プレゼン道入門

――科学研究の口頭発表、ポスター発表のよりよい手法―――

 

 

学会における口頭発表やポスター発表は、情報交換の手段として今後ますます重要になる。しかし多くの講演者の講演スタイルには、情報伝達の効率という点において非常に大きな問題がある。本書では、どうすればよい口頭、ポスター発表ができるかという技術について解説する。その技術はきわめて簡単、常識的なものであり、だれでもが瞬時にマスターできる性質のものである。よい口頭発表のエッセンスを述べれば、トランスペアレンシーは内容を精選して、大きな字で書くと言うこと、また話すときは、聴衆の方を向いて、聴衆とアイコンタクトをしながら話すと言うことである。 ポスター論文は目立つように、美しく作ると言うことである。さらにプロジェクターという新兵器の威力も解説する。

 

 

プレゼンとは何か

プレゼンとはプレゼンテーションの略である。プレゼンという言葉は、これまでは主として、広告会社が広告主に対して行う説明行為をさしていた。しかし、ここではもっと一般的な意味で使う。つまり、ある人が他の人々に、自分の意見、意志、学説あるいは商品などについて、口頭や機器を用いて説明して、説得、売り込みをはかる行為をさす。ビジネス目的のプレゼンでは、社内会議での報告、新製品の発表や売り込みなどがこれに当たる。

本書では、科学研究におけるプレゼンに限定して話を進める。これをテクニカル・プレゼンとかアカデミック・プレゼンとよぶ。科学研究におけるプレゼンの代表は学会発表である。それには口頭発表とポスター発表がある。そのほかにも、大衆を対象とした科学についての一般講演とか、大学における講義もプレゼンの一種であり、これから述べる様々な技法は、それらにおいても役に立つものである。

私が個人的に始めたプレゼン研究の成果、および他の解説書から得られた知識などをまとめてここに報告する。私はプレゼン技術の総体をプレゼン道と勝手によんでいる。

 

  1. プレゼンの重要性

1.1 科学研究におけるプレゼン

科学研究は、

 

(1) 問題の発見、設定

(2) 問題の解決

(3) 成果の発表

 

の3段階に分けられる。多くの研究者は、その精力の多くを(2)の問題の解決自体に費やし、(3)の成果の発表は付加的なものとして扱ってきた。しかしながら、如何に優れた研究がなされても、それが発表され、認知されなくては意味がない。少なくとも研究者の業績にはならない。その意味で、研究発表は研究者にとって、問題の解決自体と同様に大切な行為である。

研究成果の発表方法としては、雑誌などに発表する論文によるものと、学会などで行われる口頭、ポスター発表に分けられる。論文作成に関しては、研究者はかなりな精力を費やしている。科学論文の書き方に関しては、従来、様々な研究もあり、文献、参考書も多い。しかし、口頭発表とかポスター発表となると、研究者にとっては、ほんの片手間事と考えられ、それについて解説した文献も少ない。

しかしこの忙しい世の中で、原著論文をじっくり読む時間はますます少なくなってきている。そこで情報は国際会議や学会、研究会などで、耳から得られることがますます多くなっている。その意味で、口頭発表やポスター発表は、これからますます重要になってくる。

以上に述べたように、プレゼンの技術というものは、科学研究成果の認知、普及、宣伝において、きわめて重要である。というようなことをいうと、古手研究者のなかには次のように言う人もいるだろう。「きみ、データだよデータ、いいデータを出しさえすれば、必ず認められるものだよ。」果たして、そうであろうか?

私は研究において内容が重要でない、などと言うつもりは毛頭ない。研究の内容、質が重要なことは論を待たない。そのことをふまえた上で、私の言いたいことは次のようなことだ。ここに二つの同レベルの研究があったとしよう。一つの研究は、研究者が立派なプレゼンを行い、多くの聴衆に感動を与えた。もう一方は貧相なプレゼンを行い、聴衆は会場を出ていくか、眠るかしたとしよう。すると、どちらが後により高い認知度や評価を受けるかは自明であろう。

 

 

1.2 私のプレゼン研究の動機…科学における西欧帝国主義

 というようなえらそうなことを言ってみたものの、私自身、論文の口頭発表など、これまで軽視してきたのは事実である。過去の自分自身の学会発表、講演などを思い出すと、忸怩たる気分になる。私は、よい研究をして、よい論文をきちんと書きさえすれば、必ず認められると言う、古き良き時代の考え方にならされていた。実際、私の指導教官の世代の人たちは、それで成功してきたのである。つまりろくに学会発表もせず、国際会議に出ずとも、それでも立派な研究をして、きちんと雑誌に論文発表してきた人は国際的にも認められてきたのである。

 しかし、研究者の数が増えて、競争が激しくなってきた昨今はそんな悠長なことも言っておられなくなった。自分のことで恐縮だが、私は10年ほど前に、共同研究者と、天文学上のある理論的予言を行い、それを海外の有名雑誌に発表した。最近になって、その予言が観測で確かめられた。するとそれまでは、我々の研究に見向きもしなかった海外の研究者が、その問題に取り組み始めた。しかしそれらの論文の中には、研究の歴史から、私たちの寄与を無視して、西欧人の研究者がそれを発見したかのごとき記述をしているものを発見して愕然とした。私はこれを「科学研究における西欧帝国主義」となづける。

 この手の被害を受けた日本人研究者は多いのではないかと想像する。私の分野の宇宙物理学における(日本での)有名な例としては、宇宙論における木原、東辻、三好などの、銀河の分布の相関に関する研究がある。これは数年後、アメリカのピーブルス(Peebles)()発見したのだが、世界ではピーブルスの業績と言うことになっている。私は外国で実際にピーブルスの講演を聴いたが、木原たちのことには一言も触れなかった。あとでひとりの(外国人の)聴衆が、私に「あれは木原たちの発見だよな」と言っていた。

日本人の業績が評価されにくいことに関して、それには私自身を含む日本人研究者にも、多少の責任はあるのである。欧米の研究者は多くの国際会議に出て、自分の業績をしゃべりまくる。するとそれを聞いた聴衆は、その仕事が日本人ではなく西欧人によってなされたという印象を受けるのは仕方のないことである。

一方、日本人は従来、地理的な問題と旅費の問題から、国際会議には出席しにくかった。(もっとも現在では、この事情はかなり緩和されている。)しかしたとえ出席したとしても、英語が下手な上にプレゼンが下手なために、話を聞いてもらえないのである。科学の共通語は英語である。欧米人、特に英米人は、この点、日本人に比べて非常に有利な立場にいる。日本人は一般に英語が下手である。さらにその上に、もしプレゼンが下手であれば、もうどうしようもないのである。

そういった私の評価に対して、ある人が、外国人といっても英語の下手な連中は存在すると指摘した。たとえばロシア人、中国人などだ。欧州人でも、フランス人、イタリア人などは相対的に英語が下手である。しかし、アメリカ、英国、カナダ、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランドの人々は英語を母国語としている。さらにオランダ、ドイツ、北欧、南アフリカ、インドの人たちは英語が流ちょうである。科学の世界、とくに天文学の世界において、これらの人々だけで、主要部分のほとんど90パーセント近くを占めるのではないだろうか。だから英語の下手な外国人がいることは、なんら慰めにならないのである。

 

1.3. 私の見るプレゼン技術の現状

私は以上に述べたような認識から、最近は国内外の(天文学、数値流体力学関係の)学会における研究者のプレゼン技術を批判的に観察している。その結論は、日本の若手研究者はほとんどが落第である。古手の研究者、大家も大多数は落第である。

私はプレゼンに興味を抱いてから、国際会議での西欧人のプレゼンを批判的に観察し始めた。そこで発見した意外な事実は、西欧人といえども、必ずしもプレゼンが上手とは限らないと言うことであった。これは私にとって、大発見であった。このことを逆手にとれば、日本人は多少英語が下手であっても、プレゼンの方法さえしっかりとマスターすれば、英語の上手な欧米人と対等に戦えるのである。

具体的に言えば、外国人の書くトランスペアレンシー(トラペ)の字は、多くは汚い手書きであったり、字がきわめて小さいのである。またトラペに字を書きすぎるのである。とても遠方から読めたものではない。その点、日本人の若い人の書くトラペは一般的には、コンピュータを用いて印刷した物が多い。(この点、古手研究者はだめで、汚い手書きが多い。)つまりトラペの質に関しては、日本人の方が外国人よりましな場合が多い。

立派なプレゼン技術を持っているのは、企業、とくに外資系企業の研究者ないしはビジネスマンである。私は外資系のコンピュータ企業、たとえばHPSUNのプレゼンを何度も見聞きして、その感を強くした。彼らは徹底的にプレゼン技術を訓練されているのである。それがまさにビジネスに直結するからだ。私は彼らのプレゼンから教えられることが多かった。これが私のプレゼン研究開始の理由の一つである。

 

1.4 プレゼンは重要であるという認識が重要

 それに刺激されてプレゼン技術を研究してみると、それは難しいことでも何でもない、きわめて当たり前、常識的なことがらの集大成であることがわかった。プレゼンの準備にかける時間とか、精力も、研究自体にかける精力から比べれば、微々たるものでしかない。しかし、その微々たる努力を怠ったために、研究全体が認められないと言うことがあっては、なんとばからしいことではないか。「たかが、プレゼン、されど、プレゼン」なのである。

それでは、どうしたらよいプレゼンをすることができるか。それはきわめて簡単なことである。プレゼンは重要であるという認識を持つことである。もう、これにつきるといってもいいすぎではない。重要であると認めさえすれば、それではどうすればよいプレゼンをできるかという問題意識を持つであろう。すると結果は常識的なことなのである。前日まで計算していて、前日の夜にあわててトラペを書くなどと言うのは論外であることが分かる。発表を重視していない証拠である。

 

 

  1. 口頭発表の一般原理

 

2.1 口頭発表の目的

 論文発表の目的は、研究の先取権の主張である。口頭発表は雑誌での論文発表より先に来るから、なおさらその意味合いが強い。大家や古手研究者にとっては、それによって、自分の研究を宣伝し、科研費やグラントを要求する手段となるであろう。

 いっぽう、若手研究者にとっては、さらに自分自身を知らしめすという目的がある。特にまだ就職していない人、また昇進、異動をもくろむ人にとっては、自分を未来のボスに知ってもらうことが重要である。プレゼンとは、若手にとっては、自分の研究を売り込むと同時に、自分自身という商品を売り込む手段なのである。その意味で、よい口頭発表をすることは重要だ。しかし、逆に悪いプレゼンをして、悪印象を植え付けるとマイナス効果にもなるのである。このようにプレゼン、とくに口頭発表は、諸刃の刃なのである。ポスター発表では、悪いポスターは単に無視されるだけであり、その点、安全性が高い。

 

