フィレンツェだより第2章
2018年1月1日



 




聖母を導くキリストと,アダムとイヴ
原罪を作った2人とその贖い主のトライアングル
コレッジョの「聖母被昇天」(部分)



§パルマ行 前篇

ずっとパルマに行きたかった.大聖堂のクーポラのコレッジョ(コッレッジョ)のフレスコ画「聖母被昇天」を見たかったのだ.


 パルマでその偉大さを実感できる芸術家として,中世のベネデット・アンテーラミ,ルネサンスのコレッジョ,マニエリスムのパルミジャニーノの名前を挙げることができる.

 しかし,パルマと聞いてこの3人の名前がすぐ浮かぶようになるには前段階があった.

 先ず,2016年3月24日にローマのクイリナーレ宮殿で「コレッジョとパルミジャニーノ 16世紀のパルマ芸術」展を見た.これが,16世紀のパルマの芸術環境について考察する契機となって,パルマ訪問の動機の一端が形成された.

 それに加えて,今期10月12日にフィデンツァ大聖堂で,中世の芸術家アンテーラミに出会った,と言いたいところだが,アンテーラミの芸術に初めて接したのは6月30日のパルマの洗礼堂が先だ.しかし,この両方を見ることで,アンテーラミの印象が心に刻まれたことは間違いない.

 いずれにせよ,コレッジョのクーポラの天井画,大聖堂,洗礼堂のロマネスク芸術を見に,パルマに行くことは早くに決定していた.

 コレッジョ,パルミジャニーノ,アンテーラミがパルマで制作した浮彫やフレスコ画などの多くが,剥離されたりせずに,今でもその場所にある以上,これらの芸術家の真価を知るためにパルマを訪ねることは必須だった.

写真:
後陣側から見た
パルマ大聖堂
ロマネスクの外観


 今のところ,パルマへは,6月30日と11月2日の2回行っている.

 6月30日は,前回述べたようにピアチェンツァのファルネーゼ宮殿に13時の閉館までいて,それからローカル線で移動したので,時間は余りなく,大聖堂洗礼堂司教区博物館サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大修道院教会サンタ・テレーザ・エ・バンビン・ジェズ教会を拝観,見学しただけだった.

 洗礼堂と司教区博物館の見学は,大聖堂のファサードの(向かって)左側にある券売所で入場券を買う必要があるが,大聖堂などの諸教会は拝観料がない.したがって,全部を確認していないが,集客力のある大聖堂以外の教会は長い昼休みがあると考えた方が良い.

 11月2日は,大聖堂のファサードを除く外壁の浮彫をチェックした後,サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大修道院教会を再拝観し,サンタレッサンドロ教会サンタ・ルチーア教会サン・ヴィターレ教会サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂を拝観し,その後,国立美術館考古学博物館を見学した


パルマの歴史
 パルマには先史時代から集落があり,エトルリア人が都市を築いた.「パルマ」はラテン語で「小さな丸楯」を意味するが,この楯をローマ人はエトルリア人から学んで模倣し,名称もエトルリア語からの借用語の可能性が高いと考えられている.

 ローマ人が植民都市を建設したのは紀元前183年のことであった.

 都市と市中を流れる同名の川がパルマと呼ばれるようになった理由が,都市もしくはその前身である陣営の形状が丸楯型だったからか,もしくは北方のケルト人に対して防御の楯の役割を期待されたからかは,はっきりとは分からない(英語版ウィキペディア).

 日本語ウィキペディア「パルマ」は情報としては十分だが,英語版ウィキペディアの少し不正確な翻訳のようだ(2017年12月25日参照).

 詳細なのは伊語版ウィキペディアの「パルマ」,「パルマの歴史」だが,英語版ウィキペディア「パルマ」に分かりやすく整理されているので,それを参考に支配体制の変遷を簡単にまとめてみる(中世の年代が何を根拠にそのようになっているのか了解しきれないので,細かい年号は一部省略).

