フィレンツェだより
2007年6月26日


 




アレッツォの坂道で



§アレッツォ遠足

アレッツォに行った.大詩人でルネサンス人文主義の教祖ペトラルカが生まれた町であり,『画人伝』の作者で自身も高名な芸術家だったジョルジョ・ヴァザーリの故郷だ.


 フィレンツェから電車に乗り,ヴァルダルノというアルノ川の渓谷地帯を通って,電車の巡り合わせが良ければ50分くらいで着く.

 駅を降りると,綺麗でこじんまりとした地方都市で,13世紀までは教皇党のフィレンツェと,トスカーナの覇権を争った皇帝党の中核都市だったとは思えないほどだ.ダンテも参加した1289年のカンパルディーノの戦いが分岐点らしく,フィレンツェに対して劣勢になり,後にその勢力下に組み込まれた.ドゥオーモの前の広場には,フランカヴィッラによるトスカーナ大公フェルディナンド1世の立像がある.

 今回の遠足の第1の目当ては,サン・フランチェスコ教会バッチ礼拝堂にある,ピエロ・デッラ・フランチェスカ(c.1418 - 1492)のフレスコ画「聖十字架の物語」である.

 昨日インターネットで予約状況を確認したところ,次の空きは7月22日ということだった.インターネット枠以外で入れる可能性は皆無ではないにしても,限りなくゼロに近いであろうと思われたが,他にも見るべきものがあるし,ともかく電車移動の成功体験がほしかったので,「だめもと」で一度行ってみることにした.

 クレジットカードも使える自動券売機は昨年ローマに来たときも体験済みだが,英語表示で購入もできるし,間違いをできるだけ少なくするためにも,大変ありがたかった.

 電車も空いていて良かったし,全車禁煙の座席の座り心地も快適だった.携帯電話の発明はイタリア人のためだったのではないかと思うほど,少人数でも大声が飛び交っているが,これは仕方がないだろう,ここはイタリアだから.


サン・フランチェスコ教会
 駅をおりて,グィド・モナコの名前を冠した通りと彼の像のある広場を直進して,右に曲がったところがサン・フランチェスコ広場で,そこにサン・フィランチェスコ教会はあった.

 教会自体は入場券なしで入れるし,バッチ礼拝堂の「聖十字架の物語」も外からではあるが,かなりの満足度で鑑賞できる.しかし,礼拝堂自体に入れてもらって,じっくり見たい場合は,教会の向かって右側の建物にあるビリエッテリア(入場券売り場)で,空き状況を確認しながら入場券を購入する必要がある.

 幸い予約は一杯ではないらしく,すぐに入場できるとのことで,後述するモストラとセットの入場券を購入した.鉄道で来た場合は割引になるとのことで,乗車券を見せたら,かなりの割引をしてくれた.ビッチ礼拝堂の入場券と国立中世・近代美術館の特別展の入場券が1人9ユーロ,これが大変価値あるセット券だったことを後で実感した.

写真:
サン・フランチェスコ教会
右の建物にビリエッテリア


 堂内は暗く,礼拝堂は撮影禁止なので,下の写真は雰囲気だけだ.右下に見える人が座っているところまでは無料で拝観できる.それでも一度見た人,もしくは画集等であらかじめ知識のある人は,だいぶ満足のいく鑑賞ができると思う.

写真:
サン・フランチェスコ教会
バッチ礼拝堂


 私たちは初めてだし,予備知識もないので,入場券が買えたのを幸いに,じっくりと礼拝堂内部で鑑賞させてもらった.聞きしに勝るすばらしいフレスコ画で,かなりの修復を経ているとはいえ,よくぞこれだけのものを残してくれた,とアレッツォ市民,アレッツォ県民,トスカーナ州民,イタリア国民に心から感謝したい.

 サン・マルコ教会で見たチーゴリの「十字架を運ぶエラクリオ」と同じ主題のビザンツ皇帝ヘラクレイオスが,ササン朝ペルシアのホスロー2世を破った戦いの場面が生々しかった.

 ピエロ・デッラ・フランチェスカは,同じアレッツォ県でも,アレッツォ市からはかなり離れたサンセポルクロ(「聖墳墓」という意味だろうか)の出身で,トスカナ州,ウンブリア州,マルケ州に渡って活躍の場を求めた画家だ.アレッツォ周辺ではこの人の作品の紹介に大変力を入れているようだ.