2.2 口頭発表の目指すべき目標<

口頭発表の目指すべき目標は次のことである。

  1. 分かりやすい話をする。
  2. 説得力のある話をする。
  3. おもしろい話をする。

分かりやすい話をするための必要条件は、きわめて常識的なことである。話がよく聞こえるように大きな声ではっきりとしゃべらなければならない。またトラペなどのビジュアル・エイドがよく見えなければならない。そのためにはトラペの字は教室の最後尾からでも読めるように大きく書け、そのために1ページには10行以内にせよ、したがって話の内容は精選せよなどである。またトラペは汚い手書きではなく、コンピュータを使ってプリントをすることも読みやすさの点では大切である。

 説得力のある話をするには、聴衆の方を向いて、聴衆の目を見てしゃべれ、時間超過するな、などであろう。面白い話をするには、聴衆の興味を引くような図やグラフ、写真を用いよ、カラーを使え、などなどである。こんなことは言われてみると、当たり前であるし、実行もきわめて簡単であることが納得できるであろう。本書では、これらのことを順次、吟味していく。

 

2.3 誰を対象に話すか

プレゼンで重要なことは、まず聴衆の注意を引くことである。しかしプレゼンをする人がその道の大家である場合は、実はプレゼン技術などはどうでもよいのである。なぜなら聴衆は大家の話を聞こうと集まっているのであるから、特に意識しなくても聴衆の注意を集めることはできる。

プレゼンをする人が、地位の確立した古手の人なら、プロモーションなど目ではないであろう。自分の地位に満足している人は、この文を読む必要はない。しかし、日本の科学の成果を世界に知らしめたいと思っているときは、大家や地位の確立した人といえど、プレゼン能力は重要である。また後で強調するのだが、大家、古手の指導者層は、弟子のプレゼン能力に対する責任がある。当然、若手研究者は以下の文を是非読んでいただきたい。彼らにとっては、これからはプレゼンの上手下手が、まさに将来を左右することもあるのである。

口頭発表をする場合、当の研究に特に興味を持ってくれる人たち、研究上の競争相手とか仲間などは、どのみち話を聞いてくれるであろう。しかしもしその話を理解できるのが数人で、他の大多数の聴衆に、ほとんど分からない話を聞かせるとすれば、それは大多数の聴衆にとって時間泥棒以外の何者でもない。そんな話は、大多数の聴衆の前ですべきではない。個人的に廊下で話すか、ポスター論文にすべきである。少なくとも半数の聴衆に分からない、興味がもてない話をすることは、時間泥棒であり、その意味で犯罪的であるとさえいえる。

口頭発表では、少なくとも半数以上の聴衆に分かる話をすべきである。そこで問題は、そのような一般の聴衆に、いかにしてあなたの話を聞かせるかということである。この一般聴衆の中に、若手研究者の未来のボスとか、学術振興会や科学研究費、その他諸々の審査員がいるかもしれないのである。だから話の対象は、一般聴衆の中に潜んでいる、いろんな意味で自分を将来サポートしてくれるかもしれない人を目指すべきであろう。もちろんそれが誰かは分からない場合がほとんどである。

 

2.4 若手の短い講演では、話自身よりあなた自身を売り込もう

口頭発表はその長さによって分類できる。普通の学会発表は平均10-15分程度であろう。なかにはポスター論文の紹介として、1-3分の口頭発表もある。これを短い講演と呼ぼう。これより長い、たとえば20-60分のロングトークとか招待講演といったものもある。このような長い講演ができるのは、通常は大家とか古手である。

講演の時間によって話し方はかなりことなる。長い講演では、先にも述べたように大家の話が多く、その場合は、聴衆は始めから聞く気を持っている場合が多い。しかも時間が長い場合は、多少の失敗、例えば時間の不足なども挽回可能であるが、時間が短い場合は、そうはいかない。私は講演時間が短い場合ほど難しく、テクニックを必要とすると思う。ここではまず、講演時間が短い場合についての注意、心構えを述べよう。

科学研究には半年、一年の努力が必要である。短い学会講演では、各人の半年、一年の努力を10分程度にまとめることが求められている。またそのような半年、一年の努力の成果が、学会、研究会では次々と、延々と話されるのである。あなたが半年かかって理解したことが、一般的聴衆にとって、10分で理解できるであろうか。

たぶん不可能であろう。そうと思い定めれば、物事は簡単だ。短い講演で、あなたの深遠な重要な話を、完全に理解させようとしても無駄だ。重要なことは、あなたの話が重要だということを印象づけること、さらに、あなた自身が重要だということを印象づけること。これにつきる。そう思うと、話し方や身振りの重要性が理解されるであろう。ともかく強い印象を与えることである。話が完全には理解されなくても、分かったような気にさせること、興味を持ってもらうことである。それに成功すれば、会場の外で話す、プレプリや論文を送る、別の長時間の講演に招待してもらうなどして、じっくりとあなたの話を理解してもらえばよいのである。

1-3分のポスター論文紹介では特にそうだ。この場合、著者を印象づけること、論文内容に興味を持ってもらうこと、これに専念すべきである。そしてポスターのところに来てもらえれば大成功だ。しかし中には、1-3分のポスター紹介で本論文を開陳しようとして時間超過し、座長に阻止されるものもいる。完全な心得違いである。

 

2.5 大家の長話

大家の長い講演では、大家自身の名前や顔を覚えてもらうために、さらに印象づける必要性は少ない(もちろん、さらに印象づけて悪いことは一つもないが)。それよりは、何事かを理解させることが重要であろう。そのためにはいかに分かりやすい話をするかが、重要なポイントになる。私の経験では、大家は話し方が上手な人が多い。というよりは、そんな人のみが招待講演に招かれるという選択効果があるのかもしれない。

しかし私の観察によると、大家の講演は多くの場合、話が長すぎる、大量のトラペを残す、時間超過をする、といった共通の欠点を持っている。大家の長話は老人力の証明であると、私はちゃかしている。その理由は後で論考するのだが、基本的に人間は話好きだということだ。(話嫌いな人もいるだろうが、そんな人の話は面白くないから、普通は招待講演に呼ばれない。)大家にとっても、招待講演ともなれば、満座の中で自分の得意の分野を話せるのだから、得意満面、得意絶頂なのである。だからいくらでもしゃべりたいし、しゃべれるのである。もっともこのことは大家に限らず、若手でも長話はしたいのである。ところが大家の場合、座長の抑止能力が効きにくく、大家の時間超過を阻止することが難しい。だから大家は長話になるのである。私はある国際会議のバンケットで、この典型を見た。ある老大家の話が異常に長く、出席者の中には気分が悪くなってトイレに行くもの、宿の門限のために退席するものなど出て大変だった。しかし彼は自分の話に酔って、いっこうに話を止めないのには、全員が閉口した。座長は何もしなかった。

大家のプレゼンの、別の欠点として、トラペが汚い手書きが多いということがある。その理由は、トラペづくりにコンピュータを使わない、あるいは使えないということがある。使えなくはないにしても、長年やってきた汚い手書きで通用しているのだから、今更改めようという気にはならない。プレゼンを改善しようと言う意欲のない大家の長話に付ける薬はない。

 

2.6 話したいのか、聞いてほしいのか

口頭発表の目的は、自分の研究結果を聴衆に話して理解してもらうことである。これは自明の前提であると思っている人が多い。しかし、そうはいいながら、実際は多くの講演者は、話をしたい、つまりしゃべりたいだけであって、聴衆が理解したかどうかなど、実はどうでもよいのである。そんなことはないと憤慨する向きも多いであろう。しかしよく反省してみよう。

井戸端会議や雑談などで友人と話しているとき、人の話など聞いていなくて、ただただ自分のことだけを、一方的にしゃべり散らす人は多い。対話というよりは、独り言の応酬である場合が多いのである。なぜかというと、人に自分の話を聞いてもらうのは快感であるからだ。話すという行為は、ある意味で排泄行為に近い。自分の頭の中に、いっぱいに詰まった思いやら意見を、ドバッと吐き出すことは、なんと快感であろうか。

逆に、名人の落語、漫才などを別とすれば、人は他人の話を聞くのは苦痛である。自分に関心のない話を長々と聞かされることに苦痛を覚えた人は多いであろう。実際、人の話を聞くことを商売にしている人たち、たとえば精神科医、カウンセラー、西欧の聖職者たちには、胃病や精神病が多いという。悩みを抱えた人は話すことにより救われ、それを聞くカウンセラーは胃病になるのである。それほど、話すことは楽しく、聞くことは苦痛なのである。上手に話すことよりも、上手に聞くことの方が、はるかに難しいのである。

ちなみに竹下元首相は、人の話を聞くことのベテランであるといわれている。彼は人と話すときに「ほおー」、「なるほど」、「なんと」、「さすが」の四語で相づちを打つという。すると人は、竹下元首相は自分の話を聞いてくれたと思い、彼に信頼感、親近感を抱くという。それが彼の権力の源泉だそうだ。話し上手より聞き上手が難しく、また効果もある。もっとも本論文の主題は話し方の技術であるから、聴き方に関しては、これ以上触れない。

話すことは快感であるという目で見ると、多くの講演者の講演も、思想の排泄行為に近い。彼らは聴衆の興味とか理解度には、全く無頓着に、ただただ自分の話をしたいだけなのだ。そう考えなければ、あんなにたくさんのトラペに、あんなに小さな字で、あんなに内容をぎっしりと詰めて、あんなに早口でまくし立て、いらいらする聴衆を無視して時間超過する、といった行為が理解できない。彼らは聴衆がトラペを読めるかどうかは、実はどうでもよい。ただ自分の成果をできるだけ大量に話したい、見せびらかしたい、それだけだ。話す自分に酔っている自己満足の世界なのである。

本当は口頭発表においては自分だけが楽しんではいけない。相手を楽しませなければならないのである。

 

2.7 聴衆の立場に立て

そこでプレゼンに関して重要な原則が分かる。講演をして聴衆に理解してもらうには、聴衆の立場に立つということである。独りよがりはだめで、相手をよがらせるということだ。

多くの人は、大部分の時間は聴衆であり、ほんの一部の時間に講演者になるにすぎない。だから他人のダルい話には、いつもうんざりしているのである。教室の後ろに座ると、いつもトラペの字が読めないのである。時間超過にいつも内心、腹を立てているのである。このように聴衆の立場が分かっていながら、どうして講演者は自分の時だけは、聴衆の立場を忘れるのであろうか。昔、ディズニーのアニメに「ドライバー氏とウオーカー氏」というのがあった。歩いているときは上品な犬の紳士が、車に乗ったとたんに、乱暴な狼になるという話である。聴衆と講演者の関係もこれに似ている。

講演であれ講義であれ、話す人は自分の話や話し方は完全であって、それを分からないのは聴衆や学生が悪いと、暗に思っている。自分の話が分からないのは、聴衆、学生がいわゆる「落ちこぼれ」ているというわけだ。しかし、実はそうではなく、自分の話し方が悪いために、聴衆や学生を「落ちこぼし」ている、という側面を見逃してはならない。

