タンパク質分子のフォールディングの統計力学
安部晴男・輪湖 博 著
 
はじめに
ジャック・モノーは,その著書『偶然と必然』で,“生命の神秘はタンパク質分子のアミノ酸配列の順序の中にある”と次のように述べている:『・・・生物の合目的構造と機能の究極の答えは,・・・球状タンパク質のポリペプチド鎖のなかのアミノ酸残基の配列順序のなかに埋め込まれているのである.現実的な意味において,生命の神秘 ―そういうものがあるとして― が,かくれているのは,このレベルの化学的構成の中においてである.たんに,球状タンパク質のポリペプチド鎖のなかのアミノ酸の配列順序を記述するだけでなく,さらにそれらがどのような法則によって折れたたまれているかを明瞭にすることができたら,そのときこそ,生命の神秘が暴かれ,究極の答えが発見されたと言うことができるであろう.・・・』( J.モノー著;『偶然と必然』渡辺格・村上光彦共訳,みすず書房, 1972年)  タンパク質分子のきわだった特徴の1つは,“アンフィンゼン・ドグマ”と言われているように,“生理的な条件下で,そのアミノ酸配列によって決まる特異的な立体構造を自発的に形成する”ことである.タンパク質は固有の立体構造を形成することによって特定の基質分子だけを認識し,特有の機能を発揮する.タンパク質分子が,そのアミノ酸配列で決まるそれぞれに固有の立体構造へフォールドする機構とはどのようなものなのだろうか? 特定のタンパク質のアミノ酸配列が与えられたとき,その天然立体構造を予測するという問題は,非常に難問で,今日,依然として未解決の問題として残されている.この問題に関しては,近年,人工知能による高精度の予測が可能になりつつある.しかし,人工知能による予測は,その推論過程がわからないため,アミノ酸配列から天然立体構造が決まる論理構造については依然として謎のままである. タンパク質のフォールディング過程の特質を明らかにする,つまり,フォールディング・メカニズムを明瞭にする問題もまだ明確な解答が得られていないのが現状である.我々は,タンパク質のフォールディング・メカニズムを,統計力学的立場から解明したいと思っている.

ところで,物理学では,自然のいろいろな複雑な現象に対して,その現象の本質をついた,理想化された,しかも,より簡単なモデルを構築し,そのモデルを用いて理論的に求まる物理量と,実際の自然現象によって観測される物理量とを比較・検討し,そのモデルの妥当性を吟味して自然を理解する手法がしばしば採用されている.理想化されたモデルで,観測や実験によって求まる物理量をある程度再現できれば,この理想化されたモデルは複雑な自然現象の本質をついていると理解できる.

例えば,理想気体モデルがある.実在の気体分子には体積があり分子間力も働いているが,これを,気体を構成する個々の粒子の体積は無視できるほど小さく,しかも,構成粒子間には引力が働かないと仮定すれば,つまり,理想気体とみなすと,気体分子は独立に運動するとみなせるので1分子に着目してその運動を追跡したり,理想気体分子全体の集団の挙動や性質を統計力学を用いて詳細に解析することができる.いかなる気体も厳密には理想気体ではないが,実在気体はこの理想気体からの“ずれ”とみなすことができる. 大沢文夫は,彼の著書:『大沢流手づくり統計力学』で,“タンパク質分子1個でも統計力学が構築できる”と次のように述べている:『非常に多くの分子が集まった系を巨視的に扱うのが熱力学で,その中の1つ1つの分子の状況を扱いながら,それらの集まった系の性質を理解しようとするのが統計力学です.大学の一般の統計力学の講義では「非常に多くの分子の集まりでは・・・」とやっています.しかし,思い切り少ない,わずかな個数の,それこそ数個の集まりでやってみても,統計力学の本質はわかるんです.・・・わずかな個数の分子,分子というか対象で,結構ちゃんと統計力学の本質がわかってしまう.・・・1個の分子機械の1回の動作で,自由エネルギー変換をするということが見つかりつつあります.・・・こういう少数のシステムが自由エネルギーの変換をどうやっているかという統計力学を改めてつくらなくてはいけないんです.・・・』(大沢文夫著;『大沢流手づくり統計力学』,名古屋大学出版会,2011)

永山國昭は,2011年の生物物理学会誌の中で,“タンパク質分子の統計力学モデルの困難さ”を次のように述べている:『タンパク質の統計力学モデルの困難さは,1個のタンパク質のとりえる立体構造の数の膨大さにある.例えば,タンパク質のアミノ酸残基数が100個のとき,可能なコンフォメーションの数は となる.すると,1フェムト( )秒に1回この立体構造を探索するとして,すべてを探索(悉皆探索)して安定構造を見出すには 宇宙年かかる.・・・このような可能な立体構造の膨大さが,現在,タンパク質の立体構造予測を困難にし,統計力学的扱いを難しくしている.』 さらに彼は“タンパク質分子の格子模型について”次のように述べている:『この構造数(微視的状態数)を激減させるものとして,格子モデルが提案された.格子モデル自体は歴史が古く,2次元格子モデルを用いて熱力学量を計算した郷らの研究が最初である.・・・この格子モデルは,現在きわめて広い範囲で応用されている.・・・G? like modelとして評価されているのは,格子モデルだけではなく,“相互作用を天然状態原子間コンタクトに絞る”という卓見であった.・・・』(永山國昭:『タンパク質フォールディングの物理』生物物理41(4),196-200, 2001 ).

