早稲田大学教育学部 金井景子研究室

コラム
熱海のとんび

金井が居を構える、熱海にまつわるいろいろなお話です。



第1回 観察と愛

 昨年の八月から熱海で暮らし始めた。正確には、週のうち三日東京にいて、四日は熱海にいる。休みのときは熱海にいて、必要に応じて東京に出るといった具合である。

 熱海にいて、一番嬉しいのは、ほぼ毎日のように、とんびが飛んでいるのを見ることができることである。飛んでいるのか飛ばされているのか分らないような、あの気流に乗った飛翔のスタイルと、ピーヒョロロロという呑気な鳴き声。遠目にはとぼけた風貌なのに、近くで見ると猛禽類らしい精悍な姿というのも素敵である。

子どものときからとんびを見るとなぜだか興奮して、
「とんびー! とんびー!」
と両手を振りまわして叫ぶ癖があった。その癖が、このところ、復活している。近所に人がいないのをこれ幸いと、鳴き声を聞きつけるや否や、テラスに飛び出している。

 しかし、考えてみれば、これは誰かが私に向って、
「にんげーん! にんげーん!」
と呼びかけているのと似たようなものだから、呼ばれた方も、呼んでいる方の熱さが伝わるような、伝わらないような、微妙な感じである。 固有名詞で呼ぶ関係ではないが、その一族は大好きというこの距離は、この先、偶然傷ついたとんびを飼うとか置き去りにされた仔とんびを育てるなどというドラマティックなことでもない限り、縮まらないだろう。縮まらなくても、五十年間も好きだったものはたぶん、一生、好きなんじゃないかとも思う。

 そんな私の「とんび好き」に、先月、新たなステップ・アップを促す人が現れた。「世界で一番小さな科学館」のキャッチ・コピーで五月一六日にオープンする「理科ハウス」の学芸員・ヤマウラさんである。

 私は友人のシマムラさんに誘われて、理科ハウスの館長・モリさんのお祖父さんである石原純(物理学者で歌人)の書簡整理のお手伝いをしている。モリ館長のお宅で打ち合わせを終え、帰ろうとした玄関に、理科ハウスで展示する予定の鳥のはく製がいっぱいぶら下がっていた。そこで思わず、とんびへの愛を居合わせた人々に告白したのだが、それをヤマウラさんは聞き逃さなかった。きらりと眼を光らせて、とんびの生息地や巣作りの特徴についてサクサクサクと説明し、

「熱海のとんびも、観察してごらんになると発見があって面白いと思いますよ」

と結んだのである。私のハートに火がついた。

 お読みくださる読者の方々にとっては、あまり興味のないことだろうと思うので、事情は割愛するが、私は子供のころから転校ばかりが続いたせいで、落ち着いて勉強する環境になかった。中でも理科はとりわけ積み上げ学習が重要なのにもかかわらず、宇宙の話を一学年中に二度聞いて二度ともちんぷんかんぷんだったり、メンデルの法則も化学記号もとうとうやらなかったり、種を播いた朝顔も苗を植えた稲もその結果を見たことがない。

 そうなると当然、成績も悪いばかりか、苦手意識の塊になって、たぶんそんな背景さえなかったら、一晩中でもやっていたい興味津津の化学実験なんかも、遠巻きにして、ビーカーもフラスコも振った覚えがない体たらくである。

 「理科の先生から特命を受けて観察を始める」というシチュエーションに魅了された。


 観察する→とある法則性を発見して報告する→良いところに気がついたねと褒められる

 観察する→これまでの通説に疑問を抱いて質問する→鋭い疑問だと褒められる


 いずれにしても、観察には発見と感動、そして「キミこそ明日の科学者だ!」といった評価がくっついてきて、小学生以来の名誉挽回・・・なんて妄想が湧いてくる。

 帰宅早々、観察にはまずノートだと鹿の絵がついた80円のノートを取り出し(近所に文房具屋がないので、家の傍にあるMOA美術館で販売していた竹内栖鳳の日本画がついた白帳だが、100円以下でこんなに可憐で美しい代物は近年見たことがない)、翌朝から記録をと力んでみたが、はたと困ってしまった。

 何を観察していいのか皆目分からないのである。飛んでくる連中がいつも同じメンバーかどうか分らないし、そのねぐらも不明なら、飛んでるところを見るだけでは何を食料にしているのかも判然としない。ちゃんと理科教育を受けていれば、自ずと観察ポイントは浮かんでくるものなのか、それとも初心者の観察ポイントは落語の大喜利みたいに先生がお題を出すものなのか。

 ヤマウラさんにメールして聞いてみようかとも思ったが、きっと今頃はオープン前で猫の手も借りたいくらいに忙しいだろうと思うと、
「何を観察したらいいでしょうか?」
なんてトンマなこと聞けないしなあ・・・

