Taishi Watanabe Laboratory    

UNITY ARCHITECTURAL NOTE|全体建築ノート

2019/12/04 Works for Nation of Sorrow


 重要な夢を見た。私が考えている「Works for Nation of Sorrow」が学校論であり、国家論であるという夢である。「自由学園、盈進学園、栄光学園といった様々な近代初期の学校創業者たちが夢想したように、自らが考える理念に基づく社会集団を形成していくような、『ある初期概念(Nation of Sorrow)の造形』を共有する集団形式を作り出す、そういうことがやりたいんでしょ」、と遠藤悦郎さん(フィンランドで知り合った、フィンランドの美術思想史に造詣のある人物である)と会話している夢であった。それはもう学校であり、国家だよ、と夢の中の彼は言うのである。つまり、「デザイン論という枠ですら、建築の枠よりは多少広くても専門世界の村の中の枠に過ぎない。自分の考えていることはその枠をとうに超えているのだから、そのことを自覚した方が良いよ」ということを、私の話を聞いた彼が夢の中で答えているのであった。思ってもみない目から鱗が落ちるような思いをした私は、そこで目が覚めたのである。啓示と呼ぶべき夢のお告げか、フロイトの夢判断か、荘子の胡蝶の夢か、知らないが、ベッドの上で目が覚めた私はしばらくその会話を現実のものとして反芻していた。そして目が覚めていくにつれて、次第に忘れて行きそうな思いがしたのである。慌ててベッドから飛び起きた私は、忘れないうちに書き留めようと、今この日記に記している。ほぼ生まれて初めての体験である。奇妙なようにも思うが、夢の戯言か、本当の真理か、きちんと再検討してみたい。論理的に整理できれば、どこか喉につかえていた小さな骨であった「結局は、建築デザインの社会と無関係な話や、社会性と無関係な審美的世界に閉じている既に終わった日本の近代建築の中に、まだ自分は居るのだ」ということから開放されるかもしれないほどの、根本的な認識の更新になり得る。そういう夢であった。

 さきほどまでの夢の内容を記した文章は、まだ若干夢うつつの状態のうちに記したものである。書き終わった今(だいたいベッドを出てから10分ほどが経った)はもう目が覚めてしまっている。不思議な体験である。これまでの人生ではこのようなことは記憶にない。夢の中の会話が非常にリアルで、しかも目覚めて居るときに考えていることよりも深く言い当てているのである。先ほども書いたように、明日の朝また思い起こしてみれば、文字通り妄想の夢の戯言に過ぎないのかもしれないし、あるいは、整然と筋の通ったシナリオを描くことができるか。先月記したまま手が付かずに放置してある「次の本」のためのシノプスの冒頭に、「Works for Nation of Sorrow」が学校創作論でありひいては国家創作論である、の構造を被せる試みをしてみたい。ダメで元々である。突破口が見えるかもしれない。ここ二週間ほどの私の鬱状態の根本的治療にもなろうか。そう言えば、日本から持ってきた唯一の本は柄谷行人の『Nationと美学』であった。自分で「Works for Nation of Sorrow」と言っているのだから、それは結局、Nation(国、地域、集団)を作ることに他ならない、というのは考えてみれば当たり前の帰結なのだが、それに気がつかなかった。学校は、民主主義社会の中で創生が許された国家集団のようなものである。学校の前は宗教集団であっただろう。教祖と私立学校の校長先生は同じである。ようやく、なぜ建築家である石山さんがあんなに学校を作りたがるのだろうか、といつも不思議であったことが分かった気がする。他人を教育することの価値を重要視する元来の教育者だとも思っていたし、そう評する人も少なくなかったが、それは正確に言い得ていない。学校を作るということは、自分の考えている思想信念を共有してくれる集団を作り出すということである。ここでいう思想信念とは、結論として導かれた考えの形式ではなく、個々人に様々に展開していく諸思想の元になる根源的発想を決定する「嗜好」のことを言っている。それは、社会を設計してきたはずの「建築家」にとっては夢のような作業なのである。この「社会を設計してきたはずの建築家」とは、何を起源とするものだろうか。建築家という概念はルネサンスの時代に作られた、の定説がある。ヴィトルヴィウスの用・強・美を引用したダ・ビンチの「社会空間の身体空間による再編成」や、丹下健三がミケランジェロ頌を卒論としたように、芸術復興の中の人文主義にそのルーツがあるのか今はよくわからない。しかし、いずれにしても「Works for Nation of Sorrow」を「人間集団の設計としての建築」と考えてみる構造は、専門分化された近代建築と建築学の境界線を越えたいと思う私の気持ちと一致していることは間違いない。

 2019年12月4日夜半 フィンランド・タピオラにて 渡邊大志


 I had an important dream. It was that "Works for Nation of Sorrow" was a school theory and a national theory. In the dream, I talked with Etsuro Endo (who has the deep knowledge about Finnish art theory history and I’ve known each other since I came to Finland) and he said “I guess you want to do something like creating a community that forms a social group based on the philosophy the member thought and shares ‘making one first conception (Nation of Sorrow)’, as the founders of various early modern schools such as Jiyu Gakuen School, Eishin Gakuen School, and Eiko Gakuen School dreamed.” He meant the collective will be a school and nation. In other words, he heard my talk and answered “Even the frame of design theory, it may be a little bigger that of architecture, however, it’s still in the specialized world. What you think has been already beyond the frame, so you’d better be aware of the fact.” I felt like scales would fall out of my eyes and then I woke up. I don't know whether the dream should be called revelation, Freud's dream judgment, or Shoko's "The Butterfly Dream", but when I woke up on the bed, I refuted the conversation for a while. And I felt like I would gradually forget. I rushed out of bed and I am writing in this diary to write down before I forget that. It is almost the first experience ever. It sounds strange, but I want to reconsider whether it's a dreamy trick or an eternal truth. If it can be logically organized, it was free from the statement of “After all, I was out of the architectural design society and still in the Japanese late modern architecture field that has already died because it was closed in an aesthetic world that is not related with sociality.” My dream was like that.