タンパク質のフォールディング・メカニズムの解明は,険阻な絶壁をもつ難攻不落の高山であろうと思われる.一方,この高山への登頂過程の道筋には,いたるところに美しい花が咲き乱れる花園が開けているかもしれない. タンパク質フォールディングの統計力学的解明は,この本の最後の頁から,真の問題が展開すると思っている.この分野を解明しょうとする人々にとって,我々の提案が,何らかの手引きに少しでもなるなら,著者らにとって,それは望外の幸せであろう.

  余白の全ての絵画は,英国の画家“Thomas Lamb”氏の作品である.読者の心を少しでも和らげるために,氏の同意を得て挿入した.ここに,厚く感謝の意を表したい.

2022年5月
安 部 晴 男,輪 湖 博

“Path beside the Sea study”
目次、及び、各章の内容
はじめに・・・A

<内容> “生命の神秘はタンパク質分子のアミノ酸配列の順序の中にある”というジャック・ モノーの言葉を引用している.そして,タンパク質のフォールディング問題である『どのような機構で,タンパク質分子はそのアミノ酸配列の情報だけで固有の立体構造を形成するのか?』という未解決の問題の解明のアプローチとして,『タンパク質フォールディングの統計力学』や,『タンパク質分子の格子模型による研究』が重要ではないかと述べている. 

第1章 タンパク質のフォールディングの研究は何故重要か?・・・1
Appendix A:分子生物学誕生の記念碑的論文・・・7
Appendix B:遺伝コード表・・・11
Appendix C:20種類のアミノ酸・・・12

<内容> 分子生物学が誕生した記念碑的論文(ワトソン・クリック,1953年)を紹介している.更に,遺伝情報の流れに言及した『セントラル・ドグマ』について図示し,その流れの中の“第2次遺伝情報解読問題”,つまり,“タンパク質のフォールディング問題”は未解決の問題であることを述べている.特に,「フォールディング異常病」の研究や,「免疫系での膨大な多様性を生み出す機構」の研究などを紹介し,タンパク質フォールディングの研究の重要性を述べている.

第2章 タンパク質分子のフォールディング問題とは?・・・13

<内容>“タンパク質分子のフォールディング問題”には3つの側面があることを紹介している.そして,この本の主たるテーマは,“タンパク質分子のフォールディング・メカニズムの問題”を「統計力学的観点」から解明することであると強調している.さらに,「整合性原理」や「極小フラストレーションの原理」について述べ,この原理の展開からから導かれた,フォールディングにおける“ファネル描像”や,タンパク質フォールディングにおける“天然接触相互作用”の重要性を指摘している.

第3章 タンパク質分子はボルツマン分布など聞いたこともない!・・・25
Appendix D:ボルツマン分布の導出・・・32
Appendix E:ラグランジュの未定乗数法とは?・・・35

<内容> 平衡状態で,タンパク質分子のコンフォーメーションが,あるエネルギーをもつ確率は“ボルツマン分布”で記述されることを,ラグランジュの未定乗数法を用いて導いている.この導出過程で表れる,系の“ 分配関数 ”(状態和)から,いろいろな熱力学量を理論的に求めることができることを示している.その際,最も簡単な例として,4個のアミノ酸残基からなる3次元格子模型を用いている.

第4章 タンパク質のフォールディング過程の統計力学モデルの導入・・・37
Appendix F:分配関数を求めるためのもう一つの漸化式・・・51

<内容> タンパク質フォールディングの統計力学モデルである“A-W_NILS モデル”の詳細を述べている.このモデルでは,『フォールディング過程においては,アミノ酸残基間の接触相互作用は局所構造内だけに働き,他の相互作用は無視する』と仮定しているが,この仮定によって,系の分配関数が簡単な漸化式によって正確に求められることを示している.

第5章 統計力学モデルとシミュレーションによる熱力学量を比較してみよう!・・・57
Appendix G:3次元格子タンパク質のコンピュータ・シミュレーションの方法・・・72

<内容> A-W_NILSモデルを,3次元格子タンパク質に適用し,理論的に計算された熱力学量と,フォールディングのシミュレーションから得られる熱力学量とを比較・検討している.更に,いろいろな温度におけるミュレーションにおいて,どのような相互作用が,どの程度実現しているかを具体的に解析し,A-W_NILSモデルの妥当性を詳細に検討している.

第6章 アミノ酸置換によって熱力学量はどのように変化するのか?・・・83

<内容> 3次元格子タンパク質の天然構造の各アミン酸残基を他の19種類のアミノ酸残基に置換することによって生じる,2つの熱力学量(転移温度,エネルギー)の変化は強い相関をもっていることを示している.さらに,反応座標の各点で,各々のアミノ酸残基がどの程度天然状態であるかを求めて,フォールディングの統計的道筋を議論し,フォールディング過程が協同的な現象であることを示している.