 というわけで、鹿のノートは一か月の間、真っ白のままである。

 対象への愛では人後に落ちないつもりでも、何をとっかかりにしたらいいのか皆目わからない――高校までの国語ではなく、文学で研究発表をすることになった大学一年生たちの気持ちが大いに解った。




 とんびのみならず、好きなのに、どうアプローチしていいのか分らないものが、いまだに多い。

 しかし四〇代、大切な友人が病気で亡くなることが重なり、
「このまま、気になりながら遠巻きにしているうちに、人生終わったら後悔する!」
と心に決めて、歩きだしたり、飛び込んだりしたものがある。熱海に引っ越したのもその一つである。学ぶことの中にも、暮らすことのなかにも、踏み出したことはたくさんあった。

 踏み出して良かったと思いながら、そのいずれもが中途半端になっていると頭を抱えることもしばしばである。頭を抱えながらも、好きなので、時間がかかっても(というほど、残り時間が潤沢にあるかどうかは、カミサマだけがご存じなのだが)、関わり続けていきたいと思う。




 写真は庭の植物である。さくらんぼは今朝、早速、大きな毛虫が這っていたので、これが色づく頃には葉っぱも実も、形を留めていないかもしれない。でも、しっかり見つめて、世話したい。トキワマンサクは、風に吹かれると無数の色テープのような花弁が靡いて、しみじみ、『よくまあ、カミサマ、こんな手間のかかることしたなあ』と感心してしまう。



第2回 遅刻と寄り道

 連載第一回を読んでくださった理科ハウスのヤマウラさんから、メールをいただいた。
その文章の中に、とんびの観察のポイントになるご示唆があったので、引用させていただくことにする。


 トビがお好きだと伺った日から、私もトビが気になってしかたがありません。
猛禽類(タカ、ワシの仲間)を識別する能力を身につけるためには、まず、トビの飛翔形をよく観察することだと鳥見の方たちはいいます。
トビを観察することによって、ノスリ、ミサゴ、サシバ、チョウゲンボウ、オオタカなども見えてくるようになります。
トビの翼のひろげ方、下面の白い斑の位置、尾羽の形、羽ばたきの頻度(トビはホバリングをしない)など。
また、幼鳥(親と違って淡い色をしている)が観察されれば、近くで繁殖していることがわかります。
私などは、カラスとトビのけんかを見るのが好きです。目には見えない、空中のなわばり地図を感じることができるのです。


 なるほど、「飛び方」自体をじっくり観察か・・・これなら「ねぐら探索」なんておおごとの前にできそうだし、何よりいちばんしていたいことでもある。そういえば、とんびって、「ホバリング」(こういうことばを覚えると、にわかに勉強した気持ちになるから不思議である)しないなあと、いまも目の前をゆるーく旋回しているとんび二羽を見つつ、考えた。

 見ていてもことばがないとつかめないものがあり、ことばだけがあっても見ていなければそれが自分に近寄ってこないようである。

 「幼鳥」は残念ながらいまのところ、まだ見たことなし。切に見たいと思う。

 きっと、見たとたん、
「とんびちゃーん! とんびちゃーん!!」
と絶叫すること間違いなしであるが、にんげんの成人が騒いで、とんびの幼鳥の飛ぶ練習に身がはいらなくなってもいけないから、黙って応援の旗でも振るか・・・出てくる前から期待でいっぱいである。




 連休が終わると大学は例年かなり学生さんの数が減る。授業の顔見世興行が一段落し、サークル活動が本格稼働することや、連休でついた「休み癖」が作用するせいだろうと思う。そして、遅刻が増える。

 「遅刻2回で欠席1回分と看做す!」
というふうに強権を発動すれば、遅刻の増加にストップをかけられるのかもしれないが、それはしない。ひたすら時間に間に合うように、なだめたりすかしたりするのだが、なかなかどうして一筋縄ではいかない。

 30年近くになる教員生活で、「遅刻した学生さんを叱る」ことに費やした時間をすべてトータルしたら、クイーン・エリザベスⅡ世号で世界一周するくらいの時間(まず、そんなことをするお金がないけれど、例えはゴージャスなほうが良いでしょう)が捻出できそうなくらいである。

 つい先週、なんで遅刻をするのかについて、3年のゼミの学生さんにインタビューを試みた。

 一人目のサトウさん曰く、
「うーん、どれにでも遅刻するというわけじゃないから、遅刻するものはその人にとって優先順位が低いってことなんじゃないんですかね。」

 なるほど! 優先順位か。 これは言い得て妙である。バイト、資格取得のためのダブル・スクール、デート、成績にかかわるレポート作成、サークル活動・・・やることは山のようにある。その中で、レギュラーの授業一回分の優先順位をいかに上げていくか。これは当人の努力と授業担当者の努力と、ゼミならばその参加者たちがそこを「大切な時間と空間」にする努力が必要になる。

