フィレンツェだより
2007年7月13日


 




サン・ロレンツォ教会
中庭付き回廊



§13日の金曜日

13日の金曜日と言っても,キリスト教徒でない私たちにはもともと関係がないのだが,時々めぐってくるこの日にちと曜日の組み合わせには,何か特別な意味があるように思えてしまう.


 子供の頃に,テレビでこれを新知識として仕入れた同級生が学校で言って回ったのが頭にしみついたからだろう.カトリックの国にいるかどうかはこの際関係がない.しかし,今日は私たちにとっては良い日だった.



 サンティッシマ・アヌンツィアータ広場からドゥオーモに向かうセルヴィ通りにあるサン・ミケリーノ・ヴィスドミニ教会については,6月12日に紹介している.このとき掲載できたのは外観の写真だけで,ここにある最大の宝物であるポントルモの「聖なる会話」については,堂内があまりに暗くて,うまく撮れなかったので,ウェブページにある画像にリンクした.

 今日,ヴィスドミニ教会を再訪し,「聖なる会話」の撮影に再挑戦した.暗い堂内でしばらく頑張ってみて,やはりだめだなと絶望しかけたとき,聖具室係の方が照明をつけてくださった.

 写真は画集やウェブページでも見られるが,よく見える環境で実物を鑑賞できる喜びは何にも換えがたい.もちろん照明には影響されるわけだが,そんなことを言っていてはきりがない.おかげでじっくりとこの絵を見ることができた.もちろん貧者の一灯の喜捨をさせていただいた.

写真:
ポントルモ作
「聖なる会話」


 嬰児のイエス,しっかりイエスを指差しているジョヴァンニーノ,上方にいる天使の笑顔が本当に美しい作品だ.イエスがマリアの手から渡されて,ヨセフに抱かれているのも珍しい絵柄だ.右下方で聖フランシスが跪いて恍惚としているのは私たちには不思議な光景だが,そんなことは全く気にならない.

 本当にすばらしい傑作である.聖家族とジョヴァンニーノ,聖人たちと天使たちという盛りだくさんの構図がこれほどすっきりと整理されている絵は見事というしかないだろう.ポントルモは真に天才の名に値する.

ポントルモ 聖なる会話 写真:
「聖なる会話」(部分)
聖母子,ジョヴァンニーノ,
聖フランシス


 他にもエンポリの「イエスの誕生」,ポッピの「イエスの復活」,パッシニャーノの「洗礼者ヨハネの説教」をきちんと確かめることができたし,私たちにとっては無名のアゴスティーノ・チャンペッリの「聖母の誕生」も高水準の絵であることを認識できた.

 中央祭壇の両脇にある剥落の進んだフレスコ画もしっかり写真に収めることができて,感謝のうちにヴィスドミニ教会を後にした.



 その後,街中に出てチェルキ通りのサンタ・マルゲリータ・デーイ・チェルキ教会に行った.6月10日以来,1カ月ぶり2回目の訪問である.

 初めて訪れた時,祭壇画「聖母子と聖人たち」はロレンツォ・ディ・ビッチの作品か,孫のネーリ・ディ・ビッチの作品かが問題になった.今回は,じっくり見て「顔の造形が今ひとつならネーリ」という,単純明快だが究めて乱暴な基準で結論を出そうと決めていた.

 堂内に入って,真っ直ぐ祭壇に行き,目を凝らして絵を見つめたが,暗くてよくわからない.諦めかけたとき,またしても50チェンティの喜捨をすると明かりがつく,金額はマチマチだが他の教会でも見られる仕組みがあるのに気づいた.

 喜んで50チェンティを投じた結果,下の写真ではよく分からないかも知れないが,肉眼でしっかり確認した結果,顔が今ひとつなので,ネーリの作品であるという結論になった.

 明かりをつけたおかげで,この祭壇画のプレデッラも,距離の制約があるので,よく見えるというほどではなかったが,一応見ることができた.サイド・チャペルに,プレデッラだけ残ってる古い絵が2つあるが,その絵柄も確認することができた.時間が短かったので,写真には収められなかったが.

 祭壇画の前にある石は「グランデ・ピエトラ」(偉大な石)と言うそうで,光のあたり具合で「イエスと洗礼者ヨハネの出会い」が見えるというものだ.確かに顔が浮かびあがっているように思えた.この石だけは常時ライトアップされているので,祭壇に明かりをつけたら塩の山のように白く写ってしまった(写真右下).

写真:
祭壇画「聖母子と聖人たち」と
「グランデ・ピエトラ」


 その後,コルソ通りに出て,サンタ・マルゲリータ・イン・サンタ・マリーア・デーイ・リッチ教会に寄った.

 この教会の中央祭壇には剥離フレスコ画の「受胎告知」(下の写真)が祭られており,これが教会の起源にかかわっていることは立て看板の説明で知っていたが,今回ようやく,その大体の言われを理解することができた.

