早稲田大学教育学部 金井景子研究室

コラム
「トモちゃんへの手紙――from U.S.A」

2005年度のシアトル・ニューヨーク滞在の記録を、手紙のかたちで記しました。


トモちゃんへの手紙――from U.S.A

金井景子

第一信 Fish Ladder――魚の階段を上る

 日本を出立する前に、生まれて三ヶ月目のトモちゃんに会いたかったのですが、片付けるべきしごとや用事が多すぎて、会えないまま飛行機に乗ってしまいました。家を午前九時には出なければいけないのに、その朝の5時まで起きてばたばたしていたんだから、もう夜逃げも同然でした。

トモちゃんのお母さんが私に送ってくれたハガキに、生まれたてのころのあなたの顔写真が載っていましたが、その写真があまりにも大人びていて、お釈迦様じゃないけれど「天上天下、唯我独尊!」なんて言い出しかねない様子だったので、こりゃもしかしたら天才かもしれないと周囲では評判でしたよ。

私の撮った一番最近の肖像写真は、アメリカに訪問学者という資格で12月の末まで滞在するためのJ1ビザに添付するためのものでした。アメリカ大使館へ書類を提出に行く直前に、慌てて撮った三分間写真だからしょうがないけれど、びっくりしたような間の抜けたような、迷子になって辺りを窺っているような、お世辞にも「学者」には見えない頓馬な写真でした。生まれて間もないトモちゃんが、すでにあんなに賢そうで落ち着いていて、かれこれ47年も人間やっている私が居心地悪そうな間抜け面というのが面白くて、机の上に写真を二枚、並べて眺めているうちに、アメリカからの通信は、生まれて間もない赤ん坊のトモちゃんに宛てて書いてみようと思い立ったわけです。

 考えてみれば、人間界に生まれてきた初旅のあなたのほうが、私なんかより何千倍もびっくりしたり、あきれ返ったりして暮らしていることでしょうが、いまだ話すことも書くこともままならない状態でしょうから、うんと先になって、このころのことを覚えていたら(ちかごろは、そんな臨床報告もあるようですね)、そのときに聞かせてもらうとして、今回はしばし、あなたのおばあちゃんの世代といっても不思議ではなくなった(!)私のアメリカ・ツアーの顛末を聞いてもらおうと思います。

 日本を発ったのは、3月の16日でした。実はアメリカに行く前に、ドイツのボッフムというところで、講演とワークショップを頼まれていて、それならばいっそのこと、ヨーロッパ経由でシアトル入りをしようと、いささか無謀な大陸三段跳び旅行を思い立ったわけです。ドイツのボッフム、ベルリン、そしてパリを経由して、3月26日にシアトルに来ました。
おりしも、第二信で登場するミヤシタさんという友人が、「ドイツなら一緒に行って、手伝ってもいいですよ」と快く引き受けてくれたので、ボッフムとベルリンは彼女と一緒で、パリからは一人旅です。

 遣り残したことが山ほどありながら、思い切って出てきてしまえば、国際指名手配になるわけでもなく(昔、悪いことをして、高飛びしたつもりでも、インター・ポールという国際警察があって、アカプルコあたりで海を見ながらカクテルを飲んでいても捕まってしまうんだと教えてくれたのは誰だったかしらん)、いささか拍子抜けもする感じです。それでもまだボッフムにいるころは、しごとの延長ということもあって、行った先々でメール・チェックをしたりしていたのですが、ベルリンあたりから「日本には帰らない気分」がしみじみ身に沁みてきて、今日に至っています。

 また、手紙の折々にヨーロッパでのことを書いていくつもりですが、私は何を隠そう、水のある風景が大好きで、ベルリンでもパリでも、水際を好んで歩き回りました。(むろん、ここシアトルでも、家から10分も歩けば湖があり、20分バスにのれば海があって、しじゅう水に親しめるのが、なによりのご馳走です。)そういえば、トモちゃんはつい三ヶ月前まで、お母さんのお腹の水の中にいたんですよね。

 パリに出かけたのは27年ぶりでした。あのときは、セーヌ河をバトームッシューという名前の遊覧船で巡ったのですが、今回は、勧めてくれる人があったので、サンマルタン運河を船で二時間半ばかり行く水上散歩を楽しみました。

 この運河は1806年からかれこれ20年近くもかけて、あのナポレオン一世がこさえたものだそうで、当時から交通量はさほど多くはない、ゆったりとした水路だったそうです。ラヴィレットの貯水池から武器倉庫港(今は新しいパリの遊覧船港になっています)まで、4,5キロを、船はゆっくりと進みます。途中に、ジョレスの水門、死の水門、レコレの水門、トンブルの水門と、水位を変えるための四つの水門があって、そのたびに、船はいったん岸辺に繋留されて、水が次に進める高さに揃うまで、水門の中に浮かんでいます。それはもう、ゆったりとしたリズムで、進んでは水門で停泊の繰り返しなのですが、これがとっても素敵です。いろんな橋の下を潜るとき、橋の上の人や犬が気づいて手を振ってくれるときもあるし、何か考え事をして思い詰めたような面持ちですたすた歩いていく人もいます。ああ、あの思い詰めた人は、つい先週までの私だったなと思うと、後をついて行きたくなるような感じがしますし、ニコニコ手を振ってくれてるのはいいけれど、若いお兄ちゃんやおっちゃんたちが、平日の日中からしごとがないのかなあと心配になってみたり。

 私が船に乗った日は、前日までの冷たい雨がすっきりと止んで抜け上がるような青空に、復活祭間近の、木々の枝が芽吹く寸前の生命感に満ち溢れた午後でした。光が水に反射するのを体中で感じながら、ゆっくりゆったりと水門の中で水が満ちてくるのを感じていると、自身が河を遡上していく魚のような気持ちになっていきます。魚は生まれた河を遡上するとき、どんなことを考えているんでしょうね。昔、河を下って海に向かったときのことを覚えていて、思い出したりするのかしらん。

 船上で、冷たいけれど光に彩られた風に髪を揉まれながら、この旅はどうやら、新大陸再発見の旅であると同時に、フィッシュ・ラダー(魚の階段)を上る旅でもあるような気がしています。

 いくら日本人女性の平均寿命が延びたとはいえ、やっぱり折り返し点であるには違いなく、こういう時期だからこそ、わくわくしながら、魚の階段を上っていこうと思います!

第二信 Hi!――古い友だち、新しい友だち

 トモちゃんに友だちができるのも、もうすぐですね。公園デビューは、新緑の中のことでしょうか。

 シアトルに限らず、アメリカでは、通り過ぎる人同志やお店に入っただけでも、
“Hi!”とか、
“How are you?”
といったぐあいに、本当に気軽に声がかかります。それも満面の笑みを浮かべて、さりげなく繰り出されるので、最初のうちは、『待ってよ、そんなに親しかったっけ?』と戸惑いますが、慣れてくるとこれはこれで、なかなかいいものです。(とはいえ、こちらに着いた翌日に、スーパーマーケットにコーヒーのペーパー・フィルターを買いに入って、レジにいたはっきりゲイだとわかる格好の東洋系のおにいさんが、歌うような調子で、
“How are you?”
と、私の前の厳しそうなおじさんに挨拶をして、そのおじさんが、どこからどうみても嫌そうに、
“Fine”
と答えているような場面に出くわすこともなくはないのですが。)

 私もこれまで、ほんとうにたくさんの人たちと挨拶をかわして、そこからいろんな友情を紡いできました。

 今回のドイツ行きに付き合ってくれたミヤシタヨウコさんは、もう10年近く親しくしている人ですが、もとはといえば、一緒のお稽古事をしていて知り合った人でした。小唄という日本の伝統芸能で、二人で三味線を弾いて唄を披露するライブをやったこともあります。外資系の金融会社で働いていて、英語にも数字にもお酒にも強い、猛者です。これまでに数え切れないほど一緒にいろんなイベントをやってきたけれど、状況判断の良さと、責任感の強さでは、ちょっと彼女の右に出る人はいません。

 今回は見知らぬ土地で、朗読のパフォーマンスをするということもあり、彼女が音声担当で同行してくれたことは、百人力でした。

 成田空港で落ち合ったなり、ミヤシタさんは山菜そばをぺろりと平らげながら(私は親子丼)、昨日の深夜までやっていた厄介なしごとの話をガンガン面白く語ってくれ、「もう、ろくでもないけど、お金儲けだから仕方ないですよね!」と締め括り、「っで、ベルリンはどこを観ましょうかねえ」と旅モードの顔に変身したのでした。

 このところの日本には、彼女のような、がしがし働いて、もりもり遊んで、要所要所で社会活動もするという女性が増えてきていると実感しています。

 パリに立ち寄った今回の目的のひとつは、25年来の旧友・サカイセシルさんに再会することでした。現在、パリ第七大学の東洋言語関係の学部長をしているサカイさんとは、大学院の修士課程のときに出会いました。大衆文学史のまとまった著書を書くために資料集めに来ていた彼女は、あのころからキラキラしていて、文学談義のみならず、さまざまなことを大いに飲んでは語り合い、刺激を受けたものでした。日本に彼女がやってくると、声をかけてくれるので、ちょっとした時間でも作って話をするのですが、いつも時間があっという間に過ぎていきます。今回は、一年も前から行くことを約束していたので、まる一日、いろいろと場所を変えて、話をすることができて幸せでした。

 久しぶりにノートルダム大聖堂に入ってみようということになり、入り口の垂れ幕を見たら、そこに日本の観光客を意識してのサービスなのでしょうが、「ようこそ!」と書くべき文字が、「よこうそ!」(だったと思います)になっているのにあきれ返り、「年間、何万人に笑われているかしらねー」とちょっと怒った顔が、昔のままでした。

 国立国会図書館で開催中のサルトル展にも案内してくれたのですが、私が英語の説明が無いと嘆いていると、ほんとにポイントを突いた解説をしてくれる。きっと彼女の授業も面白いだろうなあと思いました。

 途中で、学部の引越しのための会議があるということで、一時間半ばかり、どこかで待っていてくれと言われたので、私は「進化博物館」というところで、子供たちに混じって生物の進化の歴史を辿る体験をして待っていました。約束した時間にフランス式庭園のかなたから、再び現れた彼女の、真紅のコートにサファイア・ブルーの襟巻のスタイリッシュさときたら、脱帽ものでした。

 彼女も、がしがし・もりもり・要所要所の女人であります。

 今回、アメリカにきっと訪ねてくると約束している、古い友だちに、やはり25年来の親友・朴裕河さんがいます。彼女のことを書き出したらとまらなくなるので、そのうち、彼女が登場したら、そこで改めて書くことにします。

 新しい友だちのことも書きたいと思います。今回、ワシントン大学の大学院の授業を、一緒に担当している、ダビンダー・ボーミックさんです。インド系アメリカ人の彼女は、沖縄文学の専門家で、二児の母親でもあります。大学生になるまで沖縄で育ったという経歴をもっていて、私の大好きな読谷の話をしたら、お父さんがまさにそこで働いていたということから、ぐっと距離が近くなった気がしました。

 来た翌日、グリン・レイクという宝石箱のような人造湖に散歩に誘ってくれ、湖の周りを一周しながら、物静かな彼女が話す日本語が、私の文飾や省略だらけのジャンクな日本語を宥めていくのがよく解りました。不思議なことですが、彼女と話していると、久々に訪ねていった小学校の、大好きだった先生に話を聴いてもらっている気分になります。「女性、マイノリティ、近代化」というテーマで、林芙美子の『浮雲』からはじまった授業は、今週、石牟礼道子の『苦海浄土』に入りますが、この春学期の間、一緒に授業を進めるうちに、彼女から学ぶことがたくさんありそうな予感がしています。
「うちに来ていただいたときに、どんな料理がいいですか?」
と聞いてくれたので、
「インド料理です! 日本でも三日に一度は食べてました!!」
と答えたら、
「辛くてもだいじょうぶですか?」
と意味深長な笑いを浮かべて聞き返されました。ちょっと、いまからどきどきです。

第三信 By George――お昼ご飯の話題

 トモちゃんの、今日のお昼ご飯は何でしたか?

 ああそうか、まだおっぱいだけですよね。三食おっぱいで飽きませんか?

 飽きるってことを、まだトモちゃんは学習していないんですね。もしかしたらそのままの方が幸せなのかもしれませんが、日本の東京で人間やっていると、周りにあまりにもいろんな食材や料理が溢れているので、同じものを食べ続けることがつまらなく感じてしまうんですよ。むろん、ここアメリカのシアトルでも、状況はさして変わりません。

 私の今日のお昼ご飯は、とんかつに、アボガド、それに、おかかをかけた猫ご飯――そう、お弁当を自分で作って、学食の教員スペースで食べています。この学食は、By Georgeという名前で、それは大学の正門を入ってすぐのところに立っているジョージ・ワシントンの銅像の脇にあるからなんです。たぶん、ほとんどのワシントン大学の学生は、入学してから卒業するまでに何百回か、このBy Georgeのお世話になるはずです。定食もあれば、サラダの量り売りもあり、サンドイッチにスシ(このスシについては、呆れ返ることがあります、「うなぎ巻」と「カッパ巻」がまったく同じ4ドル99セントなんです。「この価格のつけ方、むちゃくちゃじゃない?」とこちらの日本通の人に聞いたら、その人は「UNAGIがあのeelのことだと解ったら、気持ち悪がって1ドルでも買う人、いないんじゃないかな」と笑っていました)、さまざまなスコーンやマフィン、ペイストリー、クッキー(いずれも巨大)、カフェラテやモカ、エスプレッソなどのビバレッジなどが所狭しと並んでいます。

 大学へ出かける前にばたばたして、お弁当を作り損ねると、私も学生たちの列の後ろに並んで、こうしたもののお世話になりますが、時間の許す限り、だいたいは手作りしています。こちらは農産物の味が濃くて美味しいので、東京にいるときよりもお料理するのが楽しいくらい。たくさん食べています。

 ワシントン大学の東洋言語学科の先生たちは、お昼休みの時間にこのBy Georgeの教員スペースに集まって食事をするという習慣があって、全員が毎日というのでもないようですが、行くと必ず誰かがいて、その人たちと、わいわいお昼ご飯になります。

 むろん、私の英語は、ここで先生方の間で交わされる機関銃のような冗談・政談を拾えるわけがないのですが、なんとなくその雰囲気が面白くて、できるだけ参加しています。
ことにヒンディー語のサルモン先生は、雰囲気といい語りといい、あの「日本昔ばなし」のナレーションでおなじみの常田富士夫にそっくりで、キャラクターが立っています!学者らしく、ものすごい記録魔でもあるようで、ことばのコレクション(たとえば、「鼻」に付く形容詞や修飾語を言ってみようという話題になったとき(?!)には、いつものようにポケットからメモを取り出してすごい勢いでメモっておられました)になると、いつ先生がワイシャツのポケットからメモを出すか、わくわくしてしまいます。

 もう、ともかくトリビアな話題から天下国家の話題まで、縦横無尽に広がり、俳句の付け合いよろしく飛躍するので、前後の文脈から判断するなどということは不可能。私が参加しだした4月のはじめには、シャルボさんという、長年、植物状態に陥っていたものの生命維持装置を外した女性の状況と、法王の瀕死の体調とが交互に報じられていた時期だったので、私はどっちの話をしているのか(両方一緒だったときもあったらしい)、目が回りそうでした。

 まったく解らないならそれもそれなのですが、きれぎれには解るだけに、話題を捕まえたくってやきもきします。この感じは、昔、江戸に参勤交代かなにかで上ってきた地方のお侍さんが、湯屋や床屋で江戸っ子たちがわいわい交わす江戸弁を聞いたときみたいな感じかしらんなどと、空想したりしています。

 野球のシーズンが盛り上がってくると、みんな野球が好きなので、野球のトリビアネタも激発するらしく、私もさっそく、「ササキは日本に帰って、どんな調子なんだい?」みたいな話題を振られています。これからはネットでは拾えないような、大リーグで活躍する日本選手のトリビアネタ――にもかかわらず、日刊スポーツなどに載っていそうな――とかを、By George Lunchのために、ひそかに収集する必要がありそうです。

第四信 The Ave.――学生街の行列に並ぶ

 先週の水曜日には、ちょっと早起きをして、朝の八時半に、The Ave.――大学通りをそう、呼んでいます――にある大学の書店の前に出来た行列に並びました。4月20日に、あのチョムスキー博士がワシントン大学に来て講演をする、そのチケットの無料配布を受けるためです。私をワシントン大学に誘ってくれた、日本の出版史を専門にしているテッド・マックさん(彼についても、そのうち、この手紙でゆっくりと書きますね)が、
「ほんとうは並びたいけれど、その日の早朝にニューヨークに行かなきゃならないから無理だ」と嘆いていたので、
「私、やってみましょうか」と、日頃お世話になっているご恩返しプラス私もチョムスキー博士の謦咳に触れんがために、名乗り出た次第です。