 二人目のワタナベさん曰く、
「行こう!っていう気持ちはあるんですよ。でも、なかなか踏ん切りがつかなくて、時間が経っていく。あー、どうしよう、と思いながら、結局、遅刻になっちゃう。行くの、止めちゃう場合もあるんでしょうが、それでも行こうっていう気持ちが続いているときに、遅刻になるんじゃないでしょうか。」

 実況風で、よく理解できる。「そうだよね・・・」と納得してしまいそうだが、その、「行こうという気持ち」にどうやったら弾みをつけ、拍車をかけられるのか。お読みいただいているみなさんからのご提言をお待ちしています。

 ちなみにサトウさんは、人権に関する幾つかの自主活動を率先して行う、「一日50時間あったらいいのに!系」の学生さん。ワタナベさんは、早稲田の地域ネコの世話をするサークルで、ネコとまったりが大好きな、物静かな学生さん。このインタビューは授業を遅刻してくる他のメンバーを待つ間に試みたものなので、彼らは基本的に遅刻しない人々である。

 振り返って、自身を省みるに、私はたまに遅刻してしまうことがある(ごめんなさい、そのこともあって、厳罰主義に踏み切れないのです)。大人になって、それも最近、増えているような・・・。サトウさんやワタナベさんの回答、もしかしたら彼らよりもずっと良く理解できる。

 今回、これを書きつつ、自分の遅刻パターンについても分析を試みてみたところ、サトウ、ワタナベ・パターンとは異なり、私の場合は、ともかく「欲張りすぎるための遅刻」が多いことに気がついた。常々、複数のことを同時進行しているせいで、ちょっとしたトラブルが玉突き現象を呼んで、つい・・・。昨年度までの、異様なまでの忙しさは抜け出せた(つもり)なので、少しはなんとかなると希望的観測をしている。

 それから、もう一つが、子どもの時からずっと続いている、肝心の目的を果たす手前に、寄り道をしてしまい、結果として遅れるというパターンである。むしろ、時間的な余裕をもって、家や研究室を出たときに陥ることが多い。

 これはもう、病気としかいいようがないのだが、目的地までの道順に一通り慣れると、絶対と言っていいほど、「別の行き方」を試してみたくなる。そのほうが近いとか遠いとかいうことはお構いなしで、一本脇の道とか、別の建物を抜けてみるとか、あらゆる順路を試してみたい。いかにも間に合わなさそうな、余裕がないときは、虫が疼かないのだが、ぽかっと10分とか20分、時間ができると、
「あれ? ここからも行けるんじゃない??」
という「寄り道心」が頭をもたげてくる。

 試してみると、行き止まりだったり、かなりの回り道だったりすることが多いが、視野が広がったり、窄まったり、光の加減が変わったりするだけでも、わくわくしてしまう。東京駅を利用することが頻繁になったから、面白すぎて困っているが、早稲田駅から研究室までだって、ずいぶんいろんなルートがある。

 足の裏に感じる「踏み心地」も非常に大切な要素で、木製の床や石畳、土の上を歩けるところは、だいぶん遠回りでも通りたい。あんまり「踏み心地」が良いとそこいらをぐるぐる歩いたり、人が見ていなかったら、靴を脱いで裸足で確かめてみたり。

 私が敬愛してやまないシューズ・デザイナーの高田喜佐さん(二年前に亡くなってしまった)に、いつか寄り道癖の話をしたら、
「そんなんじゃ、靴のカカトがよく減るでしょ」
と大笑いされた。喜佐さんもどうやら同じような癖がありそうだった。

 いままでの半世紀近くで辿った寄り道を合わせたら、こちらはクイーン・エリザベスⅡ世号で世界一周するくらいの距離になりそうである。

 三年前、アメリカに10か月ほど暮らしていた時ほど、思いきり寄り道し尽くしたことはなかった。シアトルでもボストンでもニューヨークでも、喜佐さんの靴を履いて、ひたすら歩き倒した。時には命の危険に関わりかねない寄り道もあったが。

 2008年度はどんな寄り道が待っているか、とても楽しみである。

 とはいえ、遅刻は禁物! である。




 庭の無花果の木が、若葉をつけた。実を食べたい一心で二本も植えたのだが、こんなに可愛い葉っぱを出されては参ってしまう。ふいふいと、小さな実が出たら、木の周りで「ヒャッホー!」と小躍りすること間違いなし。

