲で救われるが,それを母親は知らない)恨みもあって,クリュタイメストラは,アガメムノンとその父アトレウスを恨んでいるアイギストス(アトレウスの弟テュエステスの子)の愛人となり,共謀して,帰還したアガメムノンを浴室で殺す.

 その際に,王の愛人として連れ帰られたカッサンドラも殺される.その場面を生々しく図像化したのが,この皿絵だ.

 もちろん芸術性を云々するような作品ではないが,人間のむき出しの欲望や怨念が集約されているように思え,一目見て深く心に刻まれる絵だと思う.王侯貴顕と言えども,愛欲や遺恨の織りなす修羅の世界から逃れて生きることはできないという真実を雄弁に語っている.

写真:
「ゼウスとガニュメデス」
ペンテシレイアの画家


 考古学の進歩によってしか理解することのできない先史時代の遺産から,文明化されたギリシア,ローマの芸術に至るまでの展示品の洪水に溺れる思いで,この博物館の中を歩き続けて,最後に印象に残るのは,私の場合,絵壺や絵皿などのギリシア陶器である.

 「ペンテシレイアの画家」と名付けられた陶器画製作者がいる.

 ミュンヘンのバイエルン州立古代芸術博物館に「アキレウスに討たれるペンテシレイア」を描いた絵皿(キュリックスと総称される台座と2つの取っ手がついた皿で,エトルリアの有力都市があったヴルチ出土)があり,この作者をジョン・ビアズリーという研究者が「ペンテシレイアの画家」と名付け,177の陶器画をこの画家の作品とした(英語版ウィキペディア「ペンテシレイアの画家」).

 この「ペンテシレイアの画家」の作品に分類されたキュリックスが,フェッラーラの国立考古学博物館に2つあり,「テセウスの神格化」と「ゼウスとガニュメデス」の絵が描かれたこの2枚のキュリックスを,博物館の解説プレートもペンテシレイアの画家の作品としている.

 「テセウスの神格化」のキュリックスは,皿の内側中央の円内に,馬に乗ったテセウスと徒歩のペイリトオスがいて,その円の周辺にテセウスの青年期の偉業が描かれている.皿の外側には「死んだアキレウスの武具を求めて争うアイアスとオデュッセウス」,「アキレウスとメムノンの戦い」が描かれている.

 このキュリックスは紀元前460年から450年頃の作品とされており,であれば,469年頃生まれたと考えられているソクラテスがまだ二十歳前の頃であり,ペリクレスが政権を担って,アテネが全盛期を迎えようとしていた時代の作品で,その時代のアテネからイタリアに輸入されたものということになる.

 ミュンヘンの「アキレウスに討たれるペンテシレイア」が前470年から460年の作と推定されており,「テセウスの神格化」は,それよりも後の作品と考えられていることになる.

 フェッラーラ周辺のヴァッレ・ペーガのネクロポリスの墓(18Cと付番されている)で発掘された陶器の中にあったもので,イタリアでも比較的北の方に位置し,アドリア海からも遠くないフェッラーラとエトルリアの関係が思い浮かびにくいが,フェッラーラからアドリア海の方に行った所のポー川河口付近にスピーナというエトルリア人都市があったようだ.現在はフェッラーラ県のコマッキオと言う基礎自治体に属している.

 もう一つの「ゼウスとガニュメデス」の方もヴァッレ・ペーガの別の墓(212B)で発掘され,皿の内側に大きく描かれた「ゼウスとガニュメデス」はペンテシレイアの画家,外側の「体育場と乗馬訓練場」は「スプランクノプテスの画家」(独語版ウィキペディアに立項)の作で,このキュリックスは前470年頃の製作と考えられている.

写真:
「ニオベの子ども(たち)の画家」
の壺絵


 アマゾン族との戦いは,壺絵その他で好まれた画題のようで,フェッラーラ国立考古学博物館にもアマゾン族との戦いが描かれたクラーテール(取っ手付きの壺で,ワインを水で割るのに使われたので「混酒器」と訳される.古代ギリシアでは生(き)のワインを飲むのは野蛮なこととされた)がある.

 アキレウスがアマゾン戦士(ペンテシレイアであろうか)を討ち果たす場面と,アマゾン戦士がギリシア人戦士を殺す場面が描かれ,首の所には,「マイナスたちとサテュロスたちの間のディオニュソス」,「女性に追いすがる有翼の若者」が描かれている.

 解説プレートに拠れば,ヴァッレ・ペーガの11Cと付番された墳墓から出土したもので,前450年頃,「ニオベの子ども(たち)の画家」によって描かれたものとされる.