 The text describing the contents of the dream up to the previous time is written in a state that is still dreaming. Now that I've finished writing (about 10 minutes after getting out of bed), and already awake. It was a strange experience. I can’t remember such kinds of experience in my life. The conversation in the dream was very real, and it is deeper than what you think when you are awake. As I wrote above, if I recall again tomorrow morning, it may literally be just a fantasy, or I can’t draw an orderly and straightforward scenario. In the introduction of the “next book” that was left untouched as it was written last month, I want to try to cover the structure of “works for ‘Nation of Sorrow’ is a school creation theory and a national creation theory. I’ll give it a shot. I may see a breakthrough. It will be a radical cure for my depression in the last two weeks. By the way, the only book I brought from Japan was Kojin Karatani 's “Nation and Aesthetics”. As I say "Works for Nation of Sorrow" myself, so it's a natural consequence of thinking that it's nothing but creating a Nation (country, region, group), but I'm not aware of it. Schools are like national groups that are allowed to be created in democratic societies. Before school was invented, it would have been a religious group. Guru and private school principals are the same. Finally, I’m about to understand the reason why Prof. Ishiyama wanted to build a school that I was always wondering. I thought he is an original educator who valued educating others, and also many people commented that, but now I think it’s not exact. Creating a school means creating a group that shares your thoughts and beliefs. The ideological belief here is not the form of the idea led as a conclusion, but the “preference” that determines the fundamental idea that is the basis of various ideas that are developed in various ways for each individual. It is a dream job for an "architect" who should have designed society. I wonder what is the origin of this “architect who should have designed society.” There is an established theory that the concept of an architect was created during the Renaissance. I’m not sure now that the route is humanitarianism in art reconstruction as well as Da Vinci's “reorganization of social space by body space” that was inspired by Vitorvius's ‘strength, utility, and beauty,’ or Kenzo Tange wrote the thesis of Sir Michelangelo. But, in any case, there is no doubt that the structure of considering "Works for Nation of Sorrow" as "architecture as a design of human group" matches my feeling that I want to cross the boundary between specialized modern architecture and the study of architecture.

 Taishi Watanabe, December 4th, 2019, at Tapiola, Finland





2018/12/05 Japanese ‘Kougei’(工芸)Architecture展 スケッチ01






Japanese ‘Kougei’(工芸)Architecture展 スケッチ01

2019年を迎える前に、昨今の諸活動の位置付けをある程度明快にしておきたいと思う。
ウェブサイトで公開している考えを客観的に整理すれば、おおよそ点の仕事(単体の建築)と面の仕事(都市)に大別されるだろう。

ゼネコンによるデザイン・ビルドが主力となった産業界において、個人名で活動する建築設計者が面的な仕事を得ることは容易いことではない。そのため、面の仕事を作るには大きく二つの戦略がある。一つは点を集合させる方法であり、もう一つはこれまで都市インフラと考えられてこなかったものを広義のインフラと捉える方法である。あるいは、そのハイブリッドがあり得るだろう。そこで昨年(2017年)に出版した『東京臨海論』を理論的支柱の端緒とし、「東京臨海計画」と名付けたプロジェクトを進めている。臨海部の新旧埋立地一帯を、文字通りに潮の満ち引きのある海と陸の臨界線と捉え、その臨界線の中に空間を創り出していく。構成するそれぞれのプロジェクトは今のところほぼ独立している。つまり、クライアントはそれぞれ異なる。それらに接続する海のインフラを考えたいと思っている。
そのモデルが港湾倉庫である。これについては、2019年に「Port Warehouse Theory」なる展覧会でまとめる予定である。

その一方で、着実に単体の建築を作っていくことも重要である。それには都市論の解像度を上げてズームすれば建築論になるという理解もあるだろうが、実際のところ建築を構成する部品のデザインにはやはり点の理論が必要である。
酒井邸で現れた装飾的様相は何であったか、の説明が上手く出来ないでいた。当初は数寄の現代的意義や理論を考えようとしたが、上手く突破口が見えなかった。そこで思い至ったのが「工芸」という切り口である。
私の仮説では、明治期にヨーロッパからアーツアンドクラフツの理論が輸入された時、柳宗悦らは安価に民衆に提供されるデザインを民芸という言葉に視ようとした。そして民芸は工業化すなわち大量生産のシステムとされてマスプロダクトが工場で生産される現在の状況に呑まれていった。100円ショップの商品群は大量生産された廉価版の民芸であろうか。
その結果、そこから弾き出されたのが工芸である。
以降、工芸は人間国宝のような特殊な職人が手間隙をかけて作る一品モノの高級手作り品と解釈された。しかしながら、日本が近代化の具体としてマニュファクチュアを受容する以前、当然ながら民芸を含むあらゆる生産品は工芸によって作られた。工芸とは実用に根差しつつもそこに職人によるデザインを含むものである。つまり、一人の職人の作業としては同じ工程が繰り返し行われていても、作り出されたものは全て差異のある一品生産であった。そして私の考えるところ、工芸という少量多品種のデザイン産業は、工業化と相反するものではない。

極論を言えば、一品生産を繰り返し行う近代的システムが有り得たのではないか。
このように工芸を明治以降の定義からそれ以前のものとして再定義し、改めて建築を作っていく理論を構えてみようと考えた。そのとき工芸を英語に翻訳するにあたって、果たして’craft’で良いのだろうかの疑問が湧いた。一つ一つの差異を作り出し、あるいは受容しながらも全体としてはシステムを持っている、というデザインの世界はやはり’craft’とは異なる日本特有のものではないかと思う。
それは明治期の日本に’architect’に該当する日本語が存在しかったことに似ている。それまであらゆる物作りを指す言葉であった工芸では、デザインは最初から含まれていて当たり前のものであり、デザインと生産を切り離すことが不可能であった。ブルーノ・タウトが日本に来た際に、移動中の鉄道の窓から日本の木造民家を見て大変感銘を受けたという。それは一つ一つの家には差異がありながらも(つまり在来工法のこと)、全体としては大工棟梁制度という生産システムを持っていたからである。つまり、個別の対応を可能とする近代システムの可能性を初めて眼のあたりにした。ブルーノ・タウトは母国ドイツで政府が供給する国民住宅「フォルクス・ハウス」を設計する営繕部に勤めていた。日本で大量生産ではない工業化の道がある発想を得たタウトの驚きと高揚はいかばかりであったろうか。それでタウトは『日本の住宅』を書いた。
こうしたことも考えると、やはり近代以前の日本にあった工芸は’Kougei’と和製英語を用いるべきと思われる。
点の仕事の理論的支柱にはこの仮説を立ててみたい。ひいては、建築デザインに対する設計料の在り方にまで関わってくるだろう。
そのような私なりの背景があり、これも2019年に展覧会の形式でまとめてみたいと思う。場所はフィンランドを想定している。

開催時期は「Port Warehouse Theory」と同期間としたい。 今のところ、この二つの考えが私の仕事の両極である。それらを地球上の離れた場所で同時に展示にすることにも意味を見出したい。
様々な仕事は基本的にその間に位置するが、倉庫論Warehouse Theoryはその両極を兼ねる唯一の建築を倉庫と考えて建築の起源を倉庫に視ようとする。こちらの方はもう少し時間がかかるだろうが、次の本にまとめたいと思っている。

2018年12月5日
渡邊大志





2018/11/29 倉庫論 -建築の起源と未来- スケッチ02




雲崗石窟 第六窟


「倉庫論 建築の起源と未来」

倉庫の前世をめぐって

 猿から進化した人類が最初に隠したものは何であったろう?

