フィレンツェだより第2章
2018年2月5日



 




チマブーエ「マエスタ」(部分)
サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂



§ボローニャ行 前篇

フィレンツェから鉄道に乗り,途中,幾つもの町を通りながらアペニン山脈を越えるとボローニャに着く.そこから北西へ向かうとミラノ,トリノ方面,北東はパドヴァ,ヴェネツィア方面,南東はリミニ(まだ行ったことがない)に通じるので,ボローニャは乗り換え駅として利用することが多い.


 7月7日,今期初めて乗り換え以外の目的でボローニャに行き,その後,8月11日,12月24日と都合3回訪問した.

 7時10分にフィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅を出るローカル線に乗ると,プラートに7時27分に着き,プラート発7時32分発のボローニャ行のローカル線に乗り換えると,8時20分に終点ボローニャに着く.

 このプラート発7時32分発の電車は快速ではないが,この時間帯に限って各駅には止まらず,約1時間でボローニャに着くので,教会が昼休みに入るまで午前中を有効に使えて,午後は開いている博物館,美術館をどれか1つ見て,夕方になる前にフィレンツェに帰って来ることができる.

 帰りのプラート乗り換えのローカル線は,14時以降どの時間帯も大体1時間に1本,場合によっては2本あるが,ボローニャ,プラート間はほぼ各駅に停まるためフィレンツェまで1時間半以上かかるから,朝のようには効率良くいかない.

 それでも特急で行ったらほとんどトンネルの中なのに,ローカル線もトンネルは多いとは言え,車窓からの風景をそれなりに楽しむことができるから,時間に余裕がある場合は十分に選択肢として考えられる.

 明るい時間の長い夏の2回の訪問は,このローカル線で往復し,道中も楽しんだ.

 ただし,さらに先の都市に行く場合,フィレンツェからボローニャまでは特急を使った方が良い.ボローニャから先はローカル線になることが多いので,全行程ローカル線となると,相当時間がかかることになる.特急は乗り継ぎの接続も良いので効率的だ.


イタロで行く
 3度目(12月24日)のボローニャ行は,冬で日中が短いし,イタロの早割がかなり安いことを経験した後なので,特急で往復した.

 イタロはフィレンツェ‐ボローニャ間の一部を時速300キロで走行し,片道35分で着くので,だいぶ時間の節約になる.ただ,もっと早く行きたければフレッチャロッサの方がもう少し早いし,イタロは良く遅れが生じることを頭に入れて置いた方が良いかも知れない.

 因みに,この時の料金は,行きが18ユーロ,帰りが19.9ユーロだった.トレニターリア(旧国鉄)のローカル線だと片道9.45ユーロなので,早割のイタロでもさすがに倍くらいの値段になる.イタロはローマの往復でも40ユーロ弱のこともあるので,あるいはこの日は割高だったか,距離が短いとディスカウントも少ないかのどちらかだと思う.

 イタロの座席クラスは,Smart,Comfort,Prima,Club Executiveの4段階があり,Low Cost,Economy,Flexと3段階ある割引率との組み合わせにより,どうやら12段階の値段設定があるようだ.

 Low Costは確かに安いが,返金が効かず,変更にもかなりの額の手数料がかかるので,予定変更はリスクを伴う.しっかりとした日程の確定と,予定変更を余儀なくされることがないようにスケジュールと体調の管理が必要だ.

 今期3回のボローニャ行で拝観できた教会,見学した博物館,美術館については,行った順に並べると,次の通りである.

7月7日
 サン・マルティーノ聖堂(再)
 サン・ジャーコモ・マッジョーレ聖堂(再)
 サンタ・チェチーリア祈禱堂(再)
 大聖堂(初)
 サン・ペトロニオ聖堂(3回目)
 サン・ニコロ・デリ・アルバーリ教会(初)
8月11日
 サン・ベネデット教会(初)
 大聖堂(再)
 サンティ・バルトロメオ・エ・ガエターノ教会(初)
 サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂(初)
 サンティ・ヴィターレ・エ・アグリコラ教会(初)
 市立芸術コレクション(再)
 市立中世博物館(再)
 サンタ・マリーア・イン・ガッリエーラ教会(初)
12月24日
 サン・ベネデット教会(再)
 サン・サルヴァトーレ教会(初)
 サン・フランチェスコ聖堂(初)
 国立絵画館(再)


 再見の場合でも,伊語版ウィキペディアに立項されているものに関してはリンクしたが,サン・ベネデット教会とサンタ・マリーア・イン・ガッリエーラ教会は伊語版に項目執筆がなされていないので英語版ウィキペディアにリンクした.サン・ニコロ・デリ・アルバーリ教会は伊語版にも英語版にまだ項目執筆がなく,観光紹介ページはあったが,特にリンクははっていない.