 古代ギリシアの壺絵,皿絵に作者がいたのは,作品が残っている以上,間違いないわけだが,固有名詞も殆ど伝わらず,文献資料も皆無に近いのに,これを絵柄や様式から,整理,分類して作者を同定する作業を営々と行った研究者がいて,それが,古代の陶器画を考える際に必須の知識となっていることにあらためて驚く.

 しかし,驚いている場合ではなく,確かに自分の専門は文学テクストの解釈ではあるが,関連する分野なので,必死で勉強しなければいけないという思いを新たにした.



 上述の「斧を振り上げてカッサンドラを殺そうとするクリュタイメストラ」も,博物館の解説プレートに拠れば,ヴァッレ・トレッバのネクロポリスの墳墓群の中の264と付番された墓から掘り出されたもので,前425年から400年頃(ペリクレスの死は429年,ペロポネソス戦争のアテネ降伏による終戦は404年,ソクラテスの刑死は399年)に,「マーレイの画家」によって制作されたようだ.

 「マーレイの画家」については,Marlay Painterでウェブ検索すると,複数の有名博物館のサイトに解説があるが,ウィキペディアには立項は無い.ただしウィキメディア・コモンズには幾つかの写真がある.

 確認を怠った(撮って来た写真を確認するとちゃんと観たようだが,内側の絵ほどはっきりとは読み取れず,写真も綺麗には写っていない)が,皿の外側には「女神アテナの祭壇の前でカッサンドラを襲う小アイアス」と「女性に追いすがる若者」が描かれているとのことだ.

 ヴァッレ・ペーガの136Aという墳墓から出土した大きな混酒器は前350年頃の作品とされ,作者は特定されていないが,「トロイアの陥落」,「ケンタウロスとの戦い」の見事な絵が描かれていた.

 この博物館ではギリシア陶器画の素晴らしさに目を見張り,これらがアテネから輸入されたか,あるいは地元にも工房があったか,いずれにせよフェッラーラ近傍のエトルリア人都市のネクロポリスから出土したものであることに注目した.

 この考古学博物館を訪ねる前に,古代関係の参考書などにも採用されることのある有名な陶器が複数あることは知っていたし,近隣地域からの出土品であることも知識としてはあったが,その規模の大きさ,収蔵品の水準の高さに驚嘆する.

 幸いに,イタリア・アマゾンの古書(イタリア・アマゾンの古書は日本に送ってもらえる場合が稀)で,

 Nereo Alfieri, Spina: Museo Archeologico Nazionale di Ferrara, Bologna: Edizioni Caldieri, 1979

という,陶器一つ一つの写真と詳しい解説のある素晴らしい図録を入手することができた.これで勉強した上で,フェッラーラの国立考古学博物館にはもう一度行きたい.

写真:
ガロファロの天井画


 考古学遺産だけでなく,この博物館が入っているコスタービリ宮殿の室内装飾も見事で,特に「宝物の間」(サーラ・デル・テゾーロ)にガロファロが描いた天井画の美しさには見惚れた.フェッラーラの後期ルネサンスからマニエリスムを代表する作品と言えよう.


スキファノイア宮殿,石彫・石碑博物館
 7月のフェッラーラ行では,スキファノイア宮殿とその近くの石彫・石碑博物館についても報告しなければならないし,特に前者に関しては,前回撮影禁止だったフレスコ画を写真に収めることができたので,なおさらだが,これらに関しては,簡単に触れるにとどまり,機会があれば改めて報告することにする.

 スキファノイア宮殿の「諸月の間」のフレスコ画は,前回特別展とのタイアップで,多くの見学者がいたが,今回はほとんどの時間は私一人で,じっくり観ることができた.

 ただ,前回の報告でまとめた以上の知識はその後得られていないので,一番よく残っている「三月」の写真を紹介して,上段が「ミネルウァの凱旋行進」(神話),中段が「牡羊座」(黄道十二宮),下段が「裁判を行ない,狩りに行くボルソ・デステ」(ボルソを中心とするフェッラーラの宮廷)と言う題材の三段構成の基本構造になっていることを確認したい.

写真:
スキファノイア宮殿
「諸月の間」の「三月」の
フレスコ画


 この宮殿にすぐ近くにあり,廃絶したサンタ・リーベラ教会にある石彫・石碑博物館は,石棺,墓碑に幾つか見事なものが見られたが,今回は最も立派な紀元後3世紀の「アウレリウス家の石棺」の写真を紹介するにとどめる.

