フィレンツェだより
2007年6月29日


  




ロシア教会のクーポラ



§スティバート博物館

ともかく少しでも涼しい間に,歩く距離が長くなるところは行っておこうと思い,先日庭園と外観だけ見てきたスティバート博物館に行くことにした.


 折角なので,コープに行く途中いつも,クーポラだけを遠くに眺めているロシア教会(キエーザ・ルッサ)を近くから見ることにして,いつもとは違うコースを辿ってコープの方角に歩き出した.


ロシア教会
 サン・ザノービ通りを北上,バルトロメイ通りを曲がって,アレクサンドリアの聖カテリーナ通り(ヴィーア・サンタ・カテリーナ・ダレンサンドリーア)に出て,ノストラ・シニョーラ・デル・サクロ・クォーレ教会サン・ジュゼッペ教会を横目に見ながら,スパルターコ・ラヴァニーニ大通りを越えて,ポリツィアーノ通りを北進,ロレンツォ・イル・マニフィコ通り,レオ10世通りと進んで,ロシア教会の前に出た.

 この教会の特徴は,なんといっても「多色陶器のロシア風片鱗状クーポラ」(『最新完全版ガイドブック フィレンツェ』,p.190)である.

 デミドフというフィレンツェの所々で見る名前のロシア貴族の寄進によって,プレオブランゼンスキーの設計で20世紀になって建てられた新しい教会だそうだ.今日は入ることはできなかったが,中にも見るべきものがあるらしいので,チャンスがあれば,内部もいつか見てみたい.

写真:
クーポラが目を惹く
ロシア教会



大詩人ジョン・ミルトン
 教会のある角を右に曲がると,ジョヴァンニ・ミルトン通りに出る.ジョヴァンニはヨハネのことで,古代ギリシア語ではヨーアンネース,ラテン語ではヨハネス(ヨーハンネース),ドイツ語ではヨーハン,スペイン語はフアン,ポルトガル語はジョアン,フランス語ではジャンだ.

 ヨハンと言えば,洗礼者ヨハネ(ジョヴァンニ・バッティスタ)と福音史家ヨハネ(ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ)がおなじみだが,前者はイタリア語でもジャンバッティスタ,フランス語でもジャン=バティストという男性の名前になっている.フランス語では特にポピュラーで,劇作家モリエールの本名もジャン=バティスト・ポクランだ.

 日本語のドンファンは「ドン・フアン」で,イタリア語では「ドン・ジョヴァンニ」となり,モーツァルトのオペラが有名だ.モリエールも同じ人物を主人公に喜劇を書いたが『ドン・ジャン』ではなく,『ドン・ジュアン』というタイトルだ.

 話が脱線したが,要するにジョヴァンニは英語ではジョンだから,ジョヴァンニ・ミルトンは叙事詩『失楽園』を書いた17世紀イギリスの大詩人ジョン・ミルトンのことである.プロテスタントの中でも特に反カトリック的なイメージがあるピューリタンのミルトンがイタリア贔屓なのは不思議だが,彼の足跡もフィレンツェにあるらしい.

彼はイタリア語のソネットも書いているし,もちろんイタリア旅行をしている.イタリア出身の家系の友人の死を悼んでラテン語の牧人哀歌も書いている.


 ともかく,そのジョヴァンニ・ミルトン通りを西進し,ヴィットリオ・エマヌエレ2世通りに出て,進路を変え,踏み切りを渡って,しばらく歩くと,スティバート通りに出るので,先日と同じ坂を登って目的に着いた.


スティバート美術館
 金曜日は6時まで開館していることは確認していたので,ビリエッテリアに行ったが,2時まで待ってほしいとのことだったので,庭などの写真を撮って時間をつぶした.

 下の写真の建物は,「ヘレニズム風小神殿」(イル・テンピエット・エレニスティコ)というらしい.中にいるヴィーナス風の女性は先日エジソンで購入した伊英対訳のガイドブックによれば花の女神フローラとのことだ.

 屋根に注目すると,ロシア教会のクーポラとよく似た多色陶器が使われている.全く説明されていないが,ガイドブックに別の作品との関連でデミドフという名前が出てくるので,あるいは関係があるかも知れない.

写真:
「ヘレニズム風小神殿」


 2時になり,再びビリエッテリアに行った.入場料は1人6ユーロ,保全上の理由で,案内の人がつき,時間は1時間とのことだった.

 最初に通された広間には絵画がたくさんあり,肖像画が多かったが,アレッサンドロ・アッローリの「マグダラのマリア」,ルーカ・ジョルダーノの2枚の絵(「ロトと娘たち」と「スザンナと老人たち」)が目をひいた.

 絵画では別の部屋にあった「大天使ミカエル」が傑作に思えた.帰宅後ガイドブックで確認したところコジモ・ロッセッリの作品だそうだ.サンティッシマ・アヌンツィアータの小開廊のフレスコ画の1場面を描いた画家だ.やはり別の部屋にあったボッティチェリ作とされる「聖母子」も確かにそれらしい作風で印象に残るものだが,真作かどうかについてはあるいは議論があるのかも知れない.私は好きな絵だ.