 3回目でようやく再訪した国立絵画館も,いつものように時間切れで17世紀ボローニャ派の大作をほとんど観ていないし,興味深い傑作を複数所蔵しているサン・ドメニコ聖堂,サント・ステーファノ教会群の再訪も叶っていないので,時間が作れればもう一度ボローニャに行きたいと思っているが,今はもうスケジュールの合間に体調と天候を見て行くしかないので,早割の格安券が買えなくても,イタロかフレッチャロッサで行こうと思っている.


ボローニャ駅
 ボローニャは,人口規模でいうとフィレンツェと同じくらい(ボローニャ:38万9千9人…伊語版ウィキペディア2017年7月31日,フィレンツェ:38万2千7百43人…伊語版ウィキペディア2017年8月31日)だが,そうは思えないくらい大都市感がある.

 フィレンツェの繁華な通りを歩いている人のほとんどは観光客のように見えるが,ボローニャも観光資源を有する有名な都市であり,観光客も少なくないはずだが,一般住民と区別がつかず,ともかく大都会に見える.

 ボローニャ中央(ボローニャ・チェントラーレ)駅にはイタリア各地からの路線が集中していて,乗換駅として重要な機能も果たしており,フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅よりも遥かに大きい.10年前には無かった地下の高速特急専用ホームもできて,更に大きくなったように感じる.

 しかし,そんな近代的な大きな駅であっても,物乞いや,案内するふりをして金銭を要求する人が放置されているところは,やはりイタリアである.

 ボローニャ駅には,高速特急の停まる新しい地下ホーム,番号だけがついた地上のホームの他に,番号に東(エスト),西(オヴェスト)を冠した複数のホームがあって,プラートとの往復のローカル線は,「東」を冠した最も遠いホームに停まるので,乗り換えに時間がかかることを考慮して行動する必要がある.

 ボローニャ・チェントラーレ駅の最も大きな出入口から,駅正面のメダーリエ・ドーロ広場に出るまでも,ちょっと時間がかかる.駅を起点に計画を立てる場合は,その後の予定には少し余裕があった方が良い.

 メダーリエ・ドーロ広場の前を走る国道9号線を渡って,国道沿いに9月20日広場まで進み,ガッリエーラ門と,その向こうのモンタニョーラ公園の間のインディペンデンツァ通りを真っ直ぐ南進すると大聖堂に至る.

 大聖堂,サン・ペトロニオ聖堂のある,いわゆる歴史的旧市街(チェントロ・ストーリコ)までは少し距離があり,ゆっくり歩けば20分弱かかる.10年前も今回も同じ経路で旧市街まで歩いた.


サン・ジャーコモ・マッジョーレ聖堂
 10年前は,大聖堂に向かう途中,インディペンデンツァ通りを左に曲がり,マルサーラ通りを東進し,サン・マルティーノ聖堂を拝観し,次いでサンタ・チェチーリア祈禱堂の本堂とも言うべきサン・ジャーコモ・マッジョーレ聖堂を拝観し,そこで入り口を教えてもらって,サンタ・チェチーリア祈禱堂を拝観した.

 今期の7月7日も,ほぼこれと同じコースで2つの教会と一つの祈禱堂を拝観し,ダルマシオ・ディ・ヤコポ・スカンナベッキ,その息子リッポ・ディ・ダルマシオ,アミーコ・アスペルティーニ,フランチャという中世からルネサンスのボローニャの画家たち,フェッラーラから来たロレンツォ・コスタ,フィレンツェの画家パオロ・ウッチェッロ,シエナの彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャの作品をしっかり鑑賞した.

 2008年の時と同じく,サンタ・チェチーリア祈禱堂は拝観料と言うより入場料を徴収する一種の博物館になっており,違うのは「写真厳禁」となっていたことだった.

 管理の高齢男性に「10年前に来たときは写真撮影可だったけど」と言ったら,「フレスコ画の各面1枚ずつくらいなら良い」と言って下さった.