本当のところは、講演、講義が理解されない理由は、講演者と聴衆、教授と学生、どちらにも存在するであろう。しかし講演者、教授者の立場として、聴衆、学生の理解能力を即座に改善することなどできない。できることは、自分の話を理解しやすくすることだけである。プレゼンのプロは言う。聴衆の知識程度は、中卒程度と仮定せよと。しかし、たとえば学会の講演では、ここまで低く見る必要はないであろう。それでも、聴衆の大部分はあなたが興味を持っている問題に関してはアマチュアなのである。このことを認識することは重要だ。

そうするとあなたの話が理解されないのは、聴衆のせいよりはむしろ、自分のせいなのだ。このことを自覚することが、プレゼン技術習得の第一歩である。あるいはそれが全てであり、それ以上は技術的な詳細にすぎないのである。

 

2.8  一般的聴衆とは何か

あなたの話の対象は、あなたが興味を持っている問題に関してはアマチュアの一般的聴衆である。一般的聴衆の特徴とはなんであろうか。それはあなたの日頃の聴講態度を考えたり、周りを見回せばすぐにつかめるはずだ。一般的聴衆は、あなたが大家か友人でもない限り、あなたの話など聞きたくないのである。だから彼らは、あなたの話がおもしろくないと見るや

  1. 会場を抜け出す
  2. 居眠りをする
  3. 白昼夢にふける
  4. 予稿集の関係ないページを読む
  5. 新聞やその他の本を読むなどの内職にふける

 

ことを虎視眈々とねらっている存在なのである。私自身の経験からも、おもしろくない講演の時には、他のことを考えて、よいアイデアがわくものである。そのような一般的聴衆に、いかにあなたの話に耳を傾けさせるか、それがプレゼン技術なのである。

 

2.9 プレゼン文化向上のために 

とはいえ、日本の聴衆は、一般的にはお行儀がよい。あなたの話がつまらなくても、じっと聞いていてくれる人も多い。実は、これが日本でプレゼン技術が向上しない原因のひとつでもある。日本の音楽会がそうだ。日本の聴衆は、よい演奏であれ、そうでなかれ、一定の拍手をする。しかし西欧では、悪い演奏にたいしてはブーイングをするという。すると演奏者も良い演奏をしようと必死になる。

だから日本でも、プレゼン文化を向上させるために、信賞必罰の原則を取らねばならない。つまりよいプレゼンに対しては、必ず報いる。質問をするとか、後で「よかった」と当人を捕まえてコメントをする。悪いプレゼンに対しては、ブーイングをするわけにもいかないから、会場を出るか、眠る(ふりをする)。私はわざとらしく新聞を読むことにしている。私の国際会議での講演の後に、外国人の参加者が、よかったとかおもしろかったとコメントしてくれるという経験を何度もしている。それで私もプレゼン技術の錬磨に拍車がかかるのである。われわれも国内の学会、研究会でこれを実践すべきである。

 

 

3. コミュニケーションにおける三つの要素

 

3.1 中身より外見!

学会講演に限らず、口頭によるコミュニケーションは、三つの要素で成り立っている。

  1. 言葉(話の内容)
  2. 話し方(声の大きさ、抑揚など)
  3. ボデイランゲージ(視線、仕草、外見)

 

1をバーバル、23の要素をノンバーバル・コミュニケーションとよんでいる。プレゼン技術の本を読むと、いつも引用されているアメリカUCLAのメラビアンの研究がある。それによると、コミュニケーションにおける上記3つの要素の相対的重要度は、それぞれ(1)7パーセント、(2)38パーセント、(3)55パーセントであるという!

なんということだ。もしこれが本当ならば、言葉の内容自身よりも、声とか見てくれ(視覚情報)が大切なのだ、ということになる。ところが多くの講演者は、この7パーセントの重要度しかない部分に全精力を費やして、93パーセントを占める他の要素を無視している。なんと非効率なことであろうか。人間は外見より中身が大切だ、といったモラルが語られることがある。この話は、良い悪いはべつにして、人間は中身より、その外見で判断することが多いという事実の裏返しなのである。

コミュニケーションにおいて視覚が重要であるという事実は、英語で電話を通じて会話したことのある人なら分かるであろう。面と向かって話すと分かるのに、電話を通じて話されると、とたんに分かりにくくなるのである。電話を通して英会話できる人は、真に英会話の達人である。目は口ほどに物を言うというが、これはたとえ話ではなく、真にそうなのだ。あとで強調することだが、講演するときには、聴衆の方を向いて話そう、聴衆の目を見て話そうというのは、まさにここから来るのである。

声の調子などの話し方も、言葉以上にコミュニケーションの成立に重要な要素である。たとえば「ごめん」と謝ったとしよう。文字で書くと、それ以上の情報はない。しかし、この言葉を本当にすまなそうに発した場合と、ぶっきらぼうに発した場合では、伝える情報は全く異なるのである。このように、言葉はその内容以上に、話し方が重要になってくるのである。

私はメラビアンの研究結果を次のように勝手に解釈している。人間には右脳と左脳があり、1のように意味をともなう言語の部分は主として左脳で処理され、2、3の部分は主として右脳で処理される。情報伝達においては、左脳だけでなく、右脳も活用するのが効果的である。

 

  1. 分かりやすいトラペの書き方

短い講演では、話の内容を完全に理解させることより、話を分かったと思わせること、話が面白そうだと思わせること、あなた自身を印象づけることが大切だと述べた。しかしまったく理解不可能な話が面白そうだと思うはずもないし、あなたに好感を抱くこともない。やはり話は、真に理解されるかどうかは別としても、分かりやすくするのが第一のポイントである。それではどうすれば、より分かりやすい話ができるか。まずは、この部分について述べる。そのためにトラペの効果的な書き方について述べる。その後で、強力な印象を与える話し方、アイコンタクト、身振りなどの、外見的な部分の技術的詳細に移る。

 

4.1 よい論理の構成法…結論を先に

分かりやすい話をするための、全体の論理の構成法である。結論から先にいえば「結論を先にいえ、理由は後で」ということだ。これが西欧の論理の構築法である。これはたとえば英語と日本語の構造の違いを考えてみると容易に理解できる。英語では主語の次に動詞が来る。この動詞が、いわば話の結論である。日本語では、主語は省略されることもある。その場合は、文脈から判断する。述語は最後に来る。だから日本語は最後まで聞かないと結論が分からないのである。日本人の話し方は、この日本語の構造によって、強く規定されている。

日本人の話は、いわゆる前置きが長いのである。あるいは言い訳から始まるのである。話の核心の周りをぐるぐる回るだけで、なにが言いたいのかは、最後まで聞かないと分からない人が多い。最後まで聞いても、この人は何が言いたいのか分からないか、あるいは結論がない場合すらある。要するに察してくれというわけだ。こんな話し方では気の短い人は聞いてはくれない。口頭発表ならば、聴衆は出ていくか寝るかである。おいしいところを最後に残すというのは、デザートだけにしてほしい。

話を分かりやすくするには、まず結論を先に言う。それから詳細を説明する。最後にまた結論を言う。このパターンをとりたい。アメリカのテレビでディべート番組を見いてるとよく分かる。彼らの話し方のスタイルはこうだ。「わたしの意見は、これこれである。その理由は三つある。第一に…、第二に…、第三に…、私の意見を要約するとこうなる。」

これが「論理構築のグローバルスタンダード」である。論文で言うなら、アブストラクト、本文、結論というスタイルのことだ。経済においてグローバルスタンダードと言う言葉は、欧米では使われないといわれる。あえて使ったとしても、それは世界基準などではなく、実は欧米の、それも主として英米のスタンダードにすぎない。しかし科学の世界でも、欧米、とくに英米が主となっているので、彼らのスタンダードに従うというのは、さけがたいことである。科学の発表を英語でするのが、その典型的な例である。科学研究の発表もこの「グローバル・スタンダード」に則って行われねばならない。

落語では、はじめに枕といって、どうでもよいことを、ぐだぐだと話す。そして話を盛り上げていって、最期に落ちにはいる。しかし、こんなことができるのは落語家が話術のプロだからである。話術の素人である我々は、口頭発表ではまず落ちから入ろう。落語なら落ちをいったらそれでおわりだが科学研究の発表ではそれでよいのである。

 

4.2 Less is more:伝達量最大の法則

トラペの内容量についてである。いままで国内外の学会、研究会を見ての一番強い印象は、大多数の講演者のトラペの字が小さく、またぎっしりと書かれているという事実である。字が小さい理由は、トラペを書いている本人には十分に読めるからである。会場の最後尾の人が読めるかどうかなど、全く気にしていないのである。ぎっしりかかれる理由は、今までに述べたように、講演者はできるだけ大量に自分の研究を話したい(聞いてほしいのではない)からだ。いずれも聴衆の立場に立っていないのである。

分かりやすい話という点で考えると、重要なことは、講演者がどれだけたくさん話したかではなく、どれだけたくさん聴衆に伝達されたかであるはずだ。そういう観点で見ると、そもそも、たくさん話せばたくさん伝達できるのかという、根本的な疑問が生じる。多くの講演者の抱く暗黙の仮定として、講演者が話したことは、すべて聴衆に理解されているというものがある。もしそうなら、たくさん話せば話すだけ、講演者のいいたいことが多く伝わるはずである。しかしそうでないことは経験的に明らかであろう。

ここで伝達量最大の法則というものを提示したい。

伝達量=話の内容量x伝達効率

さて、ここで話の内容量は、トラペの枚数、1ページあたりの行数、字の密度(字の小ささ)、講演時間に比例することは明らかだ。しかし、伝達効率は、話の内容量に反比例以上の速さで減少する。トラペに小さな字でぎっしりと書けば、たしかに話の内容量は増大する。しかし、教室の後ろからは全く読めないとすれば、伝達効率はゼロになるのである。早口で話せば、聞き取りにくいので、伝達効率は減少するであろう。講演者が時間超過すれば、たしかに話の内容量は増えるが、聴衆は早く終わってほしいと願い、講演者に憎しみすら抱くであろう。こうなると伝達効率はマイナスにすらなる。経験的に見て、伝達量が最大になるのは、話の内容量がかなり少ない場合である。

 伝達量を最大にするには、話の内容量を減らし、伝達効率を上げることが必要だ。そのためトラペの内容量を減らす、話を精選する、話の時間を適度に短くする、などである。こういったことで、話の内容量は減少しても、逆に伝達量は増大するのである。これをLess is moreとか、伝達量最大の法則と呼んでいる。

 また話題の数も問題になる。短い講演の場合は、話題、トピックは一つに絞りたい。たくさん話すと、時間超過の原因になるし、一つの話題の理解が浅くなるし、それに印象がぼやける。たとえば話の最後に、今後の展望なども話さない方がよい。印象がぼやけるからである。短い講演で重要なことは、いかにたくさん話すかではなくて、いかに話さないかである。これは、話好きの人間の性格を考えると、きわめて難しいことであろう。

