日本語学通信 第21号 (2008. 7.20)

(学部学生向け 研究室情報誌)
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目次

平曲のことばと日本語史 @




平曲のことばと日本語史 @

 2008年6月8日名古屋で開催された平曲鑑賞会での講演記録を3回に分けて連載する。


 1. はじめに

 ただいまご紹介にあずかりました上野和昭でございます。じつを申しますと、わたくしなどは、ここで講演をするほどの者ではないのでございますが、昨年のちょうど今頃、この会の第10回記念講演会において、わたくしどもの名誉教授で、演劇博物館の館長でもいらっしゃった鳥越文蔵先生が講演をなさいました。そのとき、わたくしは初めてこの平曲鑑賞会に参加いたしましたのですが、ご講演の最中に、鳥越先生が天草本平家物語のローマ字で書かれた本文を、突然わたくしに読むよう命ぜられましたので、あるいは今日おいでの方のなかにも、あああのときの男かと、思い出してくださる方もいらっしゃるのではないかと思います。林和利先生や尾崎正忠先生から講演のご下命がありましたのは、じつはそのときのことなのでございます。
 わたくしは、今日のお話の標題からもお察しいただけると存じますが、平曲研究者というよりはむしろ、日本語の歴史、またそれと方言との関係などを中心に調べているものでして、主に音韻(音声)・アクセントの面に関心をもっております。そのようなわけで、古い日本語のすがたを知る手がかりとして平曲譜本の恩恵を受けることが重なりまして、こうしてお呼びいただくことにもなりましたのでございます。

 このように申しますと、平曲譜本を日本語学・国語学の方面から扱っているのなら、なにか決定的な事実をみつけているのではないかと期待されるむきもあろうかと存じますが、実際のところはみなさまのお役に立つことなど、なかなかに言えるものではございません。

 先年亡くなられた金田一春彦博士は、たとえば、平曲の≪折声≫の曲節は、南北朝時代、明石検校覚一のアクセントを反映しているなどと仰って、それをもとにどんどん議論をお進めになったのですが、それは博士のような方にしてできることでございまして、わたくしなどよう者はいまだに≪口説≫と≪白声≫に記された譜記から近世京都のアクセントを考えることに明け暮れている始末でございます。ですから、今日はみなさまをがっかりさせはしないかと、そればかりを恐れて出てまいりました。



 2. 音声言語史の資料としての平曲 ― 清濁 ―

 ところで、きょうの演題に「平曲のことば」と申しまして、「『平家物語』のことば」と申しませんのは、平曲が音声言語として伝承され、またそのような音声言語を再現できるように譜本が残されてきたところに、日本語の歴史をたどる手がかりがつかめるのだ、ということを申したいからでありますが、「『平家物語』のことば」の方のまとまった研究は、早くからありまして、山田孝雄博士の『平家物語の語法』という大著ができましたのは大正のはじめのこと(1914)であります。しかしこれは、奈良時代・平安時代に続いて鎌倉時代の言語資料を得ようとして平家物語を取り上げ、その準拠すべき本文を延慶本に求めたものでありまして、「語りのことば」という観点からの考察はほとんどありません。

 語りものとしての平家物語の価値を、日本語史・国語史の面で指摘した早いものとしては、橋本進吉博士の東京大学での講義「国語音声史」(1927年度、著作集六)があります。その講義録によりますと、鎌倉室町時代の国語の音声について「その当時用ゐられて居つた音の種類を考へるに当つては、」として仮名文献、仮名遣書などと並べて、「平家琵琶や謡曲の謡ひ方も又、欠くことの出来ない参考資料である」と述べておられたそうであります。

 そうして博士ご自身の論文、たとえば「盛者必衰」という短い物(1935)が著作集の第四冊『国語音韻の研究』に収められておりますが、そのなかで
 平家物語を、平曲の譜本である語り本で読んでみると、我々が普通に文字によって読んでゐるものと読み方の違ふものが少くない事を見出すのであつて、殊に音の清濁の異なるものが多い。
とおっしゃいまして、その一例に平家物語、祇園精舎の冒頭に出てくる「盛者必衰」の一句を取り上げ、そのなかの「盛者」の読み方を問題にされました。橋本博士によると、昭和のはじめ頃の平家物語の注釈書などでは、この語はシャウジャと読まれるのが普通であったとのことで、博士は平家物語のこの部分の出典にあたる『仁王経(ニンノウギョウ)』を山家本(サンゲボン)について調べ、天台の読み方としてはジャウシャが適当であることを述べておられますが、そのような考察の契機となったのは『平家正節』のこの部分に「ジャウシャ」と読むよう指示があったことだったのであります(尾崎本『平家正節』には、たしかに「盛」に傍訓「ジャウ」、「者」の右肩に「ス」とあります)。博士は、また後世シャウジャと読まれるようになったのは「生者必滅」シャウジャヒツメツのシャウジャと混同したところから起こったのだろうと述べておいでになりますが、「盛者」をジャウシャではなく、シャウジャあるいはシャウシャなどと読むのは、キリシタンが編纂した『日葡辞書』や『節用集』の古いものにもありまして、混同があったとしても、それは中世からのことのようでありますが、たまたま「盛者」も「生者」もアクセントがLHLと同じであったことも、このような混同を起こすのに一役買っていたものと思われます (「盛」呉音ジャウ去声、「生」呉音シャウ去声、「者」呉音シャ平声)。

 橋本博士は、このように論じられた末尾に、
 全体我が国では漢字で書いた語の読み方が確かでないものが多く、仮名で書いたものでも、その清濁が不明なものが少くない。この点が語源や語史の研究者や辞書編纂者の遭遇する難関の一つとなつてゐる。平家の語り本は、古代語の読み方を保存してゐるものが多く、かやうな点で有益な資料といふべきである。
と、平家物語の語り本、とくに荻野検校編纂になる『平家正節』の国語史的価値を明らかにされたのであります。

