・東京地判平成13年6月13日判時1757号138頁  「絶対音感」事件:第一審。  原告(オーストラリア在住)は、米国の作曲家レナード・バーンスタインが著作した英 語版演劇台本「Young People's Concerts What Does Music Mean?」を日本語に翻訳し (邦題「ヤング・ピープルズ・コンサート ――音楽って何?」)、二次的著作物である本 件翻訳台本につき著作権を取得した。原告は、被告(ノンフィクション作家)および被告 会社(株式会社小学館)が、その書籍『絶対音感』の240頁から242頁にかけて、本 件翻訳台本の一部を掲載したことが、原告が二次的著作物について有する複製権および著 作者人格権を侵害すると主張して、被告らに対して損害賠償の支払を求めた。  判決は、適法な引用にあたらないとして、複製権および氏名表示権の侵害を認め、合計 100万円の損害賠償請求を認容した。 (控訴審:東京高判平成14年4月11日) ■争 点 (1) 原告翻訳部分の掲載は適法な引用といえるか(複製権侵害の成否) (2) 複製権侵害及び氏名表示権侵害について、被告らに過失があるか。 (3) 損害額はいくらか。 ■判決文 第3 争点に対する判断 1 争点1(引用の適法性)について  被告Bが、本件書籍を執筆するに当たり、その240頁6行目から242頁末行に掛け て、原告翻訳部分を複製して掲載したことは当事者間に争いがない。  著作権法32条1項は、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この 場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究 その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。」と、同法48 条1項は、「ーーー著作物の出所を、その複製又は利用の態様に応じ合理的と認められる 方法及び程度により、明示しなければならない。」と、それぞれ規定している。  そこで、同複製行為が、適法な引用として許されるか否かを、本件の事実関係に照らし て検討する。  証拠(乙1ないし4、11)及び弁論の全趣旨によれば、以下のとおりの事実が認めら れ、これに反する証拠はない。 (1) 英語版演劇台本「Young People's Concerts What Does Music Mean?」は、作曲家レ ナード・バーンスタインが、1958年(昭和33年)ころ、若い聴衆と音楽の楽しさを 分かちあえるよう、自らニューヨーク・フィルハーモニックと共に出演し、演奏するため に書き下ろした一連の台本の一つである。原告は、平成8年10月ころ、指揮者Dがバー ンスタイン役となって上演するための日本語台本として、上記英語版演劇台本を翻訳した。 そして、原告は、Dが上演に当たり、ピアノを演奏しないなどの事情から、台本の一部に 変更を加えた上、日本語翻訳(邦題「ヤング・ピープルズ・コンサート・・音楽って何?」) を完成させた。本件翻訳台本は、A4版17頁(表紙を含む。)からなるワープロ書きの ものであり、翻訳者名は記載されていない。 (2) 本件書籍は、数多くの取材に基づき、「絶対音感」に関する様々な実話や古今東西 の音楽家等のエピソード等を紹介しながら、同テーマを多角的に考察したノンフィクショ ン作品である。なお、本件書籍の原稿は、第4回「週間ポスト」「SAPIO」21世紀 国際ノンフィクション大賞を受賞した。本件書籍は、「プロローグ(書き換えられた自伝)」 、「第1章(人間音叉)」ないし「第8章(心の扉)」、「エピローグ(バラライカの記 憶)」、「あとがき」から構成され、319頁からなる。その「第7章(涙は脳から出る のではない)」は、239頁から261頁に掛けて、「言葉にならない言葉」「音が動き、 心が動く」「コンピュータと音楽」「書かれざるもの」「神様が見えた」「リアリティ」 という小見出しの下に、相互に関連はあるものの、それぞれが独立した話題が紹介されて いる。 (3) 本件書籍の「第7章(涙は脳から出るのではない)」の「言葉にならない言葉」と いう部分には、バーンスタインが、1958年1月にカーネギーホールで「音楽って何?」 と題するコンサートを行ったことが記述された後、そこで語られた言葉の一部を紹介する として、240頁6行目から242頁末行に掛けて、別紙1のとおり、原告翻訳部分が複 製されて掲載されている。 (4) 被告Bは、本件書籍の執筆のための取材をしたが、その際、前記日本語のコンサート の企画、制作を担当したクリスタル・アーツ社の代表者であるCから、原告翻訳部分を含 む本件翻訳台本を渡され、Cからは、原告翻訳部分を本件書籍へ利用することの了解を受 けている。