西洋書物文化の道標 2017 秋学期 No.2. 雪嶋宏一 2017/11/17
16世紀の西洋書物世界の変容1: 宗教改革都市バーゼルとシュトラスブルク
参考文献:
Bietenholz, Peter, Der italienische Humanismus und die Blütezeit des Buchdrucks inBasel: die
Basler Drucke italienischer Autoren von 1530 bis zum Ende des 16. Jahrhunderts, Basler und Stuttgart: Verlag von Helbing & Lichtenhahn, 1959 (Basler
Beiträge zur Geschichtswissenschaft; Bd. 73).
Chrisman, Miriam Usher, Lay culture, learned culture: books and social change Strasbourg. 1480-1599, New Have and London: Yale University Press, 1982.
Haegen, L. Van der, Der frühe Basler Buchdruck: òkonomische, sozio-politische und informationssytematische
Standortfaktoren und Rahmenbedingungen, Basel: Schwabe, 2001, Basel: Schwabe, 2001.
Heckethorn, Charles William, The printers of Basle in the XV. & XVI. Centuries: their biographies,
printed books and device, London: printed by Unwin Brothers at the Gresham Press, 1897.
Luchsinger, Friedrich, Der Basler Buchdruck als vermittler italienischen Geistes, 1470-1529、Basel: Verlag von Helbing & Lichtenhahn, 1953 (Basler Beiträge zur
Geschichtswissenschaft; Bd. 45).
Reske, Christoph, Die Buchdrucker des 16. Und 17. Jahrhunderts im deutschen Sprachgebiet:
auf der Grundlage des gleichnamigen Werkes von Josef Benzing, 2. Aufl., Wiesbaden: Harrassowitz Verl., 2015.
シュトラスブルクStrassburg/Strasbourg
マインツに次ぐ2番目の印刷術発祥の地、Johann Mentelinが1459年頃に印刷を開始、39版印刷。15世紀中に1285版ほど刊行。最大の印刷業者はJohann Prüssで221版を刊行。次いでJohann (Reinhard) Grüninger で191版、その他Georg Husner 134版などがいる。聖書、神学書、教義書、典礼書、聖務日課、暦、ラテン語学習書等ラテン語書とドイツ語書の出版が中心であり、ギリシア・ローマ古典や人文主義書の出版は少なかった。
16世紀に6,715版が刊行され、ケルン、バーゼルと並ぶライン川流域の一大出版センターであった。世紀前半にはPrüss(322版)、Grüninger(326版)、Martin
Flach(114版)、Matthias Hupfuff(216版)、Martin Schott (241版) 等の15世紀以来の印刷所が活動を続けた。宗教改革の影響は早くも1519年に現れ、KnoblochがMartin
Lutherの著作を印刷。彼はLutherの著編書を52版刊行。シュトラスブルクの宗教改革はMartin Bucer(1491-1515)、Wolfgang
Capito(1478頃-1541)、Matthias Zell(1477-1548)、Caspar Hedio(1494-1552)等によって1522年から始まり、Lutherの両対共存説を否定して、実体ではなく霊的存在を認めた。1524年には聖職者の結婚に対してカトリック教会から破門された。1525年には聖像画を撤去し、修道院を解体。1529年にミサも廃止された。1530年のアウクスブルク帝国議会でシュトラスブルクの代表CapitoとBucerはルターの信仰告白を拒否してスイスの都市との連帯を表明した。
16世紀前半にはHupfuff、Prüss、Grüninger、Flach、Hupfuff、Schott 等の15世紀以来の印刷所が活動を続けたが、16世紀初頭に印刷所を開設したJohann
Knoblochは1558年までに597版を刊行、そのうち70版がErasmusの著編書である。また、Matthias Schürerは20年ほどで515版を刊行する活気を見せた。彼はKnobloch
を上回る72版のErasmus、58版のLutherを中心として同時代の人気の高い書物を刊行した。16世紀のシュトラスブルクの出版はカトリックからプロテスタントの出版に大きく変貌し、1525年を頂点にプロテスタント出版物も下降していった。16世紀中葉にはJakob
