日本語学通信 第3号
(学部学生向け 研究室情報誌)
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目次

鈴木牧之『秋山記行』と秋山郷方言
「みぎはのみこそ ぬれまさりけれ」補説
国語学研究班 八ヶ岳合宿
秋山郷方言調査を実施日文合宿、箱根高原ホテルで

鈴木牧之『秋山記行』と秋山郷方言

 信越の秘境として知られる秋山郷は、かつて鈴木牧之が『北越雪譜』に「一夫是を守れば万卒も越え難き山間幽僻の地也。里俗の伝へに此地は大むかし平家の人の隠れたる所といふ」(初編巻之中、岩波文庫本による)と紹介したところです。現在は、新潟県中魚沼郡津南(つなん)町からバスに三十分も乗れば越後秋山には着くほどですが、冬ともなると何メートルもの雪が積もるといいます。

 牧之はさすがに俳諧の宗匠でもあったので、言葉に対する関心が深く、「さてこゝを去て例の細道をたどり、高にのぼり低に下り、よほどの途をへてやうやく三倉村にいたれり、こゝには人家三軒あり、今朝見玉村より用意したる弁当をひらかばやとあるいへに入りしに、老女ようちなつたといひつゝ木の盤の上に長き草をおきて木櫛のやうなるものにて掻て解分るさま也」などと、土地の訛りまで記録しています。ここに出てくる「見玉村」とは、津南から秋山に入る途中にある集落です。そこを朝のうちに発って、昼には「三倉」に着いたというのでしょう。「三倉」はいま「見倉」と書いて、秋山郷の一集落。「ようちなつた」というのは、「よく来なさった」という意です。この地では現在でも高年層はキを多くチに発音しますが、江戸中期でも事情は同じで、牧之はそれを珍しく思って記したものと思われます。

 牧之はさらに『秋山記行』という、秋山郷に旅したときの紀行文も著しますが、そこにも細かな方言の記録が載っています。この書は当時刊行されるには至らず、現在写本で伝わったものが複製され、あるいは翻刻されているのですが(平凡社東洋文庫など、以下引用は同書による)、信濃秋山の切明(湯本)の条には、「目下たのものを呼には、にしと云」「父を旦那と云。母を、かゝアさまと云」などと三十ほどの語が紹介されています。また同書末尾の「秋山言葉の類」には、「一、行事を、いかず、来る事を、こず」「一、かう往わいのうを、かういくいまうと云。或かう往を、かういきすとも云」「一、持って来よと云ふを、モッコウと云」などの文法的なこと、「一、処に寄り極下賎のもの、自分の女房を、かゝさと申」「一、先方の女房を、かゝどのと申」「一、都て衣類を、ぶうとうと云」などの語彙的なこと、そして「一、拙と申を、うらと云」「一、拾ふ事を、ふるふと申」「一、きをちと唱るは、取わけ大赤沢、小赤沢、上の原、和山抔也。譬ば、茸をちのこ、煙管筒をちせる、来なったと申すをちなった、又、きせるをけせるとも申所あり」「一、味噌をめそと云」などの音韻的なことに至るまで、その記述はなかなか細かいところに及んでいます。


 しかし、牧之の観察はこれに止まりません。本文中の聞書風のところには、振仮名をわざわざ付けて土地の発音を記しているのです。それによると、信濃秋山の小赤沢では、たとえば uとo や ki(キ)とci(チ) の混同が顕著で、本文中「己」には<うら>と、「疵」には<ちず>と振仮名が付いています。もっとも牧之自身も越後塩沢の人ですから、越後訛りがあって、とくにイとエを混同することが多く、「松明の篝にかたき粉とうふをはしで砕へて鵜呑にぞする」などという和歌を作っていますから、この点に関しては表記に混乱があっても仕方ありません。それに、牧之自身が気付いていたとしても、ふつうの仮名では書きあらわせないようなものは、当然記載されないはずです。また、牧之は五十歳ころから耳を患っていたらしく、それもずいぶん重症だったらしいので、秋山に旅したときに(五十九歳)、どれほど正確な聞き取りができたのか不安にはなりますが、このような点を差し引いても、この作品に記された江戸後期の秋山郷方言は、現代のそれと比較するにも堪える、興味深い資料だと思われます。