 無花果の木の傍に、野生のくさいちごが群生している。こちらは白い花の時期があっという間に終わって、実をたくさんつけた。菜園で育てているブランド品種(あきひめ、さがほのか)のいちごたちは、まだまだ実が固い。好き放題伸びて、とっとと赤くなったくさいちごたちの、「お先に!」という声が聞こえそうである。口に含むと、良い香りが広がって、ほんのり甘い。もっと増えてくれたら、来年はジャムが作れそうである。



第3回 古くて素敵なもの

 二回目の連載の直後に、建築家の川口孝男さんから、つぎのようなメールを頂戴した。本日のテーマに重要な関わりがあるので、引用させていただく。


 金井さん、「熱海のとんび」拝読いたしました。
トンビの幼鳥の発見楽しみですね。

 今回僕は、「寄り道心」の「足の裏に感じる踏み心地」のところを興味深く読みました。
普段建築の設計をしていて「材料にこだわる」なんて言ってますが、ではいったいどんな材料なんだということをあらためて考えてみると、それは「時間や歴史を記憶できる素材」と言うことになります。

 風化・劣化してもそれが味となり、共に過ごした時間によって「同居人」のように「人に近い存在」となる材料、そんなものを日々探しています。

それに比べて、ある時間が経過すれば新しいものに更新・取り替えすることを前提に「仮に」敷かれている舗装材などの上を歩いても、踏み心地はきっと良くはないでしょう。

 人間にはまだ、そのあたりを意識しなくても感じ取ってしまうセンサーのようなものが備わっているのではないか、と思います。

 同じように、「さわり心地」や「居心地」「聞き心地」なんかも床、壁、天井などの作りによって人には伝わってしまうものだと思います。そういったセンサーが退化してしまわないうちに、経済合理性だけによらない建築の作り方が復権すると良いのですが・・・、どうでしょうか。

 同じようなことが建築単体だけではなく、街並みにも言えそうです。


 川口さんは熱海の家を設計してくれた人である。川口さんにお願いした一番の理由は、彼の建築理念――
「建ったときがいちばんきれいで、その後、どんどん古びていく家ではなく、経年性を楽しめる家造りを目指す」
に惹かれたからである。

 「経年性を楽しむ」。ことばにすればたったの一行だけれど、実はこれ、よく考えると究極の理想論であり、人生の大先輩に「後期高齢者」というレッテルを貼って、医療費をケチるようになり下がった、日本社会への挑戦状でもある。そして私自身にとっては、だいぶん傷みが目立ってきた「自分の身体という家」をこの先、どう棲みこなすかという大きな課題とも繋がる。

 このことを考える上でヒントになると思う、身近な体験があった。

 熱海の家に暮らしの重心を移動するに際して、これまで暮らしていた高円寺のマンション(築25年)を改めてしみじみ、眺め返した。

 それまで室内は、ともかく本および書類と衣類とで倉庫と化していた。だから、これらのモノがどこかへ行きさえすれば、さぞせいせいして暮らしやすくなるだろうと夢にまで描いていたのだが、ことはさほど簡単ではなかった。

 モノが姿を消した後に現れたのは、古びてめくれかかった壁紙や色の変わった絨毯である。本の背表紙や紙袋に詰められた書類があったときに比べて、確かに幾ばくかのまだらな「隙間」はできたが、そこに現れた壁紙や絨毯は「放置されている間に薄汚くなりました」ということ以外、何も語ってはくれない。モノをどかせる前に思い描いていた「ゆとり」とは程遠い――むしろ、「じっと眺めていたくない寂しさ」がそこに顔を出した。

 これが、この場所を引き払って次の場所に引っ越すというときに現れたものならば、引っ越すことの高揚感(喜びであれ悲しみであれ、この高揚感がないと、あんなおおごとはできません)に取り紛れて、さっさと置き去りにして忘れたと思うのだが、約9か月の間、週の半分くらい、この「じっと眺めていたくない寂しさ」を見詰めることになった。気になるところだけ張替をしようにも、家の中のほぼ大半がこの壁紙と絨毯なので、局所的なリフォームはかえってほかのより広い場所へ「じっと眺めていたくない寂しさ」を感染させるにすぎない。「エイヤッ!」と家じゅうの壁紙と絨毯をまた間に合わせの新品にしてしまえば、こんな文章を書く必要もなくなるのだが、それをしたところで、あと10年も経てば、やっぱり「じっと眺めていたくない寂しさ」に向き合うことになるんだろうなと考えた。これまでもずっと間に合わせで、この後もそれを繰り返すのでは、なんだか年甲斐がないというもの。

 しばらくの間、嫌でもこの「じっと眺めていたくない寂しさ」をあらゆる角度から眺めつつ、その正体を探ってみるつもりである。その先に「時間や歴史を記憶できる素材」でマンション暮らしに違和感のないもの、そして家を建てた後のすっからかんの経済状態でも手におえるコストのものが、見えてくるんじゃないかと思う。