 私の住んでいるコンドミニアムから、大学の書店までは、歩いて25分くらいですが、その道すがらは林の中を抜ける素晴らしい小道で、リスや小鳥がたくさんいて、ちっとも退屈しない散歩道(昔、鉄道が引かれていた跡にできたそうです)です。こちらのファッションの定番であるヨット・パーカーにジーンズ、バッグパックのいでたちで、とことこ歩いていきました。

 着いてみるとすでに5,60人は並んでいて、こりゃ4枚貰うのは無理かなとちょっと心配しつつ、さっそく列の人々を観察です。いかにもアメリカの左翼系インテリ然とした人々(身なりは質素だが、本はいっぱい読んでて、映画も死ぬほど観てるぞといった感じ)が新聞を読みながら並んでいるのですが、中には、このおにいちゃん、間違ってもチョムスキーとは無関係といったファンキーないでたちの「並び屋」風、うっとり見とれてしまうほど端正な顔立ちの芸術系の青年がタバコをチェーンスモークしていたり、せっかちに反戦の署名を求める、早稲田にもこんな感じの運動家いたよなーといった人など、いろいろです。

 私の前に、のそっと横入りしてきた、おじさんとおじいさんの間くらいの男の人がいて、この人がめっぽう面白かった。私の早稲田大学での上司・東郷克美先生にとっても面影が似ていたんです。その人は、寒い朝(息が白かったから、5℃以下だったと思います)なのに、どうしたわけか半ズボンで、はだしに突っ掛けを履いて、ランニングシャツの上に薄い寝巻きの上着を着ているだけ。手には、キッチンで飲んでいたと思われるマグカップをそのまま持っていて、どう考えても朝ごはんの最中に、「あ、そうだ、チョムスキーのタダ券を貰いにいかにゃならん」と思い立って出てきた感じなのです。

 私が奥さんか娘ならば、「おとうさん、そんな格好じゃ風邪引きますよ」とか、お節介にやいやい言って、ジャージの上下くらい無理やり着せるところですが、ここはアメリカ、個人主義と自由の国なので、おじさんは毅然と往来なのに自分ちのキッチンような状態でいるわけでしょう。あるいは一人暮らしなのかもしれません。しばらくはその格好で平然と並んでいたのですが、さすがに寒さと疲労とが押し寄せてきたらしく、くるっと私のほうを向いて、
「ここ、番、とっといてくれないかい」
みたいなことを言うと、道路をのそのそ渡って、向かい側にあるバスの停留所のベンチに寝転びに行ってしまいました。ベンチといっても人が二人座れたら良いくらいの狭いところへ、身長190センチはあるおじさんはごろんと横になって、並んでいる私のほうに向かってマグカップを挙げてにっこり。「あのねー」といささか呆れましたが、私の目の前でダウンされても困るわけで、番をとっておいてあげることにしました。

 無事、タダ券4枚をゲットした帰り道に、『もしかしたら、あのおっさん、チョムスキー博士の昔の同級生だったりして・・・「巨人の星」の星一徹じゃないけれど、魔球みたいな禁じ手の学説を発表してアメリカのアカデミズムから追放されて、光のチョムスキー/影の○○みたいに並び称された過去があるとか・・・』と想像を逞しくするうちに、『そういえば、どことなく品があったような・・・』、『あのフラフラした感じは虚無の淵を覗いたせいかも・・・』『アインシュタインも裸足だったっていうし・・・』といろいろな空想も沸いてきて、4月20日に会場であの御仁を探すのが楽しみになってきました。

 この大学書店は、生活用品も売っていて、大学生協といったところでしょうか。学生さんや院生さんで出産するひとも多いのか、ベビー用品も充実していて、ここで私はトモちゃんに産着を買いましたから、そのうち送ります。胸に大学のマスコット・ハスキー犬のマークがついている、強そうなやつです。

 The Ave.は学生街らしく、食べ物屋さんだらけですが、TERIYAKIの店は4、5軒はあって人気がありますよ。それからヒマラヤ料理にインド料理、タイ、中華、イタリア、ロシアとエスニック・オン・パレードで、カフェにいたっては20軒じゃききませんね。私がいちばん気に入っているには、SOLSTICEという名前のカフェで、ここはスターバックスやターリーズといったチェーン店とは違って、いかにも古くからある地元のカフェという趣です。熱いカフェラテをガラスのタンブラーに入れてもらい、煤けた高い天井の店の奥に座ると、まさにしみじみと珈琲時光の気分であります。コーヒーという飲み物も不思議なものですよ。子供のときはちっとも美味しくないのに、ある日突然、美味しくなる。そしたらもう、止められないんですね。いつか、トモちゃんと二人で、どこかでゆっくりとコーヒーを飲みたいと思います。

 The Ave.には、早稲田松竹か下高井戸シネマみたいな、名画座があって、9ドルくらいで一本、映画が観られます。私が来てすぐのころは、是枝裕和監督の「誰も知らない」をやっていましたが、今は、大友克洋監督の「Steam Boy」をやっています。「Steam Boy」を日本で見落としていたので、先週観ましたが、あいかわらず物語の結末が「アキラ」同様に収拾不可能で意味不明でした。アニメの技術は素晴らしかったけれど。場内には、こちらのオタク青年たちがいっぱいいて、静かに鑑賞していました。五月の半ばからは、シアトル国際映画祭が始まるので、これも今から楽しみです。

 学生街に安い衣料品店はつきものですが、こちらの品物は、安かろうが高かろうが、ほとんどの製造がMADE IN CHINAです。私が住んでいるコンドミニアムの向かいは、UNIVERSITY VILLAGEという高級なショッピング・モールですが、そこで売っているブランド物も、製造はMADE IN CHINAばかり。ここでも日本同様、中国経済の進出はいちじるしいものがあります。そんな中で、学生街の中心に、つい最近、American Apparel という店がオープンしました。ロサンジェルスの下町に工場を建てて、純国産でやっているという、綿製品の店です。けっこうお客さんが入っていて、縫製もしっかりしています。初冬にはロスにも行く予定があるので、そのとき、本店にも出かけてみようと思いました。

 The Ave.にある三軒ほどの靴屋さんが、どこもとても面白い靴を置いているので、無類の靴好きの私としては買いたくてうずうずしているのですが、もう少し暖かくなって、持ってきた靴が暑苦しく感じられたら、明るい色のオープントウの靴を買うことにします。

第五信 Yoga――月曜日の楽しみ

 この前の手紙で、「こちらのファッションの定番であるヨット・パーカーにジーンズ、バックパックのいでたち」と書きましたが、月曜日の朝、大学へのトレイル(散歩道)を歩く私のバックパックからは、筒に丸めたブルーのヨガ・マットが顔を出して天を指しています。

 こちらへきて、始めたことの一つに、ヨガがあります。東京にいるときから興味はあったのですが、到底その時間がとれないばかりか、からだ自体がもう、ガチガチで、週に一度は整体や指圧に通う始末でした。もともと、からだを動かすことは嫌いではなく、早稲田大学でオイリュトミーを学ぶ自主講座を作って、ずいぶん真剣に取り組み、発表会も二度ほど行いました。ですが、昨年から今年にかけては目の前のことに追われて、それも中断を余儀なくされていました。

 ことに4年前に胆石の手術を受けてから、頻繁に腰痛が出るようになって、ほとほと困り果てていました。今回、何よりも心に期しているのは、もう一度、腰の痛みを意識しないですむからだを取り戻すことです。そのために、いろんなことにチャレンジしてみようと思っています。ヨガはその、第一弾であります!

 ワシントン大学に限らず、アメリカの大学は健康づくりのための施設にどこも力を入れていますが、これはこちらのインテリたちが強迫的なまでに健康志向であるというだけではなく、健康保険が高い上に(掛け金に応じて、驚くほどたくさんのサポート金額が設定されています)、いざ病気や怪我ということになると、医療費がとっても嵩むんですね。そのうえ、日々の食事があの量では、何かしらの自衛手段をとらないと、どうしようもないことになります。

 こちらに来るまで、テレビのドキュメンタリ番組で「アメリカ社会が抱える肥満の問題」なんていうのを観ても、『そうだろうな・・・』というくらいの感慨でしたが、ワシントンのダレス空港について、呆然としているとき(実は、パリからアメリカを目指した飛行機が、天候のせいで大幅に遅れて、乗換え地点のダレス空港に着いたときには、シアトル行きは出発した後で、結局、その日はダレスに宿泊して翌朝にシカゴ経由でシアトルを目指すはめになりました)、目の前を120キロ以上(身長も190センチを超える人がけっこういるので、100キロくらいの人は珍しくない)と思しき人々が、次から次へと現れるのを見て、『アメリカに来たんだなあ』としみじみしたことを、もうずいぶん昔のことのように思い出します。正直言って、アメリカでは、日本の人気テレビ番組『でぶや』(私はイシチャンもパパイヤも大好き!日本では欠かさず観てました)は、ごく普通すぎて成立しません。

 ボッフム、ベルリン、パリ、シアトルと旅をしてきて、今更のように思うのは、「からだや声の大きさってしょせん、相対的なものに過ぎない」ということでしょうか。子供のころから、私は、並ぶといちばん大きいか、大きいほうから3,4番目には必ず入っていて、「大きい」「健康そう」「迫力がある」と言われ続け、自分でもそれが当たり前のことになっていました。日本じゃ男の人でも私よりも小さな人は、いくらでもいましたね。

 けれどこちらに来てみると、私は小柄とはいえないながら、ごく並の、さして目立たない体型で、声にいたっては英語がネイティブではないことも手伝って、むしろ小さいほうでしょう。物理的に「小さい」か「大きい」かということは、これも物理的に場所を変えれば、大きくも小さくもなることなんですね。そんな当たり前のことも、私は、頭では解ったつもりでも、わざわざ別の大陸に住んでみないと納得できなかったんだなあと反省しています。

 トモちゃんはいつごろになったら、「自分は人に比べて○○だからダメだ」とか「みんなと一緒でないと不安」なんてことを学習するようになるのでしょうか。それを通過しないと、自分の輪郭というのは、つかめないものでしょうか。私はあなたのお母さんと、金子みすずという童謡作家の、「わたしと小鳥とすずと」という詩の、「みんなちがって、みんないい」というフレーズを、オイリュトミーで踊ったことがありますが、あの最終フレーズ――「みんなちがって、みんないい」――は、凄みの効いた、襟を正したくなる極め付きの文学表現だと思います。

 だいぶん、話が脱線しましたから、ヨガに戻します。私は大学全体のアスレチック・ジムのヨガ・プログラムではなく、女性センターというところが主催しているヨガ・コースを選びました。自宅からは大学全体のアスレチック・ジムの方が近かったのですが、外から見えるジムの様子はいかにもジム然(?!)としていて、あんまり神秘的な雰囲気じゃなかったので、ワシントン湖のヨット・ハーバーのほとりでレッスンがあるという後者を選んだわけです。

 来たばかりのころ――レッスンが始まる前の週に、ダビンダーさんが場所の確認に付いてきてくれて、二人であちこちで聞きながら探し当ててみれば、これがなんと、大学警察(なにせ、大学一つでも、私の住んでいた高円寺に、阿佐ヶ谷と中野を足したより大きいんですから)の建物の中にあるアスレチック・スペースだったんです。屈強な保安官に案内されて、天井が三階建てくらいの高さの部屋に行ってみた感じは、「女性センター主催ヨガ・レッスン」というよりも、GIジェーン養成のためのトラの穴。巨大なバーベルが無造作にそちこちにおいてあり、ヨット・ハーバーのほとりには違いないながら、窓は一つもなし。部屋の入り口には、ポリスたちが筋肉トレーニングをした後に、グビグビ飲みそうなコーラやドクターペッパーが500ミリリットル単位で出てくる自動販売機が、でんとあります。お香の香りにハーブティー・・・なんてコマダム御用達のヨガ教室とは、こりゃ根本的に違うわと気合を入れなおした次第でした。

 レッスンが始まった当日、おそるおそる部屋を覗いてみると、いかにもベジタリアン風のしなやかな体型の女性が、暗がりで粛々とマットを引いていて、
「HELLO!」
と声をかけてきました。ベネッタ・ホーフ先生でした。先生の声には特徴があって、高いけれども柔らかい、人を安心させる独特の響きがあります。(でも、唯一の難点は、その声からアルファ波が出ているせいか、ハードなポーズが続くレッスンの終わりのころには、この声で気がつくと睡眠状態に・・・ということもあります。)

 先生は、先生だから仕事柄、かなりアクロバティックなポーズをとりながらも、指導のために私たち生徒にずっと語りかけてくれます。手で足先をつかんで、弓なりになって、ごろんごろんしているのに、声は息も上がらず、少女のようだと、思わずまじまじ、先生を眺め返してしまいます。これが長年の修行の賜物ということでしょう。ベネッタ先生は、動作と動作の間の動きがとてもゆっくりと優雅で、この点がいちばん感心しているところです。先生のアクションが「ふるまい」だとすると、自分はこれまで実にがさつに「動いて」いたなあと思うし、人って何かをするところを見られているだけではなく、その何かと何かの間も見られているんだということに、改めて感じ入りました。

 ヨガでは初歩中の初歩である、コブラのポーズあたりからもう、生徒のなかには、「ふえー」みたいな声を出して伸びてしまう人がいるのですが、前では先生が冗談を言いながら(そう、この冗談もときどきサムイときがあって、言った先生だけが笑っているところも、玉に瑕であります)、しゃらんと無重力みたいな状態になっているので、人体って不思議だなあと思います。

 足を頭にかけるポーズをしながら、ホーフ先生曰く、「子供さんはできるんですけどねー」。きっと、トモちゃんもこれからすいすいできると思うので、そのしなやかさを失わないようにと願います。

 私はまだまだ腰をかばっているので、背筋を使うポーズはおっかなびっくりでやっていますが、二ケ月後には、先生の冗談にゲラゲラ笑いながら、弓なりでごろんごろんできるようにがんばるつもりです。

 ヨガは月曜日の正午12時から一時間、行われます。ヨガの後、まだ瞑想から覚めやらずちょっとふらふらしながら、しかし爽快な気分で必ず向かうのは、ヨット・ハーバーの入り口にあるメキシコ料理屋「AGA VERDE」です。いかにも船着場(実際にここで、カヤックやカヌーも借りられます)の一膳飯屋といった風情の店ですが、タコスやブリトーが美味しい!