 現場管理の人に撮影許可の権限があるとは思えないが,せっかくそう言って下さったので,以前撮った写真はどの場面も比較的良く撮れていたが,フランチャの祭壇画「キリスト磔刑と聖人たち」だけは良く写っておらず残念に思っていたので,各場面と祭壇画の写真を撮らせてもらい,絵葉書と案内書(津波で流された)を購入して辞去した.

写真:
巡礼路の教会のように
周歩廊がある
サン・ジャーコモ・
マッジョーレ聖堂


 今回はサン・ジャーコモ・マッジョーレ聖堂を丁寧に拝観した.前回はベンティヴォーリオ礼拝堂のコスタの祭壇画を遠目に見たくらいだが,今回,たくさんある礼拝堂の祭壇画やフレスコ画をほとんど観ることができた.ただ,思ったよりお祈りに来る信者の方が多く,写真撮影は信者の方がお参りしていない場所に限られた.

 各祭壇に飾られている初めてその名を聞く中堅の画家の祭壇画に交じって,既知の画家たちの作品も確認できた.エルコレ・プロカッチーニの「パウロの回心」(サン・パオロ礼拝堂,1573年),プロスペロ・フォンターナの「聖アレクシウスの施し」(サンタレッシオ礼拝堂),インノチェンツォ・フランクッチ・ダ・イーモラの「聖母子と聖人たち」(ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ礼拝堂,1536年),ペッレグリーノ・ティバルディのフレスコ画「洗礼者ヨハネの受胎」,「多くの人に洗礼を授ける洗礼者ヨハネ」とプロスペロ・フォンターナ「キリスト洗礼」(ポッジ礼拝堂,フレスコ画1555年,祭壇画1561年),パオロ・ヴェネツィアーノの金地板絵の多翼祭壇画「聖人たち」とクリストフォロ・ダ・ボローニャのフレスコ画「エジプトの聖マリア(サンタ・マリーア・エジツィアーカ礼拝堂,ともに14世紀),中央祭壇の役割を果たすカーリ礼拝堂のヤコポ・ディ・パオロの金地板絵多翼祭壇画とシモーネ・デイ・クローチフィッシの彩色板絵磔刑像がまず目にとまる.

写真:
「聖ヨセフの死」
ジュゼッペ=マリーア・
クレスピ


 カーリ礼拝堂を囲むように,後陣の後部には周歩廊があり,そこにも幾つか礼拝堂がある.伊語版ウィキペディアに記述がない(2018年1月30日参照)のが不思議だが,現場で撮った写真には確かにサン・ジュゼッペ礼拝堂があり,私たちが10年前からずっと注目している,18世紀まで活躍した最後のボローニャ派の一人,その名もジュゼッペ=マリーア・クレスピの「聖ヨセフの死」(1712年頃)があり,個人的にはこの絵を観ることができて嬉しかった.

 数多いるイタリアのクレスピという姓の画家としては,やはりこの画家が最も好きだし,栄光のボローニャ派の最後の方に位置して,これだけ個性的な画家が出たことは,やはり慶賀すべきことだと思う.

 この周歩廊のベンティヴォーリオ礼拝堂のフランチャの祭壇画とコスタのフレスコ画を最高傑作に挙げるべきであろうが,その礼拝堂の外側にあるクエルチャの「アントン=ガレアッツォ・ベンティヴォーリオの墓碑」が私にはより素晴らしく思えた.

 もう少しゆっくりしたかったが,できれば,チマブーエの祭壇画のあるサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂(以下,セルヴィ聖堂)も拝観したかったし,昼休みに入る前にサン・ペトロニオ聖堂を少しでも拝観したかったので,後ろ髪魅かれながらサン・ジャーコモ・マッジョーレ聖堂を辞した.


サン・ペトロニオ聖堂
 セルヴィ聖堂に着くと,10年前もそうだったが,お祈りの儀式の最中だったので,拝観を遠慮し,まだ外観しか見たことがなかった大聖堂を簡単に拝観し,サン・ペトロニオ聖堂(以下,ペトロニオ聖堂)に急いだ.

 ペトロニオ聖堂は観光客対応が進んだのか,この日だけのことかは確認していないが,昼休みの時間になっても閉まらなかった.以前は確かに昼休みはあったので,多分現在は,昼休みにあたる時間も観光客に開放されることになったのだと思う.