 室内の整理に伴って、マンションの庭(一階の三戸にそれぞれ、5メートル×メートルくらいの専用庭がついている)の鉢物も、大半を熱海に移した。袋小路にある、とことん日当たりの悪い庭なので、季節や時間帯で鉢を移動させられないと、花もハーブも育ちづらい。それでも園芸好きの私としては、「移動動物園」ならぬ「移動植物園」を楽しんでいた。その20数鉢が徐々に姿を消して、いま庭の鉢物はハンカチの木と達磨萩、アロエだけである。

 とはいえ、引っ越してくる前から植わっていた、檜(なぜか、猫の額のような庭に4本も!)や椿、山茶花、南天、自分で植えた雪柳や紫陽花、櫨といった庭木や、日陰を好む羊歯、ギボウシの類は残っている。「移動ガーデン」の赤や黄色、さまざまな香りを振りまく賑やかなキャストたちがいなくなり、ほぼ緑と茶色になってしまった和風の植物たちが、残されて淋しそうかというと、存外さにあらず。気のせいか、なんだかほっとしているような風情なのである。

 「やっぱり、ここでバラの栽培なんて、土台無理がありましたな」

 「そう、あれだけ手間をかけても、あれぽっちしか咲かないんじゃねえ」

 「風通しが悪いから虫が発生するんだとか騒いでたようだが、そりゃ当たり前です。ここ、袋小路なんですから」

 「あの連中も、あっちへ行って、さぞのびのびしてるでしょう」

 「あそこは温泉で有名なところらしいが、入れられちゃたまりませんな(笑)」

 「いやあ、わからんよ。ここの家主はむやみに新しがりだから、『温泉成分が植物に良い』なんて特集が『現代農業』(注・最近、金井は愛読してます)に組まれでもしたら、やりかねんね」

 「ひゃー、クワバラクワバラ」

 「ときに、竹垣が、ぼろぼろになってきてるようだが、やっこさん、気づいてると思う?」

 「庭園灯もずいぶん前から一つ切れてるけど、ありゃ完全に忘れてるね」

 「隣の庭じゃ、野菜作り始めたね!」

 「ここの家主より、楽天家なんじゃろう。(一同、笑)」

 「いやいや、にんげんにはやってみなきゃ、わからんことがあるんじゃろうよ」

・・・なんて、おしゃべりが聞こえてきそうなのである。

 ちなみに最近越してこられたお隣は、赤ちゃんのいるご夫婦である。うちと同様究極の日当たりの悪さの中、トマトの若い苗が2本、ナスが2本、青葱が3本ほど、すんと天を目指している。




 友人のまあちゃんが亡くなって4年になる。最後に会ったのは、偶然に銀座の歩行者天国。ダンナさんと娘さんと一緒で、いつもの夢のような笑顔が印象に残っている。花屋の店先でこのバラを一目見て、「まあちゃんのバラだ」と思い、以後、大切に育てている。今年も夢のように美しい黄色を届けてくれた。

 今年の春はほんとうに蓬をよく食べた。近所の空き地に蓬が群生しているところを見つけて、せっせと収穫し(成長点を摘むと脇目が複数出るので、取れば取るほど増えるのである)、お菓子をずいぶん作った。この蓬は、上野から来たもの。朗読家の飯沼定子さんがほかいろいろの植物とともに送ってくださったもの。伊豆産の野生のものと比べると、柔らかくて緑が明るい。庭の一角が蓬だらけになるといいなと思う。



第4回 沖縄の小さくて大きな学校

 今年の四月早々に沖縄から送られてきた、『学校をつくろう!通信』(第63号)の「学校の役割 その52」と題するコラムに、こんな一節があった。


 ヤマトゥの大学の教育学部の教員の方が去年のうりづん庭を2日間見学しました。「今、日本で一番面白い学校は沖縄の珊瑚舎だよ」と知人から聞いて訪ねてくれたのです。さまざまな発表を見て、生徒たちの学びに対する姿や表現の豊かさにいたく心が動いたそうです。なぜそういう学びが可能なのかを探るため、数か月後、ビデオカメラマンを伴って一週間、珊瑚舎を取材しました。今年も完成したDVDをお土産に訪ねてくださいました。うれしいことです。


 「ヤマトゥの大学の教育学部の教員」は私のことである。私に「珊瑚舎スコーレ」の存在を教えてくれたのは、劇団・黒テントで芸術監督をなさっている桐谷夏子さんだった。

 2006年と2007年の2カ年にわたって、私は「言葉の力を創生する教員養成プログラム――世界へひらく国語教育のために」(通称「ことばの力」GP)という中等教育の国語科教員を養成する大型プロジェクトに携わっていて、ほぼ毎週土曜日、特別講義や講演会の企画・実施をしていた。