 中世から近世のころの音声言語の状況は、このように平曲譜本から知られることが多くありますが、譜本ばかりでなく平曲伝書にも事細かに注意してくれているものがあり、そこからも当時の音声言語の様子をうかがうことができます。しかし、それだからといって、書かれたままを信じて、簡単に昔はこうだったと言えるものでも、実はないのであります。

 いま呻吟庵という人が元禄八年(1695)に記したという『平家物語指南抄』(『国語国文学研究史大成』による)という伝書から一項目だけ引いてみますと、
 行啓(ギヤウケイ)  行ケイトケノ字スミタルヨシ ニゴルアシヽ 
とあります。「行啓」とは「太皇太后、皇太后、皇后の三后(サンゴウ)や皇太子、皇太子妃、皇太孫の外出をいう尊敬語」でありますが、それをギョーゲイと濁らずにギョーケイと清んで読めと言っているのであります。しかし『平家正節』では「行゛啓゛ありけり」(内裏炎上、秦音曲鈔、也有本など同様)などと両方の漢字に濁点がありますので、『指南抄』の記述とは一致しませんが、当時の故実書に『名目抄』というものがありまして、それには声点というアクセントや清濁がわかるような符号が付いております。それによるとどうやら中世から近世にかけて、ギョーゲイ・ギョーケイ両様あったらしいことがわかるのであります。しかし『指南抄』がここまではっきりと言うところをみると、ギョーケイと連濁しない読み方の方を良い形、本来の形だと、呻吟庵という人は考えたようであります。

 話が複雑になって恐縮ですが、これら二字はいずれも呉音系統のよみをする漢語でして、一つひとつの漢字を取り出せば、古く「行(ギャウ)」は平声で低い平らLL、「啓(ケイ)」は去声で上昇調LHとなります。アクセントも中世末から近世のころには、LLLHから変化したHHLL(名目抄)、さらに変化したと思しきHLLL(平家正節)だったようであります。そのようなことも、現在では資料が整ってきてわかるようになりましたが、いかんせん今日では「行啓(ギョーケイ)」などということばを日常使いませんので、現代京都ではもはや高平(HHHH)型になってしまっております。この高平型と申しますのは、この種の漢字2字から成る4拍漢語の多くがそうなっているアクセント型です。

 もちろん「行啓(ギョーケイ)」以外にも、当時の読み方が今日と異なるものはたくさんあります。「おびただし」は当時オビタタ゜シだったとか、「くわだて」とは言わずにクワタ゜テだったとか、「一騎当千」はイッキトウゼンであった、などなど・・・・・これらのことを簡単に知りたければ、もはや半世紀も前のものですが「平家読み方一覧」(日本古典文学大系『平家物語』下1960)をご覧になるのが近道であります。


 3. 伝承に残るものと残らないもの
           ―「四つ仮名」 ・ ハ行音 と 舌内入声韻尾―

 さて平曲譜本に記載された音声言語を再現するため(すなわち平曲を語れるようにするため)の注記については、いま清濁のことを申し上げましたけれども、実際の伝承において、そのとおりになっているのかという問題があります。今日は、これから今井検校が「竹生島」を語ってくださるのですが、今井検校のような純粋に、文字を介さずに継承なさっておいでになり、その伝承系統の明らかな方であっても、現代の平曲家が中世以来の音声言語をそのまますべて伝えているかとなると、それはなかなかに難しいことであります。

 しかし、私は、伝承というものは、そういうものであろうと思います。長い年月を経れば、そのまま伝えるなどということは無理なことでありまして、むしろなにを伝え、なにを伝えられなかったかということを、わたくしども国語史を問題にする者はかたわらで考えておればよろしいので、小ざかしく昔はこういう発音であったはずだから、こう語るのがよいなどということは言うべきではないと思っております。もし仮にそんなことを申したとしたら、それは、伝承されたものを勉強させていただいているものが、その伝承そのものに手を加えようとすることにほかなりませんから、いわば本末転倒の謗りを免れないと思うのであります。

 このように申しましても、みなさまの中には「伝えられなかったこと」とは一体なにかと食い下がる方がいらっしゃるのではないかと思います。これから、今井検校の演奏があるというのに、なにを言うのかとお叱りをいただくかもしれません。しかし、平曲伝書の一つ『追増平語偶談』や、平曲譜本の隅に、次のような和歌紛いのものが書きつけられていることを、みなさまはご存じだと思います。
   シチスツの濁りをわけて ハヒフヘホ細く吹き出せ 当れトタカを
 さて、これは何を言っているのかということでございます。謡曲などでもうるさく伝えるところですが、はじめの「シチスツの濁り」、すなわちシチスツという四つの仮名の濁音であるジヂズヅ(国語史では「四つ仮名」と申しますが)、その発音を区別せよ、ということが第一点で、つぎにハヒフヘホを今日のように発音せず唇を細く尖らせて、吹くようにファ、フィ、フェ、フォと発音せよというのが第二点であります。「当れトタカを」というのは、その発音を明確にするための工夫を述べたものでしょうから、いまは問題にせずにおきますが、これから察しますに、平曲の伝承に「四つ仮名」やハ行音のことがあったようでありますけれども、これを現代の伝承に求めることはすでに無理でありましょう。伝えられなかったことを、ふたたび復活することは、「復元」とでも申すべきでございますが、それはまた伝承とは区別して考えなければならないと思うのでございます。(次号につづく) 
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