FrölichやJacob Cammerlander、Wendelin Rihel(父)が中心となり出版が再び盛んとなった。後半はRihel家が中心となってBernhard
JobinやAnton Bertramらが旺盛な出版を行った。Rihel家は16世紀末までに853版も刊行する印刷業者として16世紀後半のシュトラスブルク出版業の中心的な役割を果たした。
Lutherの著編書431版のうち1534年までに156版が刊行された。Bucerを中心としたシュトラスブルクのプロテスタント指導者の著作はルターほどではないが刊行が続いた。一方、SchürerはErasmusの著編書の出版の中心となるが、シュツラスブルクではCiceroはそこそこ出版されたが、他の古典の出版は盛んでなかった。また、Brunfelsの植物書やJacopo Berengarioの解剖学書の医学書が多く出版され、85版もの技術的マニュアルが出版された。言語的にはラテン語が中心でドイツ語の出版は中心とはならなかった。
16世紀シュトラスブルクで活躍した主な印刷業者
Printer |
Years |
Eds |
Hupfuff,
Matthias |
1501-20 |
218 |
Flach,
Martin |
1501-25 |
115 |
Prüss,
Johann, d.Ä. |
1501-27 |
110 |
Grüninger,
Johann |
1501-32 |
313 |
Schott,
Johann |
1501-59 |
240 |
Knobloch,
Johann |
1503-58 |
597 |
Schürer,
Matthias |
1508-27 |
515 |
Prüss,
Johann, d.J. |
1511-46 |
219 |
Köpfel,
Wolfgang |
1522-54 |
245 |
Beck,
Balthasar |
1527-52 |
121 |
Frölich,
Jakob |
1530-58 |
270 |
Cammerlander, Jacob | 1531-48 |
168 |
Rihel,
Wendelin d.Ä. |
1535-55 |
268 |
Berger,
Thiebold |
1551-84 |
189 |
Emmel,
Samuel |
1553-69 |
155 |
Müller,
Christian |
1554-85 |
153 |
Rihel,
Josias |
1555-1600 | 402 |
Jobin,
Bernhard |
1569-1600 | 319 |
Bertram,
Anton |
1584-1600 | 405 |
16世紀シュトラスブルクで出版された代表的な著者
Author |
Eds |
Luther,
Martin |
431 |
Erasmus,
Desiderius |
280 |
Melanchthon,
Philipp |
217 |
Cicero,
Marcus Tullius |
149 |
Bucer,
Martin |
86 |
Brunfels,
Otto |
82 |
Fischart,
Johann |
78 |
Sturm,
Johann |
72 |
バーゼルBasel/Basle
バーゼル最初の活版印刷は1468年頃Berthold Ruppelによる聖書で、スイス最初の印刷物である。15世紀中にBaselでは宗教書や法学書等863版が出版された。法学者Sebastian
Brantの風刺本『阿呆の舟Das Narrenschiff』が有名。印刷業は1473-91年に活動したMichael Wenssler (131版)、1480年開業のJohann
Amerbach (97版)、1486年開業のNicolaus Kesler (71版)、1489年開業のMichael Furter (130版)が中心。特に、Amerbachはパリ大学で学び、ニュルンベルクのKoberger印刷所で校正係を勤めた学匠印刷家で、ヴェネツィアからローマン体活字をもたらし、KobergerやシュトラスブルクのGrüningerと共同出版するなど幅広い出版活動をして16世紀に至るまでバーゼル出版界の中心となった。
16世紀にはバーゼルで6,950版が刊行された。バーゼル大学出身者が印刷業に参入し、Erasmusに代表される人文主義書の出版が隆盛。同時に、LutherやMelanchthon、等のプロテスタント書も多数刊行された。その後、Leonhart
Fuchs(1501-66)の植物図譜やAndreas Vesalius(1514-64)の解剖学書、Georg Agricola(1494-1555)の金属学書等の16世紀を代表する科学書も出版された。
16世紀前半のバーゼル印刷業はAmerbachと共同出版を行ったJohann Froben(1491年開業:Froben 家は16世紀中に846版)やJohann
Petri(1441 – 1511, 1502年開業:Petri家は16世紀中に832版)が中心的な役割を果たした。Frobenの工房では人文主義者Beatus