 今回まったく偶然だったのだが,「ピエロ・デッラ・フランチェスカとイタリアの宮廷」という特別展が,国立中世・近代美術館で開催されていて,見ることができた.

写真:
駅舎に貼られていた
特別展のポスター



特別展「ピエロ・デッラ・フランチェスカとイタリアの宮廷」
 この特別展には,ルーヴル美術館から「シジスモンド・ポンドルフォ・マラテスタの肖像」が来ていたし,私たちがウフィッツィで見られなかった「ウルビーノ公爵夫妻の肖像」と同夫妻が主人公である「バッティスタ・スフォルツァとフェデリーゴ・モンテフェルトロの勝利の馬車」(この絵の画題「凱旋行進」もペトラルカの詩がもとになっている)もここで見ることができた.

 影響関係のある画家の作品が集められていたが,すばらしい作品も多かった.特に,フィリッポ・リッピの非常に特色のある「聖母子」がミラノのスフォルツァ城美術館から来ていた.百合の花を持つ「聖ドメニコ」と頭を剣で割られた「殉教者ペテロ」はドメニコ会系の宗教画ではおなじみの聖人(別の修道会の聖人たちであることは後日わかった)で,サン・マルコ美術館のフラ・アンジェリコの絵などにも出てくるが,これが聖母子を囲んでいる可愛い子ども姿で描かれており,百合はともかく,いたいけな顔立ちの男の子が鉈のような剣で頭を割られているのはどうかと思うが,画力があるので,絵としては立派だ.

アレッツォ市以外からも幾つかのピエロの作品(「セニガッリアの聖母子」国立マルケ美術館など)が来ており,彼の描く女性像の特徴が一生忘れられないほどしっかりと把握できて稀有の体験をさせてもらった.


 この美術館の常設展示で,ピエロに次ぐ,本日の2つ目の学習項目,スピネッロ・アレティーノの傑作に出会うことができた.この作家については,昨日ケルビーノとバルディーニが書いた英訳版ガイドブックで予習するまでは殆ど知らなかったが,大変な力量の画家で,万が一アレッツォでしか見ることができないのであれば,アレッツォに何度でも通いたいと思われるほどだ.

 ケルビーニとバルディーニが名前を挙げていたアレッツォで見られる重要作家として,

 マルガリート・ダレッツォ(1250年頃活躍)
 スピネッロ・アレティーノ(c.1350- 1411)
 ジョヴァンニ・ダニョーロ・ディ・バルドゥッチョ(c.1370-1452)
 パッリ・スピネッリ(1387-1453)
 ロレンティーノ・ダンドレーア(1430-1506))
 バルトロメオ・デッラ・ガッタ(1448-1502)
 ルーカ・シニョレッリ(c.1450-1523)
 ドメーニコ・ペコリ(c.1480-1527)
 ニッコロ・ソッジ(1480-1552)


 などがある.中でも美術館の常設展示にあった,どこかのリュネットにあったのであろう剥離フレスコ画,スピネッロの「聖三位一体」は大傑作に思えた.


スピネッロ・アレティーノ
 ラテン語の授業で文字を説明するとき,英語とほぼ同じだが,少し違いがあり,中でも分りにくいのがJとIの区別だという話をする.Jはもともとはなかった文字で,Iは母音でありながら,次に母音が続くと子音の役目(日本語のヤ行にあたる)も果たすので,子音の時使われる文字として,Jが中世につくられた.そういうわけで古典期にはない文字だが便利なので,授業ではJを使う.

 しかし,たとえば中世やルネサンスの絵画で「キリスト磔刑」を見ると,キリストの上に「I.N.R.I」と書いてあることが多い(下の写真は,サン・サルヴィ旧修道院博物館蔵のダーヴィデ・デル・ギルランダイオの剥離フレスコ画).

写真:
イエスの頭上に
書かれた「I.N.R.I」


 これは,「ナザレのイエス,ユダヤ人の王」(イエースス・ナザレウス・レックス・ユーダエオールム)というラテン語のそれぞれの語の頭文字を連ねたものだ.「イエス」,「ユダヤ人」は,たとえば英語ではジーザス,ジュー(ズ)というようにJが使われるのに,ここでIが使われているのは,もともとJはIだったのであり,特に大文字を使うときは,中世・ルネサンスでもIが使用されるのだという話をして,文字の説明に使わせてもらう.

