日本語学通信 第23号 (2009. 3.20)
2008年6月8日名古屋で開催された平曲鑑賞会での講演記録を3回に分けて連載(第3回)
しかし、京阪も近畿周辺の方言アクセントを調べてみますと、アカイはHLLではなくHHLと発音する地域があります。そして、それと同じアクセントを反映する譜記を『平家正節』に拾うことができるのであります。現代において一つにまとまってしまっているものが、かつては二つの区別があった。その様子を反映しているのが『正節』の譜記だということでありますが、その二つの区別というのは、姿こそ違いますけれども、じつは平安鎌倉時代の区別とよく対応するものなのでありまして、『平家物語』が形成されていくころ、鎌倉時代の京都において、シロキLLFなどと言った形容詞は、江戸時代になって平曲譜本の作成されるころにはシロキHLLというアクセントに変化しましたが、もう一方のアカキHHLの類の形容詞と、何百年ものあいだ区別されてきたのであります。それが、近世後期以後にアカイHLL、シロイHLLと一つにまとまって区別されなくなったのでして、これからしてみるに、『平家正節』の譜記に反映するアクセントは、現代京都よりも、平安鎌倉時代のアクセントとよく対応する、ということになるわけであります。
もちろんこのような伝統性は、形容詞アクセントについてだけ言えるのではありません。動詞の場合にも、形容詞以上の対応関係が指摘できるのであります。
名詞の場合は、もともと、拍数の少ない2拍や3拍の語は、現代でも伝統的といえば言えるようなものでして、とくに『平家正節』の譜記から知られるアクセントと現代京都アクセントとの間に、一部を除き、そんなに大きな違いはないようであります。ところが、最近『平家正節』の譜記に反映した複合名詞のアクセントを調べてみて、とくに〔2+2〕〔2+3〕〔3+3〕のような構造の語を拾い出してみたところ、そのアクセントが平安・鎌倉時代のそれとの対応がよく、現代のそれとは異なるということに気づきました。
たとえば〔2+3〕構造の「みやづかへ(宮仕)」と「ものがたり(物語)」とを取り上げてみますと、このような複合名詞は院政・鎌倉時代には、高く始まる「みやづかへ」HHHHLの語群(内兜・爪弾き など)と、低く始まる「ものがたり」LLLHLの語群(馬筏・玉襷 など)とがあったことが推定されています。これらについて『平家正節』の譜記を調べてみましたら、この二つの語群が、アクセントそのものの姿こそ違え、ほとんどグループとしては保たれていることが分かりました。
アクセントそのものの姿と申しましたのは、「みやづかへ」グループはそのままHHHHL型なのですが、「ものがたり」グループはLLLHL型から規則的に変化したHHLLL型になっているということであります。院政・鎌倉時代から何百年かのちの江戸時代に、かつてのアクセント上の区別が保たれていたということは、平曲の伝承の重みを十分に示すことだと思うのであります。
ちなみに、現代京都ではこれらの語に使うものがあれば、その多くは新たにHHHLL型やLLHLL型となっているということでございますが、これは伝統的なものとは申せません。
5. おわりに ―アクセント史から言えること―
このようなわけで、わたくしは『平家正節』の譜記に反映したアクセントは由緒正しいものである、古代からの流れをよく受け継いだ伝統的なものである、と申すのでありますが、それはしかし、わたくしどもがやっているような、アクセントの歴史を研究する学問においては重要なことではあっても、平曲を愛好される方々にとっては、あるいはどうでもよいことで、一体それがどうしたのだということになろうかと思います。
そこで、これまで『平家正節』の譜記から近世京都アクセントを調べてみて、なにかもう少しわからなかったか、ということになりますが、今井検校の演奏時間も迫ってまいりましたので、手短かにいくつか申し述べようと思います。
平曲譜本をアクセント史の資料としてみる場合に、他の資料とはちがう特徴は、名乗りのアクセントを反映する譜記が随所に見られることであります。名乗りとは義経とか清盛といった男性の名前でありますが、このような漢字2字4拍の名乗りのアクセントは、おおまかに申して、《口説》ではHLLL型が多く、《白声》ではHHLL型が多いという集計結果が出ております。HHHL型は、いずれにもわずかしかないのですが、とくに《白声》ではたったの1例しかありません。
もちろんこれはおかしいぞ、ということになりまして、『正節』系諸譜本を調べてみました。すると、東大の青洲文庫本も、早稲田の「平家物語節附本」も、それから京大の「平曲正節」もみなHHHL型とみられる譜記なのですが、尾崎本と京大本に書き込まれた朱注だけはHHLL型と対応する譜記を付けておりました。アクセント史の観点からすれば、ここはHHLL型の譜記の方が優れると思います。いやHHLL型でなければならないのに、なにかの事情で、あるはずのないHHHL型の譜記が入り込んだというわけでございます。
また『平家正節』の詞章を調べて気づいたことですが、どうも「城」をシロと読むことはないようであります。みなジャウ(ジョー)と読ませるようで、「城」にわざわざ濁点をつけたり、「城」の末尾に「ウ」と捨て仮名を記しております。
ところが、そこに付けられた譜記をみますと《口説》《白声》に18例あるうち、明らかにジョーLHと考えられる譜記と、ジョーHHまたはHLかと考えられる譜記が、両様あらわれるのであります。前者LHの確かな例は《白声》に3例、後者HHまたはHLの確かな例は同じく《白声》に2例であります。《口説》の例は、どちらにも取れるもので、この場合には役にたちません。もともと「城」はジョーと読めば呉音読みですから、その字音声調は去声LHでありますから、LH型であらわれるものについては説明がつきます。しかし高く始まるHH型またはHL型にあらわれる2例については、ジョーと読むかぎり説明がつかないのであります。『日本国語大辞典』第二版には、「「しろ」を城郭の意に用いた確例は中世以前にはみあたらないようである」と記されてもいるので、これをジョーと読むことには異論はないのですが、しかしなぜHHまたはHLとみなされるような譜記がついているのかということが、アクセント史のうえからは問題になるのであります。