 その講師の一人であり、長年公私にわたって敬愛する桐谷さんが、打ち合わせの最中に突如、
「ことばの教育って言うけど、本気で、根源的なことを考えたいんだったら、珊瑚舎に行きなさいよ」
と言うやいなや、いきなりバッグから携帯電話を取り出し、沖縄に電話をかけてくださったのがことの始まりであった。

 私はうっかり屋でおっちょこちょいの早合点、そのくせ原稿は遅いし誤植も再々見逃すという、どうやって今日まで教員や学者を続けてこられたのかと我ながら呆れる、落第坊主もいいところの人間であるが、一つだけ、自分でもびっくりする特技がある。

 それは、
「裂帛の気合で勧められると、即座にその申し出に乗れる」
という特技である。

 あの時、「珊瑚舎」という学校が日本のどこにあるのかも聞かないうちに、もう行く気になっていた。

 ちょうど卒業式と学芸会を兼ねた「うりづん庭(うりづんなー)」の開催直前だったので、お願いして出席させていただいたのだが、あのときの驚きは、いまも新鮮に蘇る。

 10代の半ばから80代までの、さまざまな自分のからだと自分のことばを持った生徒さんたちが、銀行の二階に間借りした小さな小さな学校から、溢れ出しそうだった。
『にんげんが、いる』
としか言いようのない迫力があった。

 そこで校長の星野人史さん(珊瑚舎では生徒も保護者もみんな、彼を「ホッシー」と呼んでいる)に、こうした成果を引き出す授業を、ビデオに撮らせてほしいとお願いしたのである。

 ホッシーはすかさず、
「授業を一つや二つ撮っても、たぶん理解できないと思うから、金井さん、珊瑚舎に一週間、体験入学したらどう?」
と勧めてくださり、そこで私はまた、例の特技を出したわけである。

 あの忙しい中、どうやって沖縄行きの一週間を捻出したのか、今となってはまったく思い出せない。東京を立つ前と戻ってからは、逃亡と自首とが一緒になったような、無我夢中の後ろめたい感じで、ほとんど記憶がない。しかし、公設市場にほど近い浮島通りにある、陽のささない(でもとびきり朝食が美味しい)宿屋から、蜘蛛手のように路地が広がる商店街を抜けて、仏壇通りをてくてく歩いて与儀の十字路まで通った、あの一週間は天然オールカラーである。

 毎日深夜まで、カメラマンの佐藤申之介さんと綿密な打ち合わせをし、中等部・高等部・専門部・夜間中学の授業と片っ端から食らいついた。夜には許しを得て、学生寮の中や、講師の先生がオーナーをされているライブ・ハウス(音楽の授業を担当されているのは、沖縄ジャズ界をリードしてこられたピアニスト・屋良文雄さん)にもお邪魔した。

 珊瑚舎では、毎週金曜日に、佐敷町の山を先生と生徒たちの手で開墾して、学校を建設中(「山がんまり」という総合学習の時間になっている)なのだが、一緒に作業をさせてもらった。かまど作りのために土を捏ねているうちに何やら無性に嬉しさが込上げ、涙をこらえるのに必死だったことや、その日の午後にはハーリー(沖縄では春から夏にかけて、各地で手漕ぎ舟のレースが開催される)の練習にも参加させてもらい、馬天港に響き渡る鉦に合わせて櫓を漕いだ感触が、つい昨日のことのようである。

 カメラマンの佐藤さんが仕事の関係で二日先に帰京したので、その後は私のカメラのみで乗り切らねばならなかったのだが、二台回していたカメラの一台が、野外の気温上昇(沖縄の梅雨明けの直射日光は過酷である)にやられ過熱して使えなくなったり、撮れているはずのハーリー練習の声が風の音にかき消されていたりと、自身の未熟さに歯ぎしりすることもあった。

 戻ってからの膨大なテープ相手の編集作業では、珊瑚舎に惚れこんでしまった佐藤さんが、しつこい私の注文に惚れた弱みで最後の最後まで応えてくれ、感謝の気持ちでいっぱいであった。

 このドキュメンタリ・ビデオ(星野先生の授業まるごと60分と、珊瑚舎の一週間を追ったドキュメンタリ60分の2本)は、今年からスタートした「授業技術演習」で教材に使わせていただくほか、11月29日(土)に企画している星野人史さんの講演会(早稲田大学で行う予定)でも、学校のドキュメンタリの方を上演する予定なので、この随筆をお読みいただいている皆さんにも、お時間があればぜひ観ていただきたいと思っている。改めてご案内をする予定である。

