フィレンツェだより
2007年7月3日


 




アレッサンドロ・アッローリ
「最後の晩餐」



§サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会,ムゼーオ再訪

サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会のムゼーオを再訪した.アレッサンドロ・アッローリの「最後の晩餐」を見るのが主な目的だったが,もうひとつ見たいものがあった.パオーロ・ウッチェッロのフレスコ画だ.


 現在はムゼーオの一部となっている修道院の「緑の回廊」には「創世記」を題材とした一連のフレスコ画が描かれている.昨日,プラートでウッチェッロのフレスコ画を見ることができたので,彼の描いた「天地創造」,「ノアの箱舟」をもう一度見たくなったのだ.

 チケットを買って中に入ると,すぐそこが「緑の回廊」だが,一連のフレスコ画はあとでじっくり見ることにして,回廊の先にある展示室へと進んだ.

 まず手前の部屋で,オルカーニャ作と伝えられる,以前は教会のファサードを飾っていた何枚ものパネルを見て,奥の一室へ進むともう旧「食堂」だった.アレッサンドロ・アッローリの「最後の晩餐」はそこにあった.


アレッサンドロ・アッローリの「最後の晩餐」
 この作品は,今まで見た「最後の晩餐」の諸作品と違い,「食堂」にはあるものの,フレスコ画ではなく油絵で,なおかつ不思議な形のカンヴァス画になっており,一体どういう形で「食堂」に飾られていたのかわからない.

 前回来たときも確かにこの作品を見たし,写真もOKなので撮影したが,うまく撮れていなかったのと,他の古い作品に比べ,ずっと新しく見えるこの作品が浮いて感じられて画像を消去してしまったので,残っているのは「最後の晩餐(ウルティマ・チェーナ) 1584年 キャンバスに描かれた油絵(オリオ・ス・テーラ)」という,絵の下にあった小さなプレートの画像だけだった.

 サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会の修道院「食堂」にもアッローリの「最後の晩餐」があり,ブランカッチ礼拝堂を予約して見ると,一緒に見られるらしい.写真で見る限り,カルミネの「最後の晩餐」はフレスコ画の伝統を踏襲した作品に思える.

 しかし,今日見ることができた「最後の晩餐」は,ガイドブックで確認したときもそう思ったが,他の作品とは違う,時代の流行を反映した,油絵ならではの「最後の晩餐」に思えた.

写真:
「最後の晩餐」(部分)
アレッサンドロ・アッローリ


 ピンクのシャツの襟をくつろげた伊達男のような姿のキリストが左手に葡萄酒を持ち,右手で登場人物の一人に食物の乗った皿を渡している.キリストの斜め向かいに左手の掌に金を乗せている人物がいるので,これがユダであろうから,皿を受け取っているのはユダではない.

 若いヨハネはキリストの左隣(私たちから見ると右)にいるが,彼は眠っても,伏してもおらず,キリストに「主よ,それは誰ですか」と問い質しているようにも見えない.ただキリストの視線は別の人物を見ており,ヨハネの視線がユダと思われる人物を見ている.

 キリストだけが全てを知り,ユダは事態の進展をどうすることもできず,ヨハネはおぼろげながらユダが裏切り者であることを察知し,その他の人物は動揺している.そのように見え,劇的な瞬間を演出している絵だと思うがどうであろうか.

 ウェブサイトにある写真で見ると,カルミネにあるアッローリ「最後の晩餐」は,ヨハネがキリストに問い質し,キリストの右(向かって左)でユダがうろたえているように見え,殆どアンドレア・デル・サルトと同じ構図になっているように思える.カルミネの作品が1582年だから,ノヴェッラの「最後の晩餐」はその2年後に描かれたことになる.

 このわずか2年の違いで,作風が変わったのか,状況や時代潮流が変わったのか,新しいことをしてみたかったのか,それはわからないが,趣の違う「最後の晩餐」を2つも残したアッローリという画家に興味を覚える.

 サンタ・クローチェで見た「十字架降架」が1560年,1536年に生まれて1607年に亡くなった画家なので,「十字架降架」の時24歳,カルミネの「最後の晩餐」が46歳,ノヴェッラの「最後の晩餐」を描き始めたのが48歳くらいということになる.


キャンバスの不思議な形
 実はサンタ・マリーア・ノヴェッラ旧「食堂」には,もう1つアッローリの作品がある.右下の写真を見てもらうと,「最後の晩餐」の左手の壁面は,床にダッディのポリプティックがあり,その上方に大きなフレスコ画があるのが見える.

写真:
旧「食堂」
右壁に「最後の晩餐」
左壁面にはフレスコ画


 下の写真は,そのフレスコ画をアップにしたものだ.中央に四角くあるのは「聖母子と聖人たち」で,14世紀後半にアーニョロ・ガッディの周辺にいた人物の作品であろうとされている.