 キリスト教では、人類が最初に隠したものはアダムがかじったリンゴとされる。リンゴはアダムに代表させる人間の業の象徴である。ギリシャ神話のパンドラの箱は、人間ではなく神が隠したものであった。パンドラはその箱を開けてしまう愚かな「はじまりの人間」として描かれた。
 すでに古典の名作となったスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」は、ある瞬間に猿が他の動物の骨を道具とすることを学習して最初の猿人となるシーンから始まる。そして他の動物を殴り殺すのに使ったその骨を真上に大きく放り投げる。その骨は地球の青い大気圏から飛び出して、人工知能と一体となった宇宙船オデッセイ号に変身する。
 猿が人間になるのも、動物の骨が宇宙船になるのも一瞬の出来事である点がとても興味深い。それは猿のDNAにもたらされた突然変異の衝撃にも見える。
 1859年に『種の起源』を発表したダーウィンは生涯一度の地球一周旅行から進化論を唱えて「自然は跳躍しない」と記した。だが、それはまだ遺伝子工学を知らない時代のことであり、猿が一直線状に順を追って人間に進化したわけではない。しかも、「隠す」ことは猿と人間に共通する行為でもある。
 アダムやパンドラは、キューブリックの猿だったのだろうか。

 ニーチェの「ツァラトゥストラ」を下敷きにしたこの映画は、猿が超人に至る進化の永劫回帰説を描いている。ラストシーンでスター・チャイルドとなったボーン船長が地球を眺めるシーンは、モノリスに触れた猿が動物の骨を道具とする知恵を得た冒頭のシーンと重ね合わせて描かれた。
 その永劫回帰説に従えば、人類が最初に隠したものは人類が最期に隠すものだろうか。それは核兵器や原子力のように人類を絶滅させるほどの力を持った「何か」であったか?あるいは、スター・チャイルドと化した人工知能であったか?いずれにしても、涯ない欲望に対する倫理感が人間に働く初源的な「隠す」動機であったであろう。いわば、猿は欲望のために隠し、人間は恥じて隠す。まさに失楽園の物語である。

 広辞苑によれば、「隠す」とは人の目に触れないようにする、の意とある。転じて死者を葬る意を含んでいる。確かに、人間の腐乱した屍体を何がしか処す必要は想像するに難くない。古代には自然葬や鳥葬という、一見すると隠さない葬送方法もあった。しかし、それは人間もまた動植物と同様に地球と一体の自然の一部であり、生を終えた屍体を本来帰属する地球に還そうとする古代的なトーテミズムの現れである。つまり、自然葬や鳥葬もまた人間の死を荘厳するという点において墓の建設と変わるものではない。それは動物が仲間の屍体を原野に放棄するのとは歴然として異なる。つまり、「動物は墓を作らない」ことが逆に人間を定義すると言えるだろう。そして、後に登場する石室や棺は、人間の屍体を隠すために発生した最初の箱である。その原始的な形式が土の中に棺状を作る土坑墓というものであった。しばしば、墓は建築の始まりと言われる。家が最初の建築とされなかったのは、初期の人類が洞窟に住んでいたと考えられるためである。
 建築のはじまりには、もう一つの説がある。それは森の中の小屋根(ハット)である。森の中で人間が雨をしのぐために、小さな屋根を作って周囲の木の枝にひっかけた。これを建築の始まりとする。雨をしのぐための人工のシェルターを向かい合う木の枝に引っ掛けたことが、人間にとって最初の構築する行為であったという考えである。
 どちらの説が正しいか今となっては確かめようもないが、私は墓の説を採りたい。さらに、そのルーツには「隠す」行為があったに違いない。
 逼迫したものを隠した次に、人類はものを仕舞うことを知った。隠すことと仕舞うことの最大の違いは、そのモノが再びさらされることを想定しているか否かにある。言い換えれば、隠すモノはタブーとして封じることで価値が生まれ、仕舞うモノはふたたび「引き出す」ことで価値が発生する。
 初期の人間が仕舞ったものは火を起こすための道具か、あるいは食料であったかもしれない。少なくとも2万年前には動物の骨で作った縫い針が発見されており、すでに手縫いの衣服があったことが分かっている。冬用の防寒着を夏は仕舞っていた、という現代と何も変わらないことがなされていた可能性すらある。
 仕舞うことを知った人類は、さらに隠すことを仕舞うことの中に取り込むようになる。
 「大切なもの」の発生である。先祖の屍体は墓に隠す前に、棺に「大切に」仕舞われた。それは霊魂(spirit)と呼ばれたりもした。その次に、自分たちが生きるために必要な食料を仕舞った。他者による略奪から食料を隠すのと同時に仕舞うことで、いざというときには外に引き出す可能性を残した「大切なもの」が入っているという表現が生まれる。外に出す可能性がゼロなものは、「大切なもの」になり得ない。仕舞っていることに価値が生まれないからである。
 それは現代のアートにも似ている。市場に出回らない絵画に値段はつかないのと同じ理屈である。
 こうして生まれた価値の按分は、猿から変身した人間たちが集団を形成する骨格となった。仕舞う期間の長さの違いによる時差が、仕舞ったモノを交換するコミュニケーションを生む。それが「仕舞う」ことの本質にある。

 そして古来、倉庫は人間に隠し、仕舞うことを可能とさせるための建築である。その前世には墓があったのではないか。それが本書の最初の仮説である。アダムのリンゴに描かれたように、「隠す」ことの心理は欲とコインの表裏であり、古代も現代も変わることなく人間社会の形成に根深く伏在し続けている。
 

2018年11月23日
渡邊大志





2018/11/23 倉庫論 -建築の起源と未来- スケッチ



倉庫論 -建築の起源と未来- スケッチ


 



2018年11月23日 渡邊大志





2016/10/25 「精霊計画」の動機 - 9



アルコサンティの道具倉庫


 対岸からアルコサンティを眺めると、これらの小建築群が建築ではなく、都市であることを意識させられる。その要は巨大な道具倉庫にあった。
 ソレリの生前からこれまで世界中から多くの若者を中心とした物を作ることが好きな人たちが集まってきていた。その多くはそれぞれの職能を持ちつつも、アルコサンティの建設の継続とそれを実現するための資金を稼ぎ出すためのクラフト作りに従事した。その時間的な単位は数年が目安のようである。つまり、一度ここに来れば数年は住み暮らしながらアルコサンティの活動に従事する。高い給料は出ないが、少なくとも寝る場所と食事は提供されるので野垂れ死することはない。そのような条件は、若いアーティストやクラフトマンにとってかなり良い環境なのである。T氏の話しには「職住近接」の状況があることは彼らにとって喜びであるの言があった。  それを可能にするのが具体的な道具のシェアであった。
 アルコサンティの中心にあるのは、ソレリの考えを体現する名建築でも、人々が集まる広場でもない。巨大な道具の倉庫なのであった。ここに来れば、溶接やら、木工やら、様々な材料を扱い、加工するための道具が手に入る。それらの道具は全て個人ではなく、アルコサンティの共有財産である。その道具のシェアがアルコサンティの都市としての共同体の人間たちを具体的につなぎとめている。