 

4.3トラペは大きな字で簡潔に

上記の一般原則が分かれば後は簡単だ。トラペの字は大教室の最後尾からでも読めるようにしよう。そのためには

 

  1. 大きな字で書く。
  2. 汚い手書きはさける。
  3. 文を書くより簡潔な語句にまとめる。
  4. 式はできれば避ける。
  5. 細かい表やテーブルは避ける。
  6. また印象的なトラペにするには、

  7. グラフや図、写真を多用する。
  8. カラフルにする。

 

(1)に関して言えば、トラペの1枚に書く字は、最大10行程度以内に納めたい(トラペを横向きに置いた場合)。ともかく行数は少ない方がよい。字を大きくするためである。(2)は、単に汚い手書きは読みにくいという理由である。非常な達筆でもあれば話は別かもしれないが、普通人の書いた手書きより、コンピュータで印刷した字の方が読みやすいことは事実だ。

 大家の中には、手書きの方が暖かみがあるとか、人間味があるとかいう人もいるが、重要なことは、まず読めるかどうかである。汚い字を判別するところで、聴衆に考えさせると言う人もいるが、それは思い上がりである。考えさせるのは、字の判別ではなく、内容にしたい。審美的に見て、汚いものを聴衆が好むはずもない。

 (3)に関していうと、トラペと講演者の語りは一体となって、初めて口頭発表が成立するということである。トラペなどはビジュアル・エイドとよばれている。あくまでもエイドなのであって、主体は講演者の語りである。トラペに長々とした文を書く人もいるが、聴衆がそれを読んでいると、講演者の語りが聞けない。長い文を読ますくらいなら、書いた論文を配ればよいのであって、講演する必要もない。だから、トラペには要点のみを書くべきで、長々とした文を書いてはいけない。講演者は、その要点を口で補足していくのである。

(4)に書いた数式だが、数式はそれを短時間で理解させることは、ほとんど不可能である。しかし、こんな式でやりましたよといって、アリバイとして示すということは、あってもよいだろう。しかし理解されることを前提としてはいけない。詳細な式を示すのは、講演者の自己満足にすぎない場合が多いのである。(5)の細かいテーブルや表なども、講演者だけに関心があるのであって、誰も読んではくれない。とくに小さな字で、ごたごた書いたテーブルはそうである。どうしても必要なときは、データを思い切って精選し、分かりやすいテーブルを書こう。内容は精選に精選を重ね、削りに削るべきなのである。

実は(1)から(5)のような注意は、筆者が参加した、ある国際会議において、主催者からあらかじめ注意書きとして配られていた。しかし、それを忠実に守ったのは、主催者と筆者の学生のみであった!ことほど左様に、西欧人といえど、プレゼンに関しては、なっていないのである。

ところで、上記の指示を守ると、ほとんどなにも書けない、話せないと言う不満が聞こえそうである。たしかにそうである。あなたには、話したい内容が山のようにある。それぞれの結果に対する思い入れがある。グラフの線の一本ごとに、データの数字のひとつひとつに愛着がある。それを削れと言われることは、身を切られるよりつらい。「そのデータを削れと言うなら、俺を殺してからにしろ」とまで言いかねないであろう。しかし、聴衆にはあなたの、結果に対する思い入れには、関心も同情も全くない。

準備したものは、全部話さなければならないと思う考えを、私はノルマ主義と呼んでいる。制限時間が過ぎてから、あれもこれもと山のようなトラペを見せる人がいる。聴衆は誰もあなたにノルマの達成など要求していないのだ。しかし聴衆の不評を知ってか知らずか、当人は講演後に、一人ノルマを達成した満足感に浸るのである。こんな独りよがりは止めて、話す内容は厳選しよう。

(6),(7)に述べた、図や写真を多用するというのは、それが理解しやすいし、印象に残りやすいからだカラフルにすると言うのも同様な理由である。聴衆は字ばかりのトラペよりも、図や写真を好むのである。また理解度や記憶度もますのである。もっともアメリカ人はあまり図や写真を用いず、字ばかりのトラペを使い、日本人の方が、図や写真を多用するという報告もある。しかし、図とともに示した結論は、字だけの結論より、忘却速度が遅いという研究結果があるのだ。

トラペの枚数だが、話すスピードは1分に1枚が限度であるから、10分講演なら10枚が目安である。後で述べるPower Pointとプロジェクターを使ったプレゼンでは、スライドの枚数はほぼ倍である。それは、スライドに書ける内容が少ないことと、スライドの切り替えに時間がかからないからである。

1枚のトラペには、ひとつの内容だけを盛り込む。複数の話題を入れない。そして1枚ごとに、上部にタイトルを付ける。このようにすると話の運びが理解されやすい。論文で言えば、パラグラフに分けることに相当している。また「先に定義しましたように」とか、「後で述べますが」、などのように、聴衆の記憶に期待することは止めた方がよい。聴衆の記憶の保持時間はきわめて短いと見た方がよい。したがって、トラペは一枚ずつ独立したものとして、作成するのがよい。

論文でいう、章の区切り目は、意識的に入れた方がよい。私はプロジェクターを使って講演することが多いが、章の区切り目には美しい写真などを挿入して、聴衆の意識の切り替えを計っている。

 

 

  1. よい講演法

5.1 最初の一分が勝負

口頭発表では最初の1分が最重要であるという法則について述べる。聴衆は最初の1分を聞いて、その話を聞くべきか、眠るべきか、脱出すべきかを決める。話の最初の部分で、聴衆の意識を引きつけることを、はなしの「つかみ」という。人間は初対面の人の印象を最初の4分で決めるという心理学の研究結果がある。その印象は、後々なかなか変わらないとされる。10分講演では、4分ではなく1分で印象が決まる。(30分講演なら始めの3分である。)ここで聴衆の関心を集めなければならない。ここで聴衆に逃げられては、あなたの話が、後でどれほど面白くなっても、意味がないのである。

ともかく最初の1分に相当する部分は特に研究する。また話し方もここだけを徹底的に練習する。最初の1分がもっともあがりやすく、詰まるところである。手がふるえ、声がうわずり、原稿を忘れるのも、ここである。だからここを乗り切れば、後は極楽である。「切り結ぶ刃の下こそ地獄なれ、踏み込みゆけば後は極楽」という柳生流の極意が通じる世界である。

 トラペの最初のページは、論文のタイトルとあなたの名前、それに印象的な図や絵を入れたい。タイトルは当然、興味を引くようなものでなければならない。あなたの名前は特に大きく、印象的に書くこと。一番伝えたいのは、実は話の内容よりはあなたの名前であったりするからだ。絵や写真を入れるというのは、聴衆の関心を引きつけるためである。ダルい表紙はダルい内容を予想させる。

次のページは、話の内容のまとめ、概要である。論文で言えばアブストラクトに相当する。ここで、講演で話したいことをまとめる。もし一番重要な図や写真、結果があれば、ここか次で示すのがよい。結果を先にいってしまえば、たとえ時間超過して、後をはしょることになっても気が楽だ。

印象的な最初の1分、つまり「つかみ」の具体例を示そう。相対論の大家シャピロ(Shapiro)は、日本で行われた数値天文学の国際会議で、まず英字新聞の一面のコピーを見せた。そこには「政府、ビッグバンを容認」と書いてあった。ここでのビッグバンとは経済的なものであるが、宇宙論のビッグバンとかけたのだ。聴衆は天文学の専門家であるので、大笑いをした。

数値流体力学の大家ヴァン・レアー(van Leer)は、まず間違ったタイトルの表紙をおき、あわてて取り替えた。もちろんわざとやったのである。ここで大笑いが起きた。そのあと、かれは自分でスケッチした、オックスフォードの街路を見せた。いずれにせよ、聴衆の関心を講演者に引きつけるための一つのテクニックである。

私自身はというと、後で述べるプロジェクターとノートパソコン、プレゼンソフトのPower Pointを使った。そしていきなり壮大な音楽を10秒ばかりならした。私の講演時間が午後の最後で、みんなが疲れ果てていたからである。聴衆の眠気を覚ます効果は大いにあった。そして、これからなにが始まるのだろうかという好奇心を起こさせたことだけは確かである。

ところで今思い起こすに、シャピロやヴァン・レアーの話の内容はよく覚えていない。しかし彼らの名前と顔はしっかりと覚えている。それでいいのだ。彼らは自分を印象づけるということに大成功したのだから。もっとも大家がそれ以上有名になっても仕方がない。若手こそ、自分を印象づけ、売り込むべきなのである。

もっとも人のまねをしたらよいということではない。みなさんも独創的な最初の1分を発明してほしい。少し注意を言えば、上記のような奇をてらった方法は、難しい。失敗すると惨めである。上質の冗談は非常に知的な産物なのである。だからよほど余裕のある人でないと、あまり勧められない。若手の講演者の短い講演では、もっとオーソドックスなつかみを奨励する。

 

5.2トラペの交換法

ここでほとんど気づかれていないことだが、重要なポイントを指摘しておきたい。それはトラペの交換法である。多くの講演者は、次のトラペに移る場合、まず今、使っているトラペを下ろし、それから、なにやら、もごもご言いながら、次のトラペを探す。トラペを専用シートに入れている場合、くっついたりして、取り出すのに時間がかかる。この間、ほぼ10秒近くかかる。その間、スクリーンは空白である。聴衆は見るべき対象を失う。講演者の話も、トラペを探しながらだから、大したことはいってはいない。だから、聞いても仕方がない。するとどうしても、聴衆の集中力は断ち切られるのである。

このトラペ交換におけるロスというものは、結構大きい。たとえば1枚につき10秒としても、10分講演で10枚のトラペを使えば、100秒にもなり、全講演時間の2割近くも占めることになる。この時間をどう使うかは、重要だ。私の意見は、次のトラペを探し出してから、今のトラペを下ろせと言うものである。聴衆は、トラペ交換の間も、今のトラペを読む時間があるわけだ。そして、用意ができたらトラペを素早く置き換えるのである。

プレゼン法の本の、とある著者は、この間はOHPの光源を切れと言っている。しかし、私は、そんな手法は見たこともないし、やるべきではないと信じている。学会講演でそんなことをしたら、スイッチが壊れてしまう。そもそも主催者が許可してくれるかどうかが問題だ。

私が提案するトラペ交換法は、理屈は簡単であるが、しかし実行は実に難しい。人はどうしても、トラペ交換の時に今のトラペを先に下ろしてしまうのである。これはほとんど本能的行動であるかのようだ。トラペを上手に交換する人は10人に一人もいない。このトラペ交換の問題は、後で述べるプロジェクターでは、そもそも存在しない。だから将来的には、問題ともならないであろう。