 完成版DVDを持参して伺った、2008年の「うりづん庭」も、前年度に増して充実したプログラムだった。中でも特筆したいのは、「まれ人講座」と題するゲスト・コーナーである。今回のテーマは「仲間と自分と音楽作り」。沖縄を拠点に活躍するTHE BOTTLENECK BANDが出演した。ちなみに沖縄のイベントカレンダーとして人気のあるサイト「箆柄暦(ぴらつかごよみ)」ではこの企画について、

「珊瑚舎スコーレの生徒・学生・講座参加者と交流する会。ボトルネックバンドのライブ&対談。まずあり得ない企画。」

と紹介している。

 全く、珊瑚舎でしか「あり得ない」、ものすごい企画であった。何がすごいかというと、演奏しているTHE BOTTLENECK BANDのメンバーが、どんどん「生徒・学生・講座参加者」に近づいてきて、彼らの目と耳になって弾き、歌ったことである。

 「うりづん庭」の会場を埋める80人ばかりの人のうち、半分くらいは夜間中学の在校生や卒業生である「おじい」や「おばあ」たちである。THE BOTTLENECK BANDはいつものライブのように大音響で演奏を始めたのだが、そこまで大きな音に慣れていないおじい・おばあたちは戸惑ってしまい、どう反応したらいいのかわからない様子。その雰囲気が若い生徒たちにも伝染するのか(昼間の生徒さんたちは、夜間に学ぶ大先輩たちのことを、常に気遣っている)、ノリノリになり切れないでいる。

 そこへ、ホッシーが漫画の吹き出しみたいに脇から登場して、
「音がね、ちょっと大きくてびっくりかもしれないけど、耳で聞かないで、からだ全体で聴くと、だんだん気分が良くなってきますよー」
と、岩盤浴か磁気マットを販売するセールスマンみたいな解説をする。

 先生の言うことに応えようとする真面目な小学生みたいな感じで頷く彼らに、今度はTHE BOTTLENECK BANDのボーカルが、
「えーっと、今度の曲も最初の方でちょっと大きい音出ますけど、大丈夫ですかね?」
と念を押し、弾き始める。

 何曲か進むうちに、途中で立ち上がるおばあたちがいたので、私は内心、
『やっぱり、音に耐えられないのかなあ』
と心配して見送ったら、なんと、会場の後方の空きスペースで、カチャーシーを踊りだしたのである。そうなればもう、「一号線」も「どんなにこの街がかわっても」も、尖ったトーンがどんどん丸くなり、しかし深くなり、リズム&ブルースはやがて島唄になってくる。

 バンドのメンバーがその変り方をどう受け止めたかは知る由もないが、「まれ人講座」のテーマである「仲間と自分と音楽作り」は見事にワークショップとして実現されていた。これを書きながら、ふと思い立って、ネットにあがっている彼らのCDを改めて視聴してみたが、私にとってはあの、「どんなにこの街がかわっても――島唄バージョン@珊瑚舎」こそが、自分も関わった一曲である。

 珊瑚舎には「ここうた」というのが幾つかあって、「ここ一番に歌う歌」を省略してそう呼ぶらしい。THE BOTTLENECK BANDの歌が「ここうた」になるには、この後、たくさんのドラマが必要だろうが、なかなか楽しい第一歩を踏み出したと思う。あんなに呼ばれた講演者がたくさんのものを持って帰る講演会――珊瑚舎以外にはあり得ない。

 それから書き添えると、珊瑚舎の夜間中学は、沖縄県唯一のもので、これまでは修了すると県内の定時制・通信制学校の受験資格が得られるというものだったが、この4月からは正式に卒業証書が発給され、日本全国どこの高校でも受験できるようになった。

 沖縄の戦後の、厳しい生活の中で、学ぶ機会を奪われながらも、ようやく思う存分勉強できた喜びで「うりづん庭」にカチャーシーを踊る人たちが、この先、もっともっと増えることだろう。




 さくらんぼが無事に実って、私のお腹の中に消えたのは、一ト月も前のことである。ちょうど食べごろだと思った日の朝、半分以上、鳥たちに食べられてしまった。悔しいよりもその気配を消したしごとぶりがあまりに見事で、感心してしまった。こんなふうに空に差し上げていたら、そのうちウミネコみたいに手のひらから食べるようになるかもしれない。

 花菖蒲は、蓬と同じふるさと、上野から来た。飯沼定子さんが送ってくださったものである。切り花ではアイリスを使うことが多かったが、在来種は花がぽってりしていて懐かしい。「眼で触れる」感触である。




第5回 私という皮袋

 「先生、ふかひれの姿煮なんかをどんどん食べたら、治りが早いでしょうか?」
「ははは、お金、かかりますね。でも、今は中華料理屋さんに行くより、家でじっとしていてください。」
「コラーゲン、破れた腱が修復されるのに効果あるかなと思って・・・」
「とりあえず、お肌には効果あるでしょうけど、足への即効性はどうかなあ。」