 拝観料は取っていないし,以前と同じように基本的に撮影禁止だったが,今回は写真撮影に関しては面白い対応がなされていた.3ユーロ(だったと思うが,5ユーロだったかも知れない)の修復協力金と言う名目の撮影料を払うと,腕に巻く紙リボンをくれて,そのリボンを腕に巻いている人は,レ・マージ礼拝堂など一部の例外を除いて撮影が許可される.もちろん,修復協力金を拠出してリボンをいただいた.

 ペトロニオ聖堂は3回目の拝観だが,2018年のフィレンツェからの日帰り小旅行の時も,2014年の北イタリア旅行のツァーの最終日(3月25日)の際も,十数分の短い拝観で,写真撮影は禁止だった.今回は昼休みがないことを確認し,撮影の許可も得たので,腰を据えて拝観した.

写真:
レ・マージ(三王)礼拝堂


 やはり,最も見応えがあるのは,ファサードから入って左側4番目のレ・マージ(三王)礼拝堂で,ここは2014年の時と同様に,特別料金を取って見学させていた.以前はイヤホンガイドだったが,今回はイタリア語,英語,ドイツ語,フランス語にそれぞれいつでも切り替えられるタブレット端末を渡されて,事実上,制限時間のない鑑賞ができる.ただし,内部は写真撮影禁止なので,礼拝堂の外から撮った写真とウェブページのみが記憶を呼び起こす助けだ.

 案内書と相当枚数の絵はがきセットを購入したが,これは既に日本に送ったので,手元にはない.ジョヴァンニ・ダ・モデナのフレスコ画「三王礼拝の物語」,「聖ペトロニウスの物語」,「最後の審判」,ヤコポ・ディ・パオロの多翼祭壇画については,2014年に報告しているので,今回はタブレット端末の写真を見,解説を聞きながら再度の鑑賞をしたと言うにとどめる.

 今回,堂内の博物館(2008年に見学)以外はほとんどの作品を観て,中でも有名なロレンツォ・コスタ「玉座の聖母子と聖人たち」,「聖ヒエロニュムス」,アミーコ・アスペルティーニ「キリスト哀悼」,オルガン扉絵「聖ペトロニウスの物語」,パルミジャニーノ「聖ロクスと寄進者」は全て確認し,写真に収めた.

 その他,フレスコ画,祭壇画,ステンドクラス,彩色テラコッタの「キリスト哀悼」,浮彫彫刻,丸彫彫刻など,挙げればきりがないが,さすがに大都市ボローニャを代表する教会だけに,見応えがあった.

写真:
ヤコポ・デッラ・クエルチャ
「楽園追放」

仁王のような大天使ミカエルが
アダムとイヴを追い払っている


 前回までと異なっていて特筆すべきは,レ・マージ礼拝堂の右隣のヴィンチェンツォ・フェッレル礼拝堂に,一連の浮彫彫刻が飾ってあったことだ.「アダムの創造」,「イヴの誕生」,「原罪」,「楽園追放」,「アダムとイヴの労働」の5枚が一組,「イエスの誕生」,「三王礼拝」,「神殿奉献」,「嬰児虐殺」,「エジプト退避」の5枚が一組,「カインとアベルの奉納」,「カインのアベル殺害」,「ノアの方舟」,「ノアの泥酔」,「イサクの犠牲」の5枚が一組と思われる.

 ペトロニオ聖堂には3つの扉口(ポルターユ)があり,中央のものを特に「ポルタ・マグナ」(大門)と称する.このリュネットにある「聖母子と聖人たち」(聖人はアンブロシウスとペトロニウス)とその下の楣石の5面の浮彫,またポルターユの左右の側柱の浮彫,さらに側柱と扉の間の飾り柱の間にある「隅仕切り」(ストンバトゥーラ)の預言者たちの浮彫をヤコポ・デッラ・クエルチャが担当した.

 この内,左側柱の5面の浮彫が,上記の「アダムの創造」から「アダムとイヴの労働」まで,右側柱の5面の浮彫が「カインとアベルの奉納」から「イサクの犠牲」まで,楣石の5面の浮彫が「イエスの誕生」から「エジプト退避」までで,もしヴィンチェンツォ・フェッレル礼拝堂に展示されていたものがオリジナルであれば,現在ファサードにあるのはコピーということになる.逆もあるわけだが,多分前者であろう.オリジナルであれば,随分間近で良い物を見たことになる.