それからトラペにかんする注意をもう一つ。トラペはきれいにしておくこと、特に指紋を付けないこと。汚いトラペは悪印象を与える。私の経験では、カラープリンタ用のトラペは特に指紋が付きやすい。私はそれを本番以外で扱うときは、手袋をはめることにしている。しかしこの問題も、プロジェクターでは存在しない。

 

5.3 時間超過をするな

講演時間は短い。しかし、話したいことは、山のようにある。そうすると、どうしても時間超過する傾向にある。講演初心者のなかには、どうして時間をのばそうかと心配する者もいるが、そんなのは例外である。話が早く終われば、それはそれでめでたいことだ。どうして話を延ばそうかと考えるより、どうして短くまとめるかを心配した方がよい。

時間超過は、聴衆にとっても座長にとってもいやなものである。聴衆は、はやく止めてほしいと心の中で叫んでいるのだ。そうすると、それまでに講演者が積み上げてきた講演効果が、制限時間を境として急速に減り始めるのである。それまで講演者に好感を抱いていた聴衆も、やがては憎しみを抱くようになるのである。ところが講演者にはそれが分からない。私は講演効果の時間に対する関数が、制限時間とともに急降下することを、「憎しみの曲線」とよぶ。

講演者は講演の快感に酔って、まだまだ話し続けようとする。座長に制止されて、はじめていやいやながら話を終えるのである。その理由は、前に述べたように、話すことは快感であるが、聞くことは苦痛であるからだ。なかには、おもしろい話で、もっと続けてほしい講演もあろうが、それは例外中の例外である。

一番ひどいのは、制限時間のベルが鳴っても、まだ悠然と話し続ける者、そこからまた新しいトラペを何枚も取り出す者、図やグラフをこれでもか、これでもかと見せる者などである。これはもう、講演者が自分のことしか考えていない証拠である。

私が唱える時間超過の対処法とは、終了ベルがなったら、それ以後のトラペはすっぱりとあきらめる。そして結論のトラペに飛ぶ。そして結論を手短に30秒以内で話すことである。こうすれば、聴衆は講演者に対する好感度をますであろう。

本当は、時間超過しないのが一番良い。そのためには、

  1. 本当に言いたい結論は、講演の最初に言っておく。そうすれば、いつ制限時間が来ても、心おきなく終われる。
  2. そもそも時間超過しないように、あらかじめ練習しておく。とくに前日、トラペをくりながら、ひとりでぶつぶつと講演のシミュレーションをする。

 

5.4 原稿を読むな

さて次に38パーセントの重要性をしめる話し方、声についてである。ここではまず原稿を読むなという、当たり前の注意をしたい。これは物理や天文学では当たり前のことで、なにを今更と思われるであろう。ところが、これが常識ではないのである。筆者の所属する神戸大学の地球惑星科学科の修士論文発表会では、研究発表する大学院生の、なんと半分以上が原稿を読んでいるのである。それは、地学系の学会でそのような慣行が行われており、指導教官が実際、講演に際して原稿を読んでいるからであろうか。ある年のこと、私は原稿を読んでいる大学院生に注意したところ、その指導教官から逆ねじを食らわされた。「私の学会では、大家も原稿を読んでいるのです」私は、若手のプレゼンが下手なのは、当人の責任と言うよりは、指導教官の責任であると信じている。

どんなプレゼンの本を読んでも、原稿を読めとは書いていない。原稿を作れと書いてある本はあっても、それを読むなと書かれている。安心のために手に持つのはよいが、原稿は読むな、これが鉄則だ。手に持つ原稿も、話の概要でよいので、話すことを全部書く必要はない。そうとすれば、話の概要はトラペに書いて、それを見て話せばよいのである。だから原稿など必要ないのだ。

原稿を読んではいけない理由は簡単だ。

  1. 話し言葉と書き言葉は違う。話し言葉には繰り返しなどの冗長性が多い。書き言葉にはそれが少ない。書き言葉で書かれた原稿を読まれると、意味をつかむのが困難である。特に書き言葉を早口で読まれると、全く分からない。これは外国語の講演をするときには特に注意すべきであろう。
  2. 原稿を読むと、単調な声になりやすい。これは眠気を誘う。
  3. 後で述べるように、原稿を読むとアイコンタクトがとれない。アイコンタクトの重要性は後に力説する。

 

しかし、たとえばアメリカ大統領は演説を、原稿を見て話していることは事実である。かれらは、演説法に関しては非常に訓練されている。視線を原稿に釘付けにはしていない。原稿をちらっと見た後は、聴衆の方を見ているのだ。レーガン大統領は、原稿が聴衆から見えないプロンプターという道具を用いて演説を行った。ことほどさように、原稿を読んで、かつ効果的なプレゼンを行うには、万全の訓練と準備が必要なのである。素人のできるものではない。ちなみに、日本の閣僚の多くは、官僚が書いた原稿を棒読みしている。そのときに視線は原稿に釘付けになっている。これが、彼らの演説がおもしろくない理由の一つである。

 

5.5 よい話し方

ここらは、全く常識的なことである。

  1. マイクがない場合は、大きな声で話せ。口頭発表では、ようするに話が聞こえなければどうしようもないからだ。とくに女性には小さな声の人が多いので、意識することが大切であろう。大学院入試において、受験者の面接点と声の大きさは比例しているという傾向がある。
  2. 耳障りな口癖は避ける。「あのー」、「えー」、「オッホン」、”You know”…人は自分では意識していない口癖があるものだ。しかしそれを周りの人が指摘すると、人格攻撃のように思われて反発してしまうことも多い。権威ある指導者だけが注意できる。もっとも良い方法は、講演をテープなりビデオにとって自分で省みることだ。私もある場での講演のテープを起こしたものをもらって愕然とした。なんとひどい口癖なのであろうかと。口癖があることが分かった場合は、「あのー」というよりは、沈黙を選ぼう。そちらの方が効果がある。
  3. 耳障りな声で話さない。とはいってもどうすればよいか、素人には分からないであろう。世の中には正しい発声法というものがある。腹から声を出すのだそうだ。そのためには腹式呼吸をしなければならないそうだ。そのためには腹筋運動をしろとある。しかし、われわれはアナウンサーでもしゃべりのプロでもないのだから、ここらは程々にしたい。
  4. あまりに早口でしゃべらない。もっとも、ものの本によっては、早口の方が勢いがあってよい、ゆっくりとしゃべるとわざとらしいから避ける、と書かれたものもある。要は、分かりやすいかどうかがポイントである。ただし、英語講演の場合はゆっくりと話した方がよいと思う。自分の英語が流ちょうであることを誇示するかのように早口で話す人がいる。しかし日本人の英語の発音なんて、所詮へたくそなものだ。それを早口でやられると、聞きづらい。実は私もそのことを外国での講演で指摘された。
  5. 淡々と話さない。淡々と話すと眠気を誘うからである。講義で眠くなるのは教官の声が淡々と響くからである。講義が終わったとたんに、はっと目覚めるのはこのリズムが壊されたからである。話には強弱、緩急、高低をつけよう。重要なところでは、大きな声でゆっくりと話す。間を空ける。繰り返す。聴衆の方へ一歩進み出る。ともかく、聴衆を寝かさないように努力しよう。これはなかなか難しいが。

 

6. ボディランゲージ

6.1アイコンタクトの重要性

つぎに55パーセントの重要性をしめるボディランゲージについてである。ボディランゲージの中でも重要なことは、視線を相手の目に向けることである。これをアイコンタクトという。ボディランゲージには、ほかに身振り手振りもある。しかしアイコンタクトは最重要である。私はアイコンタクトできる能力を視線力とよんでいる。

日本人はアイコンタクトがことのほか苦手である。それには文化的、社会的理由がある。日本社会では、知らない人の目を見つめようものなら、失礼だとか、ひどい場合は眼をつけたと言って殴られたりすることすらある。だから相手と話している時も、目を見て話さない場合が多い。

もっとも、あまりにあさっての方を向いている場合は、いかに日本人でも、この人は私の話を聞いているのだろうか、うそを言っているのではないだろうかと、不信感をもたれる。「私の目を見て、もう一度いってごらん」という、テレビ・コマーシャルにおける女性の言葉は、その現れである。

日本社会は、同質な民族で構成された社会、基本的に村社会である。したがって他人同士でも語らなくても分かる「察しの社会」である。雄弁は銀、沈黙は金とされ、しゃべりは嫌われる社会である。だから日本では会話能力の訓練などないに等しい。プレゼンや話し方に関する講義や科目などほとんど存在しない。そのためアイコンタクトという言葉も普通は習わない。従って視線力も弱い。日本人との会話の場面を注意して観察していただきたい。きちっとアイコンタクトをして話せる人はきわめて少ない。とくに年長者ほどだめである。もちろん日本社会では、これでもかかまわないだろう。

日本人でも例外はある。皇太子と雅子さまが人と話すときは、しっかりとアイコンタクトしておられるテレビ映像を見て驚いた。さすがに、対人関係の訓練を受けたプロは違うのである。あるいはお二人ともオックスフォードの出身だからであろうか。

私の若い友人のうちの何人かは、私と話すときにきちんとアイコンタクトをして話す。アイコンタクトの重要性を説く私でもたじたじするほどである。きちんとアイコンタクトして話を聞かれると、一生懸命聞いてくれているという気がして、悪い気はしない。どうしてそんなにアイコンタクトができるのかと問うと、高校の頃に英語スピーチ教育の一環として、アイコンタクトの重要性を学んだという。さすがにアメリカ流の教育を受けたものは違う。しかしこれらは例外で、日本人はおしなべてアイコンタクトが苦手である。

しかし、異民族の混じった西欧世界の人々とつきあうには、それでは通らない。意見の相違の調整には、すべてを話し合わねばならないのだ。腹芸とか、黙って分かり合うとか、行間を読むといったことはない。すべてをはっきりと話す。そのための、講義や訓練は必須である。そのなかでの最重要なポイントがアイコンタクトなのである。

アイコンタクトが重要な理由は二つある。礼儀上の理由と、説得力の問題である。まず礼儀の問題について述べよう。西欧では相手の目を見て話さないことは、自信がない、不誠実、うそをついていると見なされ、失礼な行為なのである。たとえば「不思議の国のアリス」で、アリスがカエルの従者と話すところがある。カエルはアリスの方を見ないで話しているので、なんと失礼なやつだとアリスは思う。しかし、カエルの目は頭の上についているので、仕方ないかと思う。西欧では、こんな子供の時からアイコンタクトの重要性を知っている。

アイコンタクトの重要性の第二は説得力である。ナポレオンは「説得は目に対して行え」と言った。サッチャー元英国首相は、インタビュー時間の実に80パーセントの間、アイコンタクトをしているという。それが彼女を首相にまでした、説得力の源泉なのである。説得力ある話をすることに関して、最も重要なポイントはアイコンタクトである。日本でも、「目は口ほどにものを言う」という言葉があるように、アイコンタクトと説得力の関係に気が付いてはいる。