思いますに、この譜記は「シロ」のアクセントが混入したのではないでしょうか。シロはいわゆる「類別語彙」にこそありませんが、諸方言の対応からすればHH型とみられますので、この例のような助詞「の」接続形では、シロノHHHと高平らになるものであります。この2例の譜記は例外的にジョーではなく、シロと読んだときのアクセントに基づく譜記であり、それがのちに読み方だけジョーと統一されたために、このような齟齬が生じた、とわたくしは思うのであります。そう考えますと、この2例は同じ「14上一二駈」に出てくるというところも、なにやらいわくありそうだ、と思えてまいりますが、いかがでしょうか。必ずそうだとは申しませんが、アクセント史の観点からは、このような可能性も考えてみたくなるというほどのことでございます。
いま「城」という字をジョーと読むか、シロと読むかを決定するうえに、《口説》の譜記は役に立たないと申しました。それは、いわゆる「特殊低起式表記」かもしれないという疑念がぬぐえないからであります。
この「特殊低起式表記」というものは、かつて奥村三雄先生がそう命名された現象ですが、ことばの音調として高拍が4拍以上続く場合に、それを低く始まるように施譜された譜記を指しております。『正節』の音楽性のある曲節、すなわち《白声》以外のところに出てまいります。と申して、わたくしは《口説》と《白声》しか調べておりませんので、率直に知っていることだけを言えば、《白声》には認められないが《口説》には明らかなものがいくつも見出せるのであります。
具体的にどんなものかと申しますと、「赤地の錦の」という詞章に付された譜記をご覧ください。
赤地の錦の(上上上上上×××) 8下能登殿最期、14上河原合戦(ともに白声)
赤地の錦の(××上上コ×××) 5上小松教訓、6下実盛最期(ともに口説)
これは、旋律のない《白声》の譜記がことばの音調を反映しており、《口説》の方は音楽的・芸術的要請による変容であろうと理解しております。
そして、このような「低起式表記」には類型がございまして、第一に高拍5連続の始めの2拍に譜のないもの、第二に高拍6連続の始めの4拍に譜のないもの、第三に高拍4連続の始めの2拍に譜のないもの、などがあるのでして、この順に数が多いのではないかと思いますが、とにかく私どもはこれに注意しませんと、アクセントを考える場合に間違いをしでかすことになるのであります。このことに注意を促されたのは、奥村先生、それに続いては石川幸子氏で、私はその驥尾に付して申し上げているだけでございます。
このような特殊表記の例を整理しておりますときに、『正節』以外の譜本ではいったいどうなっているのだろうかと思いまして、いくつかの譜本を調べたことがございます。譜本と申しましても、そんなに多くを調べたわけではありませんが、時間も迫ってまいりましたので、譜本を比較した例を「妓王」の章段から引いてご説明し、そのあとわたくしの思うところを申し述べたく思います。
と申しますのは、「京中の白拍子ども妓王が幸の目出度いやうを聞ひて羨者もあり、猜者もありけり」というところで、その「そねむものも」のところは、ことばの音調としてはHHH・HL・Lとなって、高い拍が4連続しますが、尾崎本はじめ『正節』諸本は《口説》でありながらも、それをそのまま高平調に対応する(上上上コ××)の譜記を施しております。これはそのまま高拍4連続を譜記に反映させたもので、とくに特殊表記でもなんでもありませんが、この部分にある他本の譜記をみると以下のようであります。
(上中上中××) 筑波大学蔵「節付片仮名本」、東北大学蔵「平家物語かたり本」
(中中上中××) 横井也有自筆「平語」
《上乙上乙××》 修道館文庫本「琵琶平家物語」(江戸・吟譜系)
《上下上乙××》 宮崎文庫記念館蔵「平家物語」(江戸・吟譜系)
《上上上平××》 早稲田大学演劇博物館蔵「平家物語」(江戸・豊川本系)
《上平上平××》 京都大学蔵「平家物語節付かたり本」(波多野流)
(上上上コ××) 『平家正節』(尾崎本、東大本、京大本、早大本、芸大本)
こう並べてみますと、ことばの音調が高平調のところを、そのままにそれを反映して平らな譜記をもつのは、豊川本系と正節本系であり、一方旋律が揺れるかと思われる譜記をもつのが筑波大本・東北大本といった古譜本や、江戸前田流の吟譜系、それに波多野流にもそれらしい譜記をもつものがあるということがわかります。
いずれもことばとしては高平調のところを、多くは低起性の旋律で語ったかと思われますが、筑波大本と東北大本は(上中上中)と揺するような旋律で、也有本の段階をへて、『正節』の「特殊低起式表記」になっていくような変遷を、わたくしは見たくなるのでありますし、それに修道館文庫本の筑波大本や東北大本と対応のよいことも注意されます。
もちろん「特殊低起式表記」というアクセント史の問題だけから比較したものですから、この変遷が絶対のものだなどというつもりはありませんが、このような観点からなにかが解けはしないかと考えております。
以上、みなさまのご好意に甘えて、ながながとお話いたしました。このたびの講演の趣旨は、音韻やアクセントの歴史の観点からみても、平曲また平曲譜本はまことに貴重な、興味深いものだということでございます。ご清聴くださり、ありがとうございました。(完)