 共和政ローマ(前183年-前27年)
 ローマ帝国(前27年-後285年)
 西ローマ帝国
 (285年-486年・・285年は完全な東西分裂ではなく四分割統治体制の開始)
 オドアケルの王国(476年-493年)
 東ゴート王国(493年-553年)
 ラヴェンナにイタリア総督府を置いた東ローマ帝国(553年-568年)
 ランゴバルド王国(568年-773年)
 カロリング朝フランク王国
 カール大帝の帝国とその継承者たちによるイタリア王国
 神聖ローマ帝国(8世紀後半-12世紀)の支配
 自治都市(12世紀-14世紀前半)
 ミラノ公国(ヴィスコンティ家とスフォルツァ家)の支配(1341年-1513年)
 教皇領(1513年-1554年)
 パルマとピアチェンツァの公国
 (ファルネーゼ家,ブルボン家,ハプスブルク家,ブルボン家)(1554年-1808年)
 ナポレオンの支配(1808年-1814年)
 公国の復活(1814年-1859年)
 サヴォイア家のイタリア王国(過渡的体制を経て,1861年-1946年)
 イタリア共和国(1946年以降)

 しかし,個別の違いはあっても,概ね,イタリアの各都市がたどった歴史(ローマの支配→ゲルマン人の侵入と支配→神聖ローマ帝国の統治→自治都市→他都市との緊張関係→ヨーロッパの強国の影響→サヴォイア家イタリア王国による統一→イタリア共和国の構成員)に似ていると言えるだろう.


パルマ所縁の音楽家
 さすがに歴史が長く,イタリアを代表する有名な都市の一つであるだけに,伊語版ウィキペディアの「パルマに関係する人物」の中の「パルマ生まれの人物」に限っても,相当数の人名が列挙されている.

 しかし,上述の芸術家たち,コレッジョ(パルマ生まれではなく,出身地コレッジョが通称となる),パルミジャニーノ,ランフランコを除くと,私が知っているのは,20世紀に活躍した大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニと,映画監督ベルナルド・ベルトゥルッチくらいだ.

 トスカニーニがイタリア出身というのは知っていたが,パルマで生まれ,パルマ音楽院で学んだことは知らなかった.

 2度目にパルマに行った時,歩いているうちに広場に迷い出た.回りを見渡すと,見るからにゴシック建築であるサン・フランチェスコ・デル・プラート教会があり,その向かい側に「音楽の家」(カーザ・デッラ・ムージカ)というバナーが掛かった建物があった.

 壁面にトスカニーニの有名な肖像写真を使ったポスターも掛けられていたので,もしやと思って確認し,初めて彼がパルマ生まれであることを知った.彼の生家もパルマに残っているようだが,「音楽の家」はコンサートなどのイベント会場で,彼の生家ではない.

 パルマで亡くなった音楽家として,16世紀後半のオルガニストで作曲家クラウディオ・メールロがいることも,今回,関連事項を調べていて初めて知った.彼の生地はパルマではなく,現在はレッジョ=エミーリア県に属しているコレッジョ(コッレッジョ)である.

 もちろん,この町はコレッジョの通称で知られる大芸術家アントーニオ・アッレーグリの出身地である.私たちはコレッジョで生まれ,同地で亡くなった画家コレッジョをパルマの芸術家と認識しているのだから,コレッジョで生まれ,パルマで亡くなったメールロをパルマの芸術家と考えても,それほど的外れではないだろう.

 メールロは,地元とヴェネツィアで,当時の有名な音楽家の教育を受け,ブレーシャ大聖堂,ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂でオルガニストになるなどのキャリアを積み,最終的にはパルマの宮廷の保護を得て,同地の大聖堂や,サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ教会のオルガニストとなる.

 メールロが生まれたのが1533年,画家コレッジョが生地で45歳くらいの時に亡くなったのが1534年なので,ほんの僅かの間だが,2人の芸術家は小さな町で同じ空気を吸っていたことになる.