 特に側柱の旧約聖書の物語は,後にボローニャで仕事をし,さらにその後システィーナ礼拝堂の天井画を描いたミケランジェロへの影響が指摘されている.天才であっても無から全てを創り出すわけではない以上,可能性はあるだろう.

 後世の私たちからはミケランジェロは大天才,クエルチャは知る人ぞ知る名匠だが,ミケランジェロが若い頃,クエルチャがトスカーナが生んだ偉大な巨匠として手本となっていたとしても全く不思議はないだろう.

 今回,ペトロニオ聖堂に関しては充実の拝観が叶った.大聖堂の裏手にあるオベルダン通りに面したサン・ニコロ・デリ・アルバーリ教会は存在も知らずに偶然拝観が叶ったが,中堅の画家たちの作品の中に,ジュゼッペ=マリーア・クレスピの「聖アントニウスの誘惑」があったことを報告するにとどめる.

 時間的にはまだまだ余裕があったが,何せ暑く,日光もとても眩しくて,思った以上に夏のボローニャを歩くのはしんどかったので,この日(7月7日)は14時9分発のローカル線に乗り,プラートで乗り換え,15時30分にフィレンツェに帰着した.


サン・ベネデット教会
 8月11日は,最初からセルヴィ聖堂を目指し,インディペンデンツァ通りを南進したが,進行方向の右側にあり,それまで未拝観だったサン・ベネデット教会(以下,ベネデット教会)の扉が開いていたので,拝観した.

写真:
サン・ベネデット教会


 堂内には20世紀の新しい祭壇画の他に,ロココ期のボローニャの彫刻家アンジェロ・ピーオ(1690-1770年)の彩色ストゥッコによる「パオラのフランチェスコ」(ガッリ礼拝堂),プルデンツィオ・ピッチョーリ(1813-1883年)のやはり彩色ストゥッコによる「無原罪の聖母」(タルッフィ礼拝堂),アレッサンドロ・ティアリーニ(1577-1668年)の油彩祭壇画「悲しみの聖母」(ファントゥッツィ=スパーダ礼拝堂),チェーザレ・アレトゥージ(1549-1612年)の「キリスト哀悼」(中央祭壇),ルーチョ・マッサーリ(1569-1633年)の「聖母子と聖人たち」(パッラヴィチーニ礼拝堂,1615年),エルコレ・プロカッチーニ・イル・ヴェッキオの「受胎告知」,ジャーコモ・カヴェドーネ(1577-1660年)の「聖霊」,「預言者たち」(アルベルガーティ=ヴェッツァ礼拝堂),15世紀初頭の彩色木彫磔刑像,カヴェドーネ「神学的諸徳」(サリーナ礼拝堂)などがあることを,説明プレートで確認した.

 他に,作者は確認できないが,写真で確認する限り,立派に描けた祭壇画が2点ある.概ね,祭壇画を描いた画家は,モデナで生まれ,パルマで亡くなったアレトゥージの他は,カッラッチ一族の影響を受け,その門下から育ったボローニャの画家たちのようだ.

 エルコレ・プロカッチーニ・イル・ヴェッキオもボローニャ出身のマニエリスムの画家だが,彼の一族はバロック期のミラノに活躍の場を見出し,多くはミラノで亡くなり,彼の同名の孫エルコレ・プロカッチーニ・イル・ジョーヴァネに至ってはミラノで生まれ,ミラノで亡くなった.

 ミラノを中心とするロンバルディアには16世紀には独自の伝統が息づいていたが,17世紀にはボローニャ派からの影響を受け,新たな伝統が形成されたことが想像される.そこで重要な役割を果たしたのがプロカッチーニ一族であり,その先頭に立ったのが1568年からミラノに活躍の場を移したエルコレ・イル・ヴェッキオであった.

 一方,彼がボローニャにも立派に足跡を残していることは,ジャーコモ聖堂,ベネデット教会を拝観すれば分かる.

写真:
リッポ・ディ・ダルマシオ
「聖母子」(部分)


 ベネデット教会に残る絵の中で,最も注目すべきは,やや古風に見える小さな「聖母子」であろう.作者はリッポ・ディ・ダルマシオと伝えられ,ボローニャのゴシックを引き継ぎ,ルネサンスへの道を拓いた画家である.

 彼の没年は1410年で,フィレンツェではルネサンスが始まっているが,それでもルネサンス絵画第一号とされるサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会のマザッチョのフレスコ画の制作開始が1425年とされるので,イタリアでの絵画のルネサンスにはまだ間がある.