 私はヨガの後にいつもこの店で料理をテイクアウトして、水辺でヨットを眺めながら昼食です。よく解らずに、いちばん最初に注文したロースト・ビーフのブリトーは、バスケット・シューズほどあって、噛み付こうにも顎が外れそうでしたが、これが意外にオイリーではなく、しっかりとした噛み応えのあるビーフは香ばしい匂いで、野菜もたっぷり。私がこちらに来て外食で出されたもののうち、一気に完食した、初めての料理でした。店のおかみさんは、胸に「ブッシュ大統領お断り」バッジをつけている、おそろしく威勢の良い人です。テイクアウトのパッケージもアメリカではめずらしく、環境に配慮した無印刷の紙箱。中身を食べきれば、ごみはほんのちょっとしか出ません。サラダについてくる自家製のサルサ・ソースやアボカド・ソースが絶品で、このレシピを舌がしっかりと覚えるまでは、毎週マンデー・ランチは「AGA VERDE」と決めています。

 まだ肌寒い日が多いので、カヤックやカヌーには挑戦していませんが、五月になったら、ヨガ→メキシコ料理→カヤックかカヌー遊びという、ヘルシーな時間割が確立すると思います。

第六信 Take Me Out To The Ball Game!――イチローとポップ・コーン

 まだ東京にいるとき、「シアトルに滞在する」と話すと、ほとんどの人から帰ってきた反応が、「マリナーズのイチロー、観に行けますね!」というものでした。
私は、トモちゃんのお母さんほどには野球好きではない(なにせ、あなたのお母さんは、横浜ベイスターズの試合を観に行って、あまりにもマナーの悪いオバハンたちと大喧嘩するくらい、球場で観戦するのが好きな人です)けれど、全盛期のイチローをライブで観ずして、文学研究だけに没頭するほどバカじゃありません。

 行ってきました! セイフィコ球場。5月3日、火曜日の対エンジェルス戦です。

 午後の4時20分まである授業を終えた後(火曜日と木曜日に、大学院で日本文学の授業をしています)、偶然この日友だちからチケットが回ってきて、行けることになったというテッドさん(前にも書きましたが、ワシントン大学東洋言語学科の日本文学の先生)とパートナーのカスミさんの車に同乗させてもらい、インターナショナル・ディスクリクトのはずれにある球場に向かいました。
インターナショナル・ディスクリクトというのは、鉄道の駅のそばに拓けた日系をはじめとするアジア系の移民の人たちがおおぜい暮らしてきた地域です。
大学から20分も走れば到着するのに、早めに来たのは、無料の駐車スペースを確保するためで、6時過ぎになるとこのへんは、あちこちから集まってきた車だらけになるのだそうです。
第二次世界大戦時中、日系の人々が強制収容所に入れられたことは、トモちゃんもいつか歴史で勉強してほしいと思いますが、そのときに日系の人たちがキャンプに持って行けなかった荷物を預かったという、パロマ・ホテルが、現在も営業しています。
そこで、当時の白黒写真を見ながら、ゆっくりとお茶を飲みました。
ここの地下には、そのときの荷物や、銭湯の跡があるそうで、人数がまとまればツアーをしてくれるということでした。
カスミさんは日系移民の歴史に取り組んでいる文化人類学者なので、ぜひツアーに参加しようという相談もまとまりました。

 テッドさんとカスミさんは、野球観戦のときは必ず、宇和島屋(北米最大の日本食材スーパー)で巻き寿司を買っていくというので、このあと宇和島屋に入りましたが、私は「典型的なアメリカ風野球観戦フード」に挑戦するつもりなので、巻き寿司はパスしました。

 こちらは緯度の関係で、春から夏はどんどんと日が長くなり、9時近くなっても真っ暗にはなりません。野球の始まる午後7時5分といっても、日本の午後4時くらいの明るさです。セイフィコ球場に近づくにつれて、カスミさんが「あ、野球の匂いがしてきた!」と言いました。
耳ならぬ鼻を澄ますと、日本ではかいだことのない、でもどこか懐かしいような匂いが風に乗ってきます。
分析するならば、匂いの主成分は、ポップコーンの爆ぜる匂いとビール、ウインナーの焼ける匂いといったところでしょうか。
まさしくそれは、「典型的なアメリカ風野球観戦フード」で、そこにガーリックフライドポテトを加えれば一丁あがりというところです。
最近は、イチロール(ツナときゅうりの巻き寿司)やハセガワ・ドックというのも人気だそうです。

 キャラメル味のポップコーンの大袋とホットドッグ、ガーリックフライドポテトに地ビールのボトルを買い込んで、案内された席は、なんとフィールド席の前から二列目でした。
二週間前、球場にチケットを買いに行ったとき、売り場のおじさんから「どこがいい?」と聞かれて、迷わず「イチローが良く見える席!」と言ったのですが、このリクエストはたぶん、このところ、日本人観客から何千回も寄せられたものだろうなあと思います。
ゲートを入ったところで、テッドさんたちと別れるときに、「きっと回りは日本人だらけですよ!」なんて話をしていましたが、意外なことに、周りはアメリカ人ばかり。
隣には、四十代のご夫婦と、中学生の息子さん二人、そして後ろには、小さい子供を4人も連れた家族がいました。
隣の奥さんはなぜか両手にグローブを嵌めていて、「あなた、グローブ、持ってないの? 貸したげようか?」と言われました。
丁重に辞退しましたが、フェンスがないということは、まさに打球がダイレクトに来るということで、ダッグアウトのほうの人たちには何十球もファールが飛び込んでいました。
後で、観客(とくに男性や子供たち)が持参するグローブは、あながち野球観戦の雰囲気作りの小道具とだけは片付けられないなと思いました。

 座ってびっくりするのは、客席とフィールドとの垣根が低いことです。
子供でもひょいと跨げるほどの低さです。
日本の球場のような高いフェンスなどどこにもありません。(後日、野球に詳しい人に、「あれじゃ、観客が乱入し放題だと思うのに、そんな人、誰もいなくて、マナーがいいと感心しました」と話したら、もしフィールドに入ったら、即逮捕され、けっこう厳罰なのだと教えてくれました。)
日本にいるときに、「本場の大リーグ」というと、なんだか敷居が高いような気がしていましたが、その期待は嬉しい方向に裏切られて、親戚が出場する草野球の試合を見に来たような近しさがあります。

 まだ明るいとはいっても、夕焼けが始まった球場の、芝生の美しいこと!
緑はどこまでも均一に濃く鮮やかで、一本一本がすくっと空に向かって伸びており、絶妙のコンディションに整えられています。
手を伸ばせばその芝生に触るような感覚と、頭上のどこまでも澄み切った空とが織り成す雰囲気とに、私はすっかり魅了されてしまいました。
球場のすぐそばにアムトラックという全米を鉄路で結んでいる鉄道の、駅があります。
そこに到着する列車が、おりおり汽笛を鳴らします。
芝の青と、空のオレンジと、アムトラックの汽笛――野球場で、試合も始まっていないのに、感動して泣きそうになったことを、告白しておきます。

 選手のコールが始まると、イチローがいかにこちらのファンに愛され期待されているかが、痛いほど解りました。
むろん、あれだけの成績をおさめているんですから、強い者好きのアメリカのファンが評価しないはずはないと思っていましたが、とはいえどこかに『日本のマスコミがバカ騒ぎしている分があるだろうから、それをどのくらい差し引いたらいいか、こっちで観戦したらわかるかも』などと考えていたのが、一気に吹っ飛びました。

 マリナーズの先攻で、イチローは一番バッターですから、早速登場したわけですが、彼がバッターボックスに立っただけで、エンジェルス・ファンまでもが大声援です。
正直言って、プレーオフでもないごく普通の試合なのに、あれだけ沸く感じは、イチローにとっても堪えられないだろうと思いました。
彼をはじめとして、日本の有力な選手たちが、次々に大リーグを目指すのはよく解ります。

 守備ではライトのイチローが、毎回目の前を走ってポジションに着くのですが、スイング同様にゆっくりとしたランニングも、寸分のぶれのない見事なフォームで、目が離せません。
私は、鍛え抜かれたパフォーマーたちのダンスや舞踏が大好きで、シアトルでも毎週のように劇場に足を運ぶのですが、彼は「野球選手」という範疇よりも、そうしたアーチストたちに近いものを感じました。
守備の合間にも、ストレッチを欠かさず、全身で打球に反応する感じが、伝わってきました。これはテレビ観戦では、決して体験できないものでした。

 周囲のアメリカ人選手たちは、けっこうリラックスしていて(だらだらしているとも言える)、日常の延長といった感じがあるのですが、イチローは終始クールすぎる気配で、自分の野球に集中しているようでした。
楽しそうにも、孤独にも見えました。
でも、本気でしごとをしているときって、きっと誰でも、「楽しくて孤独」かもしれません。

 7回が終わると、恒例の、観客全員による「Take Me Out To The Ball Game!」の大合唱です。
私も立ち上がって、歌詞のうろ覚えのところだけ、声を張り上げて歌いました。
どうも、このごろは、その後の、ダンス・ダンス・ダンスという、アップテンポの曲に合わせて観客に踊りを踊ってもらい、巨大プロジェクターにそれを移すというコーナーのほうが人気があるようでしたが。

 話題のイチローはこの日、一安打(俊足を活かして二塁打にはしましたが)と秀逸なフィールディングが一回だけ、当のマリナーズときたら、投手がぼろぼろで、エンジェルスに5点も入れられ、返したのは主砲が単発のホームラン一本だけというお寒い試合。
周囲の観客と一緒に、私も嘆息連発でした。
あの投手陣では、今後の好展開は望めないと思います。
大学の野球通たちは、「任天堂がケチだからいかん!」と、私に任天堂本社へ掛け合いに行けとばかりに文句を言うのですが、金にあかせて有名選手をかき集めるのがお得意の、日本の読売巨人軍も最下位だそうですから、これから泥縄で財布をはたいても駄目なような気がします。
試合の途中で、バスケット・ボールの速報も入ってくるのですが、こちらはシアトル・スーパーソニックが快進撃で、全米でもかなり良い線、行きそうな気配でした。

 キャラメルのポップコーンは、日本で昔食べた東鳩のキャラメル・コーンとは大違いで、まったく油っぽくなく、さくさくしていて、食べだしたら止まりません。
駄目試合のストレスも手伝って、気がついたら、大袋をぺろっと平らげていました。(おかげでこの夜は、真夜中の三時まで胃もたれして寝付けませんでした。)

 野球の終わった後、もう10時を回っていましたが、球場から吐き出された人波に漂いながら、バス停まで歩きました。
インターナショナル・ディスクリクトと、その隣のパイオニア・プレイスという地域は、シアトル発祥と発展の歴史が刻まれた由緒あるところなのですが、いまは、たくさんのホームレスの人たちが、あちこちにたむろしています。
煉瓦造りの時計台があるユニオン駅の脇を通ったとき、明らかにタバコとは違う匂いが、鼻をつきました。
座り込んでいるアル中らしいホームレス風の人たちの横で、3、4人の、まだ若い人たちが、ハッパの回し飲みをしていました。

 カクテル光線の中で、まっすぐにバットを伸ばす、お馴染みのポーズをして、4万人の歓声を浴びていたイチローと、そのバットの指し示す先で、安酒をかっ食らってハッパの煙に巻かれて路上に寝ている人の、両方を、この夜はとても身近に感じました。

 なかなか来ないバスを待っていたとき、脇にいた大柄な、かなり年季の入ったジーンズのオーバーオールを着た、巨漢から、いきなり何か話しかけられたので、一瞬、飛び上がるほどびっくりしましたが、落ち着いて聞くと、さっきの試合の結果はどうだったかということらしかったので(そりゃ、手に先着2万名様に無料配布している野球選手のフィギュア人形を持っていたら、野球帰りというのは一目瞭然です)、「マリナーズの負け、退屈な試合!」と単語を並べて答えました。
巨漢は、親指を下に向けて、「ああ、そりゃ駄目だな」というジェスチュアをしたので、私も真似して、親指を下にしてみせたら、相手はにいっと笑いました。
ちょっと嬉しかった反面、この後もばあっと話しかけられると面倒だなと思って下を向いて靴の先を見ていると、不思議なことにその人はすっといなくなっていました。

 シアトルで一人、街歩きしていると、ほんとうによく、こういうことがあります。
この街の人々が人懐っこいせいか、私がよっぽど暇人に見えるせいか、よく解らないけれど、この先暮らす予定のボストンやニューヨークだと、こうは行かないんじゃないかと思います。

 いつの日か、トモちゃんが大リーガーになり、セイフィコ球場のフィールドでプレイしている最中に、アムトラックの汽笛が聞こえてきても、生まれて初めてもらったこの長々しい手紙のことなんか思い出したりしないこと!
集中していないと、イチローみたいなファビュラスなフィールディングが出来ません。

 でも、試合が終わって、BMWを運転してベルビュー(シアトルの最高級住宅街です)の自宅に帰るとき、インターナショナル・ディスクリクトのバス停で、今日の試合結果の話をしている人や、その人たちと道を挟んだ路上で夜を明かす人のことは、忘れずにきっと思い浮かべてくださいね。

第七信 Voice Theatre ――声の劇場シアトル公演のこと

 「何をしているときが、いちばん幸せ?」
って聞かれたら、トモちゃんは何と答えますか。

 いまなら、抱っこされているときでしょうか、それとも、お風呂に入っているとき?

 私は物心ついたときから、今日までずっと、
「面白いお話を聞いているとき」――これに尽きます。

 美味しいものを食べるとか、きれいな服を着るとか、素敵なおうちに住むとか、どきどきする人と一緒に過ごす時間とか、人によってはいろいろあるでしょうが、私の不動の第一位は、「面白い話を聞く」で、たぶんこれはもう、生涯変わらないんじゃないかと思います。幼いころの私の回りには、「偉い人」や「お金持ちの人」はいなかったのですが、「面白い話をしてくれる人」がいっぱいいました。親族はもちろんのこと(数がけっこう多い上に、きわめて緊密に付き合っていたので、楽しいことも揉め事も、数え切れないほどありました)、近所や折々訪ねてくる人にも、面白い話を聞かせてくれる人がいました。

 たとえば「ユキオちゃん」という呼び名の(本名は今でも知りません)ずんぐりむっくりとしたしゃがれ声のおじさんがいて、彼の口にかかると、日常のできごとがみんな「お笑い」になります。祖母は常々、「ユキオちゃん」は戦災孤児で、並や大抵ではない苦労をして大きくなったけれど、あの口でどこにいても誰にでも可愛がってもらうから、「仏さんはちゃんと良いもんをさずけはった」と言っていました。盆と正月には必ず挨拶にやってきて(私の母方の実家は大阪で寺をしていて、昔は謙遜ではなくびっくりするほどの貧乏寺でしたが、来客が絶えませんでした。そこで私は大きくなりました)、親族に混じって過ごすのですが、配達に行って犬に噛まれた話や、値切る客との駆け引きの話など、今でもあのしゃがれ声が、皆が和やかに笑う声と一緒に甦ってきます。

 また近所には「カネジ」という屋号の酒屋さんがいて、この人は戦中・戦後のかなり長い間シベリアに抑留されていたのですが、収容所で働いたときの話をよくしてくれました。穏やかな声で淡々と、自分たち捕虜は山から切り出した丸太に綱をつけて、その綱を胴体に巻きつけ、馬のように引っ張ったという話をしてくれたのですが、子供心に『おっちゃんはそのときに鍛えたから、酒樽でもビール・ケースでもへっちゃらで持ち上げられるんやなあ』と納得したことを覚えています。

 私が朗読というものに興味を持つようになったのは、「人の声で聴く、面白い話が大好き!」というのが出発点になっているかもしれません。

 五年前に、私はあなたのおかあさんたちと、「声の劇場」という朗読パフォーマンスのユニットを立ち上げて、東京を中心にあちこちで公演活動を展開してきました。今年になって、活動の範囲を広げ、3月18日にドイツのボッフム、そして5月26日にアメリカのシアトルで公演をすることになったわけです。

 シアトルのワシントン大学東洋言語学科の主催で行った「声の劇場シアトル公演」のことを、今日は手紙に書こうと思います。

 5月23日朝、東京から三人のスタッフがシアトル・タコマ空港に到着しました。幸田文の『おとうと』を朗読するナナコさん、その作品の中で弟役の一人芝居をする大介さん、そして『おとうと』と『苦海浄土』両方の音声操作を担当してくれるトシエさんです。ナナコさんは劇団「サッカリン・サーカス」の主宰として脚本・演出・出演の三足のワラジをはいていた人で、劇団を解散したいまは、ダンサーとしても活躍する才能の塊のような人。声の劇場スタート時からかかわってきてくれた人でもあります。大介さんは、劇団「スペースノイド」の看板役者で、今回はナナコさんの推薦によりシアトル公演に参加してくれました。トシエさんは勤めていた企業を辞めて小学校の先生を目指す転機に、シアトル公演のお手伝いをしてくれることになりました。

 早起きして、バスを乗り継いで迎えに行った私の前に、三人は旅の疲れも見せず、ニコニコして登場しました。シャトル・エキスプレスというバン型のタクシーをチャーターして、さっそく自宅へ。宿泊代を節約するため、これから8日間、私の宿泊所での合宿生活が始まります。前日までの寒空が、うそのように、空は晴れ上がり、なかなか滑り出しは快調です。

 月曜だったので、私は三人を残して例のヨガにいったん出かけましたが、彼らは会場となる教室をぜひ見たいということで、ハスキー・スタジアム(大学にバンク・オブ・アメリカが寄付した、アメリカン・フットボールのスタジアムです)の前にいるハスキー犬の銅像(ワシントン大学のマスコットがハスキー犬だということは、前にも話しましたよね)のところで待ち合わせて大学や会場を案内しました。

 会場となるゴーエン・ホールの201教室は、教室といえども、天井はホール並に高く、時代がかったチーク材と漆喰の白い壁とのコントラストが素敵な空間です。ここに舞台を設営して、公演を行います。普段の声の劇場ならは、たとえ教室であっても舞台装置・音声・照明と設営するのですが、今回は土台だけの素の舞台に音声のみで勝負です。

 今回、設営の陣頭指揮をとってくれるテッドさんの研究室に、一同で挨拶に伺うと、テッドさんは今日が私の誕生日であることを知っていて、「Happy Birthday!」と歓待してくれ、なんと今夜バースディ・パーティをテッドさんのご自宅でしてくださるという、嬉しい申し出までありました。