写真:
「アウレリウス家の石棺」



国立絵画館と「カルロ・ボノーニ展」
 11月のフェッラーラ行の最大の成果は,7月に見られなかった国立絵画館を訪れるべく,ディアマンティ宮殿に行き,開催されていることを知らなかったどころか,画家に関しても全く知識の無かった「カルロ・ボノーニ展」を見ることができたことだった.

 カルロ・ボノーニは,1569年にフェッラーラで生まれ,1632年に同地で亡くなった地元の画家で,10年前のコスメ・トゥーラとフランチェスコ・デル・コッサの特別展もそうだったが,このような特別展を開催できるフェッラーラという都市の芸術水準の高さと,企画する学芸員の力量には感動する.

 ボノーニの作品は絵画館にも数点あるので,10年前に見ていたはずだが,記憶にはないし,駅前の広場にある宣伝ポスターを見ても,行きたい所はたくさんあるし,これは見なくても良いだろうと思ったくらいだ.しかし,思い切って行ってみて良かった.

 特別展のコンセプトは,当時のイタリア芸術の主流だったボローニャ派の巨匠の一人ルドヴィーコ・カッラッチの影響を出発点として,ローマに出たことによって,ジョヴァンニ・ランフランコ,ヴェネツィア出身のカルロ・サラチェーニなどカラヴァッジェスキの影響を受け,グイド・レーニの感化によって最終的な作風が完成していったプロセスを例示することにあったように思う.

 ルドヴィーコ・カッラッチの絵が1点(「死せるキリストのいる三位一体」ヴァティカン絵画館,1592年頃),グエルチーノの絵が2点(「手紙を封印する聖ヒエロニュムス」個人蔵,1618年頃,「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚と聖カルロ・ボッロメーオ」チェント貯蓄銀行,1611-12年頃),サラチェーニが1点(「聖カエキリアと天使」,バルベリーニ宮殿古典絵画館,1610年頃),ランフランコが1点(「牢獄を訪れた聖ペテロに傷を癒される聖アガタと天使」パルマ国立美術館,1613-14年頃),グイド・レーニが1点(「聖セバスティアヌス」ジェノヴァ,ストラーダ・ヌォーヴァ博物館,パラッツォ・ロッソ,1615-16年頃),イッポリート・スカルセッラ,通称スカルセッリーノが1点(「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」グリマルディ・ファーヴァ・コレクション,1610-12年頃)の他,ボノーニの絵37点(素描を含む),合計44点の作品を観ることができた.

 この中でグイド・レーニの「聖セバスティアヌス」は,三島由紀夫が画集で見て,魅せられた作品であることは良く知られており,驚くべきことに,受付でパスポートのコピーを預けて借りた音声ガイドでもそのことに言及していた.

 またランフランコの「牢獄を訪れた聖ペテロに傷を癒される聖アガタと天使」は多分,昨年,上野の西洋美術館で開催されたカラヴァッジョ展に出展されていたと思うが,パルマ国立絵画館では(この特別展に出展されているからであろうが,そのことは知らなかった)見られなかったので,嬉しい再会だと思った.

 しかし,これとほぼ(素人目には「全く」と言い切っても良いほど)同じ絵がローマのコルシーニ絵画館にあって,日本で出会ったのは,どちらの作品だったのか,日本語でウェブ検索すると,複数の情報からコルシーニの作品だったようだ.したがって,「再会」ではなかったことになる.

写真:
グイド・レーニ
「聖セバスティアヌス」


 レーニの「聖セバスティアヌス」は美少年に描かれているが,それだけではなく筋肉質で,その点も三島由紀夫を魅了したのだと思う.

 この筋肉質の美しい肉体に魅せられたのは日本の大作家だけではなく,ボノーニもまた深く魅かれたようだ.実際に,特別展の展示の仕方もあるのかも知れないが,以後のボノーニの描く絵には,明らかに筋肉質の美丈夫が描かれるようになっていくと思われた.

 ただし,このレーニ「聖セバスティアヌス」もローマのカピトリーニ博物館に良く似た絵がある.これも素人目には違いがわからないが,気のせいかもしれないけれども,ジェノヴァの作品の方が,緊張感があるように思える.細かく見るとジェノヴァの絵は刺さっている矢が2本,ローマの絵は3本で,これだけでも全く同じというわけではないが,よく似ている.

 三島が魅了されたのはジェノヴァの絵であることは分かっているようだが,ボノーニが影響を受けたのはどちらだったのかは分からない.そもそもどちらをボノーニが見たにせよ,どこで見たのかは,今のところ情報が無い.