アイコンタクトの視点でテレビを見ると、実に興味深い。西欧の政治家は、記者会見の時に記者の目を見て話している。しかも立って記者会見する。日本の政治家や官僚は、下を向いて原稿を読んでいる。しかも座っている場合が多い。もっとも近頃はアメリカを見習ってか、首相も官房長官も立って記者会見しているようだが。日本のある社長が、合弁か何かのセレモニーで中国の朱首相と握手している写真があった。朱首相はきっちりと社長の顔を見ていた。その社長は、満面に笑みを浮かべながら、しかし目はあらぬ方向を向いていた。「こいつは、そのうち裏切るであろう」と朱首相が思っても不思議ではないだろう。

テレビでアナウンサーや出演者の視線を観察してみよう。訓練された人は、カメラをきちっと見て話している。これをカメラ目線というが、なかなか難しい。アメリカのABCニュースのクッキー・ロバーツという女性記者の視線力にはたじたじとなる。瞬き以外は100%カメラを凝視している。私にはとてもできない芸当である。

アイコンタクトの訓練として、にらめっこの練習をするのが良い。私は授業やゼミの時に、学生にアイコンタクトの練習をさせる。二人を組にして向き合わせ、一分間にらめっこをさせるのである。笑ったら負けではなく、目をそらしたら負けである。

 

6.2少なくとも前を向いて話せ

さて、アイコンタクトがそれほど重要となると、おのずから講演の話し方も決まってくる。講演するときは、聴衆とアイコンタクトして話すということだ。そのための前提条件として、まず講演者は聴衆の方を向いて話すべきである。そうでなければ、そもそもアイコンタクトのしようがないからだ。

しかし現実には、日本の多くの講演者は、トラペの映像が映ったスクリーンの方を向いて、レーザーポインタなり指示棒を使って、画面を指しながら話している。聴衆に背を向けているのである。私や知人の観察では、国際会議での日本人の講演者は、ほとんどがスクリーンの方を向いて話すのに対し、欧米の講演者はほとんどが聴衆の方を向いて話す。これは大きな違いである。。天文学会において、私はここに書かれた内容の特別講演をした。そして前を見て話すことを強調した。そしたら翌日、某大学の一人の女子院生は、聴衆に180度反対、つまり聴衆に完全に尻を向けて話した。私の講演を聴き損なったのか、私の話への挑戦だろうか。これほど極端な例はあまり見ない。しかしおしなべて、日本の講演者は、聴衆の方を見ないのである。

何度もいうが、西欧人の講演者は、ほとんどが聴衆の方を向いて話す。このあたりにアイコンタクトに対する文化の差が現れている。もっとも日本人の中にも聴衆の方を向いて話す人もいる。それは海外生活が長い人か、プレゼンテーションの重要性を意識している人である。訓練されていない、大多数の日本人研究者、特に若手研究者は、おしなべて、聴衆に背を向けて話す傾向にある。

日本の大学の講義でも、教授は黒板に字を書きながら、黒板に話しかけている。こういったやり方は、説得力、聴衆の理解を誘うという点では、最低なのである。講演者はスクリーンや黒板に語りかけて、聴衆や学生は文字通り眼中にない。そんなことで、聴衆や学生を説得できるはずがないではないか。

講演においてもっとも重要な点は、聴衆とアイコンタクトしながら話すことである。これがプレゼンの基本なのである。しかしほとんどの人が、この基本ができていない。このような状況では、まず前を向いて話すことが先決である。それができたら次は聴衆の誰か一人とアイコンタクトしながら話すこと。ここまでできたら日本人としては上出来といえよう。だから、これから述べることは高等技術に属する。正直言って、私自身、書きながらも完全にやる自信はない。努力目標といったところだ。

 

  1. 目は聴衆を漠然と見るのではなく、特定の人の目を見て話す。
  2. それもひとりではなく、できるだけ多くの人の目を見る。
  3. そのためには一番後ろの左から初めて右へ行き、だんだんと前へ視線を移動する。
  4. ある人の目を見て微笑んで、うなずいてから話す。
  5. 言葉の途中では視線を移動しない。一人の人には、一つの言葉を言う。

 

もう少し簡単な方法を言おう。聴衆には

  1. よい聴衆(講演者の目を見て、微笑んでいる人、うなずく人)
  2. 悪い聴衆(眠っている人、下を向いている人、窓の外を見ている人、にらみつけている人、腕組みをしている人)
  3. ふつうの聴衆

 

がいる。アイコンタクトは、よい聴衆とするのが容易であり、励みにもなる。初心者は、そのようなよい聴衆を何人か見つけて、その目に語りかけるのがよいであろう。

 

6.3 ゼスチャーその他

ボディランゲージというと、どうしても身振り手振りを思い出す。しかし、最も重要なことはアイコンタクトであることは知った。だから身振り手振りはできる人がやればよいと思う。

よい講演者は、聴衆の方を向き、堂々たる態度で、適切な身振り手振りを交えて話す。注意すべきこととしては

 

  1. 手を後ろに組まない。
  2. 服装はよいものにする。人間は中身より外見で判断されやすいからだ。
  3. 演壇の後ろにたたない。演壇に手を突かない。できるだけ聴衆に近づくのがよい。
  4. 部屋を暗くしない。暗いと顔が見えないから、聴衆が眠ったり、部屋から脱出したりするのを防ぐことができない。これは主催者に対する注意である。

(5) マイナス効果を持つ身振り(ボディ・マニュピレーション)をしない。たとえば、髪の毛をさわる、ポインターをもてあそぶ、など。聴衆が話よりそちらに関心を注いでしまうからである。

 

手の位置に関しては、プレゼンの本を読むと、後ろに組むのは手錠スタイルとよんで、いけないこととされている。軍隊か刑務所みたいだからだ。前で組むのもイチヂク・スタイルと呼び、いけないこととされている。しかしアメリカのルービン財務長官がそうして話していたから、それほど悪いこととは思えない。物の本によると、手の良い置き場は、左右に自然に垂らすことだそうだ。その位置からなら、自由にジェスチャーができるからだ。しかしそれを、学生にあまり強調すると、かえって不自然な位置に手を置いたりする。あるいはボディ・マニュピレーションが始まる。それだったら、前で手を組んで、手の置き場を安定化させる方がよいと思う。手をポケットに突っ込むのは、生意気に見えるから止めたい。講演者はえらそうな態度はとらない方がよい。

学生にスピーチの練習をさせると、一番目立つのがボディ・マニュピレーションである。講演者の不安感がイライラ・エネルギーとなって、どこかに突破口を求めるのがボディ・マニュピレーションである。手を顔や髪を触ったり、貧乏揺すりをしたり、ものをもてあそんだりすることが多い。目がきょろきょろするものも多い。聴衆は講演者がボディ・マニュピレーションをすると、そこに注意が集中したり、講演者の不安感を感じて聴衆自身もいらいらしたりする。講演者にボディ・マニピュピレーションを指摘しても、意識的にしていることではないからなかなか分からない。そこで講演をビデオにとって、見せるか自分で見て反省するのが一番であろう。

私は研究室では、英語の訓練とプレゼンテーションの訓練を積極的に施している。シャイな理科系の学生は、この種の訓練をいやがる。学生にアイコンタクトをする、ボディ・マニュピレーションを止める、口癖を直すなどの訓練を施すことは、単に学会での口頭発表の練習になるだけでなく、企業の就職における面接試験、外資系企業へ就職してから、はては結婚式でのスピーチにも役立つ。これからの国際化社会、競争社会を生き抜いていくのに必要な技術であると思う。

 

6.4 レーザーポインタの危険性

ここでスクリーンを指すのによく使われるレーザーポインタについて述べたい。ポインターを振り回す人がいる。レーザーポインタの場合は特に危険なのでやめよう。ある国際会議で、司会者に何度も注意されながらもやめない講演者が多くいたのは驚きだ。

ポインタにたよると、先に述べたようにスクリーンの方ばかり向いて、聴衆とアイコンタクトがとれない。だからポインタを使っても、聴衆の方を向く努力をする。しかしこれは実は、至難の業である。

ポインタとして指示棒を使う場合がある。この場合は立つ位置が重要である。普通の人は右利きで、右手で指示棒を持つ。この場合はスクリーンの右手に立つ。そうすると右手で体を隠さないので、顔、体を聴衆の方に向けることができる。ある本には、スクリーンの左手に立つと良いと書いてあった。人間の視線は左から右に流れる傾向があるからだそうだ。しかしその場合は、指示棒は左手で持とう。

レーザーポインタであれ指示棒であれ、それを使っても、顔、体は聴衆の方を向けることが鉄則である。その場合は、指示棒でまず画面を示す、それから聴衆の方を向いて、それから話す。テレビでお天気姉さんとか兄さんは、指示棒で天気図を示しながらも、目はカメラを向いている、あの手法である。その場合指示棒をあちこち動かさないで固定していることに注意しよう。

レーザーポインタの問題点は、手がふるえているとそれが拡大されて見えることだ。講演者の心の動揺は、その話の信頼性を低下させる。誰でもあがるのは当然だが、それをあえて宣伝する必要はない。

そこで私は原則としてレーザーポインタを使わない。OHPの上にペンを置いてそれで示す。そうするとアイコンタクトはとれるし、手のふるえは見えない。ペンを置くことが肝要だ。ポインタにしろペン先にしろ、あちこち落ちつきなく動かされると、聴衆はいらいらする。ある学会で、講演者の学生がトラペに手をかけて、それを上げたり下げたりしていたことがある。1枚のトラペにつき10回くらいである。講演者の心のいらいらが伝染して、私はとてもいらいらした。

 

7 プロジェクター

7.1 プロジェクターとは

プロジェクターとは、コンピュータの画面やビデオを拡大投影して、スクリーンに映す装置である。この種の装置は前からあったのだが、三管式のものは、とても高価だし、部屋の天井に固定されたりしていた。ところがここ一年の間に、技術革新のため、とても軽く(数キログラム)持ち運びが容易で、画面が明るく、比較的安価な液晶プロジェクター(50万円程度)がどっと出てきた。ちなみに液晶ではなく、デジタル鏡を使う製品もある。ノートパソコンも普及してきた。それで新しいものの好きな私は研究室や学科に、あわせて一挙に4台もプロジェクターを導入したのである。この機種は6.6kgあり、キャリイング・バッグに入れて運ぶ。しかしなかには3kgという軽量の製品も出てきた。これだとノートパソコンと合わせても、4kg強であり、出先でプレゼンするにはもってこいである。

このプロジェクターはまさにプレゼンに革命をもたらすであろう。プレゼンの機器としては、黒板、模造紙、スライド・プロジェクター、OHPと発展してきたが、ここにいたってプロジェクターが登場し、OHPはやがて30年の歴史を閉じるであろう。いまはまだ変革期であり、プロジェクターが使われているのは、先進企業のプレゼン、情報処理系の学会だけである。天文学会では、私の学生が初めて使用した。