写真:
中央祭壇の剥離フレスコ画
「受胎告知」


 手がかりは,サイド・チャペルの一つにあった絵物語の板絵だった.それを見たとき,最近どこかで同じようなものを見た記憶があると思ったが,解説を読んで納得した.そこにある板絵はコピーで,本物はスティバート美術館にあり,私たちは,そこで実物を見たのだ.

 とにかく,どこかの教会のリュネットにあったこの「受胎告知」のフレスコ画に石を投げて傷つけた男が,「聖物冒涜」の罪で絞首刑になり,遺族が償いのためにこの教会を建てたという物語らしい.

 そう言えば,ルッカのサンタゴスティーノ教会で年配の修道女が説明してくださった「奇跡」も,その礼拝堂に祀ってある「聖母子」の剥離フレスコ画に物を投げつけるという冒涜を行った者が突如として火の責め苦に襲われたというものであった.

 いずれにせよ,このリッチ教会では「受胎告知」は大変な意味を持っており,祭壇に祀られているばかりでなく,ステンドグラスにも,礼拝堂新しい絵の題材にも「受胎告知」が用いられていた.


バルドヴィネッティ
 話は変わるが,アレッソ・バルドヴィネッティという画家についてはフィレンツェに来るまで全く聞いたことがなかった.あるいはどこかでは聞いたことがあるのかも知れないが,少なくとも記憶の中にはなかった.

 こちらでも作品はまだ2つしか見たことがない.サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の奉納物の小開廊にある一連のフレスコ画のうちの一場面「イエスの誕生」と,サン・ミニアート・アル・モンテ教会のポルトガル人枢機卿の礼拝堂にある「受胎告知」だ.

 彼の「受胎告知」はウフィッツィにもあるそうだが,確認していない.アカデミア美術館で彼の作品を1つ見たはずなのだが,残念ながら当時は注目してなかったので,しっかり鑑賞しなかったようで記憶にない.

 奉納物の小開廊の「イエスの誕生」に関しては,うまく写っていないが6月10日に写真を紹介している.ここで見られるフレスコ画ではアンドレア・デル・サルトの「マリアの誕生」と「三王の到着」,ポントルモの「エリザベト訪問」が傑作で,他にはアンドレア・デル・サルトの聖人フィリッポ・ベニーツィの生涯を描いた5場面が次に見るべきもので,ロッソ・フィオレンティーノの「聖母被昇天」,さらに聖フィリッポの修道会入会を描いたコジモ・ロッセッリの絵がそれに次ぐものとされるか知れないが,私はフランチャビージョとバルドヴィネッティが好きだ.

もともとマイナーに走る傾向を私は持っているが,他の作品ではわりに赤系統の色が目を引くのに対して,この両者は青が印象に残る.特にバルドヴィネッティの絵ではヨセフの衣と空の青が,牧歌的な風景の中によく活かされているように思う.


 バルドヴィネッティの師匠はドメニコ・ヴェネツィアーノで,フラ・アンジェリコの影響も受けているそうだ.師弟関係や影響関係が,具体的にどう作品に現れるのかは私にはわからないが,彼の工房にいたであろうと考えられるのが,ドメニコ・ギルランダイオであると聞くと,この人もまたフィレンツェ,イタリア・ルネサンスの絵画の歴史の中に大きな地歩を占めている人なのだと思わないではいられない.


サン・ロレンツォ教会再訪
 7月10日は午後サン・ロレンツォ教会を拝観した.ここは教会にしては1人2.5ユーロの拝観料がかかるところだが,先日ピストイアで「開眼」した説教壇の傑作がある.2つともドナテッロの作品だ.

 ここで思わぬものを見た.ギルランダイオの工房の作品「聖ラウレンティウスと聖ユリアヌスに囲まれる玉座の聖アントニウス」と,ミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオの「聖母被昇天」である.まだまだギルランダイオの呪縛が解けていないようだ.

 作品そのものはどちらも心打たれるというほどのものではなかったが,前者では「剣」を持つ聖ユリアヌスの姿の確認と,オレンジと糸杉が生えている風景画的背景が印象に残ったし,後者も父リドルフォの衣鉢を次ぐかのように思える作風を確認できた.

 ミケーレの作品はアカデミアのカタログで見る限り,「ギルランダイオ」という名前から受ける印象とは程遠いものだったので,何かほっとするものがあったが,画風に連続性があればかえって,天才であるおじいさん,能才であるお父さんとの才能の違いが際立つようにも思える.(後日:他の箇所でも言っているように,ミケーレはリドルフォの弟子で,子どもではなく,したがってドメニコの孫でもない.この時は,それを知らなかったので,このような感想を持った.)



 さて,目当てにしていたドナテッロの説教壇からは,今日は大きな感銘を受けることはなかった.しかし,力の入った場面も多く,これがサン・ロレンツェでは見逃せない作品であることは言うまでもないだろう.