 英語のジーザス・クライスト,フランス語のジェジュ・クリは,Jを使うのが,イタリア語は音優先でジェズ・クリストはGが頭文字になる(クリストもChは使わず,Cで始まる)ので,ラテン語を全く知らないイタリア人(決して少なくないと思われる)がI.N.R.Iという文字を見て「イエス」という固有名詞を想起するのは,まったく知識と習慣に拠ることになる.

 キリストが磔刑にされている絵柄には,その文字の上に鳩が飛び,さらに上に大きく手を広げた威厳のある男性が描かれていることが多い.「父なる神」だ.この神と,鳩が意味する「聖霊」,磔刑になっている「子なるイエス・キリスト」が三位一体である,というのがキリスト教の根本理念だと多くの本に書いてある.「三位一体」を意味するラテン語トリニタースからできた英語のトリニティーは学校の名前などによく使われている.

 カルト宗教を含め「キリスト教」を称する宗派はたくさんあるが,私たちが,ローマ・カトリック,プロテスタント,東方正教(ギリシア正教,ロシア正教など)として認識しているものはすべて,この理念の上にたっており,彼らに言わせればこれ以外は「キリスト教ではない」ということになる.高校世界史で習った「アタナシウス派」という考えの人たちの系譜に属するのが現在の「正統な」キリスト教ということになる.実際には「異端」とされた「ネストリウス派」のキリスト教も現在に続いており,私たち異教徒には理解することが難しい.

 そういう議論を超えて(本当は簡単に超えてはならないのだろうが)「聖三位一体」の主題で描かれた絵は傑作であることが多い.

 サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会で傑作とされるマザッチョの「聖三位一体」を見たときに,磔刑のキリストの両脇に聖母と洗礼者ヨハネが描かれ,さらに枠外に寄進者の姿が描かれていたのは何も驚かなかったが,磔刑のキリストの上にI.N.R.Iの文字がなく,どこを探しても鳩が飛んでいないので,こういう絵柄もあるだなと思った(後日:よく見ると,鳩はいるようだ).

 マザッチョの絵でも,「神」は威厳のある中年から初老の男性に描かれているが,スピネッロの「聖三位一体」では,「神」は若者ではないが,若々しく美しい顔に描かれていたのが印象に残る.「三位一体」だからもともとキリストと同一人物である訳だが,これほどキリストその人のイメージを感じさせる「神」を見たのは少なくとも私は初めてだ.



 フィレンツェでスピネッロの作品を今まで見た記憶がないと思っていたが,調べてみると,サン・ミニアート・アル・モンテ教会の聖具室の「聖ベネディクトの物語」を描いたのが彼だった.作者は,力のある画家だと思うけど,あまり聞かない名前だと思っていた.

 アレティーノという苗字のように使われている通称は,アレッツォのラテン語名アレーティウムの形容詞アレティーヌス「アレッツォの」のイタリア語形である.ペルージャ出身ならペルジーノ,フィレンツェ出身ならフィオレンティーノになるのと同じ言い方だ.

 アレッツォ限定の画家であればわざわざ「アレッツォの」という必要はないだろうから,多分アレッツォ以外でも彼の作品は見られるのだろう.シエナピサブダペストで見られるらしい.

写真:
「受胎告知」
スピネッロ・アレティーノ


 上の写真は聖ドメニコ教会で見たフレスコ画で,スピネッロが描いた「受胎告知」だ.同教会はジョットの師匠チマブーエの「キリスト磔刑像」で知られ,実際にそれはすばらしい作品だが,その磔刑像が掲げられている中央祭壇の向かって右側の礼拝堂の左側の壁にこの絵はあった.サン・ドメニコ教会では入口から入って,ファサードの裏の右側の壁の「使徒ピリポとヤコブ」もスピネッロの傑作だ.

