コラム

2006/02/06

iPod時代と音楽

菅野 由弘


最近、iPodを始めとする、様々な形の携帯オーディオ・プレイヤーで音楽を聴いている人を数多く見かけるようになった。かく言う私も、最初期5GBのハードディスクのものを2台、40GBのものとiPod Shuffleという、フラッシュメモリーのタイプも所有する、ヘビーユーザーの一人だ。このうち一台は、私のナルシシズムiPod、つまり自分の曲しか入っていない。しかし、このナルシシズムiPodを作りながら、私は大きなショックを受けた。私は、一生かかってもこのiPodを一杯に出来ない。

私はこれまで、かなりの数の作品を書いてきた(つもりである)。単独アルバムのCDも15枚は出しているし、一時間を要する大作も含めて、大小120曲ほどの作品を作曲している。その他に、テレビ、映画、芝居の音楽なども多数。例えば、NHKの大河ドラマ「炎立つ」のために書いた曲は約500曲、楽譜は大きめの段ボールが一杯になっている。NHKスペシャル「フィレンツェ・ルネサンス」6本シリーズのためにも80曲は書いた。金曜時代劇「新半七捕物帖」のためにも200曲近く書いている。こうした連続モノも含めて、かなりな数のそれらを全部入れたとしても、iPodのあのチッポケな箱は一杯にならないのである。

かのMP3と呼ばれる、素晴らしい圧縮技術は、作曲家の創作意欲を嫌が上にも増すか、はたまた完膚無きまでに減退させるのか。技術者にそんな意図は微塵もなかったと思うが、作家としては誠に複雑な思いである。そして、残念ながらその音質は、かなりのダメージを受ける。音楽がコンサートでの演奏から、CDになり、更にMP3ファイルに圧縮されるということは、言い換えると、作品が表現から物へ、更に情報へと変化して行く過程である。しかし、あの愛らしい小さな箱の便利さは、何物にも代え難い。曲の細部を熟知している私にとっては、その性能は申し分のないモノである。ただし、「これだけで聞かれるのは寂しいな」とも思う。

街を歩けばiPodウオーカー(つまり聞きながら歩いている人)に当たる。しかも大音量で。ひどい時には、外に漏れ聞こえてくる音で曲名が分かったりする。「街に音楽を連れ出そう」、そして、どこにいても「あなたの音楽が」そばにいる。オーケストラや、自分の専属バンドを連れ歩くのと同じだから、誠に贅沢。しかし---。

テレビ・ドラマの音楽を書く時に良く使う手だが、同じ風景に、全く違う音楽を流すことによって、主人公の心象風景を表現する、つまり、同じ風景が心情の変化によって違って見える、というごく普通の日常で経験することを「見せる」方法がある。心情や、心象風景が変わっても、同じ街だったら同じ曲を私が書いたとしたら(書く必要もない、二回同じ物を使えばよい)たぶん、二度と仕事は来ないであろう。ところが、iPodウオーカーは、「いつも私の音楽を」連れ歩いているわけで、街が変わろうが、心境が変化しようが、自分だけの世界に入り込んでいる。向こうで行き倒れがあろうが、後ろに死体が転がろうが、そっちで事故が起ころうが、自分だけの世界。

そんな姿を見ていると、フランシス・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」のワンシーンを思い出す。ベトナム戦争のさ中、米軍のヘリがベトコンが潜伏する村を無差別に襲撃する。その時、攻撃用のヘリコプターに搭載されたテープレコーダーと大型のスピーカから、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」が大音量で流される。大音量のワーグナーを流しながらの攻撃はまさにゲーム感覚、逃げまどう普通の村人にも命や人生がある、などということは、意識の外に吹っ飛んでしまう。もちろん、コッポラ監督の伝えたかったとは、幾重にも重層された意味があり、「ゲーム感覚」を伝えることだけではない。が、そのことも如実に現れている。しかし、それは「異常な世界」として描かれているのであって、普通のことではないはずだ。それが、今、街を歩けば「普通のこと」なのである。音楽がこんな風に聞かれるというのは、音楽に携わる者の一人として悲しい。

ここでの音楽はどんな役割を果たしているのだろうか。人間には感情がある。普通、歩いているすぐ近くで人が倒れたら、当然驚く。いくら戦争中だといっても、人を殺そうとする時には、何らかの心の動きというものが有るのではないか、と信じたい。しかし、「自分だけの音楽の世界」に入り込むことによって、この感情の起伏が、平坦なものになる。本来、人間の命や感情、感動を表現し、それを共有するための媒体だったはずなのだが、どうも、違った方向に行っているような気がしてならない。全てを、ニュートラルに近づける役回りを演じている。