 私が案内して、東京からきた三人とダウン・タウンをぶらついた後、テッドさんのお宅で、バーベキューをご馳走になりました。カスミさん手作りの、特大チョコレート・ケーキもパーティの最後に登場して、異国の地で迎える48歳最初の日を、東京とシアトル両方の若い友達に囲まれて過ごす幸せを、しみじみ噛み締めました。それにしてもテッドさんは実に料理の手際が良く、カスミさんとの掛け合いトークも絶妙で、私が子供のころ、テレビで観て憧れていた、『パパは何でも知っている』のダディみたいです。声の劇場遠征メンバーも、到着初日にこうしたアメリカンな歓待を受けて、すっかり緊張が解けたみたいでした。

 翌日は、三人ともさすがに時差ぼけでフラフラしながも、すごい気迫でリハーサルに臨みました。いつものことですが、難題も続出します。音声をデッキからではなくパソコンから出力しなければならないという大きな変更があったり、借りる予定の簡易式の舞台が直前に変更になるなど、不測の事態が次々に起こりつつも、それを一つ一つ乗り越えていきます。こういうことを通して、みんなが一つになるし、ほかの誰でもない自分がやる舞台なんだという気持ちが、ひしひしとしてきます。トモちゃんのおかあさんとも、わたしたちはそうした修羅場を幾つも潜り抜けてきました。

 総合司会を引き受けてくれたのは、大学生のマイトさんです。こちらの大学では、大学院の授業を大学生が正規に受講するということも可能で、大学3年生ながらマイトさんは私とダビンダーさんの授業に参加していました。勉強家の彼女は、3年生の段階で必要なすべての単位を取得したので、一年早く大学を出るのだとも教えてくれました。とはいえ、ちっともガリ勉タイプではない、好奇心いっぱいのアメリカンです。織り込んでほしい情報を事前に渡していたのですが、そこから漏れたりしていることにも細かな配慮をしてくれる、素晴らしい司会振りで、本番もこれならばバッチリだと安心しました。

 今回、幸田文の『おとうと』と石牟礼道子の『苦海浄土』の2本を、アメリカン・バージョンで上演するのに伴って、いつもは日本語で作るパンフレットを英語版にすることと、『苦海浄土』の一部に英語の声を挿入するという二つのことに挑戦しました。

 『苦海浄土』には、水俣病の患者さんのカルテや、猫を使った水銀中毒の実験結果をまとめた学術論文が引用されています。日本で上演するときは、この部分を、重々しい男性の声で朗読した音源を使うのですが、アメリカン・バージョンでは、その日本版の声をフェード・アウトして、同じ箇所を英語に翻訳してブースからナレーションしてもらう演出にしました。カルテを大学院生のマシューさん、学術論文をミランさんにお願いしてあります。ミランさんは定刻に来て、音声のこともいろいろ気転を利かせて協力してくれ、リハーサルも入念にできたのですが、どうしたわけか、ついさっきまで授業に出席していたマシューさんは、会場に現れません。とうとう午後9時まで待って、あきらめ、翌日探索することにしました。マシューさんは真面目が洋服を着てあるいているような学生さんで、すっぽかすなどということはありえないので、「教室がわからなくなったのかしらん?」「まさか事故?」とどんどん不安が膨らみます。

 翌朝、ダビンダーさんの研究室で昨日の経緯を話すと、ダビンダーさんは「ともかくマシューさんを捕まえましょう」と言うなり、授業の時間割を調べ、なんと私とダビンダーさんの二人で授業から出てくるマシューさんを、待ち伏せすることになりました。オオタ先生の授業(NHKの『プロジェクトX』を使って日本語を学ぶという、上級日本語の授業です)の部屋の外で、ときどき教室の中の様子を伺いながらダビンダーさんと待ち伏せしているとき、なんだか学生時代からこういうことを二人でやっていたような、妙な錯覚が湧いてきました。

 授業が終わって出てきたマシューさんは、私とダビンダーさんが立っているのでびっくり仰天、勘違いとはいえ、昨日のリハーサルを結果的にすっぽかしたことに平身低頭でした。その後、マシューさんのパートのリハーサルも無事終了しましたが、恐縮した彼は、なんとパンフレット印刷の手伝いを買って出てくれました。

 パンフレットの翻訳を手伝ってくれたのは、大学院のゼミの受講生であるサラさんとフサエさんでした。二人ともいろいろと忙しい中(サラさんもフサエさんも、しごとをしながら学んでいる苦学生で、サラさんには小さなお子さんも二人います)、声の劇場のパンフレットでいつも行っている「作品理解のための、五つのキーワード」を丁寧に翻訳してくれました。英文になった草稿を見て、嬉しいような面映いような、くすぐったい気持ちになりました。

 ダビンダーさん、テッドさんのファイナル・チェックも終わった完成原稿を持って、私、ナナコさん、大介さん、トシエさん、そしてマシューさんの5人は、大学通りにあるコピー屋さんへ。帳合いのことで店員さんと応酬があったのですが、通訳としてついてきてくれたマシューさんそっちのけで、私とナナコさんの二人が「ノー、ノー」の連発プラス身振り手振りで店員さんを説き伏せて、仕上がりを明日に待つばかりとなりました。

 帰り道、本番を明日に控え、「今夜は鰻を食べよう!」(あなたのおかあさんが、おみやげにスタッフに託してくれた真空パックの鰻です)ということになり、そばにいたマシューさんに私が「鰻、嫌いですよね?」と聞くと、マシューさんはにっこりとして「ダイスキデス」という返事。そこで、われらの晩餐にマシューさんを招待し、思いがけず楽しいディナーになりました(ちなみに彼は、本番の後にも荷物を宿泊所まで運んでくれて、そのまま打ち上げにも参加してくれたので、二日一緒にご飯を食べることになり、東京メンバーのアイドルになっていました!)。

 本番の日はうだるような暑さの中、前の授業が終了してからのたった1時間に、舞台設営と音声チェック、受付設営のすべてをこなさなければなりません。舞台は限りなくシンプルにしたとはいうものの、テッドさんを陣頭指揮に、東洋言語学科の事務所のジョンさん(来た当座から私が東洋言語学科の廊下で迷ってまごまごしていると、いつもにこやかに声をかけてくれる人で、見上げるような大柄なので私は「ビッグ・ジョン」と密かにあだ名をつけていました)、マシューさん、ミランさんの目覚しい協力がなかったら、到底不可能だったと思います。

 受付を設営していると、同じ学科の中国語の先生が、「お花があったほうが、良いでしょ。私の部屋の、貸してあげる」と言って、紫の花を活けた花器を持ってきてくださいました。ちょうど薄紫色のパンフレットの表紙と活花の紫とが映りあって、教室の入り口が一瞬にして、華やいだ劇場入口になりました。

 『おとうと』に出演するナナコさんは白地に青い蝶が舞う絽の着物、大介さんは書生さんらしい紺の木綿の一重に枯葉色の袴をはいて、控え室で開演時間を、いまや遅しと待っています。しかしながら、開演時間の10分前になっても、お客さんは10人ちょっと。広報を手伝ってくれたポールさんはしきりに首をかしげ、受付にいたサラさんは「私たちも、中に入ってましょうか?」と気遣わしそう。テッドさんは目を白黒させ、授業の相棒であるダビンダーさんは神妙な顔です。

「やっぱり、日本語の朗読ということになると、シアトルみたいな都市でも聴く人が限られるんですよね。それに明日から三連休ですから、旅行に出かけてしまうということもあるし・・・」
一生懸命、テッドさんがとりなしてくれます。

 こちらの新聞でも三紙で取り上げてもらったし、来るはずになっている友達の姿もいまだ見えない――星の数ほどイベントを開催してきて、お見物の数が少ないことはこれまでにもあったし、たとえ一人でも聴きにきてくださったお客様には持てる力を出し切ったパフォーマンスを観ていただけばいいと、私ははなから腹を括っていましたが、主催してくださったワシントン大学の東洋言語学科――手伝ってくれた先生方・学生さんは、気落ちされるだろうなと思うと、もう一粘りしてみたくなって、テッドさんに、
「ほんとうに申し訳ないんですけで、10分だけ、開演を遅らせてくれませんか」
と申し出ました。テッドさんは、望み薄な表情ながらも、
「解りました。10分、待ちましょう」
と快諾してくれました。

 そして、奇跡は起こりました。なんとその10分の間に、続々とお客様がみえて、席が埋まり始め、最終的には60人以上の方々がわたしたちの朗読を聴いてくださったのです。中には、シアトルで視覚障害を持つ人のためにボランティア活動で朗読をしているグループや、日系の一世の方たち、オリンピアから一時間半以上も車を飛ばしてきてくださった方々もいらっしゃいました。

 今回の『おとうと』の演出は、朗読のナナコさんと一人芝居の大介さんとが会場の外から追い合うように歩いてきて、舞台上に登るというものだったのですが、夕方の光の中に、とっとっと早足で歩いていく大介さんの、ちょっといかった肩の線と、それを追いかけるナナコさんのなで肩とを、最後列で見ていて、『ああ、始まるんだなあ』とまな板の上の鯉のような気持ちになったのを覚えています。

 これは後で、ナナコさん、大介さん、トシエさん皆も同じことを言っていたのですが、ほんとうにものすごい気がお客様の方から発せられていて、私たちは「朗読した」というより「ことばを引き出された」という感じを持ちました。「語る技と聴く力の幸福な出会いを求めて」というのが、声の劇場のキャッチ・フレーズですが、手から手へ、口から耳へ、ことばを手渡した感触がありました。家の中で、あるいは街へ出れば、またテレビやラジオをつければ、水のように空気のように日本語が流れている、そんな日本とは違って、「日本語を聴きに集まった」人々に向けて語っているのだという意識が、途絶えることなく底流にありました。

 今回はドイツ公演に引き続き、私自身が『苦海浄土』の朗読をしたのですが、語りながら、水俣に勉強に通っているときにお目にかかった方々の声がしてきて、朗読しているのに聴いているような、不思議な時間でした。以前にも書いたように、シアトルは水の都で、こちらへ来てから毎日、湖か海を眺め暮らしていたせいか、東京で朗読するときよりも、不知火海が近くに感じられたのも面白い体験でした。

 暖かな拍手をほんとうにたくさんいただいて、午後9時10分に、舞台は幕を閉じました。

 三日後の日曜日、今度はボーミックさんが、声の劇場メンバーのためにフェアウェル・パーティーをご自宅で開催してくれました。先生方や学生さん、声の劇場を観にきてくれた大学図書館の司書さんたち、日ごろ私をよく芝居に誘ってくださる翻訳家の方など、子供たちも入れて20人ほど(小さい子供が5人に、赤ちゃんが二人、お腹に赤ちゃんがいる人が二人いて、ティーン・エイジャーは一人、後は20代から60代までの大人です)のポトラック・パーティーです。「ポトラック」というのは、ネイティブ・アメリカンのことばで、それぞれが1品ずつお料理やお菓子などを持ち寄る趣向のもので、アメリカではよく行われる形式だそうです。持ち寄りとはいえ、ホストを引き受けたお宅はお庭も室内も、おおげさでなく家中を開放するので、前日から準備で大変だろうと思います。ダビンダーさんのパートナーのラジャさんも、前日から腕によりをかけてマリネードしたスパイシーなチキンの塊を、お庭で何十個もバーベキューしてくれました(これまで食べたインド料理とは比べ物にならないくらい辛かったですが、味は最高でした!)。ダビンダーさんは甘辛く煮付けたスパムを巻いた、巻き寿司を作ってくれました。ドラム缶に氷を詰めたもの二個に、ビールとソフト・ドリンクが100本くらい入れてあって、それを皆でガンガン飲みます。コップを使わないで、ビンごとビールを飲むのが、こんなに美味しいものだとは!

 オープン・エアの気持ちがいいテラスで、持ち寄りのご馳走をいただきながら、琉球舞踊の名手でもあるナナコさんの手ほどきで、沖縄のカチャーシーを皆で踊りました。ちょうど私とダビンダーさんとで行っている授業で、沖縄文学の作品を取り上げている最中だったこともあり、学生さんたちも、愉快そうにみようみまねで踊っていました。私は「唐船(とうしん)ドーイ」が大好きなので、CDから流れる知名貞男の声が「トーシンドーイーーー」と聞こえてきたら、自分でも知らない間に手が頭上に上がっていました。

 声の劇場メンバーで、夜中に作ったサーターアンダギーとチンビンの山の脇に、私は飾りに、風車(カジマヤー)の模様の千代紙でこさえた小さな折鶴を添えたのですが、パーティーがお開きになって片付けにかかったときに、ダビンダーさんは「これ、貰います」といって掌に載せて笑っていました。

 ナナコさん、大介さん、トシエさんの三人と私は、この8日の合宿生活の間に、ほんとうに良く食べ、時には激論に発展するほどよく話し、そういう意味でも「声の劇場」でした。まったく同じメンバーで海外公演をするということは、もう二度とないだろうなあと思うにつけ、「一期一会」という感慨が湧いてきます。

 大介さんがわざわざ東京から持ってきた『北斗の拳』をみんなで回し読みしたことも、きっと先になったら忘れるだろうから、書いておくことにします。大介さんが生まれたころ連載が始まったこの漫画は、彼の「おかん」と同い年の私の胸も、熱くさせてくれました!

 シアトルの人々に、声の劇場のメンバーがほんとうに「自分の声」で「面白い話」をちゃんと手渡せたかどうか――考え出せば「あそこはこうするべきだった」「ここはこうする方がよかったんじゃないか」と思案はつきませんが、その「遣り残したこと」を胸にしっかりと畳んで、これからもそれぞれが、地球のどこかで、またがんばりたいと思います。

第八信 Camera, pen, and ・・・?――私を表現するもの

 しばらくご無沙汰していましたが、風邪はもうすっかり良くなりましたか?

 どうも、日本の人はアメリカの人に比べて、風邪を引く数が多いような気がします。6月にシアトルから一時帰国したときに、風邪を引いているという話を周りでずいぶん聞きました。結局は、
「風邪を引いている人が多い→風邪の菌が回りに絶え間なくある→免疫が下がるとすぐまた引く→ほかの人がその菌をもらう」
というサイクルが、日本では景気良くぐるぐると循環しているんでしょうね。トモちゃんも、生まれてまだ半年ばかりの間に、何回も風邪を引いたと聞きました。

 さて、七月に入って、私はボストンに移ってきました。今回のアメリカ滞在は、シアトルを振り出しに、ボストン、その後がニューヨーク、ニューヨークからはまたさまざまな都市に出かけていくつもりです。行った先々から手紙をかきますから、楽しみにしていてくださいね。

 ボストンの最初のころは、シアトルとは違って、街の人々が無愛想なのと、都会だけあって物価が高い(特に生鮮食品)のに、いささか緊張しましたが、三日もすると慣れてきて、今は学生街・ケンブリッジでのアパート暮らしをそれなりに楽しんでいます。

 来てすぐのころ、なかなかインターネットが繋がらなくて(アパートのケーブル・ネットと私のパソコンにあらかじめ入っていたセキュリティ・ソフトとの相性が悪かったようです)、とうとうアパートの管理会社にケーブル・ネットのテクニカル・サポートの人に出張してもらうよう頼んだのですが、管理会社の人がとても親切で、そんなのはお金がもったいないから自分たちがまず見てやろうと来てくれました。インド系の姉妹で、彼女らはコンピュータの日本語表示が解らない・私は今のマシンの陥っている状況が解らないという中、まさに「二人羽織」ならぬ「三人羽織」のような状態で、途中からはケーブル会社の人も電話で参加してもらい、二時間半後にようやく開通するという波乱の幕開けでした。とはいえ、見ず知らずの土地でこうした親切に出会うと、その場所が好きになるきっかけになりますね。

 ボストンでは、ハーバード大学の図書館と自宅の往復ですが、今日はどうしても見たい写真展があって、地下鉄で二駅行ったところにある、Cambridge multicultural arts center (ケンブリッジ多文化美術センター)に出かけてみました。

 たまたまネットでケンブリッジ界隈の情報を検索していて、一枚の写真に心をつかまれました。川べりのようなところに殺風景な家並みがあり、その家並みが鏡のような水面に映っている――そんな写真です。家が肩を寄せ合うようなしみじみとした感じがあり、しかし、冷たい澄み切った空気もきちんと写り込んでいて、いつまででも眺めていたい写真でした。佐伯祐三という洋画家がいますが、あの人が画いたパリの町並みの絵を初めて画集で観たとき、懐かしいような嬉しいような、でも悲しいような、なんとも言えない気持ちになった、あの感動に近いものがありました。そこで、改めて英語の説明をよく読んでみました。ブエノスアイレスのスラム街に暮らしているティーン・エイジャーを対象にした、ワークショップの中で撮られた受講生の作品だということが解りました。