 もちろん嬰児だった音楽家が画家の偉大さを認識できるはずもないが,成長過程で故郷の先人が近隣の中核都市パルマで活躍し,全イタリア的名声を得たことを意識しただろうと想像しても許されるだろう.


画家コレッジョ
 画家コレッジョは1489年頃に生まれたと推定されている.フィレンツェの芸術家ではミケランジェロが1475年,アンドレア・デル・サルトが1486年,ポントルモが1494年,ロッソ・フィオレンティーノが1495年生まれとされるので,フィレンツェの芸術思潮で考えると,マニエリスムの画家たちと,彼らに影響を与えた最後のフィレンツェ・ルネサンスの画家の間の,やや後者よりの時代に生まれたことになる.

 後のコレッジョに最も影響を与えたかも知れないラファエロは1483年,ラファエロにもコレッジョにも間違いなくその影響が見て取れるレオナルド・ダ・ヴィンチは1452年に生まれた.レオナルドの死は1519年で,この年にコレッジョは画家としての成熟期に向かおうとしている30歳前後であっただろう.

 彼の画家としてキャリアは,小都市コレッジョで伯父(叔父)のロレンツォ・アッレーグリ,従兄のクィリーノ・アッレーグリ,地元の画家アントニオ・バルトロッティに学ぶことから始まり,モデナの画家フランチェスコ・ビアンキ・フェッラーリが最初の本格的な師匠だったとされる.

 その後(1506年),マントヴァに行ったが,その年の11月13日まで存命だったマンテーニャの影響を多分それ以前から受けていたものと思われる.マントヴァでは,サンタンドレーア聖堂にあるマンテーニャの墓のある礼拝堂で,フレスコ画の一部を担当している.

 未見だが,マントヴァの司教区博物館のコレッジョ作とされる「聖家族とエリザベト,幼児の洗礼者ヨハネ」(1509-11年)と「キリスト降架」(1509-11年)には確かにマンテーニャの影響があるように思われる.

 それ以前の作品(伊語版ウィキペディアの一覧表では最古の作品)とされる剥離フレスコ画「聖家族と聖クィリヌス,フランチェスコ」(モデナ,エステンセ美術館,1505年頃)にも,素人目にはマンテーニャの影響があるように見える.

写真:
「キリスト降誕と
エリザベト,
幼児の洗礼者ヨハネ」
ブレラ絵画館


 伊語版ウィキペディアの一覧表では,1518年くらいまでの作品が初期の作品として分類されているが,この時期の作品のかなりのものが欧米各地の美術館の所蔵となっているのが興味深い.

 これらの初期の作品は,特別展等で見たことがある一部の作品を除いて未見の作品が多いが,それでも,パヴィアのマラスピーナ絵画館の「聖家族とエリザベト,幼児の洗礼者ヨハネ」(1510年頃),ブレラ絵画館の「キリスト降誕とエリザベト,幼児の洗礼者ヨハネ」(1512年頃),「三王礼拝」(1515-18年頃),エステンセ美術館で上記の剥離フレスコ画とともに「カンポーリの聖母子」(1517-18年頃)などは今期見たばかりだ.

 また,スフォルツェスコ城絵画館の「ボロニーニの聖母子」(1514-19年頃),ウフィッツィ美術館の「奏楽の天使たちの間の聖母子」(1515-16年頃)は以前からお馴染みで,これらの作品にはマンテーニャの影響以外の別の要素も色濃いように思われる.

 それがラファエロやレオナルドの影響なのか,それともコレッジョの個性に基づく志向だったのかは分からないが,間違いなくコレッジョは初期の時点でマンテーニャの単なる追随者とは一線を画している.

 もちろん,モデナで学んだ時に,フェッラーラ出身のロレンツォ・コスタ,ボローニャのイル・フランチャといった端正な絵を描く巨匠たちの作品の影響を受けた可能性は指摘されている(英語版ウィキペディア).

 故郷コレッジョ,モデナ,マントヴァでの初期の成長過程を経て,彼が独創性に満ちた巨匠へと脱皮して行く場がパルマであった.