   ソレリはイタリア人であり、しかもライトのところにいたのだからデザインが好きであったことは間違いない。ただその質はより今日の工業デザインに近い種類のデザインであったのではないか。つまり、単体の建築のデザインにはそれほど執着はなかったのではないかと思う。それはアルコサンティの建築群を一つ一つ見ていくと、必ずしもそれらは先駆的とは言えないためでもある。「アップス」と呼ばれる地場の土型枠工法によるコンクリートのシェルターの建設の方式にその関心はあった。ソレリベルには実は溶かした銅を土型枠に入れて作るものとは別に、セラミック製のものも作られてきた。そのための型枠は土を穴ぼこ状にくり抜いたもので、そこに材料を流してかき混ぜていくという「アップス」と同じ方法によって製作される。その点にはソレリの一貫した考えを見出すこともできる。
 ただし、「アップス」の正面にはこれとは別にプレキャスト工法で製作された飾り壁が設えられていた。
 それは原理的には矛盾したものであろう。フラーが来たときには不思議に感じたに違いない。これは間違っていると。
 ソレリは当然気づいていたであろう。それでもその装飾壁にプエブロ・インディアンの文様を想起させるレリーフを彫らねば気が済まなかったのである。そしてベルのモチーフにも同様に魚が用いられた。
 その主眼は、アルコサンティは様々な価値観と、その表現としての機能が等価値に玉石混合した状態そのものを表現することにありつつ、それらをつなぎとめるための仕掛けはそれとは全く異次元の位相において構築されていることの両面を併せ持たせようとしたことにある。それがArcologyの考えは建築ではなく、都市でしか具体化できないの強い考えにつながっているのではないか。そして、巨大な道具の倉庫はその両方の世界を横断可能な唯一の具体物だったのであろう。



2016年10月25日 渡邊大志





2016/10/11 「精霊計画」の動機 - 8



川の水が流れきった跡を歩く



  施設群の周りには金網で囲まれた資材置き場があるようで、そこには作りかけの都市模型や芸術作品らの欠片が実際の建設資材の中に無造作に打ち捨てられていた。
 その中に鋳物で作られたジオデシックドームの破片があるのが目に止まった。部材は全て錆びている。どうやらバックミンスター・フラーも一度ソレリを訪ねてアルコサンティに来たことがあるそうだ。
 それらの廃材を横目にアルコサンティの中へ入っていく。階段を降りてすぐ、先ほど遠くから見えた温室ガラスが乗った建物の下に出た。そこに昔のイギリスのゴルファーが被っていたような帽子をとって声を掛けてくれたのがT氏であった。T氏はソレリが生きていた頃からのメイン・スタッフであり、実は日本人である。学生紛争時代に日本を飛び出して以来、40年以上もアメリカで暮らしてきた人物である。今はソレリ財団の理事をしておられる。
 着いてすぐ食事に案内され、先ほどの建物が食堂であることを知る。温室ガラスを見上げると何やらの装置があるようだが、どうも太陽光発電やベンチレーションなどの環境装置ではないらしい。そこにいわゆるecologyとソレリが提唱したarcologyの違いがあるという。ちょうどイタリア週間というイベント期間であったこともあり、食事はイタリアンの味付けでハンバーガーを食べなくて良い私たちには美味であった。

 食後すぐにアーカイブ棟に移動し、ソレリの直筆ドローイングをT氏の解説付きで見せてもらう。思ったよりも太い線で力強い。「Totem」と記された都市スケールの環境装置のようなプロジェクトに関心を持った。T氏の話では、ソレリはライトと対立はしたが影響は大きく受けていたようである。タリアセンの入り口にあったプエブロ・インディアンのトーテムと頭の中で重ねて見入った。巨大植物の葉脈と葉を模した空気循環装置のアイディアであった。
 ソレリが何故この場所を選択したのかは定かではないが、見渡す限りの荒野の中でも二つの川に挟まれた土地に位置するらしい。といっても、雨が降らないと川に水は流れていないので、川底を歩くこともできる。それでも一度雨が降ると溢れんばかりの川が一気に流れていくそうである。水が侵食した跡を川の水が運んできた大理石や様々な鉱石を辿りながら歩く体験は新鮮であった。この新鮮さは熟考に値する。
 プエブロ・インディアンと今は呼ばれる先住民たちもまた巨大な渓谷の両岸の岸壁に住居群を構えた。渓谷の底には同じように普段は水の無い川が流れていたことであろう。すると彼らもまた、川の水が流れきった跡を上流から運ばれてきた被子や貴重な鉱石を拾いながら歩いたこともあったであろう。彼らは16世紀のスペイン人の入植まで他文明と出会うことがなかった。他の大陸とアメリカ大陸の最も異なる点である。とすれば、時折鉄砲水となって現れる川は、唯一、まだ見ぬ土地との接点であったのではないか。この辺りは、何故ソレリが魚のアイコンを採用したのかという疑問と繋がってきそうである。
 毎日この風景を見ながら設計をしていたライトやソレリの気持ちを想像してみる。1960年代にピークを迎えた古き良き時代のアメリカの清新さや自由な精神を私の世代は知らない。辛うじてハリウッド映画やディズニーランドを介してその残滓を知るのみである。1960年代までのアメリカは名実ともに世界をリードし、荒野の拡がりはアメリカン・ドリームに代表される新しくて自由な未開の土地への開放感そのものとして感得されたのであろう。それは常にヨーロッパを見てきた東海岸とは異なる、中西部に残された本来のネイティブ・アメリカの気質であった。
 来る時に見かけた錆びた旧式のバスも、その時代の匂いがしたため印象深かった。

 そして、アルコサンティのゲストルームから見えていた対岸の崖まで登って行く。目の前にはどこまでも続く荒野とサボテン、そして地平線には砂岩で出来ているのであろう岩山が拡がっていた。



2016年10月7日 渡邊大志





2016/10/07 「精霊計画」の動機 - 7



コサンティ・ファンデーション 入り口にある魚をモチーフにしたソレリベル



 コサンティは財団の事務所や今や観光地ともなったアルコサンティも含めてソレリ慣例の土産物の販売所のようになっているが、その主用途は銅製のベルを製作する工房である。販売所はそのベルを売ることを主目的としている。ソレリはこれを売ってコサンティやアルコサンティ、つまり自身のヴィジョンを自力建設する資金を稼いでいた。
 ベルのデザインは若い作家たちによって様々に展開しているようであるが、ソレリが生きていた頃のオリジナルデザインの雛形は明らかに魚の骨である。
 キリスト教のアイコンは魚であるが、ソレリが魚を選んだ理由はここでは述べられていない。その疑問を抱きながら目下アルコサンティを目指している。
 フェニックスの市域を抜けると、辺りは急に荒野へと変わる。いかにフェニックスが人工的に作られたかがわかる。なぜこんなところに人が住んでいるのか訝しむのだが、おそらくゴールドラッシュの時代に金鉱が出たなどの理由があったのではないか。