 正直、かなり驚きました。まさに、
“Really?!”
であります。どうしてもこの眼で確かめてみたいと思いました。

 Cambridge multicultural arts centerのホームページで、場所を確認して出かけました。Kendall駅(マサチューセッツ工科大学の最寄り駅です)からは歩くと20分以上はかかりそうなところですが、幸いなことに無料送迎バスがあるというので、けっこう大きな施設なんだなと思いました。バスの行く先はCambridge Side Galleria ということだったので、『ああ、Galleriaっていうくらいだから、美術関連の建物が幾つか集合してるところなんだよね』くらいに思って乗り込んだら、5分くらいで到着したのは、何と巨大ショッピング・モール。(Galleriaというのは、galleryではなくて、イタリア語で商店街のことだったんです。)行けども行けどもブティックやフード・コートばかりで、洋服も料理もあきれるほどmulticultural(多文化)には違いなかったですが、美術館など影も形もありません。

 シアトルでは入ろうとするたびに満員だった『チーズケーキ・ファクトリー』が、がらがらに空いていたりするのを見るとちょっと入ってみたい誘惑に駆られたりもしましたが、
「本来の目的を果たさずに、巨大チーズケーキにかぶりついても虚しい!」
と思い、インフォメーション・デスクを探して聞いたところ、そこのお姉さんも、お姉さんが電話をかけて聴いてくれた先の人も、「どこ、それ? 聞いたことない!」という感じでした。ああ、こりゃ今日はやはり空足を踏んだかと、がっかりしかけたそのとき、お姉さんの電話が鳴って、どうやらさっきの電話の人がまた誰かに電話で聞いてくれて、ようやく所在地が判明したのです。ここでも「三人羽織」で情報のリレーをしてもらえたわけで、有難いことでした。

 情報リレーで教わった道を7分ばかり歩くと、緑の公園の中に、古い小さな建物の半分を使用しているCambridge multicultural arts centerがありました。どうやらホームページのアクセス情報は、ショッピング・モール行きの無料バスに便乗すると、わりと近くまで来ることができるということだったようです。おかげで、資本主義消費社会の殿堂をぐるぐる歩き回った果てに、そのしわ寄せを食っている地域の人々の表現に出会うという段取りになってしまいました。

 受付に誰もいないようなので、オフィスのような部屋を覗いて、
「『ph15』の展示を観てもいいですか?・・・っていうか、どこで展示やってるんですか?」
と聞くと、ちょうど私くらいの年齢の女性が書類の山から眼を上げて、
「Welcome!」
と突き当たりの部屋へ案内してくれました。

「ここを見終わったら、二階にも展示があります、ごゆっくり」
とは言われたものの、通された部屋の白い壁には写真は一枚も飾っていなくて、真ん中にビデオが一台と、まわりに雑記帳のようなノートが十数冊置いてあるのが見えるだけです。ここでも『ありゃ、展示開催の日付を見間違えたか』と再び心配になりましたが、ともかくビデオを見てみようと、ごく普通の家庭用ビデオのスイッチを押し、一脚だけある椅子に座ると、そこに映し出されたのは、レモンの木の前で、インタビューに応じるティーンエイジャーたちの姿でした。人種の違いを覗けば、私が日本で長年教えてきた中学生や高校生、大学の一、二年生といった年回りの若い人たちが、恥ずかしそうに、ときには真っ直ぐビデオ・カメラを見返して、2000年から始まったというこのワークショップに、自分はいつ頃から参加したかとか、写真が好きかとか、写真を通して何を表現したいかなどの短い受け答えをしていました。

 15分ほどのビデオを見終わって、ビデオの回りに置かれた雑記帳を手に取ってみると、それはインタビューに登場していた彼らの作品が、表現者ごとにまとめられた、素朴な手作りの写真集でした。ページを繰っていくにつれて、ここでもインターネットで家並みの写真を見たときと同様の、驚きが湧き上がってきました。まさに夏休みの課題提出用のような写真帳の中に詰まった写真は、風景、人間、家畜動物(生きているのも死んでいるのも)と実に多様ながら、ほんとうに“cool”でした。写真から笑い声が聞こえてきそうなのもあれば、荘厳とか崇高とか普段は使わないようなことばが思い浮かぶものもありました。)

 木造の階段を上がって、二階のもう一つの部屋に行くと、そこは高い天井の開放感溢れる空間で、ワークショップの受講生たちの代表的な作品が、大きくスチルにして展示されていました。私がその一枚に惹かれてここまでやってきた、あの家並みの写真も、掛けてありました。やはり眼の高さに大きく引き伸ばしてあると、ネットで観たときとは違って、作品世界と向き合っている気持ちになれます。私が川面だと勘違いしていた水面は、水浸しになった道路でした。この高さまで水が来ていたら、どの家も一階は冠水しているなあと気の毒に思いながらも、人が暮らす入れ物としての家が、飾りも何もなく暮らし向きそのものの顔立ちをあらわにして建っている様子に、むしろかけがえのない美しさも感じないではいられませんでした。

 私は大の猫好きなので、室内にあった猫の写真にも真っ先に眼が行ったのですが、干した肉の塊と二枚一緒にトリミングされていた子猫の写真は、偶然か敢えてか分かりませんが、かなりのソフト・フォーカス(というかピントはずれ)なのですが、その子猫の眼差しが、野良猫特有の何かにすがるようなあるいは狙うような、必死で痛い迫力のある写真でした。もし、この写真のピントが合っていたら、正視できなかったかもしれないとも思いました。

 ゆっくりと時間をかけて二階の展示を見終わった後、入り口の説明を読んだところによると、この『ph15』と名づけられたプロジェクトは、ブエノスアイレスに900万人いるというスラムに住む人々のうち、ヴィラ15(スラム15)に住んでいるティーン・エイジャーたちに写真撮影を教えるために、2000年8月にカメラマンであるマーティン・ローゼンタールによって始められたそうです。ワークショップは美術学校の片隅で毎週土曜日に行われます。受講生――スラムの若者たち――は、貸し与えられた簡易なポケット・カメラによって、自由に写真をとって持ち寄り、写真の教師やチューターたちと合評会を行うというシステムです。何を写したかったのか、何が写っているのかなど、写真を巡って毎週、話し合いがもたれるわけです。ときには現在活躍中の写真家たちがこのワークショップを訪問して、彼らの写真を受講生たちに示して話をしたり、受講生たちの写真にコメントする機会も設けられています。このワークショップでは、写真の技術を学ぶというよりもむしろ、写真撮影を言語として捉え、スラムに暮す若者たちの生活と環境について第三者に語りかける方法として学ぶのだとも紹介されていました。2000年8月からだとすると、わずか5年足らずともいえますが、毎週のワークショップの積み重ねと考えると濃い時間の堆積だと思うし、何よりここに提示された作品群にみなぎる力と高い芸術的な達成度を考えると、充実したワークショップだったんだろうなあと心から羨ましくなりました。

 むろん、若い人たちを対象にした、表現をめぐるワークショップというのは、時として推進役の人間の価値観を押し付けたり、また若い人たちの作品を推進役が自分の成果として収奪するといったことと、常に背中合わせであることは確かです。この『ph15』というプロジェクトもたぶん、さまざまな問題を抱えながら進んでいるだろうことは想像できますが、被写体としての「貧民街に暮らす若者」から、カメラを手にすることで、表現者として自分を取り巻く環境から世界に向けて発信して行く位置の変換は、やはりとてつもなく大切なことだと思うのです。

 カメラを手にすることや、ペンを手に持つことができるということ。ただ撮ったり書いたりするだけではなく、そうして表現したものを世界に差し出して、褒められたり、意味づけされたり、問い直されたりすることを通じて、人ともそして自分自身とも対話の能力が培われていくのでしょう。『ph15』のサブ・タイトルは、”cameras,communities,connections”となっていましたが、まさに写真という言語を通じて、動かないものとしてあるかに思える共同体あるいは関係性が再編成されたり、新たに作り上げられていくという可能性が在る――そうした希望のメッセージも込められていると感じました。

 すべてを観終わって帰り際に、やはり来たときと同じようにオフィスに声をかけました。入場料を払っていないことに気づいたからです。さっきの女性が出てきて、
「あ、無料ですよ」
とのことでしたが、何かどうしても気持ちを形にしたくて、ほんの小額ですが寄付をしました。まったくこういうときに、“contribution”という単語がどうしても出てこなくて、へどもどしながら紙幣を渡しました。その係の女性は、なんだかとても楽しそうに、
「どうやってこの展示のこと、知ったんですか?」
とか、
「良かったら、メールのアドレス、書いて行ってください。また、いろいろ案内しますから」
などと話しかけてくれたので、日本からやってきたことや、ネットで偶然この展示を知ったこと、そして大きな刺激を受けたことなどを立ち話しました。彼女はこの展示のキュレーターだったかもしれません。

 月曜の午後とはいえ、私がいた間中、誰一人来館者がなかったという点で、決して楽観はできない展覧会だと思いますが、少なくとも私が受けた大きな感銘と、ワークショップというものへの新たな思い(過去、約10年近くにわたって、あなたのお母さんをも時に巻き込んで、数え切れないほどのワークショップをやってきましたが、可能性と同時に自身の非力による限界もひしひしと感じていました)を考えると、この後の世界巡業でも、きっと大きな反響を呼んでいくことと確信しています。

 トモちゃんはこれから、少しずつ、ことばを覚えたり、絵を画いたり、歌を歌ったり、いろんな表現を身につけていくんでしょうね。お金を稼ぐことも、そして使うことも大切な表現ですし、生きて暮らして行くことそれ自体が、何よりの自己表現です。

 親や身近な人たち、そして学校の先生や友人たちから影響を受けるのはいうまでもないことですが、ある日、ブエノスアイレスのヴィラ15にマーティン・ローゼンタールさんという写真家が『ハメルーンの笛吹き男』みたいにふらりとやってきて、そこに暮らしている若い人たちが写真を撮り始めたような、表現にはそんな始まり方もあります。カメラが彼らに与えられたことは、まったくの偶然だったかもしれないけれど、彼らには伝えようとすることが溢れるほどありました。いや、もう少し厳密に言うと、表現の手段が見つかったら改めて発見され発信されないではいられないような切実な日々を、彼らは生きていました。

ボストンにいて、たぶん一生会うこともないブエノスアイレスの若い人たちを身近に感じるというのも不思議なものですが、ビデオの画面の中で、はにかみながらアルゼンチンの言葉で語る彼らの思いを、英語の字幕スーパーを必死に追いながら、ああやっぱり私は何かしたがっている(そして、きっとできる)若い人が好きだなあと思いました。

第九信 PEACE SUNDAY ――花を捧げよう

 東京はまだ暑い日々が続いていますか。ボストンはこのところ、めっきりと涼しくなりました。どうやら日本の国会の衆議院が解散したということですから、また選挙運動のために、街はにぎやかになりますね。トモちゃんのお昼寝タイムを、あの選挙カーの騒音が襲って、トモちゃんは大泣き、お母さんはもっと暑くなる・・・という光景がありありと浮かんできます。


 8月に入って、親友の朴裕河さんが遊びにきました。ソウルの大学で日本文学を教える裕河さんは25年来の親友で、研究やしごとをずいぶん一緒にやってきました。むろん、お酒やお茶もいっぱい飲んで、おたがいの手料理もたくさん食べました。私は外国に滞在しているとき梅干やノリが無くても生きていけるのですが、キムチが冷蔵庫に入っていないと落ち着かないくらい、キムチ好きです。その出発点は、裕河さんが作ってくれたオイ・キムチでした。・・・こんなふうに書くと、ガハハと笑いながら白菜の山を間に座り込んで何十もある甕にキムチを漬けていく庶民派「肝っ玉かあさん」みたいなイメージを思い浮かべるかもしれませんが、裕河さんは大江健三郎をはじめとする現代文学の翻訳家で、現在、韓国論壇で日韓の間に横たわる戦後処理にかかわる問題に果敢に発言する批評家でもあります。体型も私とは違ってとても華奢で、大風が吹いたら飛ばされそうなので、いったいどこにあの舌鋒鋭い論客としてのバイタリティがあるのか、不思議になるくらいです。


 ローガン空港に迎えに行くと、また一回り痩せて小柄になった裕河さんが、ニコニコして到着ロビーに現れました。

 お姉さんがシカゴにいらっしゃるので、そこを経由して、ボストンに来てくれたのですが、仕事がらみで日本に来ているときより、ぐんとリラックスしているようでした。ただ、アメリカの外食の量が多いのに辟易したそうで(私も同様です)、せっかく入った名店「Legal Sea Food」でしたが、クラム・チャウダーもロブスター・ロールも一人前を二人でシェアして、ウエイトレスさんに呆れられてしまいました。


 さてケンブリッジの我が家に到着するや、
「ハイ、おみやげ!」
といって渡してくれたのは、韓国ノリとランコムの美容液と化粧クリームで、
「こんな高級なの、使ったことないよ」
と言うと、裕河さんはたまたま出しっぱなしになっていたジョンソン・アンド・ジョンソンのベビー・ローションを手にとって、私の鼻先につきつけ、
「こんなので間に合う歳でもないでしょ」
いや、まったくその通りなので、
「じゃ、こういうの日々、愛用してる?」
と聞くと、
「私は香料の強い高級なのでかぶれたことがあるから、使わない。無香料の安いのじゃないとだめなんだ。金井さんは、がんばりなさい」
と励まされました。裕河さんは私よりほんの半月くらい先に生まれただけなのですが、どこか「姉さん」の格があります。キムチのときのように影響されて、高級クリームを貰ったのがきっかけで、エステ通いに果ては整形手術まで行ってしまったらどうしてくれる?と言うと、
「金井さんがそんなになったら、面白いね!」
と、なんだか嬉しそう。私の顔がどうなろうが、もう親も心配してくれない今日この頃なので、しみじみ同世代の気の置けない友達は有難いなと思いました。

 その日は二人で続けざまに12時間くらいおしゃべりをして(!)、翌日は、前から行こうと約束していたニューイングランド地方のセーラムという小さな町に行きました。

 セーラムはボストンからコミューター・トレイルという郊外電車に乗って30分くらいのところにあります。セーラムという名前はヘブライ語で「平和」を意味しているんだそうですが、1692年にヨーロッパの魔女狩りがアメリカにも飛び火して、20人もの女性たちが「住民をかどわかす魔女である」という罪で絞首刑にされ、200人以上の人々が牢獄に徒刑されるという事件が起こった町として知られています。住民たちから「怪しい」と思われてしまった人たちが、次々に無実の罪で裁判にかけられて、果ては死刑の宣告を請け処刑というわけですから、ほんとうに恐ろしい話です。現在のセーラムはいわばその事件を一つの「町おこし」の柱にしているわけで、「どうなの?」という側面がないこともないでしょうが、そうした負の遺産を多くの人々へ歴史的に伝えていくという意味では、私はとても大切なことだと思います。

 裕河さんもソウルにいるときからセーラムには行きたいと考えていたらしく、私が提案したら、すぐに賛成してくれました。

 コミューター・トレイルを降りると、「ここで、まさかそんな陰惨な事件が?」と目を疑いたくなるような、のんびりとして風光明媚で瀟洒な風景が広がっています。しかし、「魔女の地下牢博物館」に入って、裁判の様子を再現したお芝居を観たあたりから、だんだん『条件が揃えばどこでも起こりえた話なんだな』という気持ちになってきました。実際、平和で豊かな暮らしをしていれば、それを脅かそうとするものの影におびえ、それを集団の力で排除しようとする動きが起こるのは、今日までの人類の歴史がさまざまに証明しています。思えば、ここの地下牢めぐりあたりから、この後起こる悲劇の下地は出来ていたんですね。

 魔女博物館の呼び物、薄暗いドームの中で、照らし出される蝋人形を見ながら魔女裁判のナレーションを聞くというのに参加したのですが、ドームに入って5分経っても、いっこうに始まる気配がありません。他の観客たちはのんびり待っていましたが、私はだんだんと息苦しくなってきて、『まずいな』と感じ始めました(実は私、もともとが閉所恐怖症気味だったのですが、ここ2年ばかり、仕事などのストレスも手伝ってか、閉ざされた状態に置かれると呼吸困難や吐き気が襲ってきます。たとえば地下鉄に乗っていて、長い時間(といってもほんの数分の単位ですが)説明のアナウンスもなく止まっているときとか、地下にある居酒屋さんで騒音かつ空気が悪いときとか。そういうわけで、本当のところは、昔は乗るのが好きでしょうがなかった飛行機も、今やだんだん得意ではなくなりつつあるのですが、これはもう、命懸けの冒険だと胆をくくって一回一回乗っています)。しびれを切らした観客の一人がかけあいに行ってくれて、ようやく暗闇にナレーションが流れ出したころには、吸う息と吐く息のバランスがおかしくなっていました。いくら深呼吸しても駄目なので、「ごめん、ちょっと出るね」と言い残して、部屋を出たのですが、いつものことながら吐き気も催してきたので、受付でレスト・ルームを教えてもらってそこでへたり込んでいました。