 今回は拝観できていないが,パルマのサン・パオロ修道院の「女子修道院長の部屋」(カーメラ・デッラ・バデッサ)の天井装飾をコレッジョが担当している.画家としての初期から成熟期に移行する1518年から19年のことである.

 丸天井が頂点から底辺へのリブによって16分割された面に,それぞれ三角面(スピッキオ)とリュネットがあり,スピッキオには装飾と縦長の楕円に囲まれたプット―,リュネットにはグリザーユで神話,もしくは寓意画が描かれている.

 したがって,女子修道院長の部屋でありながら,この絵はキリスト教の宗教画ではない.

 後述する2つの天井フレスコ画に比べて,独創性よりも時代の流行を集大成し,画家として成長を示した作品と言えるかも知れないが,未見なので,これ以上の言及は控える.

 ウェブ検索すると,紹介ページがあり,それに拠れば,2018年の1月2日から3月末までは,月曜から土曜まで13時10分から18時20分まで公開されているとのことなので,できればもう一度,このフレスコ画を観るためにパルマに行きたい.


サン・ジョヴァンニ=エヴァンジェリスタ大修道院教会
 伊語版にはないのに,英語版ウィキペディアにある情報として,コレッジョがパルマでミケランジェロ・アンセルミという画家と知己になったとある.

 コレッジョがパルマで仕事を得られたこととは無関係であろうが,彼の画期的な作品が残るサン・ジョヴァンニ=エヴァンジェリスタ大修道院教会(以下,エヴァンジェリスタ教会)に,アンセルミの作品も複数見られる.

 アンセルミはコレッジョより年下(1491年か92年の生まれ)だが,ルッカ出身で,パルマで亡くなった(1556年).トスカーナに出自のあるこの画家は,シエナでソドマ,バルトロメオ・ネローニの工房にいて,さらにベッカフーミの影響を受ける(伊語版ウィキペディア).

 果たしてアンセルミを通じて,たとえばベッカフーミなどの影響がコレッジョにあったかどうかは何とも言えないが,可能性が全く無いわけではないように思われる.

 ヴァザーリの「アントニオ・ダ・コレッジョ伝」では,「ロンバルディアで最初に現代様式(マニエーラ・モデルナ)で仕事をした人物」とされており,これが,私たちがマニエリスムとして認識する芸術傾向のことを示すかどうかはわからないが,ヴァザーリの認識を現代風に言い換えると,ルネサンスの技巧を体得して,同時代の流行であるマニエリスムに対しても時代遅れになっていない画家と言うことであろうか.

 コレッジョが一時,活動の場としたマントヴァは現在の州名で言うとロンバルディアに属しているが,ヴァザーリが言う「ロンバルディア」は北イタリアと言う意味であろう.

 いずれにせよ,コレッジョは,エヴァンジェリスタ教会で複数の仕事をした.

写真:
「福音史家ヨハネと
その象徴物の鷲」
エヴァンジェリスタ教会


 エヴァンジェリスタ教会の左翼廊奥のリュネットの「福音史家ヨハネとその象徴物の鷲」,後に破却されて,現在はチェーザレ・アレトゥージによる復原画(1587年)になっているが,残ったオリジナルの一部は剥離フレスコ画として国立美術館に展示されている「聖母戴冠」をコレッジョは描いた.

 とりわけ重要なのが,交差部のクーポラの天井画である.

 クーポラの天井画の主題は,「パトモスにおける福音史家ヨハネの幻視」もしくは「使徒たちの間でのキリスト昇天」(見た感じでは後者の方が適切な画題に思えるが,黙示録1章7節が典拠であれば前者であろう)で,四隅のペンデンティヴ(ペンナッキオ)の「福音史家と教会博士たち」(マタイとヒエロニュムス,マルコとグレゴリウス,ルカとアンブロシウス,ヨハネとアウグスティヌス)も彼の作品である.