 そうした風景を向けて、一直線上に続くハイウェイから脇に外れて行くと次第に何やらの建設中とおぼしき数棟の施設群が見えてきた。その周囲には乗り捨てられたキャンピングカーや旧式のバスが朽ちているのがいかにも荒野の中に忽然と人工的に作られた実験都市の印象を与える。これに乗ってやってきた人たちはここに住み着いたために不要となったのか、あるいはここで生を終えた人もいるのかもしれない。
 アリゾナ州には火星に人類が移り住んだ場合の生態の変化を実験するためのバイオ・スフィアという実験シェルターが建設された。3ヶ月間、数名の被験者が完全にシェルターに閉じ込められ、その中で畑を耕し、作物を育て、そして人間関係を構築する。極限の環境の中で人類の生態にどのような問題が起こるのかを実験している。見渡す限り続くアリゾナの荒野には、どこかそのような外界と遮断されたコミュニティを実験させるある種のマッド・サイエンスまで許容していくような広さがある。このしがらみのない広大な風景を活かすも殺すも人間次第なのであろう。

 ハイウェイから最初に見えてきたアルコサンティの建物の屋根が温室ガラスであり、その中に何やら回転しそうな装置が仕込まれているのがうかがわれる。最初は、人工環境を保持するような環境実験都市かと思い込んだのはそのような先入観からであった。  建物群へと続く階段を降りて行くと、T氏が我々の到着を待っていてくれた。

2016年10月3日 渡邊大志





2016/10/04 「精霊計画」の動機 - 6



タリアセン・ウエスト 入り口にあるプエブロインディアンのシンボルが描かれた石



 ハード・ミュージアムで初歩的な学習をした後に、その足でフェニックス近郊のアルコサンティへと向かう。建築家のパオロ・ソレリが1970年代から建設を始めた実験都市である。ソレリはイタリア出身の建築家で、最初はフランク・ロイド・ライトに師事した。タリアセン・ウェストに1年半スタッフとして滞在したが、何らかの理由で追い出されたらしい。聞くところによるとライトはかなり気難しい人であったと言うし、ソレリも原理主義者であることは知れるので、激しい意見の対立があったのであろう。それで、ソレリはフェニックスの北東にあるタリアセンの丘を飛び出した。
 フェニックスにはソレリの自邸であるコサンティがあり、今も財団の管理の下で建設が進む未完成の建築である。工房を兼ねているのもそのままのようであった。
 周囲はいかにもアメリカらしいツーバイフォー工法による木造平屋の戸建て住宅が広い庭と車寄せとともに立ち並んでいる。フェニックスは砂漠の真っ只中に作られた碁盤目状のグリッド都市であるが、この辺りの住宅地も同様にグリッドの街区で整然としている。その中の一区画に忽然とコサンティはある。
 駐車場に車を停めて一歩入ると、たちまち異世界が始まる。魚の骨のような構造体のシェルターがコリドー沿いに続き、脇にはセラミックの置物が陳列されている。人間の顔のような、魚の顔のような不思議なものが多い。プエブロ・インディアンの影響のようでもあるが、関係ないのかもしれない。敷地内には独特のドーム状の建築が見られるが(後で知ったがこれを「UPS(アップス)」と呼ぶらしい)、それらの一部はシェル構造ではないように見えた。あくまで変形した柱梁構造の上に面が張られているようであり、それぞれの面には特有の図像がレリーフ状にあしらわれていた。
 その一つに、これは明らかにプエブロの影響であろう、ハード・ミュージアムで見たものと似た人型の文様があった。実は、ライトのタリアセン・ウェストの入り口に据えられていたプエブロ遺跡から持ってきたのであろう石の表面にも同様の人型が記されていたのを思い出させたのであった。


2016年10月3日 渡邊大志



2016/10/01 「精霊計画」の動機 - 5



ズーニ族の器 フェニックス ハード・ミュージアムにて

 この夏にプエブロ・インディアンと呼ばれるネイティブ・アメリカンの集落遺跡を見て回った。

 アリゾナ州の最大都市フェニックスから北へ約600km離れたメサ・ヴェルデ国立公園内に、大規模な集落遺跡が残されている。
プエブロ・インディアンの遺跡を見たいと思ったのには幾つかの理由がある。
一つは近代都市とは異なるコミュニティの原始の状態を見るような文化人類学的な視点であり、そしてもう一つはその近郊に第二次世界対戦以降、アメリカ政府が原爆実験場を構えていることであった。
 レヴィ=ストロースの『今日のトーテミスム』に見られる人間を中心とした古代社会と現代社会との接点と、鎌田遵が『ネイティブ・アメリカンー先住民社会の現在』などで明らかにしたアメリカの原子力政策の先住民社会の犠牲の両方を重ねて見られる場所だと考えて、意を決して行くことにしたのである。
 当然ながら、ブエブロ・インディアンの儀礼に使用される人形や、トーテム、風俗など造形原理の根本を探索する目的もあった。

 今回の旅は予備知識無しで行ってもほとんど効果が見込めないという直感もあり、まずはフェニックスにあるハード・ミュージアムで学習することにした。ここにはアリゾナ、コロラド、ニューメキシコといった地域に広がるネイティブ・アメリカンの紹介がまとめられている。かつての先住民が残した古い土器や遺物があることを期待して行ったのだが、意外にもその展示は現在の先住民の末裔の人たちが製作した器や織物、絵画や彫刻などの芸術作品が主要な展示物であった。
 その意味は、後々知ることになる。

 ハード・ミュージアムの展示は、常設展示として5つの部族ごとに分けて生活道具や器に描かれたペイント、武器や住宅の建設道具(斧や金槌)などが展示された部門、各部族たちが儀式用に設えたトーテム人形がズラリと並ぶ部門があり、その他に企画展としてアメリカ横断鉄道建設のネイティブ・インディアンへの影響や若い末裔たちの絵画や彫刻を展示するスペースと、彼らのインタビューを中心としたドキュメンタリー映像を上映する部屋が設けられていた。
 つまり、ハード・ミュージアムは現在に生きているインディアンの末裔の人たちを支援する目的で建設されたことはすぐに判然とするわけであるが、まだこのときはそこに隠されている政治性を理解するには至っていなかったと言えるだろう。私の関心はこの時点では古い時代の物に向かっていた。

2016年10月1日 渡邊大志



2016/04/25 「精霊計画」の動機 - 4・工作ノート15






 建築家という呼称がいつまで残るか、あるいはすでに実社会の中では形骸化してしまったのかはわからないが、概そ建築家らしきものを目指してきた人間にとっての設計を続ける精神の核の一つは建築の原型への希求であろう。
 建築史の世界ではロージェの森の中の小屋や、アドルフ・ロースの墓が建築の始まりであると言われてきた。西洋世界から枠を外してみれば、津野海太郎は中国大陸の大草原に旗を立てたことが劇場の始まりであったとの言もある。
 ここに出したモデルは今現在の直観でそれを表現したものである。当然、スケールはない。
 正方形断面の直方体の一角が幾何学ではない曲面によって崩された固まりのなかに「穴」が貫通している。
 この穴を抜く(開けるのではない)行為が建築する行為であると考えたかった。そして、これは直観でしかないのであるが、プラトン立体の様な完璧な立体であることを避けた方が良いという感覚が反射的に直方体を崩させた。しかもその曲面は例えば半円の様な同一半径で中心という概念を持つような曲線であってはならないという考えがあった。
 建築家・磯崎新が指摘した様に、バロック期におけるベルニーニの楕円とボッロミーニの楕円の違いに対する知覚と同じ知覚がそこには働いていた。それは、形態を閉じない、別の言い方をすれば形態の中に動きが入っているべきだと思ったからである。
 そうした原型の中に、今度は完全な正方形平面の穴を抜いた。繰り返すが開けたのではない。
 つまり、穴には垂直方向の明確な方向性がある。ベクトルのような方向性は、これが自然に対して人間が建築する意思の様なものであることを反映している。
 「穴」と考えると、アジアの諸地域にある窟院、洞窟の様なものがすぐにイメージされる。
 確かに古代の人々は、岩壁に穴を掘ることで、空間を獲得し、これが建築するという行為であった。
 それ以上のここでの窟院的なるものへの言及は解釈論になるのでしないようにしたい。
 純粋幾何学に方向性を与えて穴を「抜く」という行為によって空間がネガティブに生まれる際の「建築する」意思そのものと、その跡を建築と呼びたいという気持ちが表現されているのかもしれない。