 そこで今年(2002年)の7月終わりから8月初めにかけて、「《日本語の歴史と方言》研究会」の学生諸君と一緒に秋山郷方言調査をしたときの記録をみますと、信濃秋山の和山地区に生育した山田初雄氏(1924年生)は、四季を「ハロ、ナツ、アチ、フヨ」と発音していますし、電気器具の「アイロン」について「ムカシワネェ スミヤナンカオ イレタヤツオネ、ワシラコドモノコロワ。 デ、ジッサイニ アノー デンチ(電気)ニナッタノワ シューセンゴデスネ」と、自然な会話にもキ>チがあらわれました。小赤沢地区の山田義輝氏(1919年生)も「湯」をふつうのユよりはヨに近く発音し、「馬」は「オマ」、「牛」は「オシンボォ」。「汽車に乗って」は「チシャニノッテ」に、「杉の木」は「スゲノチ」になりました(いずれも私の調査資料によります。なお秋山郷方言について詳しいことは、馬瀬良雄氏の『信越の秘境秋山郷のことばと暮らし』1982、『長野県史 方言編』1992などを参照してください)

 私たちはこの夏、鈴木牧之と同じ(?)二百年前の音声をこの耳で聞いたのではないか―― そんなことを思いながら戻ってきました。
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「みぎはのみこそ ぬれまさりけれ」補説

 前号で『土佐日記』一月七日の条にみえる「行く人もとまるも袖の涙川 みぎはのみこそ ぬれまさりけれ」という歌について書いたところ、論証が間接的で、いわば状況証拠だけを挙げているにすぎない、という批評をいただきました。 なるほど直接的な証拠は、前号のどこにもありませんでした。それは認めます。しかし、このような古文献の解釈には確かな証拠など、なかなかに示せるものではありません。このような場合は、少しでも可能性が高く、より深い解釈に拠って立つのが一般的であると思います。

 ここにもう一度この問題を取り上げるのは、紙幅の都合で前号に言えなかった、もう一つの状況証拠を挙げたいからです。それは「涙川」という架空の川を平安時代の前期、貫之の時代にどのように捉えていたかということです。 そこで思い合わされる歌に、『古今和歌集』巻十、466番歌「流れ出づる方だに見えぬ涙川 おきひむ時や底は知られむ」があります。これは「熾き火」という語を読み込んだ、いわゆる「物の名」の歌ですが、歌の技巧はともかく、《涙川の沖が干上がると底が見える》すなわち《本当の心がわかる》という趣向が読み取れます。すると、不完全ながら以下のような対応関係が浮かびあがってくるのではないでしょうか。

内面(心):外面(表面)∽ 沖(底):水際

 この歌の作者は、都良香(みやこのよしか844-879)という、貫之よりは一時代前の人ですから、当然このような趣向を、貫之はじめ当時の人々は承知していたものと解せられます。

 そうしてみると、「水際」は《外面》のことだと無理なく理解されますので、さきの「水際のみこそ」も《外面だけ悲しんでいる》と考えて、とくに問題のない表現であることが明らかになるのではないでしょうか。
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国語学研究班 八ヶ岳合宿

 夏休みも終盤にかかった9月5日・6日の両日、山梨県の八ヶ岳にある秋永一枝先生(本学名誉教授)の山荘で合宿。前期に読み進んでいた『日本語ウォッチング』について分担発表しました。参加者は学部学生3名、大学院生3名、それに教員3名。温泉に浸かったり、バーベキューをしたり、勉強も少々。夜は、秋永先生の経験談も聞かせていただきました。

(国語学研究班 活動の1コマ)
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秋山郷方言調査を実施

 かねてより方言調査を予定していた「《日本語の歴史と方言》研究会」は、去る8月1日〜3日新潟・長野県境の秋山郷に合宿し、方言調査を実施しました。参加者は学部学生7名です。大学院の加藤大鶴氏にも加わっていただき、録音・録画資料もたくさん持ち帰ることができました。土地の人に気に入られて気を良くし、「また来年も来ましょう」と叫んで帰りのバスに乗り込んだ学生もいました。現在、収集した資料の整理にかかっています。
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日文合宿、箱根高原ホテルで

 夏休みも後半の9月7日〜9日、二拍三日で日文合宿が箱根高原ホテルでありました。日文合宿とはいえ、他学部、他専修からも参加できるものです。

 今年は例年になく「国語学・日本語学」班が盛況で参加者10名。野村先生・高梨先生、それに私(上野)も参加。研究発表は、石田耕大(英文専修)「漢字について」/大野花野子「漢字について」/川浪理恵子さん「条件文の分析」/中川彰子「三重県のことば」/平原奈津子「地名のアクセントについて」/生源寺・関根・矢吹・横道「ことばの男女差の縮小」の五つでした。最後の四人の発表は、文化庁《新「ことば」シリーズ》を参考にして、独自の調査をした意欲的なもの。ほかの人の発表も、いずれ卒業研究につながるものだと思います。
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上野和昭(Ueno Kazuaki) E-mail: uenok(at)waseda.jp