 通常の祭壇画や壁画の「キリスト昇天」の場合,キリストの昇天を斜め下から見上げる構図で描かれることが多いが,この絵の場合は遥か下からほぼ真っ直ぐ見上げる視点で描かれており,なおかつ立体的に見えるように「錯視(optical illusion)画法」もしくは「短縮法(foreshortening)」の技巧が施されている.

「福音史家ヨハネの幻視」
であれば,キリストは
天から来臨していて,
「キリスト昇天」であれば,
キリストは天へと飛翔して
行く姿ということになる


 この作品には,短縮法で描かれたマンテーニャの「キリスト哀悼」(ブレラ絵画館,1480年頃),同じくマンテーニャが描いたマントヴァの公爵宮殿「新婚夫婦の間」の天井画の影響があるだろうことは容易に想像がつく.

 「新婚夫婦の間」は,描かれた時から現在に至るまでマントヴァのドゥカーレ宮殿にあるので,マントヴァのサンタンドレーア教会の礼拝堂(マンテーニャの墓がある)の仕事をしたコレッジョが,これを見たことはほぼ確実であろう.

 「キリスト哀悼」に関しては,元々はマンテーニャ自身の墓のある礼拝堂のために描かれた作品(英語版ウィキペディア)と考えられていることから,コレッジョが見た可能性は高いが,画家の死後,工房で発見され,息子たちが借金の支払いのために売却した(英語版ウィキペディア)とされているので,確実に見たかどうかは分からない.


クーポラの天井に描かれた絵
 それにしてもクーポラの天井に,コレッジョのような浮遊感のあるフレスコ画を描いた先例はあるのだろうか.そもそも浮遊感がなくてもクーポラのフレスコ画というのは先例があるのだろうか.さらにイタリアの教会にクーポラがかけられるようになったのはいつのことだろうかと疑問はどんどん広がって行く.

 暫定的な理解にも至っていないが,クーポラの起源を中央アジアの遊牧民のテント式住居とか,ギリシアのホメロス以前の古代に遡る墓に用いられたトロスなどに見ることはできるかも知れないが,前者に関しては,古いものは残っていないので,あくまでも文献資料と現状からの推定の域を超えないだろう.

 ネロの時代の「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)や,現在残っているのはハドリアヌス帝治下の再建だが,原型はアウグストゥス時代に遡るパンテオンなどが,有名建築にクーポラがあった実例として知られるだろう.

 原型をとどめている古代建築としては,古代と言っても末期(6世紀)のものだが,イスタンブールに残るハギア・ソフィアがある.このクーポラの四隅のペンデンティヴには熾天使のモザイクが残っているようだが,クーポラの天井には絵は見られない.

 正教の教会に関しては,写真で見ても,小さな教会もクーポラのあるものが多いように思えるが,これらのクーポラがいつの時代のものか,また天井にモザイクやフレスコの絵があるのかどうかも調べていないので,話を中世以降のイタリアに限定する.

 トスカーナで中世からある大聖堂のうち,ピサ,フィレンツェ,シエナの大聖堂にはクーポラがあるが,どれもルネサンス以降の付加でおそらくフィレンツェが最も古いであろう(1420年建設開始,1436年完成).

 このうちフィレンツェとピサの大聖堂のクーポラの天井にはフレスコ画が描かれているが,シエナの大聖堂のクーポラにはフレスコ画は無い.

 フィレンツェの場合は,1572年にヴァザーリが着手し,それを引き継いだフェデリコ・ツッカリとドメニコ・クレスティが完成させた(「最後の審判」で複数の天使に浮遊感があるのみ)のが1579年,ピサの場合は,オラツィオとジローラモのライナルディ兄弟が描き上げた(浮遊感のある「聖母被昇天」)のが1630年である.

 フィレンツェ大聖堂のクーポラ天井は半球形ではなく,八角形(上に細くなるので八角錐と言うべきか)である.洗礼堂の場合もクーポラと言うかどうか分からないが,同心状の屋根の場合,フィレンツェの洗礼堂のように八角形(八角錘)であることが多い(ピストイア,ヴォルテッラなど).

 フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天井は同心帯状に内側から,天使たち,創世記,族長ヨセフ,聖母とキリスト,洗礼者ヨハネの物語が描かれており,「最後の審判のキリスト」,「使徒たちと天使たちのいる天国」,「地獄」は帯を貫く大画面で金色を多用したモザイクで描かれている.

 ピサの場合は,半球で丸屋根と言って良い形になっているが,ピサ,ピストイア,ヴァルテッラの洗礼堂のクーポラの天井にはモザイクもフレスコ画も描かれていない.

 シエナの洗礼堂の天井はフレスコ画で装飾されているが,屋根はクーポラではない.



 パドヴァの洗礼堂はちょっと変わっていて,外観は四角い下部を持つ建物に円筒形の構築物(通常のクーポラならタンブールに当たるであろうが縦に長い)があり,その屋根は若干の傾斜がついているがほぼ円盤型に見える.

 ただ,堂内に入ると,天井はペンデンティヴとタンブールのあるクーポラ型になっていて,そこは側壁などその他の部分と同様,フィレンツェ出身のジョッテスキの一人ジュスト・デ・メナブオイのフレスコ画で埋め尽くされている.

 同心円の中心には大きな「全能のキリスト」,その下部に「オランスの姿勢の聖母」そして,キリストを囲む五重の同心円状に天使たち,聖人たちが描かれていて,もしかしたら「天国」を表しているのかも知れない.

 タンブールには明り取りの窓もあるが,その周辺には洗礼者ヨハネ,聖母,キリストの物語,創世記の物語が描かれていて,ペンデンティヴには預言者たちと福音史家およびその象徴物が描かれている.

 今更だが,過去に撮った写真で確認しただけも,パドヴァの洗礼堂のフレスコ画の壮大さに驚く.

 メナブオイの絵は,ジョッテスキの中では上手な方だとは思えないが,その構想力とそれを実現した画力は評価されて良いだろう.年代的にも1375年から76年に描かれた(洗礼堂の建物は12世紀に着手され,12世紀には完成していた)ということは,150年近くパルマのエヴァンジェリスタ教会のコレッジョのフレスコ画に先行している.

 ただし,メナブオイは教会のクーポラにフレスコ画を描いたわけではなく,あくまでも洗礼堂で仕事をしただけだ.



 古い洗礼堂の例としては,ラヴェンナのネオニアーノ洗礼堂とアリアーニ洗礼堂のモザイク「キリストの洗礼」(中央)と「十二使徒」(外周)が思い起こされるが,5世紀から6世紀に描かれたのであれば,圧倒的に古い作例ということになる.

 ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂はビザンティン建築の影響を受けたクーポラのある集中式で,クーポラの天井にはフレスコ画が描かれている.作者は調べていないが,明らかにバロック以降の絵であろう.

 ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂には複数のクーポラ(5つ)があり,イタリアの教会本堂のクーポラとしてはかなり古い例であり,中央のクーポラの天井裏は「全能のキリスト」を中心に天使たち,聖人たちのモザイクがあり,その他のクーポラにもモザイクがある.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに整理された「サン・マルコ聖堂のモザイク」に拠れば,概ね12世紀の作品とされる.

 コレッジョのフレスコ画よりも300年以上も古いが,あまりにもテイストの違うものなので,ここではビザンティンでは6世紀,イタリアでも遅くとも12世紀には,モザイクで教会や洗礼堂のクーポラに絵が描かれた例はあったが,教会本堂では,ヴェネツィアを例外として,クーポラそのものが15世紀までは一般的ではなかったと理解しておくにとどめる.

 もちろん,この理解は間違っているかも知れない.

 気になるのは,ブルネレスキがフィレンツェ大聖堂にクーポラをかける前に以前に描かれた(1360年代),サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の「緑の回廊」の,通称「スペイン人礼拝堂」のアンドレーア・ボナイウート(ボナイウーティ)のフレスコ画に,フィレンツェ大聖堂に良く似た教会が,クーポラのある姿で描かれていることだ.