しかし、以下に述べる利点を考えると、これがOHPを駆逐するのは時間の問題であろう。それはこれからの数年のことと考える。もっとも、なかにはガラパゴスのような学会もあり、そこらではスライドやOHP、黒板が細々と生き続けるであろう。

 

7.2 プロジェクターの機能

プロジェクターの使い方には、主として三つある。

  1. ノートパソコンにPower PointFreelanceといったプレゼンソフトを搭載し、OHPのかわりとして使うことである。
  2. ビデオデッキと接続して、ビデオ映像を拡大して見せることである。これで容易にホーム・シアターが実現する。大画面テレビなど必要ではない。
  3. コンピュータの画面を学生に見せて、コンピュータ教育に使うことである。

 

ここでは第一の機能に絞って解説する。ちなみに(2)の目的で使うには、コンピュータ用のものも使えるが、専用のものの方が色はきれいである。

 

7.3 プロジェクターの利点

ここではとくにOHPと比較して、プロジェクターの利点を述べる。

 

  1. まずスライドの内容の変更が容易なこと。パソコンで作るのだから、変更は朝飯前である。トラペを作るプリンターを必要としない。だから学会前日でなくても、新幹線の中であれ、ホテルであれ、学会会場であれ、スライドを作ることも変更することもきわめて容易である。むしろ容易すぎるのが欠点とすらいえる。いつでもできると思うと、ぎりぎりまでしないのが人間だからだ。
  2. Power Pointなどプレゼンソフトを使用すると、大きな字しか書けない。これは欠点のようではあるが、先に述べてきたように、大きな字を書くことは重要だから、小さい字の欠点をいやでも矯正されるのである。
  3. 映しているときに、次のスライドに変更するのは瞬時でできる。トラペを取り替える時間がいらないのである。トラペ取り替え時間は、講演時間の2割にも達すると以前に述べた。ということは、アメリカ流に言えば、プレゼンの生産性が2割アップするのである。
  4. もっとも画面切り替えが瞬時であると、聴衆は切り替えに気がつかない場合がある。それを防ぐために、切り替え時には、さまざまな音を出すことができる。
  5. ここまでの機能は、基本的にトラペと同じである。プロジェクターの特色としては、アニメ効果があり、字を次々と出したりできる。トラペの場合、話の進行上、下を隠したりする人がいる。あれは聴衆にフラストレーションを与えるのでやめてほしい。そんなことはしなくても、プロジェクターならもっと自然に効果的にできる。そのときにも音を出せる。
  6. パソコンであるから、図や表、写真を容易に取り込むことができる。私は学会会場で、デジカメで写真を撮り、それをすぐに張り込んで、発表したことがある。このような機動性こそ、OHPにはないものである。
  7. 音楽やビデオを張り込むことも容易にできる。こうなるとOHPには絶対にまねのできない、プロジェクターの独壇場である。
  8. 練習モードがあり、時間配分の練習ができる。スライドの一部に原稿、コメントを入れることもできる。ナレーションを入れることもできる。学会講演でここまでする人はいないであろう。
  9. Power Pointを使う場合を述べたが、Netscapeなどのブラウザーを使うこともできる。その場合、もし通信線さえ確保されていれば、学会会場で自分のホームページを見せて講演することもできる。もうここまでくると、完全にOHPの出る幕ではない。

 

 もっともOHPと比較して、プロジェクターの欠点もある。解像度が粗いことである。だから高解像度の写真などは、印刷したトラペにはかなわない。しかし、所詮遠方から見るのだし、小さな字を書いてはいけないのだから、解像度の不足は大きな欠点ではない。しかも、技術の進歩とともに、どんどん高解像度のものが出現することは確実である。それはデジカメの場合と同じことだ。

 

8 ポスター論文

8.1 その利点

最近の学会ではポスター発表が増えている。ポスター論文は口頭発表より格下であるとする考えもあるが、ポスター発表にはそれなりの利点もある。

 

  1. 口頭発表では分科会方式をとる場合、全員には聞いてもらえない。しかしポスターには、その問題はない。
  2. ポスター論文では参加者とじっくりと話し合える。うまくすれば、個人的に知り合いにもなれる。
  3. 下手な口頭発表は命取りにもなるが、下手なポスターは見過ごされるだけである。英語講演が苦手ならポスターの方が、傷つかなくてすむ。

 

8.2 巨大ポスターの時代

しかし、上記の消極的な理由以上に、ポスター論文が良いとする理由もある。それはアメリカでポスター論文重視の傾向が現れていることである。私は199812月にサンフランシスコで開かれた全米地球物理学会(AGU)に参加して驚いた。まずその規模である。出席者がのべ8000人、発表論文数が4000を越えるという。だからパラレルセッションの数も膨大なものである。

もっとも驚いたのは、ポスター論文が重視されていることである。招待ポスター論文まであるのだ。しかも一枚のポスターに与えられる面積がとても広い。横幅が2m近くあり、A0のポスターを2枚は優に張ることができる。A-1とでも言うべき大きさだ。我々が通常使うA4のポスター換算では、なんと32枚である。しかもポスター・ボードの前後の間隔が広く、ポスターの前で議論しても通行のじゃまにならない。こんなことができるのは、サンフランシスコのモスコーン・コンベンション・センターという巨大な会議場を使っているからである。AGUの秋の総会はいつもこの会場で行われると言う。

これほどの規模の学会になると、口頭発表の場合、聴衆の数がたとえば80人いたとしても、参加者の1%でしかない。それ以上の人に、講演を聴いてもらうことはできない。しかしポスター論文の場合、原理的には全員の目に触れうるのである。

私にとって、もっとも衝撃的であったことは、ポスター論文の用紙が、A4A3の用紙ではなく、A02枚並べるか、あるいはロール紙を使ったもっと巨大なポスターが溢れていることであった。多くの参加者が、それらのポスターを入れる筒を持ち歩いていた。天文関係の学会では1997年、京都で行われたIAU総会の時に、ドイツ人のA0のポスターを数枚見ただけであった。ところがAGUでは地震、火山、地質など地学関係のポスターはかなりな割合で、巨大ポスターであった。

ドイツにいる若い友人の話では、ドイツの学会では、ポスター論文は、ほぼ100%A0サイズでだそうだ。パッチワークつまりA4のポスターがかえって目立つくらいで、ドイツでは「パッチワーク=なまけもの、捨ての研究」というイメージがあるそうだ。内容を見せたければA0でということになっている。そう知ると、日本のポスター環境がいかに遅れているかを思い知らされる。

そのような巨大ポスターを制作するには、そのためのプリンターが必要である。それが従来は、きわめて高価であり、計算機センター、天文台、宇宙研など一部の機関にしか置かれていなかった。たとえ置かれていても、それを使ってポスターを制作しようとする意志が存在しなかった。しかし今や、B0ノビのプリンターで定価が90万円弱であるから、液晶プロジェクターと同じ程度である。各学科、あるいは研究室でも買える範囲に降りてきたのである。是非購入を勧める。学会もポスター論文のためのボードなどを十分用意して、ポスター論文を優遇する方向に向かって欲しい。

ところで当面はまだ巨大ポスターを作ることは、誰にでもできることではない。巨大ポスターと、従来のポスターでは、作り方が根本的に異なる。そこで本論では、まず良いポスター論文とは何かを論じ、つぎに従来のA4用紙を用いた良いポスター論文、次に巨大ポスターの作り方を論じる。

 

8.3 よいポスター論文の作り方

よいポスター論文とはなにかを考えるには、反面教師としての悪いポスター論文を探せばよい。それはすぐに見つかる。

  1. モノクロで
  2. 字ばかりで
  3. プレプリを流用した論文である。
  4. もっとひどいものとしては、手書きのポスター論文がある。

 

これなど著者は、参加者に読んでもらうのが目的ではなく、オリンピック同様、参加することに意義があるのだろう。しかし、オリンピック・タイプ・ポスター論文も、すくなくとも業績リストの一行を埋めることができるのであるから、あながち無意味とはいえないかもしれない。

しかし提出した以上、読まれないよりは、読んでもらいたいのが人情だ。それでは、聴衆に読まれるよいポスター論文とはなにか。それは少なくとも上記以外のものである。しかし、それだけではまだ分からない。私はよいポスター論文とは何かを研究するために、研究室の博士院生から学部生まで動員して、研究室ポスター論文大会を挙行した。そして私をのぞく全員に人気投票をしてもらい、順位を決めた。善し悪しの判定条件は、論文の内容ではなく、書き方、スタイルだけである。そこで分かったことは次のようなことだ。

よいポスター論文の必要条件は、目立つこと、これにつきる。目立たない論文がどうして読んでもらえるか。目立つためには

 

  1. カラーを多用する。
  2. きれいな図や写真を入れる。
  3. 背景に統一した色を付ける。とても印象的になる。
  4. 字は背景に対して読みやすい色で書く。
  5. 枠でかこったりする。これも印象的である。
  6. 紙質をフォト・クオリティ・ペーパーなど上質紙に統一し、差別化を図る。
  7. 用紙を幾何学的にきれいに配列する。審美的な問題である。
  8. 読む順番を矢印や番号で示す。意外に見落とされている。
  9. 字は読みやすいように大きく書く。
  10. 著者の写真を貼り付ける。

 

 (10)は注釈を必要とする。トラペの字は大きく書かねばならない。しかしポスター論文は、その気になれば近づいても読めるので、この点は必須ではない。しかし、小さい字ばかりで書かれたポスターは、読む気がしない。やはりポスター論文に書くことは概要に限定すべきだ。詳細は、著者が口頭で説明すべきであろう。ポスター論文は、著者の口頭の説明と一体となって初めて完全なものになる。

 著者がポスターのそばにいつも張り付いているわけにはいかない。その場合、詳細を書いたプレプリントを足下に置くか、興味を持った人の名前を書いてもらって、後でプレプリを送るのも手であろう。それから国内の学会では、ポスター論文は日本語にした方がよい。英語のポスター論文は、読むのに閾値が高い。

顔写真を貼ることは、私がやってみた。効果のほどは定かでないが、質問したい場合に、誰が著者か分かることは、非常に役に立つであろう。若手の場合は、顔を売り込める。AGUでも顔写真を貼りつけたポスターは、何枚かはあったが、トレンドとはなっていないようであった。

 

8.4 良いA4ポスター

上記の条件は、(7)を除いて、良いA4用紙のポスター論文だけの条件とは限らない。巨大ポスターにも通用する条件である。A4に特有の条件としては、用紙の独立性がある。つまり個々の用紙に書くことは、一応お互いに独立している。その意味でトラペと近い。しかしトラペと異なる点は、同時性である。別々の紙も同時に展示されているから、記号の定義などを別の紙に書いてもかまわないことであろう。