しかし、Cは、本件翻訳台本の著作者である原告から、本件翻訳台本を第三者 に利用させることの許諾権限を付与されたことはない。  以上の事実に照らすならば、@本件書籍の目的、主題、構成、性質、A引用複製された 原告翻訳部分の内容、性質、位置づけ、B利用の態様、原告翻訳部分の本件書籍に占める 分量等を総合的に考慮すると、著作者である原告の許諾を得ないで原告翻訳部分を複製し て掲載することが、公正な慣行に合致しているということもできないし、また、引用の目 的上正当な範囲内で行われたものであるということもできない(前記のとおり、被告らは、 原告翻訳部分の掲載に当たっては、正当な著作者の許諾を受けようと努め、受けられたも のと誤信していたのであり、その経緯に照らしても、原告翻訳部分を許諾を得ないで自由 に利用できる公正な慣行があったものと認定することは到底できない。)。  したがって、原告翻訳部分を複製、掲載した行為は、著作権法32条1項の要件を満た す適法な引用とはいえない。 2 争点2(被告らの過失の有無)について  被告Bは、調査をすれば、本件翻訳台本を翻訳した者が原告であることを容易に知り得 たにもかかわらず、調査を怠った結果、二次的著作物の著作者である原告の許諾を得ず、 その氏名も表示せずに原告翻訳部分を掲載した。また、被告小学館は同様に、調査をすれ ば、二次的著作物の著作者が原告であることを容易に知り得たのにもかかわらず、これを 怠って本件書籍を出版した。したがって、被告らには、本件翻訳台本の著作権者である原 告の許諾を得ずに掲載したことについて、過失がある。  この点、被告Bは、本件翻訳台本の本件書籍への掲載について、Cの了解を得ているか ら、過失がないと主張する。しかし、Cは、本件翻訳台本の掲載につき、許諾を与える権 限を有していないことは明らかであるから、被告らが、Cに確認したり、Cから許諾を得 たことをもって、過失がないとすることはできない。  以上によれば、本件複製権の侵害につき被告らには過失があったというべきであり、被 告らの上記行為は共同不法行為を構成する。  また、被告らが本件書籍に原告翻訳部分を掲載するに当たって原告の氏名を表示しなか ったことは、原告の著作者人格権を侵害するものであり、この点についても被告らには過 失があるといえるから、被告らの行為は、共同不法行為を構成する。 3 争点3(損害)について  そこで、原告の被った損害について検討する。 (1)財産的損害について  証拠(乙10、11)及び弁論の全趣旨によれば、本件書籍は、発行された平成10年 3月から同11年3月までの間に35万1000冊が出版され、その間に33万1754 冊が販売(実売)され、ベストセラーとなったこと、その後も、初年度より少ないとはい え、かなりの数が販売がされたと推認されること、定価は1600円であること(争いが ない)、本件書籍は本文部分が319頁であり、一方原告翻訳部分は3頁であることが認 められる。  そこで、被告らの複製行為によって原告に生じた損害を考察する。@原告翻訳部分の使 用料率については、確かに、本件翻訳台本は、翻訳に係る二次的著作物ではあるが、原告 が構成等の面で、ある程度の改変を加えて制作したこと、本件翻訳台本は、極めてわかり やすい、こなれた言葉が使用されていること等の事情を参酌すれば、概ね本件書籍の販売 総額の10パーセント程度と解するのが相当であり、また、A原告翻訳部分の本件書籍全 体に占める寄与割合については、それぞれの頁数割合と同率である解するのが合理的であ る。そうすると、原告の被った損害額は、これらの一切の事情を総合考慮して、70万円 と認定するのが相当である。  なお、原告は、複製権侵害による損害は、被告小学館が本件書籍を販売したことによる 利益額を基礎として算定すべきであると主張するが、原告は自ら書籍の出版を行なってい ないことに照らすと、原告の同主張は採用できない。 (2)精神的損害  被告らの著作者人格権侵害により原告が被った精神的損害については、原告には、それ まで演劇台本の翻訳等を行った経歴及び実績があること(甲1ないし6)、原告翻訳部分 は本件書籍の主題と密接に関連し、重要な役割を果たしていること及び本件書籍は21世 紀国際ノンフィクション大賞を受賞するなどして話題を呼び、相当部数が販売されたこと (乙11、弁論の全趣旨)などを考慮すると、上記精神的苦痛に対する慰謝料としては2 0万円が相当である。 (3)弁護士費用  本件における一切の事情を考慮すると、被告らの不法行為と相当因果関係のある弁護士 費用としては10万円が相当である。 第4 結論  以上のとおり、原告の本件請求のうち、被告らに対し、連帯して、合計100万円及び これに対する不法行為後の日である平成10年3月10日から支払済みまで年5分の割合 で金員を支払いを求める限度で理由がある。 