2016年1月13日 渡邊大志



2016/02/02 The Traveling Translator




The Traveling Translator
This research focuses mainly on one important question: How to connect different geographical sites while showing their common general idea and principle of architecture beyond time and beyond age.

CASES

Throughout history repeated caesura occurred under various circumstances. Mainly religion underwent overthrows but rather transitions. This is true for the development of all world religions but as well for the transition from a religion-driven urban development to an economy-driven configuration of urban spaces.
Most importantly – the main spatial characteristics of those territories haven't change over time from ancient times to contemporary settings.
What was true for all those sites and situations of transition was the certainty for human beings, that something was existing at those sites without a physical state but translated through a translator and a certain (non-)physical media. This was and still is the first principle of architecture.
Those sites were and are merely physically present in forms of tombs and depictions of the transition of death – which can take the physical form of a stupa, a golden phoenix bird or a tomb in a shape as a negative to the islamic archway.

MEDIA & TRANSLATOR

Those transitions were mediated in different forms but made always use of a translator, who was able to use the fuzzy and unclear borders between existing physical objects and translated the idea into something that can be described as ambiguous boundaries – a matrix the forms the fertile soil for the existence of a greater idea.

The research does not only centers around this idea itself but rather on the translator and the physical environments of each case being looked at.
By tracing and reconnecting those different sites in a complex way without a linear emphasis on time but rather a re-arranged simultaneity of those sites, these different expressions of one idea are being put into conversation with each other and can help setting the ground for what can be called the double-character of the media:

1 The translator is making use of a certain way of telepathy through media
2 Media can transport the translator anywhere

In addition to that, it is important to see the translator on a very physical level. In this sense, he finds himself on the very physical topography which he walks continuously as part of the translating process itself. Walking as means of translating becomes the focal point of this investigation.

In this sense this research makes use of the idea of a traveling translator, a person, object or idea, that can connect all researched site-specific icons alike. The translator not only becomes a subject, but sometimes an object and medium too. An important emphasis is being put on the activity of traveling and the topological landscape in which the researched sites are being put in.

FETISH

The idea of fetish within this perspective can be seen as manifestation of a cultural necessity. The fetish feeds the childlike imagination and is a product of our fantasies; In the blink of an eye, we, perhaps naively, perhaps necessarily, bestow particularities we encounter with significance and power. This moment, within which meaning is appropriated, is difficult to grasp; all that remains is the certainty of power of the object.

In that sense, the surface of the earth, the topography, consists of multiple layers on various scales but could never be considered a volume. It is not an stand-alone object or an replacement of the subject. It is rather a thick fabric of complex relations that can arise by the translators capabilities.


50 Meter, photo credit: SCHMOTT

2016/01/14 「精霊計画」の動機 - 3





アルチ寺入口のストゥーパのレリーフ・実測図


 「精霊計画」という呼称についてもいささかの記録を残しておきたい。
 このプロジェクトには、いささかの前史がある。
はじまりは学生時代の設計製図作品のうちの一つであった。それは小さな建築の全体が様々な機能を兼ねた複数の仕掛け装置の塊としてあり、人間がその装置を引き出しては色々な用途に用いながら、空間は全てその外側にその都度展開されるというものであった。つまり建築が内部空間を内側に持つこと自体を拒否する建築であった。全体として引き出しの様な建築の周囲に、人間の動きによって空間が明滅する残像が実はこの建築のフォルムである、とうそぶいたのであった。プレゼンテーションにロゼッタストーンを模したドローイングを描いたが、これは全く他人に伝わらなかった。さらには2001年宇宙の旅のラストシーンに登場する「スペースチャイルド」つまり、宇宙から地球を眺める胎児の手描きドローイングを附したが、これはさすがに見栄だと思い外したのを覚えている。今思えばそのままにしておけばよかったと思うが、当時は全て直観の思いつきでしかなかった。そのため、この建築を命名することにも思い至らなかった。
 
 この種を掘り下げたいと願ってきた。
それで、その人間の動きの残像、パタンパタンと引き出されたり、倒されたりする「大きな家具」の残像を建築のフォルムと視ようとする意識は能への興味へと転移した。
三島由紀夫の『近代能楽集』を下敷きに、「近代能楽劇場」というプロジェクトを作ろうと思案し、『金閣寺』の舞台セットのデザインとしてそれを結実させようと試みたのはもう10年ほど前のことになる。金閣寺の鳳凰のスケッチから始めた舞台デザインであったが、結果として出来なかった。単純に、教養が無さ過ぎたことも原因であった。
 しかしそれ以上にウェブサイト上で、つまりコンピュータという電子の点滅の中に作られた立体的なイメージを空間(建築)とみなすという現代のテクノロジーを利用して、三島の「近代能楽」を再度現代版に再翻訳しようという試みであったが、その構成自体をよく意識できていなかった。能とコンピュータを重ねていく構想力が足りなかったし、何よりも即物的な建築観から低い次元で自由になれなかった。しばらくすると袋小路に陥り、舞台を架け替えることにした。
 
 次の舞台は「二見ヶ浦秤動劇場」と命名した。能を少しばかり勉強し、大江宏が引用した世阿弥の「離見の見」の影響も多分に受けて、藤原定家の新古今調と西行を組み合わせた名称であった。このときは月の運行の中で満ち欠けだけでなくそのわずかな輪郭のブレに着目して、これを「秤動」と呼んだ。美学だけで押し通そうと試みた。
具体的には螺旋状に奥行きを増していくスコープ状の模型を作り、それに近現代の人物や出来事の批評を重ね見て、その程度によって模型の奥行きを変えてみせた。他人とその背景に抱えた個人史を舞台装置として、別の人間の全く異なる物語を演じることで、西洋的なパースペクティブではない空間原理を実験しようとしたのであった。しかしながら、これは抽象的過ぎた。
そのため結果的に、創作よりも解釈的手つきに終始した。もっともつまらない演劇は、脚本家の構想を役者がそのまま台詞として吐露するものである。