 スピネッロや息子のパッリ・ディ・スピネッロ(パッリ・スピネッリ)のフレスコ画はサン・フランチェスコ教会にもある.特にスピネッロの「大天使ミカエル」はすばらしいの一語につきる.アレッツォはフレスコ画ファンにはこたえられない場所だろう.さらにスピネッロのものではないが,ドゥオーモ(サン・ドナート教会)にもフレスコ画はある.


ドゥオーモ
 ドゥオーモの外観は古風だが,実際にはファサードは20世紀のものらしい.それでも威厳に満ちた,ドゥオーモの名にふさわしい立派な教会だった.

写真:
アレッツォのドゥオーモ
(サン・ドナート教会)


 堂内はあくまでも暗く,荘厳な祈りの場である.後で購入したガイドブックによれば,天井画にも多様な彩色が施されているのだが,それが全くわからないほど暗かった.

 1点だけだが,ここにもピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画「マグダラのマリア」がある.こんなに堂々としたマリア・マッダレーナを見たのは初めてだ.見惚れてしまう.

写真:
「マグダラのマリア」
ピエロ・デッラ・フランチェスカ


 絵の左側には,アレッツォ中興の英雄グィド・タルラーティの墓がある.

 入口から奥に向かって左側に大きな「慰めの聖母の礼拝堂」には,アンドレーアを中心とするロッビア一族と工房による彩釉テラコッタの「聖母子」,「聖母被昇天」があり,大きな2枚の絵が掲げられている.そのうちの1枚がピエトロ・ベンヴェヌーティ(1769-1844)の「ホロフェルヌスの首を掲げ持つユディット」で,迫力のある作品だった.

 ベンヴェヌーティもアレッツォ出身の画家であるらしく,内陣のレオナルド・スパダーリの祭壇にも彼の「聖ドナトゥスの殉教」があった.ドナトゥス(ドナートゥス)はローマ時代に殉教したアレッツォの第2代司教で,この街の守護聖人サン・ドナートだ.

 フランス人ギョーム・ド・マルシヤのステンド・グラス(16世紀前半)も見るべきものとされている.

写真:
ドゥオーモの堂内


 入口左脇の売店で,イタリア語版しかなかったが,「アレッツォのドゥオーモ」というガイドブックを買った.年配の女性がウィンクして絵葉書をつけてくれた.スピネッロの「受胎告知」だった.ドゥオーモ付属の司教区博物館(ムゼーオ・ディオチェーザノ)にあるもので,今日は見られなかったが,サン・ドメニコと同じく天使ガブリエルと聖母マリアが二人ともブロンドの髪だ.



 モストラが嬉しい誤算で予定外の時間をとられたので,見られなかったものもたくさんある.「ヴァザーリの家」はそもそも火曜日定休だったが,アレッツォはローマ時代から陶器が有名だったらしいので,考古学博物館を見られなかったのは残念だった.

 駅前の噴水に,フィレンツェの考古学博物館で見たキマイラ像のコピーがあるが,これももともとはアレッツォで出土したものだそうだ.キケロの書簡やカエサルの著書に言及のあるアレッツォは古代エトルリアの都市であり,その意味でも次回は是非考古学博物館を訪ねたい.

 トップの写真はドゥオーモから,大きな公園になっているパッサッジョ・デル・プラートのペトラルカ像を横目にみながら,下り坂になっているイタリア大通り(コルソ・ディターリア)を駅に向かっていたときに,振り返って撮った写真だ.写真右奥はヴァザーリの設計による「開廊の宮殿」(パラッツォ・デッレ・ロッジェ),左奥にあるのが,現在図書館になっているプレトリオ宮殿で,そこから少し入ったところに「ペトラルカの家」があるらしいが,今回は見なかった.

 右手前にあるのが,サンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会で,下の写真はそのファサードである.右側の鐘楼が有名らしいが,森厳とした内陣の中央祭壇にあるピエトロ・ロレンツェッティ(「福者ウミルタの祭壇画」がウフィッツィ美術館にある)の「聖母子と聖人たち」が良かった.正面ではなく聖母を見つめているキリスト,聖母の衣装の模様が印象に残るし,聖母子の上にある「受胎告知」も美しく描かれていた.やはりイタリアの芸術は,マドンナ・コル・バンビーノと受胎告知につきるなあ,との思いを新たにした.





サンタ・マリーア・
デッレ・ピエーヴェ教会