 マザッチョもそれ以前には,独創性を発揮しながらもゴシックの遺風の残る金地板絵の祭壇画も書いており,リッポ・ディ・ダルマシオが特別に時代遅れの画家だったわけではないだろう.

 ルネサンス期のボローニャの画家たち,例えばアミーコ・アスペルティーニの個性豊かな画風,フランチャの端正で美しい絵,そしてバロック期にイタリアと西欧の芸術をリードしたボローニャ派の画家たちの絵は確かに魅力的だ.

 しかし,私の好みから言うと,ボローニャで最も見たいのは,ヴィターレ・ダ・ボローニャ,プセウド・ヤコピーノ,ダルマシオ・スカンナベッキ,シモーネ・デイ・クローチフィッシのゴシック絵画だ.

 その中にあってリッポの作品は,最も若い世代に属するせいか,洗練度が高まり,ルネサンスが近いような印象を与え,かえって古拙な魅力に乏しい感があるかもしれない.

 なかなか彼の作品に出会う機会がないので,今のところ,たまにその名を冠した作品に出会える魅力的な画家と思う程度の知識と理解しか得られておらず,4回のボローニャ行で,諸教会と博物館で複数の作品を観ることができたにもかかわらず,その個性を把握するにいたっていない.

 今回観ることができたサン・ベネデット教会の「聖母子」は,国立絵画館の三翼祭壇画「聖母子と聖人たち」の聖母に顔が良く似ており,リッポの作品だという説得力はあるように思う.

 伊語版ウィキペディアの作品リストには,ピストイアのマドンナ・デッルミルタ(謙譲の聖母)聖堂のために描かれ,現在は同地の市立博物館にある剥離フレスコ画「謙譲の聖母子と4人の天使たち」(1382年)が最初に挙げられている.

 しかし,ピストイア市立博物館で撮って来た(ここも2007年に行った時は撮影禁止だったが,今期は可になっている)写真を確認にしても,そのような解説プレートがついた作品は確認できなかった.

 「lippo di dalmasio pistoia」でグーグルの画像検索にかけると,白黒写真だけだが,ボローニャ大学に付属するフェデリコ・ゼーリ基金のデータベース(数年前に,藝大のラテン語の授業に出席して下さっていた中世美術の若手研究者から教えていただいたことがあるので,専門家も参照するページだと思う)の写真がヒットした.

 これを参考に,ピストイアの写真を再検証すると,通常の展示室ではなく,同じ建物(アンツィアーニ宮殿)の中の椅子がたくさん置かれていて集会場として使用されているらしい広間(中世の彫刻なども飾られている)の壁にそれらしき作品があった.印象に残ったので撮って来た剥離フレスコ画がその作品のようだ.

 自分の好みの絵として写真に収めていた訳だから,一応この目で観ていたことになる.しかし,撮って来た写真を見てもリッポの特徴がある絵なのかどうかは分からない.この画家のイメージを自分の中で醸成していくには,この作品も含めて,複数の絵をさらに丁寧に何度も鑑賞していく必要があるのだろう.

 もちろん,その複数の作品が本当にリッポの作品かどうかは私には分からないが,今までの専門家による研究の成果に立った推定であろうから,今のところそれを信頼して経験を積み重ねるしかないだろう.

 ただ,これから何度リッポの作品を観られるだろうか.もしかしたら,永遠に学習予定対象のままかも知れない.それでも,今まで観ることができた複数の作品から判断する限り,はっきり自分の好みに合う画家のように思える.


トスカーナとボローニャの交流
 ピストイアで1359年に「ボローニャの画家ダルマシオ」(ダルマクシウス・ピクトル・ボノニエンシス)が,サン・ジョヴァンニ・フオルチヴィタス教会の壁龕に絵を描いたという記録がある(伊語版ウィキペディア)ということなので,リッポの父ダルマシオはトスカーナで仕事をしているようだ.

 また,ピストイアのサン・フランチェスコ教会の中央礼拝堂に残るフレスコ画「聖フランチェスコの物語」と,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のバルディ礼拝堂のフレスコ画「聖グレゴリウスの物語」もダルマシオもしくはプセウド・ダルマシオと仮称される別の画家が描いた可能性も指摘されているので,ボローニャの画家たちがジョットの影響を受けながら,トスカーナで仕事をし,時期は違っても,その中にダルマシオの息子リッポもいたということなのだろうと想像する.