コンプレッサーという言葉から、何を連想するだろうか。空気の圧縮装置、はたまた物体を圧縮する装置。私はスキューバ・ダイビングをするので、ボンベに空気を圧縮して入れる機械を、モーター音と共に思い出す。それとは別だが、「音」のコンプレッサーという装置がある。先ほどのMP3はファイルの大きさを圧縮する。この「コンプレッサー」は、音量の圧縮を行う。つまり、大きい音はより小さく、小さい音はより大きくする。例えば、カーステレオで、大オーケストラが演奏するシンフォニーを聴こうとする。そうすると、楽器がソロで小さい音量で演奏するような箇所は、周りの騒音で聞こえない、また、全員合奏の大音量部分では吹っ飛びそうな音量になる。これを、ドライブしながらそれなりに聞けるようにするにはどうするか。ここでコンプレッサーの出番である。小さな音は、騒音の中でも聞こえるレベルに引き上げ、大きな合奏の部分は、車が吹っ飛ばない程度に音量を下げる。こうすれば、カーステレオでも聞くことが出来る。また、放送は、それ程大きなダイナミックレンジ(音量の幅)を持っていないので、放送局でコンプレッサーをかけて送出している。本題からはずれて、くどくど説明してしまったが、どうも、音楽そのものが、ある時には人間の意識のコンプレッサーの役割を果たしているような気がする。喜びも悲しみも驚きも、みな中庸に。「まさか」の結果だが、否めない事実。喜びや悲しみや驚き、人間の大きな感情の起伏に働きかけるはずの音楽にそんな機能があるのだろうか。

そう言えば、と、思い当たる節があるのが、最近のテレビのニュース番組の傾向。皆様は、民放のニュース番組に、BGM(バックグラウンド・ミュージック)が増えてきているのにお気づきだろうか。年々歳々多くなってきている。まず、ニュースに音楽が必要だろうか。私は不要と思うが、少なくともニュース番組の制作者は必要だと考え、それを容認し、あるいは望んでいる視聴者がいるから、増加の一途を辿っているわけだ。音楽には様々な効果がある。激しい音楽を付加すれば「煽る」ことが出来る。落ち着いた音楽を付加すれば「沈静化」して、怖い大事故もさほどでなく感じさせることが出来る。また、同じような淡々とした音楽で、複数のニュースを包み込むと、それらをみな同列に見せることが出来る。これが、先ほど書いた「コンプレッサー効果」だ。例えば「何人も死亡した大事故」と「鮭が川を遡上した」ニュースを、同じ音楽に乗せて、同じような調子で伝えれば、ほとんど同列に感じさせることが出来る。

報道の役割は、ニュース(出来事)を、出来るだけ正確に伝える使命がある、と私は考える。が、そこに音楽をつけるということは、伝える側の「色」や「フィルター」をつけることに他ならない。ただしこれはあくまでも、視聴者のニーズによるものだ。音楽入りのニュース番組の視聴率があがるという事は、視聴者が、色つきの情報を求めている、ということだ。

2006年1月、驚くべき事が起こった。NHKの朝のニュース番組「おはよう日本」の中に、何度か出てくる「ニュース5項目」といったところに、BGMが鳴り始めた。昨年までは、番組冒頭のヘッドライン・ニュースの部分には、テーマ音楽の続きの音楽があったが、あとは、そういう余計な物はなかった。それが現れたのだ。民放各局には、それなりの事情がある。視聴率競争が優先しなければならないし、スポンサーとの関係もあろう。しかし、日本にも一つ位、色つきでない報道を心がける放送局があっても罰は当たらない、と私は思っている。ヘッドラインだから、まさに「大事故」も「渡り鳥の飛来」も「政変」も同列に、同じ音楽に乗せて、中庸に伝えている。知らず知らずの内に、感覚が圧縮されてしまうことは、恐ろしいことだ。

圧縮技術の進歩はめざましい。ファイルの圧縮は、iPodのような便利なツールを生み出した。作曲家が一生かかっても一杯に出来ないくらい沢山の「曲」を、ポケットに入れて持ち歩くことが出来る。これは、やはり便利この上ない。私は、一年に何度か、SPのレコード・プレーヤーを持って教室に行く。その重さたるや---。そして、シンフォニーはレコード6枚組、一曲聴くのに11回もひっくり返さなくてはならない。CDで同じ曲を聴くと、そこにはもう一曲、ものによっては更にもう一曲入っている。また、音のコンプレッサーも、別の意味で役に立っている。縦にも横にも圧縮出来るようになった。しかし、感覚の圧縮は頂けない。少なくとも私は、そんなことのために作曲しているのではない。人を豊かにするためには労を惜しまないつもりだが、感性を損なう様なことは避けたいと思っている。

音楽は水のようなものかも知れない。人に潤いを与えるし、無ければ死んでしまう、が、多すぎると人はおぼれ死ぬ。時に美しく、時には雄弁に。温度が下がれば氷となり、上がれば水蒸気となって立ちのぼる。そんな存在であり続けるためにも、徒な消費は避けたいものである。