 しばらく経つとドアの外から裕河さんが、
「だいじょうぶ?」
と声をかけてくれました。
「うん、何とか」
と答えると、
「部屋の中、始まったら真っ暗じゃなくなったし、また辛くなったら出たらいいから、一緒に観ようよ」
とのこと。まだ、嫌な冷や汗が額から伝っていたので、内心、『えー』と思いましたが、私がこうしている間は裕河さんも観られないわけで、ともかくもう一度、頑張ってみようと思って、レスト・ルームから出ました。

 ドームに戻る道すがら、『こういうの、小学校のときもあったよな』と思いました。ただ、私は体がいたって頑丈な上に絶対に人前では泣かない女の子だったので、友達が遠足のバスで具合が悪くなったり、何かのことで人に泣かされたりしたときに、今日の裕河さんの役割をしていたことばかりが次々と甦って、あのとき私に声をかけて励まされた友達はこんな気持ちだったのかと、しみじみ分かりました。

 最初に魔女にされて処刑されたのは、黒人の、それも耳の遠い女性で、裁判でも十分に申し開きができなかったというのを知って、二人で考え込んでしまいました。

 上演はかれこれ30分以上も続いて、蝋人形はかなりグロテスクでしたが、ナレーションの内容はしっかりと史実に基づいたよく理解できるものでした(こう書くと、かなり英語ができるみたいですが、種明かしをすれば、ここでは受付で日本語のイヤホンマイクを貸してくれるサービスがあります)。

 その後、ホーソンの小説の舞台になった七破風の家(ミステリアスな仕掛けがいっぱいある家なんです)まで歩きました。今度は裕河さんがくたびれ果ててしまい、飲み物やアイスクリームを食べないと進めないと言い出したのですが、日帰りの旅程からするとカフェに入ってゆっくりと休む時間はありません。私はともかく彼女は絶対にソウルではしないだろうと思う、歩きながら飲んだり食べたりしながら、足を引きずってなんとか進んで行きました。しかし、絶好のシャッター・チャンスに裕河さんのデジタル・カメラが動かなくなったり(なにせ、電池を入れるところのフタが壊れているのに、セロハン・テープをむりやり貼って使っているんですから、怪しいものです)、私が道を間違えてぜんぜん違う家を「七破風の家だ」と思い込んで近づき、「入り口が分からないのも仕掛けか」と周りをぐるぐる廻ったり、頓馬なことが続きます。おまけに、歩きながらの話題ときたら、裕河さんのソウルの自宅に泥棒が入って貴重品をごっそりと盗まれた話とか、私は留守宅の飼い猫が病気になって死にかけ、半月も入院させるなど大騒動になったことなど、不景気な話題オンパレードで、とうとう途中から二人で笑い出す始末でした。

 ジェンダー・フリーとかナショナリズム批判とかそれなりにお互い頑張ってやっているつもりでも、どうやらこの現代の魔女二人は、箒で空を飛んだり、誰かを呪い殺すどころか、自分たちの体がいいかげんよれよれで、カンも鈍り、ツキにも見放されているようです。

 それでもようやくなんとか本物の七破風の家にたどり着き、午後6時30分からはじまる、この日最後のツアーには間に合いました。一通りのツアーを終えた後、二人で花畑のある庭のベンチに腰掛けて、夕日に輝く眼前の大西洋を眺めているうちに、いわゆるマラソンをしている人がハイになるような、脳内モルヒネが出る感じで、別段何のプラス材料も見通しもないのですが、私は『これからもまた魔女らしくやって行こう!』という気持ちになってきました。そのとき、横にいた裕河さんが何を考えていたかは分かりません。私が「閉園みたいだからそろそろ行こうよ」と声をかけるまで、黙って海の遠くの方を見ているようでした。


 やっぱり晩御飯は家で食べた方が落ち着くという話になり、セーラムから電車を乗り継いでケンブリッジのアパートに戻ってきたときには、もう夜の10時近くになっていました。食材はそれなりに冷蔵庫に入っていたので、荷物を置いたとたんに座らず、ボストンの地ビール『サミュエル・アダムス』を開け、それぞれビンからラッパ飲みしながら(行儀が悪いようですが、ダビンダーさんのお宅でのパーティで試して以後、これぞアメリカン・ウェイという気がして気に入っています。とくにビールの泡が好きという人にはお勧めできませんが、いったんグラスに移さない分、炭酸にパンチがあると思います)、料理にとりかかりました。裕河さんは冷蔵庫からキムチを出しながら、
「あれえ、このキムチの名前、面白い。『幸福を呼ぶキムチ』だってさ」
といって、私に壜のレッテルのハングル文字を見せました。そのキムチはボストンに来た翌日に、隣のセントラル駅まで歩いたとき偶然見つけた韓国食材店で入手して、とても美味しかったので切らさず補充していたものだったので、ハングルが読めないので知らぬこととはいえ、なんだか幸せな気持ちになってきました。これも疲れすぎて、脳内モルヒネが出ていたせいかもしれません。

 翌日は日曜で、私はコープリー駅にあるオールド・サウス教会で催される「PEACE SUNDAY-広島・長崎被爆60周年記念追悼会」に、裕河さんはボストン美術館に、それぞれ出かけました。最初は「PEACE SUNDAY」のミサに一緒に出席する予定だったのですが、彼女がしごとの都合でボストン滞在を当初の予定から二日ばかり短縮しなければなかなかったので、それなら別行動でそれぞれが観たものを伝え合って経験を二倍にしようということになったわけです。


 日本にいるときは、毎年、広島・長崎の原爆投下の時刻に、テレビの時報に合わせて黙祷してきたのですが、今年はアメリカの人たちの中で祈りたいと思い、これもたまたま目にした情報に惹かれて、オールド・サウス教会に足を運ぶことにしました。

 午前11時から始まるミサに向けて、たくさんの人が詰め掛けていました。入り口で折鶴のはいった竹籠を差し出され、私はそこから黄緑色の鶴を一羽、選びました。見上げると、十字架からも二階の手すりからも折鶴のオーナメントが吊るされ、追悼集会のパンフレットには、サダコの千羽鶴の話が折込みのチラシで入っていました。日本だと、原爆の後遺症で亡くなった少女・禎子さんと回復を祈って彼女が入院中に折鶴を作っていた逸話や、彼女の死後に級友たちが全国に募金の輪を広げて、広島の原爆記念公園に折鶴を高く掲げた「原爆の子」の像が建立されたことはよく知られています。しかし、ここボストンで折鶴を手渡されて「?」という表情をしている参加者がけっこういたところを見ると、今日の追悼集会がきっかけでORIGAMIのPAPER CRANEとATMIC BOMBとが繋がる人もずいぶんいそうな様子でした。

 ミサが始まってすぐ、周囲の参会者たちと握手をしながら挨拶を交わす場面がありました。私の左隣には、お孫さん(15歳くらい)を連れた日系のかなりのご年配の女性、右隣はドイツ系の私よりも少し上くらいの女性、前にはイタリア系の私よりも若い夫婦とその子どもたち、後ろは北欧系のご年配のご夫婦でした。お隣の日系の女性から、
“Good morning!” と声をかけられて、乾いたひんやりとした手が差し出されました。思わずこちらも鸚鵡返しをしたのですが、ご年齢やほんの少し感じたアクセントから考えると、
「おはようございます」
とお返事しても良かったのかなと思いました(こちらにいるよくそういうことがあります。『たぶん、この人、日本語、話せそうだよな』と思いつつも、英語で探り探り話していると、だいたいはだんだん私の英語が下手なのがばれてくるので、
「日本の方ですか?」
とそのうち向こうから言ってくれたりするのですが、道を聞かれるような(私は、よっぽど暇人に見えるのか、日本でもアメリカでもやたらに人に道や時間を聞かれます)時は、そのまんまになることが多いですね)。

 右隣のドイツ系の女性の掌は、ケイト・コルビッツの絵に描かれたおかみさんみたいながっしりとした重量感がありました。前のイタリア系の家族の子どもさん二人は、はにかみながらまだ骨の細い手をかわるがわる出してくれました。後ろの北欧系のご夫婦は、奥さんが暖かい指の長い手で、だんなさんはともかく大きな手でした。私はキリスト教徒ではないので、ミサに出た回数は数えるほどなのですが、こうした挨拶は初めてで、いつまでも記憶に残ると思います。

 進行につれて「あれっ?」と思ったのは、女性の聖職者の人たちが次々に祈りのことばやヒロシマ・ナガサキ、そしていまも戦火の下で苦しむ人々を鎮魂するスピーチをしたことです。この日の追悼集会を開かれたものにするためだと思いますが、仏教の日蓮宗のお坊さんもお経を上げたのですが、そのお坊さんも、白人女性でした。

 アメリカというお国柄もあって、こうした追悼集会で女性の聖職者を全面に押し出す配慮がなされていたのでしょうが、日本の追悼集会では「遺族代表」などの場面で女性がスピーチすることはあっても、加害の責任をも含め、そうした一切を背負って追悼のことばを述べるという場面に遭ったことがありません。新鮮な体験だったと同時に、ここからまた考えられることがたくさんあると思いました。

 イスラム教の聖職者、アジア、アフリカの各地、オーストラリア、もちろん日本からも、追悼と祈りのことばを述べるために、おおぜいの人々が壇上に昇り、壇の下にもいろいろな文化背景をもった人たちがそれに呼応する祈りのことばを口にし、賛美歌を歌いました。

 ミサに聖歌隊はつきものですが、今回は特別に、声楽家たちも参加して、日本の唱歌や童謡を、たくさん歌いました。「荒城の月」にはじまって、「さくら」、「彼岸花」、「この道」、「からたちの花が咲いたよ」、「赤とんぼ」、「出船」など。私の隣で、日系のご婦人が、静かに小さな声で唱和されていました。

 どういう意図でこれらの曲が選ばれたのかは知る由もありませんが、「この道」、「からたちの花が咲いたよ」、「赤とんぼ」といった曲は、こうした状況で聴くせいもあってか、長調の曲なのに、何か取り返しのつかないものを失ってしまった後の喪失感のようなものに彩られていて、「荒城の月」よりも辛かったですね。ことに「この道」は、これからまた日本が戦争をするような国になって、「ああ、そうだよ、この道はいつか来た道」などと気付くようでは話になりません。どうやったらそうならずに済むか――そのことは、大声で怒鳴りあうように話すことではなく、戦争の中で生き、そして死んでいった人たちのことを一人でも多く思い浮かべて、戦争が奪ったものや死にたくなかったその気持ちを、生きている一人一人が自分の中で卵を温めるように抱いて育てていくことだと、私は考えています。

 歌を聴きながら、私はいろんなことを思い出していました。ここには書ききれないほどです。その中の一つは、小学校3年生ごろのこと、父の実家(四国の松山)で、父が子どものころ描いた絵を見たときのことでした。片付け物をしていたおばあちゃんが私を呼んで、
「お前のお父ちゃんが子どもの時分に描いた絵が出てきたけん、見るけ」
と言って、古ぼけた茶箱を出してくれたので、興味津々、『お父ちゃんは、絵、上手いかな、下手かな』とフタを開けました。そこには、粗悪な画用紙にクレパスみたいなもので、何年かにわたって描かれた絵が30枚くらいありました。驚いたことに、めくってもめくっても、戦艦か飛行機か戦車か大砲の絵ばかり。マッチ棒みたいな兵隊さんは描いてあるけれど、ちゃんと顔のある人物は一枚もなし。色使いも黒、灰色、深緑、青、茶色といった寒色ばかりです。火を噴いている、その火も、赤くはなかった(たぶん、爆発の火が赤いというのは、カラーの映画やテレビ番組で育った子どもたちの認識なんでしょうね)。動物の絵も、花の絵も、風景画も、小学生なら誰でも一度は描いたことのある未来都市もまったくありませんでした。最後の一枚まで全部戦争の画だった、あのときの衝撃はいまだに忘れられません。

 1933年生まれの父には、海軍の少年兵に志願した兄さんがいて、物心ついたときから、ただもう兄さんのように自分も戦争に行くことしか考えていなかったそうですが、あの絵を見たら、子どものころの父の頭と心のなかがどうなっていたか本当によく分かりました。

 よほど絵を描くのが好きで趣味にでもしない限り、ほとんどの人は大人になったらもう絵筆をとることはないので、子どものころに花や鳥や人間を含めた動物、そして想像世界のものを描く体験は、とても貴重なものです。私の父の世代の子どもたちは、花びらの一枚に瞳を凝らしたり、友だちの顔をスケッチするような(あるいは、それをズルけて、騒ぎまわるような)ことを奪われていたんだなと、改めて感じます。

 その父が憧れていた少年兵の伯父は、戦艦が中国の港に停泊しているとき、大人の兵隊たちはお酒を飲むけれど、自分たちはまだ子どもで甘いものに目がないから、よく中国人の経営する駄菓子屋に行ったという話をしてくれました。仲間と大きなガラス瓶に入ったお菓子を片っ端からつまみ食いしていると、店主がにこにこして『お支払いをよろしく』みたいな顔をするので、何か向かっ腹が立って、今度は店主が止めてくれと拝み倒すそのガラス瓶をがしゃんがしゃん壊すんだ、それが何だか面白くなってくるというのです。子どもは大人の鏡というけれど、大人たちは子どもらにどんな背中を見せていたのか、想像にあまりあるものがあります。

  私は9歳のとき、父の転勤で、生まれ育った大阪から長崎に引っ越すのですが、一時期、原子爆弾をめぐる話や写真が受け入れられず、避けていたことがありました。終戦の季節、NHKのドキュメンタリ番組がよく原爆を特集しますが、中学生になってすぐの夏、番組がはじまりかけたときに耐え切れずに、黙って別の部屋に行って本を読んでいたら、父が凄まじい形相でやってきて、
「ほんまにあったことや。見んですむことやない」
とテレビの部屋に引きずっていかれたことも思い出しました。

 日本で過ごした原爆投下の犠牲者追悼の日には思い出さなかったことを、誰一人知人のいないボストンの追悼集会で思い出して、誰かに伝えておきたくなって、これを書いています。戦争の記憶が遠くなればなるほど、それを伝えていくためにはきっかけが必要なんだなというのが、私の実感です。

 いたずらに危機意識を煽ったり、説教口調に陥らずに、「ほんまにあったこと」をどうやって手渡していくか。日本に帰ったら考えること・することがたくさんありそうです。

 裕河さんとの二泊三日の最後に出かけたのは、ハーバード大学のサイエンス学部の管轄になる、自然博物館でした。三階にガラスで作った植物の学術標本を何百点も収蔵した、グラス・ギャラリーがあって、それを見ようということになったわけです。学問のために造型されたガラスの花たちは、100年の歳月をもろともせず、ひっそりとしかし凛と咲き誇っていました。根っこや球根、果実の断面図なども精巧に作ってあって、ボヘミアン・グラスの職人親子の技に瞠目しました。

 細かい仕事を集中して見ていたら、二人ともまたへとへとになって、一階にある恐竜の模型の前のベンチで、ちょっとの間、ぼーっとしていました。すると裕河さんが、
「『ジュラシック・パーク』みたいな状況になったら、私、恐竜にもちゃんと話せば分かり合えるとか考えてて、映画の最初の方で、いきなり踏み殺されそう」 と言うので、私は、
「そんなのつまんないよ。私は最後の方まで逃げるよー」
「金井さん、生き残りそうだよね」
「でも、結局、エンディングの10分前くらいに、食いちぎられて死にそう。踏まれるより痛い。ああ、いやだ、恐怖の時間が長いだけってことか」
「あはは」


 これは歳のせいではなく、どうやら私たちのキャラクターのせいで、とかくユーモアがブラックになりがちではありましたが、2005年夏にボストンで開催された「日韓親友へとへと交歓会」はなんとか無事終了したのでした。

第十信 West 139th street ――ニューヨークでの生活、スタート!

 日本もそろそろ涼しくなってきましたか?

 ニューヨークは私がやってきた8月31日は灼熱でかげろうが立つくらい暑かったけれど、ここのところ朝夕、ぐんと過ごしやすくなってきました。

 早いもので、ボストンからニューヨークに引っ越してきて、10日が過ぎました。移動はもちろん、飛行機ではなくて大好きなアムトラックに乗って!