まずタイトル、氏名、所属はA4用紙とは別に、たとえばA3の紙を使って大きな横長の紙にして、その上に書き、ボードの上部に張る。それからその下に、ボードの面積に応じて、A4の紙を4x4とか4x3のように整然と張る。一枚目はアブストラクトである。最後の紙は当然、結論である。文献がある場合は、ここに書く。始めの-ほうのページには、式とか仮定、モデルなどを書く。それから結果の図やグラフを書く。大事なことは、目立つようにすることであるので、できるだけきれいな図や写真、グラフを多用することである。字ばかりのポスターは、あまり読む気がしない。実際書いてみると分かることだが、あまり紙に余裕のない場合が多い。これはトラペの場合も同じことであるが、できるだけ内容を簡潔にすることだ。あれもこれもと欲張らないのがこつである。

図1に1999年12月に京大基礎物理学研究所で開かれた理論天文学懇談会で、私の目を引いた松本倫明氏(法政大学)のポスター論文を掲げる。このポスターはA4用紙を使うものとしては、現在の私の、良いポスター論文の判定条件にもっとも近い。そのほか筑波大学のグループのポスター論文も目を引くものであった。筑波大学のポスター論文は、紺の背景に明るい色の字でかかれていた。これは人目を引くという点では優れているが、字が多少読みづらいという欠点がある。一方、松本氏のポスター論文は、上品な紫色を背景に黒色の字でかかれていて、読みやすい。

これからは良いポスター論文を書くには、デザインのセンスも必要とされる。ポスターはカラフルなものがよいと述べた。すると初心者はすぐに原色を使いたがる。けばけばしい色は、確かに人目を引く。しかし、ポスター制作が上手になってくると、上品な色の選択と言うことも重要なポイントになってくる。こうなるとポスター論文の制作は、科学と芸術の学際領域分野となってくる。

興味ある現象は、良いポスター論文を発表するグループは、特定の指導者に指導されていることである。やはりプレゼンを重視する指導者のグループは、良いポスター論文や良い口頭発表を行う。その逆も真である。

 

8.5 よい巨大ポスター

AGUで様々な巨大ポスターを見た。A4用紙の場合は、個々の紙に独立性があるが、巨大用紙では一枚が一つの舞台となり、そこをどう使うかは自由である。しかしその自由さがかえって難しさを生む。巨大用紙にたくさんのA4紙を張り付けたようなデザインも可能であるが、それでは巨大用紙を使った意味が少ない。やはり全体を自由に使ったデザインを考えるべきであろう。

AGUの巨大ポスター論文には、統一的な形式はまだない。各著者が思い思いの工夫を凝らしていることが見て取れる。それらは字を主体としたものと、図を主体としたものとに分けられる。字を主体としたものは、なんせ紙が巨大なものだから、いくらでも書ける。それこそ本論文を書くことすらできる。しかし、そのようなポスター論文は、よほどの関心がないと読んでもらえない。やはり図を主体とすべきだと思う。図を主体といっても様々あり、極端なものでは、アブストラクトも結論もなく、ただ図とそのキャプションだけのものもあった。これなどは、著者が横について説明しないと、何のことか分からないであろう。多くの論文はその中間で、図を主体としながらも、キャプションに詳しい説明を付けたり、文と図が適当に入り交じっているものが多い。

デザインの話をしよう。まず重要なことは、全体を一つの枠で囲って、統一性を出すことである。そのなかを背景で埋める。背景の選び方として、私は次のような分類を考えた。

  1. 白の背景
  2. 淡い単色の背景
  3. 濃い色とかグラデーションの背景
  4. 巨大な写真や図柄

 

字を書く場合、その背景に直接書く場合と、枠を囲ってその中に書く場合がある。直接書く場合では、(1)(2)なら黒い字、(3)なら明るい色の字を書くことになる。(4)の場合も背景の写真などが淡い色なら黒い字で、暗い色なら明るい色の字と言うことになる。

私は、字は枠で囲って書くのがよいと思う。そうすると枠の中の背景色は、全体の背景色とはまた別のものになり、読みやすいものを選ぶことができる。つまり全体の背景色やデザインは人目を引くものを用い、しかも字は読みやすくできるからである。以下にAGUで取ってきた代表的なサンプルの写真を載せる。

図2はAGUの巨大ポスター群である。この手前の例は、たくさんの紙を貼り付けたように見せかけたデザインで、文がかなり多い。写真も多い。文の枠の中の背景は白である。全体の背景は淡い水色である。

図3は濃い青色の背景色で、字はアブストラクトを除いては、背景に直接、黒色で書き込んでいる。文はかなり多い。この二枚はロール紙を採用している。

図4は背景色が虹の七色のグラテーションで非常に派手である。だから目を引きやすい。しかし多少下品な感じがしないでもない。文は少なく、アブストラクトすらない。

図5は背景に巨大な山の写真を配したもので、非常に印象的である。また文がほとんどなく、全体が図とわずかな説明だけである。これらの二枚は、A0用紙を二枚横に並べたものであるが、二枚で一枚のように印刷されている。

 

 

結論

以上に述べたことをまとめると、つぎのようになる。

 

  1. プレゼンは重要であるという認識を持つことが、最も重要である。
  2. 口頭発表では、聴衆の立場に立ってすべてを考える。
  3. トラペは簡潔に、大きな字を用い、図や写真を多用する。
  4. 口頭発表では、アイコンタクトが最重要である。そのためには、聴衆の方を向いて話す。
  5. プロジェクターはプレゼンの革命である。
  6. ポスター論文は目立つこと。

 

ともかく、ここまで読まれた方で、学会発表をするかたは、上記のまとめを、ぜひとも頭の隅にとどめておいてほしい。もし日本の科学者の多くが、ここで述べられたような(簡単な)技術を、国際会議で実践されるなら、日本の科学の、世界における地位は飛躍的に向上することは確実である。大した努力もいらない、難しい理屈もない、お金もほとんどかからない。ただ「プレゼンは重要だ」と意識することが第一歩である。

と偉そうなことをいったものの、私自身、プレゼン研究を始めたのは、ここ数

年程度のことであり、まだ発展途上である。自分の過去の口頭発表、一般講演、講義を振り返ってみると、上に述べたような原則に反した下手なプレゼンであり、汗顔の至りである。

 私は最近、学会に出ると他人のプレゼンを採点することにしている。そうすると、欠点が非常に目に付いてくる。それで、あっ、こうしてはいけないのだな、という点が分かる。読者のみなさんも、是非試してみてほしい。他人の振り見て我が振り直せである。

 

文献

プレゼンテーション一般に関しては、かなりたくさんの本が出版されている。大手の書店で探してみれば一目瞭然である。しかしそれらは、ほとんどはビジネスにおけるプレゼンテーションについてである。もちろん、それらの本もおおいに役に立つ。

実際、本文で述べた事柄も、引用箇所を個々には指摘しなかったが、多くを以下の本から学んだ。特にアイコンタクトの重要性を学んだ。

「成功するプレゼンテーション」箱田忠昭、日本経済新聞社(1991)

「パーフェクト・プレゼンテーション」八幡ひろし、生産性出版(1995)

なお両著者で矛盾する意見もある。

 ナポレオンとサッチャー元首相の例は、日経新聞に連載されたコラムから採用した。残念ながら著者のお名前は失念した。

 

科学研究の発表に的を絞ると、私はつぎのものしかまとまった本は見つからなかった。

 

「発表の技法、計画の建て方からパソコン利用法まで」諏訪邦夫著、講談社ブルーバックスB1099(1996)

この本は素晴らしい。私は以前にこの本を読み、学生にも読ませ、そして内容をすっかり忘れていた。そしてプレゼン研究を始めて、自分で様々な法則を発見した(と思った)。ところがあとで、本書を読んでみると、みんな書いてあるのである。私の特に新しいところと言えば、プロジェクターとポスター論文くらいであろうか。とはいえ、私はこの小論で、私の視点でプレゼンをまとめたと思っている。本文を読んで、科学プレゼンに興味を持たれた方は、ぜひ上記の書を読まれることをおすすめする。

 

 1998年12月に宇宙科学研究所で開かれた宇宙科学企画情報解析センターシンポジウム「マルチメディア技術を用いたサイエンス・プレゼンテーション」で富士通ラーニングメディアの君島浩氏が「専門発表教育〜テクニカルプレゼンテーション入門」と題して講演された。この講演は私には非常に参考になった。君島氏は私と違って、教育工学の訓練を受けたテクニカル・プレゼンテーションのプロである。氏の説かれるプレゼン技術は、プレゼンのアマチュアとして私が研究、勉強、開発し、本書で述べた技術と基本的には矛盾しない。

 しかし実技では大きな差もあった。どちらも液晶プロジェクターとPower Pointを使って講演した。私はPower Point備え付けのデザイン、背景、ページ切り替え音、アニメーションなどを使った。またMIDI音楽なども追加した。それに対し、君島氏はそういったものは一切使われなかった。背景はシンプルな白、それに黒い字、そのフォントもゴシックに限るとのことで、イタリック体やカラーなどは一切使わず、切り替え音もアニメーションも一切使っていない。思い起こすに、HPやSUNなどの外資系コンピュータ企業のプレゼンも君島氏と同じである。違いは、背景に会社のロゴを入れるくらいである。私自身は、まだ派手な効果を使うアマチュアであって、プロも行き着くところまで行き着くと、わびさびの境地に達するのかもしれない。あるいは教育工学に基づく深遠な理論があるのかもしれない。しかしPower Pointを開発した人々も、プレゼンテーションに関して、多分素人ではないはずである。また別のソフトとしてLotusのFreelanceも使ってみたが、基本的にはPower Pointと同じである。したがって、これらソフトに付いている様々な効果を使うべきか否かは、私にはまだ未解決の問題である。

 

謝辞

 私の「プレゼン道入門」の第一版を読んで有益なコメントを頂いた、名古屋大学の花輪さんと、大阪教育大学の福江さんに感謝します。本論文と同趣旨の講演は、199810月に山形大学で開かれた平成10年度日本天文学会秋期年会で特別講演として行われました。その機会を与えてくださった、年会実行委員長の加藤万里子さん、機材の準備をしてくださった梅林さんに感謝します。また19981214日に宇宙科学研究所で行われた平成10年度宇宙科学企画情報解析センターシンポジウム「マルチメディア技術を用いたサイエンス・プレゼンテーション」でも講演しました。世話人の篠原さんに感謝します。1999年1月6日に京都大学基礎物理学研究所で行われた「理論天文学懇談会」でも講演しました。話す機会を与えてくださった世話人の嶺重さんに感謝します。なお神戸大学理学部地球惑星科学教室宇宙科学研究室の大学生、大学院生諸君には、私の研究の実験材料となって頂き、感謝しています。

 なお初期の版にもとづく原稿は丸善出版の雑誌「パリティ」に掲載されます。