 それを囲むようにしてあるのがアッローリのフレスコ画「岩から湧き出る水と,ウズラの到来,天から与えられたマナ」である.これは「出エジプト記」を出典とする話で,約束の地へと赴くユダヤ人に,神が水と食糧を与える場面が描かれている.

写真:
中央は「聖母子と聖人たち」
周囲にはアッローリのフレスコ画


 ウェブページ「フィレンツェのチェナーコリ」に掲載されている写真では,この「聖母子」のフレスコ画がある部分に,代わってアッローリの「最後の晩餐」が掲げられている.「最後の晩餐」のキャンバスの両側の丸く突き出た耳のような部分は,もとは自身の描いたフレスコ画の中に,ぴたりと嵌るようになっていたと思われる.

 「最後の晩餐」が取り出されて,「聖母子」のフレスコ画が見られるようになっている今は,両端の耳のような丸い部分は,剥落したように白いままだ.

キャンバス画の「最後の晩餐」は「天恵のマナ」のフレスコ画とセットで「食堂」を飾っていたことになり,『旧約』と『新約』から,それぞれ食事に関わるテーマが選ばれていたことになる.


 「天恵のマナ」は1597年の作品ということなので,「フィレンツェのチェナーコリ」に書かれている通り,「最後の晩餐」が84年から92年にかけて描かれた作品なら,その後に加えられたことになる.


「最後の晩餐」を追いかけて
 ギルランダイオは,5年間で4作の「最後の晩餐」を描いたとされる.そのうちサン・マルコとオンニサンティの旧「食堂」の作品は見ることができた.

 バディア・パッシニャーノの修道院「食堂」にも,弟のダヴィデとの共作の「最後の晩餐」があるという情報を得たが,フィレンツェ近傍(キャンティ地方)といっても,交通手段の確保が難しい場所だ.ワインの試飲ツアーにでも参加するか,バディア・パッシニャーノという銘柄のワインを飲んで満足するか,今のところ普通に見せてもらえる見込みは立っていない.あと1つはどこにあるのかも今のところ私たちは知らない.是非,知りたいものである.

 オルカーニャの「最後の晩餐」があるサント・スピリトの旧「食堂」は修復中とのことだが,もちろん撮影厳禁で構わないので,是非拝観の栄に浴したい.サント・スピリトの修復が私たちの滞在中に終わらないのであれば,近い将来観光客としてフィレンツェを訪れた時にチャンスを狙うしかない.

 実は,ここのところ新たな学習項目としてしばしば登場するマッテーオ・ロッセッリが,サン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会の修道院「食堂」に「最後の晩餐」(1612年)に描いたと,同教会の市が立てた説明看板に書いてあるのを見つけた.であればアッローリの作品が一連の「食堂」に描かれた最後の「最後の晩餐」ではないことになる.これはウェブページ「フィレンツェのチェナーコリ」にも出てこない未確認情報だ.今後見られるチャンスがあれば,ロッセッリも力のある画家であることは既に諸方で確認済みなので,是非その「最後の晩餐」を見せてもらいたい.


回廊のフレスコ画
 「緑の回廊」で,ウッチェッロ自身の手による部分,彼の弟子たちの協力を得た作品,その他,「創世記」の様々なエピソードに基づく一連のフレスコ画をじっくりと見た.前回は「天地創造」と「アダムとイヴの誘惑」の場面に大きな魅力を感じたが,今回あらためて見て,ノアの洪水とその後の様子を描いた場面が大変良い作品に思えた(一番下の写真).

 その後,スペイン礼拝堂に行き,アンドレーア・ボナイウートのフレスコ画を見た.この画家も相当な実力を持っていると思われる.ボナイウートに関しては後日,他で見られる作品とともに考えてみたい.

 ウッチェッロとその周辺の画家たちの作品の他にも,幾つかのフレスコ画があり,それぞれに興味深いものがあった.その中の一つが,「緑の回廊」と「大回廊」の間に通路と「食堂」への入口の上にある磔刑図だ.

 磔刑のキリストの両脇の聖人はドメニコとトマス・アクィナスで,さすがにドメニコ会系の修道院の回廊だと思わせる.ボナイウートのフレスコ画でもトマスは大きく扱われている.しかし,興味深かったのは,14世紀前半の作品とされるこの絵の作者が,推定だがステーファノ・フィオレンティーノとされていたことだ.


写真:
ステーファノ・フィオレンティーノ
の作品とされる磔刑図


 サンタ・クローチェのガイドブックでは,ジョットの弟子としてジョッティーノ,マーゾ・ディ・バンコ,ステーファノの3人の名前を挙げて言及している.ジョッティーノはウフィッツィで作品が1点見られるし,マーゾはサンタ・クローチェのバルディ・ディ・ヴェルニオ礼拝堂とムゼーオに作品がある(前者は見せてもらえなかったが).残り一人の弟子ステーファノという画家の作品はどこで見られるのかわからなかったが,果たしてこの画家の作品であろうか.時代的には整合するが.





「ノアの洪水」
パオーロ・ウッチェッロ