 それで、今回の「精霊計画」である。
これまで引き出しを倉庫と読み替えて、都市史と接続する道を並行して探索してもきた。つまり創作と学問の接続域を持とうと考えた。より学問の方では、論文の形式で一応のまとめとした。その上で端緒となった引き出しの様相から民俗学をたどり、古来の土着信仰と渡来宗教の混交の時代への興味に至った。この関心は時代を下ると、日本の王朝文学の美的精神への根本との関わりと出会い、一周して再びそこから測鉛を下ろし続けている。しかし、そのまま地を行けば先の二つの劇場計画の失敗を繰り返しかねない。新古今調だけでは物心性に欠けるきらいがあり実物を必要としないためである。
 そこで、フィールドを日本からアジアへ、アジアという呼称がヨーロッパのアンチテーゼという世界観を自然と内包してしまうことを嫌い、ユーラシアへとずらそうと考えた。
 イスラム建築への関心は、偶像崇拝という原理に新古今調の美学と同質のものを嗅ぎ取りながら、イスラムはその純粋幾何学によって壮大な建築文化を築いたからである。

 動機1、2で記したように、私は古代の翻訳者に現代の建築家像の展開を発見できると仮説を立てた。それは20世紀的な建築家という生業と職能が飽和状態に達し、建築様式の問題は建築家様式の問題と一体化したことが、近代から現代にかけての日本の建築概念輸入以降の良くも悪くも結論であり、世界的に特有な事象だと感じるからでもある。「UNITY ARCHITECTURE」には、その建築様式、建築家様式(もうすぐ建築家という呼称は無くなるかもしれないが、それでも建築自体は無くならないだろう)も想定されるべきであろう。「精霊計画」という呼称にはこのようないささかの私的な小史の奥に構えようとしている古代幻視と、現在の建築を取り巻く社会の認識がミックスされている。
 
2016年1月13日 渡邊大志



2016/01/08 「精霊計画」の動機 - 2





ブハラ→ヒヴァ車中の夕日・スケッチ




 アルチ村はヒヴァから南東へ直線距離で約1500kmのところにある。日本からの距離を考えれば、余程近い距離にあると言えるだろう。
 行き来するにはヒマラヤ山脈を迂回し、パミール高原を越えて行かなければならないが、言って見れば山のこちら側とあちら側の世界でもある。

 アルチ村はチベット仏教の聖地である。佐藤健さんの『ルポ仏教』を片手に取りながらここを訪れた。目的はアルチ村の中心にあるアルチ寺の三層堂という建築を見に行くことであった。
三層堂はその名の通り、下壇、中壇、上壇が順に積み重ねられたお堂で、チベット仏教の曼荼羅がそのまま立体化された建築であるとの知識を佐藤健さんの本から得ていた。内部は三層吹き抜けで、三尊の菩薩像が立ち、その周囲を曼荼羅の壁画が囲っている。つまり、ある世界を構成するために考えられた構造がそのまま建築の架構に置き換えられて、現実の建物として立っている。考えがそのまま建築になっている純粋建築である。
 実際に訪れてみると、確かに興味深く感じたが、正直言って佐藤健さんの文章に記述された三層堂の方が魅力的に感じてしまった。それは佐藤健さんがここを訪れたのは30年以上も前のことだったことが大きいのであろう。
アルチ村も1998年に世界遺産の暫定リスト入りし、かつての秘境も次第に失われていくグローバリズムのうねりの外に出ることは困難である。であるから、多くはないが私たちも含めて観光客も居れば、彼ら目当ての土産物も露店に並んでいる現実がある。
 佐藤健さんの本には夜中に三層堂に入って、その梁の上によじ登って座り、そこから巨大な三尊仏と同じ視点で空を眺めた記憶が鮮明に描かれて居る。しかし、私たちが訪れたときには厳格な管理人の僧侶(おそらくチベット・ポタラ宮から派遣されて来た僧侶のようだ)が高い入館料を取り、写真撮影もスケッチも頑として許さず、しかも16時以降は閉めてしまうという有様であった。派遣僧侶の官僚制といい、ここにも近代は少なからず侵入していたのである。
 そのようなこともあって、私のアルチ村の印象はむしろアルチ村及びそれを囲む山々の作り出す風景そのものが強く残った。そして至るところでストゥーパとチョルテン、タルチョーがヒマラヤの風に吹かれていた。
 それで、その風景に囲まれた領域そのものを建築として感得できるような感性を持つことができたのである。

 アルチ寺及びアルチ村にもたらされたチベット仏教は密教であり、11世紀頃にリンチェン・サンポというインドへの留学僧によって持ち帰られた。リンチェン・サンポは経典の邦訳官として多くの経典をサンスクリット語から翻訳した。そしてそれによってもたらされた密教の曼荼羅世界の構造が三層堂やアルチ村の風景を作り上げた。

 私たちは、歴史ある都市や建築を訪れる時、それを既にあるものとして見てしまう。しかしながら、それらは全てその都度誰かが全てデザインした結果なのであり、常にデザイナーはそこにいたのである。
 結論を先に言えば、近代的な教育によってデザイナーという概念が生まれる前、最も根本的なデザインは翻訳にあったと考えてみたい。別の言語からさらに異なる言語へと翻訳する際に、何をどう訳するかによって何かが残り、何かは転じ、何かはこぼれ落ちたはずである。私たちが今目の前で見ている風景はその翻訳の結果作られた風景である。どんなに歴史のある風景も、それは誰かによって必ずデザインされていた。それが特定の個人であるか、あるいは人間による人為的なものだけとは限らない。そのため、古代や中世には多くの人がそれを神と呼んだりもしたのである。
 無数のストゥーパは、このことを共有可能な一定の領域を示す装置であり、それ自身が翻訳者に代わってその内容を伝播する媒体でもある。

 そうして、領域<territory>、装置<media>、翻訳者<translator>、の三つの設定によって「UNITY ARCHITECTURE」を考えられないかという仮説を立ててみたい。
 次に構えるべき設問は、翻訳者は異なる領域を旅(横断)するという点である。現に、ヒヴァとアルチは地続きなのだから。

2016年1月8日
渡邊大志



2016/01/06 「精霊計画」の動機 - 1





ユーラシア大陸・模型|the Eurasian Continent・Model


 サイトのトップに掲げたマトリックスは、私たちが目指すべき方向を示す地図であり、旗である。
 「UNITY ARCHITECTURE」という建築の考え方を呈示したいという思いがその中心軸にある。仮説として、その邦訳は「全体建築」とした。これは堀田善衛の全体小説をなぞらえた言葉であって、全体主義の全体ではないことは念を押しておきたい。