 シアトルのときに荷物を増やしすぎた反省から、今回は修行僧のようにこの身一つで・・・と言いたいところですが、特大のバゲッジ一つにすべてのものを詰め込んでの移動でした。手荷物を預かってカートで運んでくれる駅員さんが、
「いったい、何がはいってるんだい。こんな重いの、もったことないよ。レンガかい?」
と言ってきたので、せっかくこれからニューヨークに行くんだし、ここは一つ、ジョークにはラップ調で韻を踏んでお返しと思い、
“Not brick, but book!(レンガじゃなくて本ざます!)”
と言ったら、駅員さんがウケてくれて、とっても嬉しかったです。私の英語ときたら、肝心なときにはモゴモゴになるくせに、こういうどうでもいいときにはスラリと出るから不思議です。

 ボストンのサウス・ステーションを出発するときには、胸がじーんとしました。古いレンガの建物と高層ビルとが混在する町並みを車窓から眺めつつ、たった二ヶ月だったけれど、ガイド・ブック片手に一人でよく歩き回り、私の人生でめずらしく、じっくりと勉強したり、一つのことを深く掘り下げて考えたりしたこの夏を思い返していました。しかし何よりも、健康で生活を楽しめたのは、シアトルのときに新しく出会った仲間たちがいろいろ支えてくれてアメリカ暮らしのノウハウを教示してくれたおかげだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 いま、私が暮らしているのは、ニューヨークのWest 139th street――西139丁目、ハーレムの真ん中です。トモちゃんはまだ、地名とイメージとが一緒になって思い浮かばないだろうから、
「あ、そう」
で終わっちゃうでしょうが、アメリカでも日本でもほとんどの大人たちからは、
「えーっ!」
とびっくりされる場所です。

 ちなみに、手元にある『地球の歩き方 ニューヨーク』では「ハーレム観光の基本的な注意」という項目に、

① 単独行動は控える。街歩きは2~3人が最適。
② 明るい時間帯に歩く。人通りの少ない通りには入らない。

とあります。私も以前にニューヨークに来たときには、バスでクロイスターズ美術館に行く道すがら眺めただけで、その数年後に自分がここに住むことになるとは夢にも思いませんでした。ほんと、人生って面白いものです。

 アフリカン・アメリカンたちが圧倒的に多くコミュニティを形成して暮らすこの街は、日本では吉田ルイ子さんの『ハーレムの熱い日々』というフォト・エッセイ集で紹介されて、一般の人々にも知られるようになりました。ジャズやソウル・ミュージック、タップ・ダンス、ヒップホップといった世界中で愛されている音楽やダンスのメッカとして、たくさんのエンターティナーを輩出し、また人種差別の撤廃を求める公民権運動の拠点として、輝かしい歴史を持つ街ですが、もう一方では、貧困による犯罪の多発地帯としても世界に知られている場所です。

 このハーレムに二十年間住み続けて、音楽プロデューサーとして活躍されているトミー富田さんという方がいらっしゃるんですが、私は今回、そのトミーさんのお宅に、ご縁があってわらじを脱ぐことになったのです。

 トミーさんは本名・富田敏明さん。浅草生まれの江戸っ子で、47歳になるまでは六本木でジャズ・バーを経営されていたのですが、日本のジャズにあきたりないものを感じて一念発起、単身でこのハーレムに移り住み、地元に密着して今日まで活動しておられます。ハーレムにいる若い隠れた人材を発掘して育てデビューさせたり、ここで活躍するアーチストたちの公演を日本で開催したり(そういえば、トモちゃんのお母さんは横浜出身だから、この7月に横浜のあちこちに貼られていた「ヨコハマ・ハーレム・ナイト」のポスターをきっと目にしただろうと思いますが、あのプロデュースはトミーさんです)、日本からの観光客をハーレムのアポロ劇場やショーマンズなどに案内するしごとをされています。トミーさんの案内でハーレムを訪れた日本人観光客は五万人以上にものぼるとのこと。ハーレムには出身者で成功した人たちの寄付によって、たくさんの老人ホームが建てられているのですが、彼はそうしたホームのお年寄りを食事やライブ・ショーに招待したり、ダンサーやミュージシャンとともに慰問をするボランティア活動を長年欠かさず続けて、日本人で初めて、マーチン・ルーサー・キング賞を受賞した人でもあります。

 実は私にトミーさんの存在を教えてくれたのは、日本人観光客の五万分の一である――つまり、トミーさんのハーレム・ツアーに参加したことのある、友人の藤森清さんでした。藤森さんとは日本文学の研究者仲間として長い付き合いですが、穏やかでシャイで決して大げさな物言いをすることのない彼が、私がニューヨークで暮らすという話をしたとたんに、「ともかく行ったらトミー富田という人に会ってみろ」って断言したんです。「きっと、金井さん、学ぶことがあるよ」って。

 そのときは、『トミー富田か、繰り返しで覚えやすい名前だな』と思ったのですが、これまた偶然に日本を離れる一月くらい前に、行こうとしていたしごとがキャンセルになって『じゃ、アイロンがけ、やっちゃおう』とアイロン台を前にお昼にやっていたNHKのBSを観たら、「遠くにありてニッポン人」というドキュメンタリ番組(再放送)に、トミーさんが出演されていて、『あ! この人が藤森さんの話してくれた富田さんか!』とびっくり。

 それでもまさか、そのトミーさんのところにお世話になるとは当初、考えてもいませんでした。

 シアトルにいるころ、ニューヨークに行ったらどこに住もうかとインターネットでさんざんアパート探しをしていたんです(ちなみにボストンのアパートもネットで探しました)。こう書くと、日本の周到なみなさんからは、
『日本を発つ前に住むところを決めておかなくて大丈夫?』
という声が聞こえてきそうですが、今回の私のように、2ヶ月とか4ヶ月といったコマ切れの期間を半年も前もって予約できるところというのはないんですね。ウィークリー・マンションやマンスリー・マンション(脱線しますが、こちらでmansionというと、ビバリーヒルズなんかにある門から玄関までかなり庭を歩くような豪邸のことで、日本のマンションにあたるのはすべてapartmentです)も値段と立地条件、部屋の広さを勘案するとなかなかいいものはありません。こちらは、日本とは違って、住んでいる人がどこかへ長期に出張したり研究に出かけたりして留守をすると、「サブレット」といって賃貸物件をまた貸しするのが当たり前で、そういう物件がたくさん出ます。シアトルで探し始めたときには、サブレットでもかまわないと考えていたのですが、幸いボストンでもニューヨークでも、自身の名義で借りるアパートが見つかりました。やはり古い建物だと水漏れなどのトラブルが絶えないのですが(これも日本と違って、築50年以上のレンガや石材の建造物がけっこうあり、むしろ保存が良い古い建物は安普請の新築よりも高値がつきます)、サブレットだと家主が二重になっているので、トラブル・シュートがちょっと面倒くさいと思います。

 事前にニューヨーク在住の知人に聞いたところでは、「どうしてもマンハッタンに住みたい!」という私の希望を叶えるためには、ホテル代に匹敵するくらいの家賃を払う覚悟が必要な上に、必死で探している人がごまんといるからネットに出るとすぐさま借主が決まる状況で、ましてや4ヶ月だけ貸してくれるというところが運良く見つかれば・・・ということだったので、そこまで財力のない私としてはともかく根気よくネットで情報を見て比較検討するほかないと思いました。そして、辿りついたのがなんと、このTommy’s Houseだったというわけです。

 最初はトミーさんのお家だということは分からず、物件に興味があるので詳しい情報や写真を送ってほしいというやりとりを重ね、『ここならば、オフィスの人の対応もきちんとしていて大丈夫』と契約を交わす段階になってTommy’s Houseだと分かったときには、パソコンの前で、嬉しくて飛び上がってしまいました。デポジット(契約のための前金)を送金した翌日に、コロンビア大学の鈴木登美先生(考えたら、こちらもトミーさんです!)から、とても好条件のサブレットのお話をいただいたので、一日ずれていたら・・・と考えるにつけても、奇遇としか言いようがありません。

 ニューヨークのペン・ステーションに着いて、イエロー・キャブに乗ろうとしたら、住所を告げたとたんに一台目の車に乗車拒否されたのが、私のニューヨーク第一歩でした。気を取り直して二台目の車に乗り込み、行き先を告げると、今度は、運転手さんが、
「へぇー、良いところだね」
と言って走り出しました。
「おれもハーレムに住んでるんだよ。あんたの行くこのへんはハーレムじゃ高級住宅街だよ。」
「そう? さっき『ハーレムにはちょっと・・・』って乗車拒否されたけど? 日本じゃ乗車拒否は法律上いけないことになってるんだけどなあ」
「そりゃ、ここでも違法さ。でも、ハーレムまで行ったら帰りの客が拾えないからね。いろいろあるさ、ハハハ!」
あんまり運転手さんの笑顔が明るかったので、なんだか私も「気にしない、気にしない」という気分になってきて、車窓に広がるセントラル・パークの緑を眺めていたら、20分もしないうちに西139丁目のTommy’s Houseに到着しました。以前バスから眺めた同じ道を通ったはずなのに、「住む」つもりで眺めると違って見えるものですね。125丁目の繁華街を抜けると、いよいよセントラル・ハーレムの奥座敷へ入っていくわけですが、135丁目以北は観光客はだれもいない、地元の人たちばかりです。おじいさんやおばあさんたちが舗道にベンチや椅子を出して腰掛けておしゃべりし合い、子どもたちがあちこちで遊んでいます。まったく拍子抜けするくらい静かで、ゆったりと時間が流れている感じです。

 Tommy’s Houseのある139丁目と隣の138丁目あたりは築100年以上の建物が並ぶ歴史的な通りで、その外観の美しさから、「白人の高級なアパート住まい」という設定で映画やテレビ・ドラマの撮影に良く使われるとのこと。まあ、元はといえば、白人のお金持ちが住んでいた建物だったから、不思議はないわけですが。

 築114年のTommy’s Houseは、4階建てで、私の部屋はその2階です。同じフロアに専用のトイレと共用のキッチンとがあります。私の部屋の天井は3メートルくらいあり、シャンデリアを吊るした跡や大きな暖炉の跡があって、この建物の豪華だった昔を物語っています。階段の踊り場の柱や梁にはギリシャの神殿みたいな凝った彫刻が施されていて、Tシャツでうろちょろするのが場違いのような感じがします。

 私は寺で育ったせいか、天井の高い、古い建物の中にいると芯から落ち着いてくつろげる(これもアメリカに来て再発見したことの一つです)ので、読書や原稿書きに集中できて申し分ありません。部屋の冷蔵庫が小さいのが玉に瑕だけれど、シアトルやボストンのときは大きな冷蔵庫だったためにやたら食材を買い込んで料理に精を出し、『なんで一人暮らしなのにこんなことやってるんだろう?』という状態に陥って、おまけに巨大なアイスクリーム・バルクを買い込んで夜中にぺろーりなんてこともしていたんですが、ここのtinyな冷蔵庫では買い置きは無理なので、今度こそほんとうにスリムになれるかもしれません。

 3階と4階とに短期の滞在者が5~6人いますが、2階には私の部屋しかないので、とっても気楽です。3階、4階のお客さんは、ボイス・トレーニングに来ているプロの歌手や歌手の卵さん、ダンサーで特訓を受けに来ている人、絵描きさんやメイク・アップ・アーチストなど、芸能・芸術をしごとにする人たちが多いです。そりゃ、音楽プロデューサーの家なんだから当たり前ですよね。

 おとといから4階に入ったトモコさんは、芸能プロダクションの社長さんと事務所の人に連れられてやってきた歌手で、SONYと契約してCDもすでに一枚リリースしているとのこと。一緒にゴスペルのレッスン(あ、そうそう、これも成り行きで、ゴスペルの勉強を始めました、そのことは次回、詳しく書きますね!)をした時に、
「今回は短期なんですけど、上手く行けば10月からしばらくこっちでボイス・トレーニングできるかもしれないんですよ、そしたらヨロシクお願いします!」
と挨拶されました。自分の将来に夢を見ている若い人の、素敵な気がいっぱい出ていて、そういう若い人好きの私としては、会ったばかりだけれども大いに応援したい気分でいっぱいです。3階のダンサーのトシくんも、廊下で会って挨拶したら、どこかの中学校のジャージみたいなのを着て(私が知らないだけで、ヒップ・ホップ界ではすんごいクールなブランド物かもしれませんが)、眼がきらきらしていました。

 家探しのときにきびきびとしたメールをくれたオフィスのキミコさんは、音楽プロデューサーを目指してトミーさんの下で修業をしながら、各種ツアーのお手伝いや宿泊客のきりもりをしています。いつ寝てるんだろうと思うほど忙しく働いているのに、いつ会っても満面の笑顔で気さくに対応してくれて、ともかくお洒落!

 ゴスペルのツアーのときは行き先が教会だからかなりフォーマル、ヒップ・ホップのツアーには思い切り弾けて、夜のジャズ・ツアーではぐっと色っぽいドレスで、しかしいつも笑顔で「しごときっちり」。ここにも、がしがし働いて、もりもり遊んで、要所要所で社会活動もするという女性がいました。

 さて、肝心のオーナー、トミーさんについては、また稿を改めて書くことにしますが、吉田ルイ子さんの命名どおりの「ハーレム系浅草人」。トミーさんの後をくっついてハーレムを歩いていると、あっちこっちで「マブダチ」や「世話をした子」に出会って、面白いことがいっぱい起こります。着いて三日目には地下鉄で彼が面倒を見たエレクトーンのミュージシャンと出会ったのですが、なんとそのミュージシャンはサービスに車内で演奏をしてくれました!一緒の車両に乗り合わせたお客さんたちは大喜びで、演奏が終わったら大きな拍手が沸きました。ジャズの名曲「A列車で行こう!」のまさにAライン(ハーレム行きの急行列車)で、生演奏を聴いたことは忘れられない思い出になると思います。「125丁目駅」に着く直前に、トミーさんが実にスマートにそっと演奏のお礼を渡しているのも、これからフィッシュ・ラダーを遡って「いい大人」になる修業中の私は、見逃しませんでした。

 トミーさんはハーレムを、「子どものころの浅草にそっくり」と言いますが、私にとっては「子どものころの大阪にそっくり」。何か怪しい感じのオッサンや口うるさそうなオバハン、血気さかんなじゃらじゃらした若い衆、お色気の化身のようなオネエチャン、そして半分冥界に足をつっこんでいそうで愛嬌たっぷりのお年寄りがひしめいている感じです。昨日の土曜日は、「町内みんなでバーベキューをたべる夕べ」というのがそこいらじゅうの通りで開催されていて、車がぶんぶん走っている舗道にグリルを出して、もうもう煙が上がっていました。やたらにたくさんいる幼児や小学生が嬉しくなっておおはしゃぎしている――あの中の子どもの一人が私だったなあと思います。ただ昭和30年代の大阪と一つ、違うところは、ハーレムには今でもアフリカや南米から、どんどん新しい人たちが流れ込んでいる点でしょうか。

 地元のコミュニティ意識が強くて、一旗挙げようとしているミュージシャン志望の若い人たちがうようよいて道に座り込んで喋ったりしているところは、東京で私が暮らしている高円寺にも匂いが似ています。そういえば高円寺には東南アジアや中東から働きにきている人がたくさん住んでいたなあと思い出したりしました。

 買い物をしたり食堂に入ったりすると『見られてるな』と視線を感じることがありますが、ほんとうに東洋人はめったに見かけません。繁華街の125丁目には観光で来ている人たち(やはり、『地球の歩き方 ニューヨーク』どおり、2~3人連れでけっこう緊張した面持ち)を何組か見ましたが、125丁目以北では、この10日間あまりで女性が何人か、男性は一人だけ。ものすごいスピードで、自転車に乗って走って行きました。

 人間って面白いもので、「住めば都」ということわざがあるように、暮らして慣れてくると、そこに戻るとほっとするんですね。ミュージカルを見るために42丁目のブロードウェイに出かけたとき、あまりにも人と車が多くて、肩がぶつかるような距離で、けっこう表情が険しい人なんかとすれ違ううちに、知らずに身が硬くなっていました。

 そんなときに宣伝のパンフレットを渡している人がいて、目が合ったとたんに、『はい、あなたこそ、これにぴったりです!』みたいな感じで三折の紙を手渡されたので、ブランド品のバーゲンか宗教の勧誘かなと思い、マンハッタンには100軒あるという「スターバックス」に入ってラテを飲みながら、よく見てみたら、「極真空手」の全米オープン大会のお誘いでした。極真空手の始祖・大山倍達の若いころの写真をしみじみ眺めながら(口元がきりっと締まった精悍な、昔の男の人の顔で、力道山と並ぶ私好みの東洋人の顔です!)、『なんで、カラテなんだろー』と苦笑してしまいました。ミッド・タウンですりが寄ってきたら跳ね飛ばすような、殺気を放っていたせいでしょうか。

 ミュージカルが終わって、ハーレムに戻ってきたら、ほっとしたのは言うまでもありません。

 何か特別なイベントに参加する以外は、ほぼ毎日、コロンビア大学に出かけるのですが、歩いて25分くらいで行けるので、バスを使わず歩くことにしています。朝と夕方はとくにご近所のお年寄りが道によく出ています。こっちから挨拶すると、とびっきりの笑顔と挨拶が返ってきて、
“Have a good day!”
なんて言われると、なんとなく今日本当に良いことが起こりそうな、嬉しい気持ちになるもんですね。

 トモちゃんは、これから、いったいどこで何人の人と挨拶することになるんでしょうか。あなたのお母さんはそういうことにびしっと厳しいから、誰にでも自分から笑顔で挨拶できる人になると信じています。

 そして私は、挨拶と笑顔から開ける新しい関係がたくさんあることを、いまここで実感しています。

第十一信 Gospel――神様は大騒ぎがお好き

 トモちゃんは、もうどれくらいことばが話せるようになりましたか?