東京地方裁判所民事第29部 裁判長裁判官 飯村 敏明    裁判官 今井 弘晃    裁判官 石村 智 別紙1 原告翻訳部分 別紙2 書籍目録記載の書籍240頁6行目乃至242頁最終行下記部分                記 「さて、今聴いてもらった曲だけど、みんなはどんな風に思ったかな?運動会、競馬、障 害物競争、西部劇……そう、いろんな答えが聞こえてきたけど、どうかな?  でも、残念ながらこの曲は運動会も西部劇もまったく関係ないんです。ごめんなさい。 これはただの音符の集まり。ミのフラットとか、ファのシャープが集まっただけ。曲の意 味とか、この音楽は何か、なんてことについていろんな人がいろんなストーリーをつくり 上げるけど、そんな話ここでは忘れてしまいましょう。  ストーリーは、音楽が何かということにまったく関係ありません。この音楽は、このこ とについて語ってるなんて断言できるものじゃないんです。音楽は、ただ音楽というだけ。 音符の集まり。美しい音がいろんな形で組み合わさり、それを聴く僕たちを楽しませてく れるもの。ただそれだけなんです。いろんな人がこの音楽はなんですか、とか、この曲は 何を意味してるんですかなんて尋ねてきますけど、これは非常に難しい質問なんです。  <中略>  ウィリアムテルは、学校の運動会にも競馬にもまったく関係ないんです。なぜなら、こ の曲は綱引きや運動会や競馬場にも行ったことのないイタリア人、ロッシーニという人が 作曲したからです。みんなが運動会とか競馬って思ったのは、この曲がそういうところで っしょっちゅう使われてるからなんですね。  でもロッシーニはこの曲を「ウィリアムテル」というオペラの序曲として書いたんです。 舞台はスイス。でもそうなると、みんなが聴いた曲は、ウィリアムテルとスイスを意味す るということになるかな?違うよね。ウィリアムテルでも競馬の騎手でも電気スタンドで も何でもない。そんな特別な物を意味するわけじゃない。  だったらどうして、こう、体がわくわく動いてくる感じがするんだろう。それにはたく さん理由はあるんだけど、全部音楽的な理由だけ。そこが大切なポイントなんですよ。  まず、リズム。なんか、馬に乗って走ってるようなリズム。太鼓の音はなんか競争した り戦っているようなリズム。でも、だからといって、この音楽は太鼓とか馬とか戦いを意 味してるわけじゃない。大切なのはこのリズムが僕たちを興奮させ、ワクワクさせてくれ ること。ワクワクする理由としてはこのほかに、力強い旋律もあります。覚えやすくて、 なんか……血が沸き立ってくる感じ。  <中略>  ワクワクするのは、ワクワクさせるように音楽が書かれているから。これは音楽的なこ とが原因で、他に理由はまったくないんです。でも、それが本当ならなぜ作曲家はそこに 題名をつけるのでしょう。交響曲とか三重奏とか作曲番号○番でもいいはずです。『魔法 使いの弟子』なんて曲もあるけど、音楽的にそれほど重要じゃなかったら名前をつける必 要もないはずです。  でも、作曲家は自分のまわりに起こったことに影響されたときなんか、そういうことを したがるんです。自分が読んだ物、見たり体験した物……みんなだって何かが自分に起こ ったとき、踊ったり歌ったりして、自分の気持ちを表現してみたくなることってあるでし ょう?絶対あるよね。作曲家にもあるんです。  <中略>  音楽の意味っていうのは、これなんです。シャープとかフラットとか和音とか、むずか しいことをたくさんわかる必要はないんです。もし、音楽が何かを私たちにいおうとして いるなら、その何かというのは物語でも絵でもなく、心なんです。もし音楽を聴いて、私 たちの心の中に変化が起こるなら、音楽が私たちにもたらすいろいろな豊かな感情を感じ ることができるなら、みんなは音楽がわかったことになるのです。音楽とは、それなんで す。物語や題名はそれに付随したもの。  そして、音楽が素晴らしい点はみんなにいろいろな違った感情をもたらすことができる こと。それには限界なんてないんです。そしてその感情は時として、非常に複雑で深く、 言葉ではいい尽くせないほど素晴らしいことがあります。感情をどういっていいのかわか らないときってあるでしょう?もちろん、喜びとか楽しさとか穏やかさとか、愛とか嫌悪 などと、表現できることもあります。でもあまりにも深く感動したときには言葉にならな い。そこが音楽の素晴らしいところなんです。なぜなら音楽は、言葉の代わりに音符で表 現できるからです。  音楽は音符の動きです。忘れてならないのは、音楽は動いているということ。たえずど こかへ動き続けます。音符から音符へ飛んで、変化して流れていきます。そしてそれが、 何百万という言葉でもいい尽くせない心を伝える方法なんですね」 別紙2 書籍目録  題 名  絶対音感  著 者   B  発行者   E  発行所   株式会社小学館