 「説教壇」には2つのタイプが見られるように思える.ピストイアで見たジョヴァンニ・ピザーノのものは柱の周囲をめぐる螺旋階段の上に,小さなスペースがあるもので,これはサンタ・クローチェのベネデット・ダ・マイアーノのものと同じ型,サン・ロレンツォのドナテッロのものは2つともサン・ミニアート・アル・モンテのものと同じく,四角い大きな箱型のスペースが高いところ置いてあるものだ.

写真:
ベネデット・ダ・マイアーノ作
説教壇
サンタ・クローチェ教会


 ドナテッロと彼の工房の作品では,ブルネレスキが設計した旧聖具室にある「聖ステパノと聖ラウレンティウス」,「聖コスマスと聖ダミアヌス」の2つのリュネットの大理石の浮き彫り彫刻が良かった.これらの下にはそれぞれブロンズの扉があるが,そこに浮き彫りされた「殉教者たち」と「使徒たち」も彼の工房の作品だ.また,旧聖具室の天井の四隅にはトンド(円形)になった四福音史家の浮き彫りがあり,これも傑作だ.

 旧聖具室には前回あまり注目しないまま過ごしてしまった作品として,ヴェロッキオの「ピエロ・イル・ゴットーゾとジョヴァンニ・デ・メディチの墓碑」があるが,今回はしっかりと確認した.「痛風病み」(イル・ゴットーゾ)と言われるピエロとジョヴァンニは老コジモの息子で,前者はロレンツォ豪華王の父である.確か,ピエロの胸像はミーノ・ダ・フィエーゾレの作品がバルジェッロ美術館にある.

 彫刻系では,堂内に戻ると,デジデリオ・ダ・セッティニャーノの「秘蹟の祭壇」もある.これは頂点部分にいる幼児のイエスがすばらしいが,デジデリオの傑作をすでに見てしまった私たちには少し不満も残る.

 板絵では,フィリッポ・リッピの「受胎告知」があるが,プレデッラに描かれた幾つかの場面が一体何だろうかと思って印象に残る.これについて何か参考書があればよいのだが,日本語版の公式ガイドブック『メディチ家礼拝堂美術館とサン・ロレンツォ聖堂』には残念ながらその情報はない.遠近法と透明な水差しに特徴があるそうだが,特に心打たれることはなかった.

むしろ,別の礼拝堂にあった16世紀フィレンツェの無名の画家による「イエスの誕生と礼拝」のやつれた農婦のような顔の聖母とひょうきんな顔のイエスが印象に残る.イタリアの庶民の顔だと思う.有名な作品だけでなく,こういうマイナーな作品についても情報がほしい.


 ロッソ・フィオレンティーノの「聖母の婚約」は,顔に特徴のあるこの画家が,通常は老人に描かれることの多いヨセフを若者に描いているのが目を引く.ガイドブックを書いたパオルッチという「フィレンツェ・ピストイア・プラート地区 芸術歴史的文化財監督局局長」は様々な長所を挙げた上で,「これらを心底まで鑑賞するには(中略),ジョルジョ・ヴァザーリを読む必要がある」と言っているが,ヴァザーリを日常的に読む人はガイドブックには鑑賞の手引きを求めないだろう.

 しかし,反発を感じながらも,何が書いてあるかは知りたいので,帰国したら寓居の本棚の重しになっている『画人伝』の日本語訳を是非読んでみたい.



 フィリッポ・リッピの絵がある礼拝堂には,19世紀に造られたドナテッロの墓碑があったが,ロッソ・フィオレンティーノの絵がある礼拝堂でも大変なものを見つけた.14世紀の作曲家フランチェスコ・ランディーニの墓である.

古代ローマの繁栄を知っているので,中世以後の西欧文化も全てイタリアに起源があると思いがちだが,イタリアで様々な文化が栄えるのは13世紀以降である場合が多く,意外に多くの文化を南フランスその他から摂取して,それが中世後期にイタリア文化の基盤になっているように思われる.


 グレゴリオ聖歌は,伝説の通りなら,東方教会の影響を受けながらもイタリアで生まれたかも知れないが,私たちよく知っているポリフォニー音楽はといえば,古いところでは14世紀のフランスの詩人であり作曲家であるギョーム・ド・マショーの「ノートル・ダムのミサ曲」が挙げられ,その後ブルゴーニュ地方やフランドル地方から大作曲家が現れる.

 イタリアにギョーム・デュファイやジョスカン・デプレに匹敵する大作曲家が出現するのは,16世紀のパレストリーナを待たなければならない.パレストリーナが亡くなったのが確かオルランドゥス・ラッススと同じ1594年であるから,その意味で,マショーと同時代のランディーニはイタリアが生んだ最初の大音楽家と言ってもよく,何の予備知識もなく,この墓に出会えたのはこの上なく喜ばしい驚きであった.

 他にもガイドブックには乗っていなかった作品でも興味深いものが幾つかあったが,それらに関してはまた後日紹介したい.サン・ロレンツォの聖堂の出口のところにある礼拝堂に大きな板絵があり,目をひかれた.「聖セバスティアヌスの殉教」で,作者はエンポリだった.





傑作を堪能した後
サン・ロレンツォ広場にて