 ことばと同じくらい、音楽も聴いて、早く歌も歌えるようになると良いですね。いつか、一緒に歌を歌いたいから。歌って不思議ですよ。辛いときや悲しいときに、無理をしてでも歌を歌ってみると、けっこう気持ちが晴れたりするものです(むろん、一時的ではありますが)。ましてや楽しいときに、みんなで大声を出して歌ったりしたら、たちまちパーティ気分です。そうそう、確か、トモちゃんのお父さんは、昔、合唱やってたって聞きました。でも、子守唄に耳元でベートーベンの第九を朗々と熱唱されたら、いくら上手くても眠れませんよね!

 さて今日は、私がニューヨークに来て一ヶ月の間、恋をしているといっても過言でないくらいのめりこんでいる、ゴスペルの話をしましょう。

 この前の手紙で、私が音楽プロデューサーのトミー富田さんのお宅に下宿していることは書きましたね。ニューヨークに到着して5日目の日曜日、トミーさんに連れられて、115丁目にあるメモリアル・バプテスト教会のミサに出席したんです。ここは300軒近くあるというハーレムの教会の中でも、指折りの、音楽性の高いゴスペルの聖歌隊(クワイヤ)がいるところとして知られています。ゴスペルといっても私はその時点まで、ウーピー・ゴールドバーグ主演の『天使にラブ・ソングを!』を観た程度の知識で、実際には、日本でも最近、クリスマスのシーズンになると聖歌隊風の合唱グループが、歳末商戦に一役買ってクリスマス・ソングを歌っている、そうしたのを聴いたことがあるという程度でした。

 そこで、せっかくハーレムに住んでいるんだから本場のゴスペルをぜひ聴いてみたいと思い、トミーさんにお願いして教会に行ったというわけなのですが、ライブで聴いて、正直、打ちのめされました。

 ミサの時間よりも20分以上前に、教会に入ったのですが、すでに祭壇の前には聖歌隊のソロ歌手が軽く、伸びやかに、楽しそうに、オルガンの伴奏に乗って歌を歌っていました。ウォーミング・アップとでもいうような時間でしたが、すでにミサに集まりかけてきた参加者たちも、気軽に口ずさんだり、合いの手を入れたりしています。正面の壁面に大きな十字架が架かっていなかったら、ライブ・ハウスにやってきたのかと錯覚するような和やかな感じです。でも、その肩慣らしならぬ喉慣らしの歌声からして、『これは、ただごとではないな』という声量とリズム感、そして何よりもウキウキするような楽しい雰囲気で、ぐいぐい会場の人たちを引き込んでいきます。

 そしていつの間にか、中央の祭壇の前に祭礼服を着た牧師さんが現れて(ゴスペルに気をとられていたせいか、ほんと、いつ登場したか記憶がないんです)、歌の歌詞のしりとりをする感じで、オルガンの音色と歌声と掛け合いをするようにお説教を始めていました。女性の牧師さんも男性の牧師さんも、歌ったり、語ったり、叫んだり、囁いたりとその発声は自由自在で、歌手の声とオルガン、そしてこれもいつの間にか入ってきたドラムのリズムと完全に一体化しています。てっきり、ミサの式次第の中に、ゴスペルを歌うコーナーが独立してあるものと思い込んでいた私は、この時点ですでにあっけに取られ、口をぽかんと開けて、成り行きを見守るばかりです。

 この日は、カタリーナという名前で猛威を振るったハリケーンが去った直後ということもあり、牧師さんからは、大きな被害の出た地域に暮らす南部の人々への祈りのことばが語られていました。セントラル・ハーレムに住むアフリカン・アメリカンは、南部から移住してきた人やその子孫が大多数なので、南部にはみな人一倍思い入れがあります。短いお説教が山場に差し掛かったとき、最後列の壁に立っていた数十人の白黒の正装をした人々が、中央の通路を通って祭壇の上へと上がっていきました。聖歌隊(クワイヤ)の入場です。歌舞伎ならば「待ってました!」といった感じの拍手が堂内から沸きあがって、老若男女まさに混声メンバーも歌う気満々で階段を駆け上がっていきます。定位置に着く前にすでに次の曲は始まっており、一瞬の渋滞も空白もなく、歌が泉のように次々と湧き上がってくる様子に、日本で合唱といえば、水を打ったような沈黙の中で息を詰めて、怖い指揮者のタクトにピリピリ操られて団員たちが歌うのを見てきた私としては、またびっくりです。

 クワイヤが大編成になると、ソプラノ・アルト・テナー・バスと四声になるので、ソロの歌い手一人のときとはゴスペルの厚みがまったく違ってくるのは言うまでもないことですが、クワイヤ全員が体をうねるように揺すり、天を仰ぐ人あれば足を踏み鳴らす人ありという、大騒ぎの状態でありながら、音楽的にはリズム・音階ともぴしゃっと決まっているというわけですから、これはもう脱帽するほかありません。

 曲の取り合わせも、アフリカの大地を思わせるような緩やかでどっしりしたものから、南部の綿畑で綿摘みをしているときに歌ったんだろうなあと思わせるような繰り返しの多い労働歌のようなもの、チームに分かれて歌声で掛け合いをするお笑いソングのようなもの、子守唄やバラードかとおもうようなものもありました。ゴスペルが、ジャズやブルース、ラップといったさまざまな黒人音楽の母体であると言われているわけがよく分かりました。

 何よりも驚いたのは、ミサに出席しているフロアの信者さんたちが、クワイヤと一体化して、唱和していたこと。心に響く歌詞があると感極まって立ち上がり、「ハレルヤ!」と神様を祝福することばを口にするのですが、祭壇の上も下も大騒ぎなので、「しっ、静かに!」とか「立ったら、後ろの人が見えないよ!」なんて野暮なことを言う人はいません。それどころか、後で聞いたところによると、なんでもバプテスト派の神様は人間がミサで大騒ぎをすると、ちゃんとごはんを食べて大騒ぎする元気があるんだなと思ってすごく喜ぶんだとか。私は子どものころから、嬉しくなると大騒ぎをしては親にこっぴどく叱られてばかりいましたが、雲の上では私のそんな様子を見て喜んでいる神様もいらっしゃったんだなと思うと、あれはあれで良かったのかなんて変に納得してしまいました。トモちゃんも、大声を出して騒いで親に怒られたら、しゅんとしないでこの話を思い出してくださいね!

 ちなみに大騒ぎといえば、別の週にやはり教会のミサでプレイズ・ダンスというのを見ました。神様を祝福する踊りなのですが、しっとりと踊る成人女性の部とは打って変わって、子どもからティーンエイジャーまでの少女の部のプレイズ・ダンスの大騒ぎ振りにも圧倒されましたね。手に旗を持って飛び回りながら踊るんですが、空中に浮いている瞬間が長いと感じさせるようなジャンプの動きに加えて、旗を振るダンサー一人一人の肩も腰も胸の中も回っている感じです。以前日本で、ヒップホップのレッスンを受けたことがあるのですが、そのときウォーミング・アップの動きとして、インストラクターが、肩・腰・胸の中を360度回してくださいっていうのがあったんです。肩と腰はなんとか出来るのですが、胸の中を回すというのがまずイメージできない。胸は前へ突き出すか後ろへ引っ込めるのが関の山で、回そうと思うと、肩が回っちゃうんです。今だにできないでいますが、プレイズ・ダンスをする女の子たちを見たら、なんと全員、きれいに胸の中が回ってました! 日本でもドキドキすることがあると「心臓が口から飛び出しそう」なんて言いますが、これはしょせん、心臓がいつもの低位置から上にせりあがって来るくらいのこと。胸の中が360度回るとなれば、心臓は3Dに動き回って、もうほんとにじっとなんかしていられないことでしょう。

 話が脱線したので、ふたたび、ゴスペルに戻します。

 私があまりにもミサのゴスペルに魅了されてしまった様子を、脇から見ていたキミコさんが、
「もしよかったら、ゴスペルのレッスン、受けてみません?」
と誘ってくれたのが、そもそもの始まりです。

 ゴスペルのレッスンをしてくださるのは、126丁目にあるニュー・ホープ・コミュニティー教会のテレンス・ケネディ牧師です。私よりもうんと若い、まさにニュー・ホープですが、ゴスペルの指導者としてたいへん注目されている人で、日本にも何度か出張の公開レッスンに来たことのある親日家でもあります。バスからソプラノまで、いったい何オクターブ出るんだろうという魔法の声帯の持ち主で、オルガンをばんばん弾きながら、各パートに熱い指示を次々に出しつつ、時にはサポートの必要なパートを歌う――そんな様子は、ケネディ牧師の中に何人か複数の人が入れ子になっているみたいです(・・・なんて観察をしているヒマがあったら、自分のパートに集中しなさいと叱られそうですが)。

 私にとってのお稽古初日、出先から遅刻気味に教会に飛び込んできたテレンスさんは、コニシキの弟のような大きな体を汗だらけにしながら、
「はー、暑い、カミサマ、お許しください、スピード違反いたしました!」
といって天を仰ぎました。愉快な人です。

 レッスンは毎週土曜日に2時間、びっしりあります。途中、一回だけ10分ばかりの休憩があるのですが、このときは水を飲んで椅子にへたりこんでいます。歌の歌詞について簡単な説明があるほかは、ほぼ歌いっぱなしだからです。全身を使って可能な限りの声を出し大騒ぎをして、しかししっかりとリズミカルにハモるというのは、実のところ、長距離走の要所要所に全力疾走と障害物競走が入ってくるような感じでしょうか。また、リズムやメロディに集中するあまり、スポーツ感覚に陥ると、すかさずテレンスさんから叱咤の声が飛びます。
「歌詞の意味をよく考えて!」
「各パート同士の声をちゃんと聞いて!」
「他のパートの声が聞こえてる?!」

 日本を発つときには、まさか半年後にこんなシゴキに合うとは夢にも思っていませんでしたが、これは確かに「声の劇場」そのもので、今回の海外遠征でこれまで培ってきた朗読パフォーマンス「声の劇場」の方法論を根本から見直したかった私としては、願ってもない展開です。ともかくも、これに食らいついていくよりほかはないと、修業に励んでいるわけなんです。

 それにしても、何でも経験しておくというのは無駄にならないなあと思ったのは、私は小唄という日本の伝統芸能の修業を10年以上やっていたんですが、西洋音楽の習得と違って、小唄ではメロディ・ラインの音階はすべて師匠の口伝で教わるんですね。だからその場でいきなり師匠が歌い出された歌詞とメロディをともかく繰り返して覚えるんです。学校の音楽教育みたいにまず譜面ありきというわけじゃない。空中に漂う声を、自分の声で追いかけるだけ。ゴスペルにも音楽の時間に渡されるような譜面はありません。もう、ともかくテレンスさんやクワイヤの先輩たちに必死でついていくだけです。でも、これがお勉強の音楽では味わえない面白さなんです。あんまり良い喩えかどうか分りませんが、小唄も、ゴスペルも、目の前に綺麗な音のチョウチョウが現れて、それを捕まえようとしているうちに自分もチョウチョウの一匹になっていた・・・みたいな感じでしょうか。

 レッスンを重ねる中で、ゴスペルの歴史についても教えてもらうようになりました。

 かつて教会は、奴隷として厳しい労働を強いられていたアフリカン・アメリカンの人々にとって、神に祈る場であるのは言うまでもありませんが、つかの間、雇い主たちの目を逃れて、お互いの苦しみや悲しみを分かち合い、絆を深める唯一の場所だったそうです。マーチン・ルーサー・キング牧師をはじめ、公民権運動の指導者の多くが、教会の聖職者だったこともそのことと関係しています。また、歌に暗号のようなメッセージをこめて、雇い主に知られないように連絡をとるなどの手段としても使われていました。

 レッスンの中で、いつもテレンス牧師がおっしゃることは、いま歌っている歌詞が、

1、神様に向かって歌っているのか
2、隣人に向かって歌っているのか
3、自分自身に向かって歌っているのか

そのことをきちんと自覚して歌おうということです。歌はメロディやリズムがありますから、音に乗せてしまえば、「誰に向かってなのか」なんて考えなくても歌えてしまうものなんですね。これは朗読も同じことですが。しかし、誰に向かってなのかということをきっちりと考えるということで、神様や隣人や自分自身がいったい何なのか考えないではいられなくなります。歌いながらいろんな問いかけが浮かんでくるというのが、ゴスペルのすごいところだと思います。

 たとえば、4分ばかり、”Jesus”(ジーザス、イエス様という意味です)という呼びかけだけを繰り返すというゴスペルがあります。素晴らしい歌い手が歌うと、退屈どころか、ぐいぐい引き込まれていくのは、高い音楽性だけでなく、語りかける力があるからでしょう。上手いとか下手とか、そんなレベルで満足していたら、このゴスペルは歌えないだろうと思います。

 ゴスペルの歌詞には、現在の文法から言うと、破格の言い回しもあるのですが、気持ちのままに、気がついたらポンとそのことばが口から出ていたからそれでいいという大らかな歌詞を、繰り返し歌っていくうちに、その響きが心や体にウキウキ・ワクワク・ズキズキ・ブンブンした感じを引き起こして(音楽用語ではグルーヴ感というそうです)、気が付いたら、全身が動いて、最後には大騒ぎということになるようです。また、発声のときに、ほんとに微妙な先乗りや溜めがあるので、聞いているだけでも体が揺れてきて、ダンスしたくなる――私がここ数年、勉強してきたオイリュトミーでは、互いの動きや声に同調はするけれどもそれがグルーヴ感になるのは厳しく退けられていたので、その違いも新鮮なんですね。日本に戻ったら、オイリュトミーの先生であるキム・ハヌルさんにも、ゴスペルの話をして、実際に聴いてもらおうと思っています。

 先日は、教会の地下にあるダイニングで、寄付集めのためにフライド・フィッシュのサンドウィッチを作ったから買っていかないかと誘われて、全身運動でお腹もぺこぺこだったので、終った後に買いに行きました。全粒粉(ホール・ウィート)のパンに、白身魚の揚げ立てフィレをなんと5つも乗せてくれ、ケチャップにホット・ソース、マスタード、タルタル・ソースを好きなだけかけて、たったの3ドル! こんなんじゃ儲けにならなくて寄付どころか赤字になるんじゃないかと本気で心配になりました。「ツイスター・ソーダ オレンジ味」という怪しい名前の缶ジュースも75セントで買って、秋色が急に濃くなった夕暮れの道を、食べながら帰りました。中学生のころ、クラブ活動をして、帰り道にお肉屋さんでコロッケを買い、食べながら家に帰ったことを思い出しながら。

 125丁目のマジック・シアターで、町中が待望の映画『GOSPEL』が封切られました。現在活躍中のゴスペル・シンガーが総出演ということで、セントラル・ハーレム界隈では地元スターを応援するために、ヘア・サロンや食堂、ブティック、なぜか分からないけれど水道の配管屋さんまでにも(親戚でも出演しているのでしょうか)、ポスターがべたべた貼られています。

 ゴスペル・フリークの私としては、早速、観に行ってみたのですが・・・感想は書かなくても、トモちゃんにはもう、お見通しですね!

illustration:チヨナツ


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