Rhenanus(1485-1547)等が校正編集を担当した。1515年にErasmusがバーゼルに滞在して『格言集Adagia』の増補版をFrobenから刊行し、翌年にはErasmus編訳ギリシア語版新約聖書を刊行した。ちなみに、ギリシア語版新約聖書は宗教改革の発端を作ったことでよく知られている。Erasmusはまた1521-29年にバーゼルに滞在して主要な著編書をFrobenから出版した。FrobenからはErasmusの著編書は彼の生前に306版も刊行された。FrobenはErasmusとの約束でLutherの著作をわずか4版しか刊行しなかった。Frobenの印刷所はFrobenの未亡人を娶ったHerwagenとFrobenの息子Hieronymusにより継承され、Hieronymusと彼の妹Justinaの婿となったNicolaus
Episcopiusが独立して印刷所を引き継いでFroben印刷所を発展させた。
Lutherの宗教改革の影響はバーゼルにすぐ及び、1517年にLutherの『95箇条の提題』をAdam Petriが直ちに印刷した。以降バーゼルでのLutherの著作の印刷は主にPetri家が担い、ドイツ語新約聖書(9月聖書)を1522年12月に刊行する等、バーゼル刊行の205版のうち158版をPetri家が占めた。一方、Heinrichはローマ古典等を主に出版した。Heinrichを継承したのがSixtusとSebastian
Henricpetriであり、現代まで続く印刷出版社(Schwabe)を築いた。
バーゼルの宗教改革はErasmusのギリシア語版新約聖書の編集に携わったJohannes Ökolampadius(1482-1531)によって行われた。Ökolampadiusはハイデルベルク大学に学び、さらにシュトゥットガルトとテュービンゲン大学で学んだ時に人文主義者Johannes
Reuchlin(1455-1522)やLutherの片腕となるMelanchthonと知り合い、ハイデルベルクでWolfgang Capitoと出会い、バーゼルのFroben印刷所に至った。彼は1518年末にバーゼルで神学博士号を取得し、アウクスブルクで1520
年に行われたLuther審問に疑問を感じ、自身の改革的な立場を表明するQVOD NON SIT ONEROSA CHRISTIANIS CONFESSIOを1521年にバーゼルのCratanderから出版し、Oecolampadij
iudicium de doctore Martino Lutheroを発表した(Leipzig, 1520; Augsburg, 1521)。バーゼルでCratanderの校正係を勤めながら、大学でイザヤ書の講義行い、1525年からSt.
Martin聖堂の伝道者となり、聖像の破壊を禁じ、教会儀式を緩やかに改革して、1526年からドイツ語による礼拝を採用。バーデン、ベルンの宗教論争ではHuldrych
Zwingli(1484-1531)やBucerの立場を擁護した。1529年に彼は大聖堂伝道者に任命され新しいプロテスタントの教会となる。この年にErasmusはバーゼルからフライブルク・イン・ブライスガウへ転居して余生をすごすため、宗教改革に反対の立場にあったErasmusの動向と関係があったことにある。
その他の印刷業者として、Andrea Cratander(1518-63)がギリシア・ローマ古典のラテン語版やErasmus、初期教父Johannes
Chrysostomus、Ökolampadius(44版)等を刊行した。Michael IsengrinはBebelやPernaと共同出版を行いながらギリシア・ローマ古典と人文主義書、医学書を主に出版し、Fuchs植物図譜を刊行した。また、Johannes
Oporinus(1538-1568)もギリシア・ローマ古典、さらにVesalius解剖学等の科学書を刊行、生涯に886版を出版し、さらに彼の後継者の出版点数を含めると16世紀中に1,186版を刊行し、バーゼル最大の印刷出版社となった。その中にはMelanchthonの著作が59版含まれるが、Lutherはわずか15版に過ぎなかった。
16世紀バーゼルの印刷業者の活動期間と出版点数
Printer |
Years |
Eds |
Johann Froben |
1501-27 | 355 |
Johann Petri |
1502-11 | 19 |
Adam Petri |
1508-27 | 297 |
Andreas Cratander |
1518-63 |
246 |
Johann Bebel |
1524-50 |
104 |
Johann Froben (Erben) |
1528-31 | 63 |
Heinrich Petri |
1528-79 |
517 |
Johannes Herwagen, d.Ä. | 1531-61 |
149 |
Michael Isengrin |
1531-61 |
156 |
Hieronymus Froben |
1531-87 |
336 |
Johann Oporinus |
1538-1568 | 886 |
Peter Perna |
1549-82 |
337 |
Johannes Herwagen, d.J. |
1554-66 | 55 |
Sixtus Henricpetri |
1568-72 |
16 |
Sebastian Henricpetri |
1570-1600 | 240 |
バーゼル大聖堂のÖkolampadius像(雪嶋撮影)
バーゼル大聖堂にある印刷業者Isengrinの墓碑(雪嶋撮影)