 武具・甲冑のコレクションは大変なものだった.私たちが見ても,こんな重そうなものを着たり,振り回したりするのはいやだし,突かれたり,切られたりしたら,痛いと思う間もなく死んでしまうだろうなと思うくらいだが,勉強にはなったし,興味のある人には必見の展示だと思う.

 ローマ史(「ザマの戦い」もあった)などを題材にしたタペストリーがなかなかの水準に思えたし,陶磁器のコレクションはジノーリやウェッジウッドの良いものがあり,セーブル焼きも上品で美しく,大変な収集に思える.

 1804年にフランス皇帝となったナポレオンが1805年にイタリア国王に戴冠したときの礼服もあった.神聖ローマ皇帝がイタリア国王となる昔日の伝統復活を図ったのだろうか.スティバートはこの礼服を800リラで買ったそうだ(Lonely Planet Florence, 2004, p.111).彼は曽祖父の莫大な遺産を引き継いだ大金持ちだが,やりての骨董商だったようだ.

写真:
スティバート美術館の外観



サン・ジュゼッペ教会
 帰路は,せっかくだからとコープに寄って,買い物袋を抱えながら,「とかげ作戦」と称して,建物の日陰から日陰に身を寄せるようにして歩いた.

 サンタ・カテリーナ通りまで戻ったところで,いつ前を通っても閉まっていた教会の扉が開いていることに気づいた.市の立て看板の説明が完全に剥がされてしまっていて,これまで名前もわからなかった教会だが,今日幸運にも拝観させてもらってサン・ジュゼッペ教会という名前も確認できた.

 頼りにしている立て看板が読めないので,由緒あるものがあるかどうかはわからなかったが,ファサードの浮き彫りの「ピエタ」と,内部のステンドグラスが美しかった.

写真:
サン・ジュゼッペ教会


 帰宅後,フリーペーパー「フローレンティン・ネット」をもらうために書店エジソンに行った.

 ついでに買おうと思っていた2007年版の英語版ロンリープラネットは売り切れていたが,私はBURの対訳シリーズから『プリアポス詩歌集』とカルプルニウス・シクルス『牧歌集』,それから詳注版のクセノポン『騎馬術論』(リミニ,2007)と,コロポンのニカンドロスの六歩格詩『テリアカとアレクシパルマカ』を購入した.

 合計61ユーロと大きな買い物となったが,こんなマイナーな作品に普及版があり,詳注版が一般の大型書店で売っているところがすごい.本の存在さえ知っていれば,日本で代理店やインターネットで買えるであろうが,感動のあまり我慢できなかった.


サンタ・マリーア・マッジョーレ教会
 エジソンに行く途中,サンタ・マリーア・マッジョーレ教会に寄った.マリオット・ディ・ナルドのフレスコ画を見るためだ.スティバート博物館には少しだが中世の板絵のコレクションもあり,その中に,マリオット・ディ・ナルドの描いた「聖母子」があった.彼の作品は,昨日サン・ミニアート・アル・モンテ教会でも見ることができた.

 ここ,サンタ・マリーア・マッジョーレ教会では,堂内の柱に,彼のフレスコ画が残っている.先日ガイドブック等を調べていて,そのことを知ったので,今回は,数あるフレスコ画のうち,重点的に彼の作品を見た.確かに彼の作品は傑作だと思う.

写真:
マリオット・ディ・ナルドのフレスコ画
サンタ・マリーア・マッジョーレ教会


 教会では今晩開かれる合唱団のコンサートのリハーサルが行われていたので,本格的な鑑賞は遠慮した.柱の絵の他にも見事なフレスコ画が幾つかあったので,別の機会にまたじっくり鑑賞させてもらうつもりだ.

写真:
フレスコ画に満ちた堂内



ミルトンの足跡発見!
 ルーコラというこちらに来てなじみになった西洋野菜がうまく,これがまた日本蕎麦に良く合う.昨日,中央市場で久しぶりに良いルーコラが買えたので,帰宅途中にアジア食材の店ヴィーヴィ・マーケットに寄り,蕎麦と納豆を買った.

 この店があるジリオ通りのあたりにジョットの旧居があるような話を聞いていたので,プレートか何かないかと探して歩いていたら,見つかったのは「1638年と1639年にジョン・ミルトンがここに滞在したと言われている」というものだった.

写真:
ジョン・ミルトンの足跡を
しめすプレート


 26日はアレッツォに行って帰ってきた後,滞在3ヶ月無事経過を祝って,李慶餘飯店で外食.翌日はいつもより少し高めの10ユーロ超のワインを開けた.

 このワインを買ったのは,「パテル」(父)という名のラテン語名だったからではなく,ワイナリーの「フレスコバルディ」という名前が,私が好きなバロック音楽の作曲家と同じだったからだ.フレスコバルディ家という名家が今もフィレンツェで続いていることは日本で読んだ雑誌で知っていた.家訓は「よく働け」だそうだ.

 ワイナリーと作曲家と現在のフレスコバルディ家がどういう関係かは今のところわからない.





フレスコバルディのワイン