 しかし,ボノーニの作風の変化を見る限り,確かにレーニの影響はあったのだろうと思う.「炎上するトロイアからのアエネアスの亡命」(グリマーニ・ファーヴァ・コレクション,1615-18年),まさに「聖セバスティアヌスの殉教」(レッジョ・エミーリア大聖堂,1623-24年頃),「守護天使」(フェッラーラ国立絵画館,1625年頃),「聖セバスティアヌスと天使」(ストラスブール美術館,1626年頃)には,アエネアスの絵の制作年代が微妙だが,レーニの絵の影響はあるように思える.

写真:
「炎上するトロイアからの
アエネアスの亡命」


 この後に描かれた絵で,今回展示されていた数点に筋肉質の男性裸体は現れないが,多分今回の出展で最も制作年代が遅い「ペストの終焉を祈るフランスの聖ルイ」(ウィーン美術史博物館,1632年)には,筋肉質の男性裸体が描かれている.1632年は画家の没年なので,筋肉質の男性裸体には最後までこだわりがあったと考えて良いのではないだろうか.

 ただ,筋肉質の裸体のキリストが描かれている「我に触れるな」(個人蔵)の制作年代が1608-14年頃となっていて,これだとレーニ「聖セバスティアヌスの殉教」以前の作品なので,本当にレーニの影響だったのか,あるいは時代に共通する流行だったのかは即断はできないようにも思う.

 ボノーニは1569年の生まれであれば,カラヴァッジョより2歳,グイド・レーニより6歳,ランフランコより13歳,サラチェーニより16歳,グエルチーノより22歳年長で,今回展示されていた画家では,ルドヴィーコ・カッラッチが14歳,同じフェッラーラ出身のスカルセッリーノが19歳か18歳の年長で,ボノーニが影響を受けた画家の殆どが彼より,年少であった.

 この特別展にはグエルチーノの作品が2点展示されていたが,これがどういう位置づけなのかは,今のところ理解できていない.

 ボノーニの師匠は,1536年生まれのフェッラーラの画家ジュゼッペ・マッツオーリとされる(伊語版ウィキペディア).マッツオーリや,やはり先行するスカルセッリーノなどフェッラーラの画家たちとの関係は興味深いが,今のところペンディングである.

 フェッラーラ出身の画家と言えば,コスメ・トゥーラ,フランチェスコ・デル・コッサ,エルコレ・デ・ロベルティ,ロレンツォ・コスタ,ドッソ・ドッシ,ガロファロが思い当たるが,ドッソの没年が1542年,ガロファロの没年が1559年で,いずれもボノーニが生まれるだいぶ前なので,直接の影響は考えにくい.

 「フェッラーラ派」と言う画派が存在したのかどうか,まだまだ理解できないが,間違いなくイタリア絵画の伝統を創った複数の画家がフェッラーラで生まれ,育ち,その中にカルロ・ボノーニがいたことはこの特別展でよくわかった.

 本当は,同じエミリア=ロマーニャのパルマやボローニャの画家たちとの関係も考えて見るべきであろうが,この時代のイタリアに関係する画家で,ローマで活躍したカラヴァッジョや,ボローニャとその周辺出身の巨匠たちの影響を受けなかった者がいたとは考えられないし,そもそも私の守備範囲ではないので,これから少しずつ理解していけるのであれば,時間の流れに身を委ねながら考えていきたい.



 この後に行った国立絵画館は10年前と同様,時間切れで,ドッソ・ドッシ,ガロファロというフェッラーラの巨匠たちの作品を十分に鑑賞できなかった.今期の滞在でもう一度フェッラーラに行けるのであれば,今度こそ,国立絵画館でドッソ,ガロファロの作品を堪能したい.

 10年前と違い,今回は特別展も国立絵画館も写真撮影可だったので,時間の無い中でそれなりに撮ってきたが,その中から,フェッラーラの画家ではないし,どうしてその画家の作品と特定できるのか,その根拠も調べていないが,トスカーナのジョッテスキの一人で「フィリーネの親方」と称される芸術家の作品を紹介する.

 この画家にずっと惚れ込んでいるが,作品を見る機会は多くない.フェッラーラ国立絵画館には1点のみ,この画家の作品とされる「洗礼者ヨハネ」がある.フィリーネ・ヴァルダルノの宗教芸術博物館で観た「聖母子」には及ばないが,堂々とした作品だと思う.この作品をもって,今期の2度に渡るフェッラーラ行の報告を締めくくることにする.






「洗礼者ヨハネ」
フィリーネの親方