 UNITYとは何を指すか。
 あえてこれまでの概念で言えば「環境」や「地球(グローブ)」と呼んできたものを含めて、より広汎なものを指そうとしている。近代建築史で「UNIVERSAL」(これも「UNIVERSE」(宇宙)の活用形が目指す方向の標語として当時発明された)と名付けられたものはさらにその一部でしかない。
 現時点では、UNITYには二つの意味がある。
 一つは、私たちの身の回りのあらゆる事象、物は誰かや何かによって必ずデザインされたものであること。そしてとても些細な日々を構成するそのような全てのデザインが、例えば近年のシリアの難民問題やテロ、地球スケールでの気候変動といった世界的な出来事、事件と必ず結びついているという想像力である。
 もう一つは、堀田善衛が志したように、1つの建築のデザインに世界中の森羅万象全てを内在させて記述してみせることである。
 どちらも生涯を賭しても出来るかわからないが、何事も目標を掲げねば始まらない。

 ここ数年でいくつか強い記憶に残る旅をした。いずれも私の師である石山修武に連れられての旅ではあった。旅の同行者は旅の印象を決める。
 そのうちの一つはつい先日訪れた中央アジア、厳密に言えばウズベキスタンであり、もう一つは北インド・ラダック地方であった。
 最近ページに掲載するイスラム建築のスケッチはその際のものである。

 現在のウズベキスタンとトルクメニスタンの国境付近に位置する古都・ヒヴァは元はホラズム朝の都市であり、その後ペルシャ方面から来たイスラム文化圏にカバーされた。中央アジアの中では珍しく遊牧民の破壊の憂き目に会わずに済んだ都である。そのヒヴァを構成する東西・南北の軸線状の道の交差点、つまり都市の中心には巨大な墓地建築がある。イスラム建築特有のアールを描いたドーム建築は王や政治的に重要な人物の墓であろうが、その周囲は積まれた墓で埋め尽くされている。
 積まれた墓、と奇妙な表現をするのは、棺ではない日干しレンガで作られた一つの単位が明確に示された墓の上に同じ墓が次々と積まれて、仕舞いには巨大建築の体をなしているからである。
 しかし、本当に感動したのは別のところにあった。その墓地建築の通りに面したところにいくつかの同様の墓が並べられていた。その墓の後ろにイスラム建築に見られる尖端の尖ったアーチが添えられている。この風景をみて、一つの仮説が頭に浮かんだ。もしかすると、イスラムのアーチは墓のボリュームを射抜いた残りのネガの部分が顕在化したものであったのではないか。そうだとすると、世界中のイスラム建築を構成するアーチは墓が初源にあるのではないか、の想い付きではあった。当然、偶像崇拝の禁止と関係があるに違いない。昔からなぜキリスト教のアーチは円弧でイスラム教のそれは尖っているのか不思議に思っていた私には、この想い付きは好奇心を駆り立てるに充分であった。私は10年ほど前にも、モロッコのメクネスで印象深いイスラム建築に出会った。そこにも当然イスラムの尖塔アーチが用いられていた。

 同様に、インドのラダックではアルチ村で無数のストゥーパを見た。これもまた建築の始まりの一つの形式だと考えているが、詳細はまた改めたい。
 面白いことに、これらの一見異なる文化と建築が、ヒマラヤずたいにシルクロードで結ばれ、地続きであるという事実がある。ほぼ100%の確率で互いに旅した者がいたに違いない。その者は時に自らが属する地域の聖典や経典を翻訳して伝えた翻訳者でもあった。この感覚は島国である日本人にはまだ本当に理解されていないように思う。
 まずは、ここからプロジェクトを立ち上げようと考えた。


2016年1月6日
渡邊大志



2015/12/14 サマルカンドの鳥






サマルカンドの鳥




2015/06/30 「全体建築」の初期的な礎



全体小説という言葉がある。
堀田善衛が『インドで考えたこと』、『ゴヤ』などの書物によって為そうとしたが、ついに為し得なかった「ヴィジョン」であった。
その系譜は開口健、小田実に意識的に受け継がれたけれども、いずれも道半ばで亡くなった。現在その系譜の末に誰がいるのかは知らない。
堀田善衛をして全体小説の枠組みを創成させたものは、文学世界に文壇と呼ばれる批評の場があったことであった。今は消滅してしまったが、純文学もまた確固たる文壇の存在があってこその概念であったと思う。
文壇とはすなわち文学作品の批評の場であり、批評家自身もまた小説家であった。批評と創作はコインの裏表であるとは三島由紀夫の言であるが、彼らの作品である書物群は基本的に文壇に向けられたものであった。科学論文や研究論文の発表の場であるアカデミーに当たる文壇の存在が、文学を個人的情緒の発露から離別した純粋理論のモデルとみなすバックボーンの役割を果たしたのである。
私小説をめぐる近代小説論争やその余波である前近代の伝統文学(源氏物語や竹取物語など)をめぐる伝統論争も文壇において行われた。つまり、文壇の存在こそが文学における近代世界のインフラストラクチャーであったと言える。

日本の文学世界で明治維新以降に渡来した西洋式の近代小説をめぐって論争が起こり、また伝統論争が必然的にもたらされた点において日本の近代文学世界は建築世界の状況と酷似している。
ただし、建築の場合は西洋式の近代建築の渡来期から国内の学会が確かに発足したが、純粋な建築表現の理論創成の場とはなり得なかったという事情があった。それは建築が文学に比して質量を伴う物質であり、芸術作品である反面で外部の劣悪な環境から人間の生命を保護することを目的とするためである。要するに、関東大震災以降の日本においては耐震技術に代表される工学的アプローチを唱える論者が初期の学会の中で無視出来ない勢力を張った。『建築史無用論』、『建築非芸術論』なる論文の提出をピークとして作品批評の場として学会は純粋に機能し得なかったのである。

そして文学の世界でもまた先の大戦の敗戦を経て、次第に文壇は消滅していった。永山則夫裁判の一連の論争がそれを決定づけたと言われる。文学もまた社会と直接関わることで、その純文学としての純粋性を担保する根拠を失ったのであろう。
堀田善衛の全体小説の提唱は、そのような渦中に投げ込まれた一片の玉であった。一九一八年生まれの堀田は、その人生の過程が日本の近代文学の勃興、隆盛、衰退の過程とほぼ一致する。そのため、常に同時代的(ドキュメンタリー)に近代文学史の変遷を肌で感じたと思われる。その際には特に世界文学者会議への出席などの体験を通して、日本の近代、アジアの近代を西洋との比較以外の視点から独自に見出す必要を堀田が強く感じたことは重要である。
反社会的行為に手を染めた著者とその著者の作品の作品性上の関わりにおいて、同一視することによって文学が純文学を失った後、文学が文学であることの原理を示そうとした光は全体小説の提唱に際立っている。

全体建築は、この全体小説の小説を建築に置き換えた造語である。
建築の世界では歴史学は建築史と都市史に大別される。都市史は無名の建築の歴史であり、建築史は有名の建築の歴史である。全体建築はその双方ともに登場し得る。
モノごとを専門分化化していくのが近代の常だが、全体建築はむしろそれらの統合を企てると同時に、建築史と都市史の間に位置する概念でもある。分かり易く言えば、私費を投じて作る住宅と税金で作る公共建築の間に全体建築は現れようとする。その輪郭を、以降少しずつ明らかにしていく。

2015年6月末 渡邊大志 記




  三島由紀夫『金閣寺』の鳳凰・模型