 時代はだいぶ下るが,アミーコ・アスペルティーニが,ルッカのサン・フレディアーノ聖堂の礼拝堂に「ヴォルト・サント(聖なる顔)の物語」を描いているので,トスカーナとボローニャの芸術上の交流は中世,ルネサンス,バロックと絶え間なく続き,その中のある時期にリッポ・ディ・ダルマシオもトスカーナで仕事をしたと考えて良いのだろう.勝手な思い入れだが,そう思うとますますリッポの絵をなるべくたくさん観たいと言う気持ちになってくる.

 ボローニャで仕事をしたトスカーナ出身の最初の画家が誰だったか,今のところ情報がないが,少なくともトスカーナの芸術家の中でも指折りの巨匠が2人ボローニャに作品を遺している.チマブーエとジョットである.

 ジョットの多翼祭壇画はボローニャの国立絵画館にあり,2008年に観ることができた感動を報告している.

 この多翼祭壇画には「フィレンツェの画匠ジョット(ヨクトゥス)の作品」というラテン語の記銘が聖母子の玉座の基壇にある.1738年には現存しないボローニャの教会サンタ・マリーア・デリ・アンジェリ教会の聖具室にあった(伊語版ウィキペディア)らしいが,正確なことはわからない.

 板絵の祭壇画なので,本人がボローニャに来ずに,フィレンツェで描いたとしても運べるわけだから,ジョットがボローニャで仕事をしたという証にはならない.ジョット晩年(1337年没)の1330年から34年頃の作品と考えられている.

写真:
チマブーエのマエスタ
サンタ・マリーア・
デイ・セルヴィ聖堂


 チマブーエの「玉座の聖母子と天使たち」(マエスタ)は,現在はサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂にあるが,彼がボローニャで描いたのか,元々セルヴィ聖堂のために描いたのかも確かな情報は無い.

 この作品は1885年までは名前の伝わらない別の画家の作品と考えられていた(伊語版ウィキペディア)くらいだが,現在は,ルーヴル美術館のマエスタ(ピサでの仕事)に続き,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂のフレスコ画のマエスタ,ウフィッツィ美術館の「サンタ・トリニタのマエスタ」に先行する,1280年代前半に描かれたチマブーエの作品と考えられている.

 確かな情報の無いまま,多くの人がチマブーエの作品とし,現在はセルヴィ聖堂の後陣を囲む周歩廊の礼拝堂にあるこの作品をずっと観たいと思っていた.


サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂
 2008年1月,今期7月の2回とも,着いた時は儀式中で遠慮したセルヴィ聖堂の拝観を,8月にようやく果たすことができた.早く行かなくてはと気持ちはせくものの,途中,開いている教会があればつい拝観してしまい,3つも拝観した後で漸くセルヴィ聖堂に辿り着いて,一通り堂内を見終えたとき,鐘が鳴り,この日も宗教儀式が始まったので,ギリギリのタイミングだった.

写真:
床置きされている
チマブーエのマエスタ

鉄柵があって礼拝堂の中
には入れないので,解説
板も読めない.


 チマブーエのマエスタは,礼拝堂の一つに置かれていた.コイン式の明かりもあったが,正面の窓から午前中の光が射し込んでいて,奥の隅に置かれた作品は見辛かった.さらに礼拝堂を閉ざしている鉄柵の向こう側で距離もあった.さらに言うと,向かって右側の壁の左端に無造作に立てかけてあって,斜めにしか見ることができなかった.

 祭壇画でありながら,祭壇に飾られていないので,もともとあった場所ではないことを想起させる.

 絵の右側には写真付きの相当詳しい解説板が置かれているが,鉄柵の扉は閉ざされていて,一体誰があの解説板を読むことを想定しているのだろう.しかし,ともかく10年間思い続けた作品をようやく観ることできた.

 ジョットの多翼祭壇画と違って,なかなかすぐに傑作と認識するに至らないが,今まで観ることができたチマブーエ作品との共通性もあると思う.一方,他のマエスタに比べ,聖母の表情が落ち着いていて,作品自体にも個性があるように見える.将来の悲劇的運命を感じさせない愛情に溢れた聖母子のように思われる.