 これについては,理想を込めた構想としてはずっと以前からあって,絵にも描かれたが,ブルネレスキの設計以前には技術的に難しくて実現しないままだったと理解しておく.

 乏しい記憶をたどりながら,教会のクーポラにフレスコ画が描かれた例を探してみたが,なかなか思い当たらない.


浮遊感のある絵
 コレッジョ以前に浮遊感が強調された絵画としては,ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いた天井画で,「光と闇の分離」,「太陽と月の創造」,「水陸の分離」,「アダムの創造」に描かれた神の姿(1510-11年)や,ティツィアーノの「聖母被昇天」(ヴェネツィア,サンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂,1516-18年)が思いつく.

 それぞれ現地に行かなければ見られないこれらの絵を,コレッジョは果たして見たのだろうか.

 これらの絵以前にも,キリスト昇天や聖母被昇天が描かれた作品であれば,絵柄的に浮遊感は表現されていたと思うが,錯覚を感じさせるほどの浮遊感は,ミケランジェロとティツィアーノが圧倒的で,間違いなく以後の作品に影響を与えていると思う.

 ラファエロの「キリスト変容」の浮遊感も説得力があるが,作者が亡くなる1520年時点で未完成で,弟子のジュリオ・ロマーノが完成させたので,コレッジョは,少なくともエヴァンジェリスタ教会のフレスコ画を描いた時点では見ていないであろう.

 一口に浮遊感と言っても,1)主題に由来する浮遊する絵柄の作品,2)高い表現力,巧みな構図により浮遊がリアルに感じられる作品,3)遠近法や,短縮法,仰視法による錯視を利用して浮遊感を演出している作品という違いがあるだろう.

 コレッジョのクーポラの天井画は,この3つを全て備えていると言える.


これを観るために
パルマに行った.
夢にまで見た作品
である.


 「聖母被昇天」が主題であるが,最初は渦巻く雲と聖人の群の中に光の通り道を開けて聖母を導こうとするキリストの方に目が行く.

 キリストの下(足の方向)の密集の中に,天使たちに運ばれる聖母がいて,その両側にアダムとイヴが配されている.クーポラの天井が高いので,カメラをズームしてモニターで確認したり,持参の単眼鏡を駆使して,ようやく聖母の姿が確認できた.

 聖母にはキリスト程の浮遊感はないが,今まさに天に迎えられようとしている場面で劇的だ.柔らかな色彩だが十分に華やかさがある.

写真:「聖母被昇天」(部分) 右は聖母マリア


 以後の影響と言う点で,エヴァンジェリスタ教会のフレスコ画と大聖堂の「聖母被昇天」というコレッジョの作品は大きな意味を持っている.

 これ以降,特にバロック以降であれば,錯視を利用した浮遊感のある天井画作品をすぐに複数挙げられる.パルマでも,サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂のベルナルディーノ・ガッティ作「聖母被昇天」(1572年),パルマ出身のランフランコがローマで描いた「天国の栄光」(サンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂,1621-25年)などが思いつく.

 コレッジョの伝記を書いたヴァザーリが死の直前から手掛け始めたフィレンツェ大聖堂の「最後の審判」にも,コレッジョの作品は影響しているであろうと思われる.

 ミケランジェロやティツィアーノの影響があったかどうかは不明だが,マンテーニャの影響を集大成して独自の境地を開いたと思われるエヴァンジェリスタ教会のフレスコ画から更に進化した形が,大聖堂のクーポラに描いた「聖母被昇天」ということになるであろう.

 1524年に着手され,完成が1530年,画家が45歳前後で亡くなるのが1534年5月5日なので,まさに円熟期の作品である.

 この後,彼は王侯から依頼された神話画によって,さらに新境地を開くように思えるが,コレッジョの最高傑作は間違いなく,大聖堂のクーポラ天井に描かれたフレスコ画「聖母被昇天」である.