第7章 フォールディングのキネティクスにおけるレートと緩和時間の関係は?・・93
Appendix H:フォールディング・レートの計算方法・・・108

<内容> 簡単な2状態系の構造変化を表す速度定数(レート)と緩和時間との関係を求めている.次に,多状態系をもつ系のキネティクスを記述する「マスター方程式」より,フォールディング・レート と, アンフォールディング・レート を求める方法を定式化している.そして,シェブロン・プロットを描き,その相違から,新たな,コンタクト・オーダー を考慮すべきであると提案している.

第8章 タンパク質フォールディングの遷移状態の構造を推定するΦ値解析とは?・・・123
<内容>タンパク質フォールディングにおける遷移状態を考察し,この遷移状態での構造的特徴を推定できる,実験による“Φ値解析法”を紹介している.一方,理論的にΦ値を求める式を導き,3次元格子タンパク質の遷移状態でのフォールディング核を推定している.その結果,同じ天然構造をもつが,アミノ酸配列が異なるタンパク質では,それぞれ,異なるセグメント領域のフォールディング核をもち,異なるフォールディング過程であることを示している.

第9章 統計力学モデルを用いたΦ値計算とフォールディング・メカニズム・・・135
Appendix I:実験におけるΦ値解析とは? ・・・147

<内容>実験による“Φ値解析”の手法を紹介している.更に,「A-W_NILSモデル」を用いて, “実際のタンパク質”の各アミノ酸残基のΦ値を理論的に計算する方法を示し,具体的に,2つのタンパク質,プロテインA(1SS1)とキモトリプシンインヒビター2(3CI2)に適用している.そして,1SS1に対するΦ値の分布から,フォールディング・メカニズムは,実験では,“核形成-凝縮モデル”と推論しているが,理論では,“フレームワーク モデル”が妥当であると推論している.3CI2の実験によるΦ値の分布から,フォールディング・メカニズムは,“核形成-凝縮モデル”であると推論し,このタンパク質に対する「A-W_NILSモデル」の限界を述べている.

第10章 理論と実験によるΦ値の相関の検証_その1・・・151

<内容> 27個の“実際のタンパク質”に対して,“A-W_NILS モデル”を適用して計算したΦ値と,実験的に観測されたΦ値との相関係数の値を表 (Table 1) で示している.そして,相関係数の値を3つのグループに分類し,この分類は,フォールディング・メカニズムのモデルである,“フレームワーク モデル”,及び,“核形成-凝縮モデル”のいずれかに対応していると推定している.更に, 具体的に,天然構造が類似の,SH3ドメインファミリーに属する4個のタンパク質1SRM,1SHG,1FYN,1BF4,及び, 2個のタンパク質,1PGB,2PTLを取り上げ,Φ値に対する,実験と理論の結果を詳細に比較している.その結果,フォールディング・メカニズムは,天然構造のトポロジーが本質的だが,アミノ酸配列の情報も重要であると指摘している.

第11章 理論と実験によるΦ値の相関の検証_その2・・・165

<内容>天然構造が類似のタンパク質 1ENH,1IDYと,タンパク質 3CHY,1RNB,1FKB,及び,1RIS の理論と実験によるΦ値を比較している.その結果,1ENH,1IDY,3CHYのフォールディング・メカニズムは“フレームワーク モデル”と推定している.一方,1RNBの場合は,“フレームワーク モデル”か,“核形成-凝縮モデル”のどちらかであり,1FKB,1RIS の場合は,“核形成-凝縮モデル”であると推定している.しかしながら,1RISの 3個の円順列変異体の場合は,“フレーム ワーク モデル”の方が妥当であることを示している.

第12章 “あとがき”にかえて:
『フォールディング・メカニズムの統一的スキーム』
・・・179

<内容> 採用されている3次元格子タンパク質のアミノ酸配列を用いると,フォールディング・シミュレーションで,ランダムコイル状態から天然構造へフォールドする.その際,天然接触ペアの情報を前もって陽に与えていない.このことは,「このアミノ酸配列の中には,“天然接触ペアに関する情報”が“暗に”隠されているのではないか」,そして,「“Φ値解析”によるフォールディング核を推定できることがその傍証ではないか」と述べている.  『“実際のタンパク質”のアミノ酸配列には,進化の過程で獲得した天然構造における“天然接触相互作用”に関する情報が含まれていて,その情報にしたがって,ランダム・コイル状態から天然構造へフォールドすることができる.』という“フォールディングの統一的スキーム”を提案している.

 現在において個々のタンパク質のフォールディング・メカニズムを理論的に解明するためには,天然構造が既知のタンパク質分子の,“全ての天然接触相互作用”を考慮した場合の統計力学モデルを構築して系の分配関数を計算し,その分配関数から,いろいろな熱力学量を求める必要があるだろうと指摘している.

著者紹介・・・187

索引・・・189

“Autumn Edensor”