 解説板の上方の壁には,リッポ・ディ・ダルマシオ作「聖母子,聖コスマスとダミアヌス」のフレスコ画が描かれているが,こちらはもともとこの教会のために描かれたであろう.そもそも教会の献堂が1346年とのことなので,チマブーエのマエスタはその60年前くらいに描かれたことになるので,この聖堂のために描かれたとは思えない.


写真:リッポ・ディ・ダルマシオ作「聖母子,聖コスマスとダミアヌス」(部分)


 セルヴィ聖堂にも周歩廊があって,その周囲にはいくつか礼拝堂があるが,礼拝堂ではない壁面にヴィターレ・ダ・ボローニャのフレスコ画断片も見られる.さらに,一見,木製の枠にテンペラ画のパネルが嵌められている多翼祭壇画のように見えるが,テラコッタ製の多翼祭壇画枠にフレスコ画で描かれたリッポ・ディ・ダルマシオ作「玉座の聖母子,ピエタのキリスト,聖人たち」,それからヴィンチェンツォ・オノフリ作の浮彫付き壁龕と彩色テラコッタの「聖母子と聖ラウレンティウス,エウスタキウス」もあって,暗いが目を凝らすと見応えがあった.

 オノフリのテラコッタの丸彫り風塑像はペトロニオ聖堂で「キリスト哀悼」を観ている.15世紀末から16世紀初頭にボローニャで活躍した彫刻家(彫っていないのでテラコッタ塑像製作者とでも言うべきだろうか)だ.

 インノチェンツォ・ダ・イーモラの「受胎告知」(16世紀前半),フランチェスコ・アルバーニの「聖アンデレの殉教」(1641年), 同「我に触れるな」(1644年)などルネサンスからバロック期の油彩の祭壇画は確認したが,リッポのフレスコ画断片「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」は見ていない.

 修道院にはグイド・レーニ「カルロ・ボッロメーオと天使たち」.ジョヴァンニ・ダ・モデナ「聖母子」があるとのことだが,修道院にも聖具室にも行っていないので見ていない.

 前述のように,全ての芸術作品を確認できたわけではないが,一通り堂内を見渡した頃に,儀式の開始を告げる合図があったので,後ろ髪ひかれながらも辞去した.

写真:
サンティ・バルトロメオ・
エ・ガエターノ教会のクーポラ


 セルヴィ聖堂に辿り着く前に,大聖堂を再訪し,他に「ボローニャの斜塔」近くのサンティ・バルトロメオ・エ・ガエターノ教会を拝観した.

 撮って来た写真と伊語版ウィキペディアで,ルドヴィーコ・カッラッチの「ヴァラッロの墓の前のカルロ・ボッロメーオ」,フランチェスコ・アルバーニの「受胎告知」は確認できた.他にも良く描けた祭壇画が複数あった.

 天井や壁面のフレスコ画を担当したのは,アンジェロ=ミケーレ・コロンナアゴスティーノ・ミテッリジャーコモ・アルボレージとのことだが,いずれも初めて聞く名前のような気がする.ボローニャもしくはその周辺などエミリア=ロマーニャで生まれ,ボローニャで活躍,スペインまで仕事を求め,そこで亡くなった画家(ミテッリ)もいるようだ.

 クーポラ天井のフレスコ画「聖ガエタノの栄光」を描いた画家アントニオとジュゼッペのロッリ兄弟の名も初めて聞くが,聖母がガエタノをキリストに紹介し,神がガエタノに加冠しようとしている絵だということは撮って来た写真で確認できる.四隅のペンデンティヴには教会博士が描かれている.

 小さな絵だが,「聖母と眠っている嬰児イエス」はグイド・レーニ作(伊語版ウィキペディア)とのことだが,こじんまりしていて巨匠の作品かどうか俄には確信が持てない.彩色テラコッタの美しい「キリスト哀悼」があるが,作者の情報は今のところ得られていない.

 この後,サンティ・ヴィターレ・エ・アグリコラ教会を拝観し,市立芸術コレクション,市立中世博物館を見学し,その後,サンタ・マリーア・イン・ガッリエーラ教会,通称フィリッピーニ教会を拝観して,15時9分発のローカル線に乗り,プラートで乗り換えて,16時30分にフィレンツェに帰着した.

 ボローニャの報告は1回で終わらせるつもりだったが,「あれを見た,これも見た」と言っているだけで,長くなってしまったので,“後篇に続く”として一旦筆を置くことにする.







礼拝堂の隅に置かれたチマブーエ
三度目の正直でようやく
サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