大聖堂
 パルマ大聖堂は,外観はロマネスク教会だが,三廊式の堂内の身廊天井は交差リブ・ヴォールトで,ファサードにはバラ窓も付されていているので,ゴシック期に大きな改築が施されていることが分かる.

写真:
三廊式の堂内


 身廊と側廊を区切って,左右のマトローネオを支えるアーチは半円型のロマネスクで,それを支える列柱の柱頭にもロマネスクの浮彫が残るが,身廊,天井,側壁は,マニエリスム期の新しいフレスコ画で埋め尽くされている.

 担当した画家たち(ラッタンツィオ・ガンバラジローラモ・ベドーリ=マッツォーラ)はきちんと修行した成果をもとに,諸方で挙げた実績を背景として,しかるべき依頼をされて,誠実に仕事を成し遂げ,相当な水準の作品を仕上げたのであるから,全く非難される筋合いは無いし,それらの作品をそれだけで見れば,画題,完成度ともに見るべきものは間違いなく有る.

 しかし,パルマ大聖堂に私たちが期待するのは,どうしてもロマネスクの遺産であり,コレッジョの傑作である.

写真:
ペンデンティヴ
(あるいはスキンチ)の
フレスコ画
雲の上にいる「聖トマス」


 クーポラの四隅のペンデンティヴには,仔羊を抱いた洗礼者ヨハネ,ポワティエの聖ヒラリウス,聖トマス,フィレンツェ出身でパルマ司教となった聖人ベルナルド・デリ・ウベルティが描かれ,それぞれの人物の周囲にも雲が配されていて,そこから上が天上界であるとの工夫が施されている.

 今まで,前回のピアチェンツァ大聖堂の場合も含めて,ペンデンティヴ(窮隅)という用語を無造作に使ってきたが,フランスを旅行し,コンクのサント・フォワ教会を訪ね,それについて考察した際,方形の躯体に丸屋根(半球形)をかける場合の四隅はペンデンティヴ,方形の躯体に多角形(八角形)の屋根をかける場合をスキンチ(スクィンチ)(入隅迫持)と一応理解した.

 ところが,ピアチェンツァの場合も,パルマの場合も,方形の躯体の上に一旦八角形の構造物が乗り,パルマ大聖堂の場合はさらにその上に丸屋根がかかっているように見える.外観を写真で見ると八角柱の突出部にかかる屋根はほぼ丸いし,堂内から見上げる天井も最上部は丸く球面になっているとしか思えない.

 ピアチェンツァの場合は八角柱の突出部の上にかかる屋根も八角形(八角錘と言うべきか)で,堂内から見上げる天井もリブで八面に区切られている.それでもこの各面は内側に球面のように湾曲しており,少なくとも内側から見る限り,単純な八角錘とは言えない.

 なぜ,今になってこれにこだわっているかと言えば,フレスコ画の描かれた四隅をペンデンティヴではなく,スキンチと言うべきなのではないかと思えたからだ.

写真:
クーポラと
ペンデンティヴ
(あるいはスキンチ)


 イタリア語ではペンデンティヴもスキンチも基本的にペンナッキオと称するので,伊語版ウィキペディアを参照して,無批判にペンデンティヴと言ってきたが,もともと建築構造上のことをきちんと理解しているわけではないので,一応スキンチである可能性も念頭に置きながら,引き続きペンデンティヴと言うことにする.

 クーポラの問題は,特に,ゴシックからルネサンスの過渡期に改築や付加を施された教会については,なかなか難しいが,こだわっていると先に進まないので,今後の課題とする.少なくとも,パルマ大聖堂では「聖母被昇天」の部分は,球面内側に描かれていると言い切って良いだろう.

 長くなったので,一旦ここで筆を置き,後篇へ続く.






パルマ大聖堂の堂内のロマネスクの柱頭
彩色の残る柱頭は他に見当たらなかった