 9月29日午後5時27分に、高円寺健心接骨院で私が担当の先生と交わした会話である。

 先生はゾウのように腫れ上がった私の左足の甲を指で押して、
「ほらね、押したらぜんぜん元に戻らないでしょう? 腫れている上に、浮腫みもかなり来ています。まず腫れと浮腫みを取るのが先決で、それには固定して動かさないことです。 えっ?・・・週末は熱海で農業したい? 早く治したいなら、ありえません。」

 接骨院の先生から説教される破目に陥ったのも、後期授業が始まる4日前、近所の坂道で転倒し、左足の足首が内側にぐるんと返ってしまったせいである。
『またやった・・・』

 近くは二ヶ月前の7月上旬に、大学の構内で足を踏み違え、七月末まで足を引きずっていた。あのときの捻挫が完治していなかったらしいのである。なお、遡れば38年ほど前、中学一年生のとき、部活(体操部でした)で床運動の着地に失敗し、捻挫したのが最初である。あの時は3ヶ月近く、足を引きずっていて、結局体操部は退部することになった。

 今回はあの中一のときの衝撃に近いものがあった。ましてや、私という皮袋は半世紀以上経った年季モノになっているから、治りは遅いに決まっている。

 接骨院の先生には、
「ここで、ちゃんと治しておかないと、これから頻発するようになりますよ。」
と断言された。

 なんでも、腱というのは、痛めて襤褸切れ状態になっていると、痛みが去っても機能は回復していないそうである。素人は痛みと腫れが引くと、そこで治ったと思い込むが、腫れが引き、痛みが取れたら、そこからきっちりとリハビリし、そのうえで適度な運動を継続して関連する筋肉を補強するところまで漕ぎ付けないと、加齢とともに疼痛が出たり、転倒を繰り返すという。

 私が暮らす熱海は、海に山が迫った傾斜地で、坂や階段が多い。ことに私の家は「伊豆山」という地名通り、山から伊豆の海を見下ろす地形で、急傾斜の場所に三階建てを建てている。今から足にウィークポイントを抱えていては、私が三度のゴハンよりも好きな散歩が、恐々になって楽しめなくなってしまう。

 なかなか引かない痛みと、ただ歩いていて転び、こんな大事になってしまったことのショックで、捻挫した直後はけっこう凹んでいたのだが、
『今回は徹底的に直す!』
という決心をしたら、自分がなんだか松井か清原にでもなったような気がして、人生のマラソン・ランナーとしては往路よりも復路こそ踏ん張りどころだとばかり、ものすごく優等生の患者になった。

 先生には笑われたけれど、食事も手羽先の煮込みや丸ごとの煮魚など、コラーゲンをかなり意識して摂取し(おかげで、本当にお肌の調子は良いようです)、足が無理ならこの際にと、腹筋を鍛えたりしている。

 身体が自由にならなくなると、不思議に身体のことを考えている時間が多くなる。そこで今回は、私という皮袋についてちょっと考えてみることにした。


 今までにこの皮袋にメスを入れたのは、二回。

 一度目は声帯にできたポリープの切除手術で、39歳のとき。また、書く機会があるかと思うが、ライフ・ワークの一つである朗読に本気で向き合う契機になった体験である。

 二度目は胆嚢と胆管とを切除する手術で、44歳のとき。永年苦しめられていた胆石(私の場合は正確に言うと、石の塊ではなくて砂がいっぱいに詰まる胆砂)との付き合いがとうとう限界になって、しぶしぶ決断した。
『胆嚢を切除さえすれば、胆石に悩まされる前まで好物だった、うなぎもてんぷらも食べ放題!』
と夢想していたのだが、うなぎとてんぷらを食べる前に、術後ほどなくギックリ腰になった。それをきっかけに、立派な腰痛持ちとして今日に至っている。とはいえ、腰痛を克服しようと、ヒップ・ホップやフラといったダンスに挑戦したことを思えば、腰痛も次の楽しみを連れてきてくれたことになる。

 手術したのが半世紀にたった二回で、今もこうして元気(腰と左足首の腱はガタガタ・ボロボロであるとはいえ)でいる。そのことに、誰に御礼を言ったらいいかわからないけれど、深く感謝している。


 皮袋の中でも一番露出していて、人目につきやすいのは、顔だろう。これまで顔を皮袋の一部として考えたことはなかったが、改めて意識しなおしてみるに、私がこのパーツに、さほど囚われないで来られたことは幸せだったかなと思う。

 誰がどう見ても美人の部類ではなく、欠点だらけの造作なのに、親を恨んだり整形したいと思い詰めたことがない。なぜかと考えると、周りの大人たちがこの点に関しては本当の意味でオトナで、顔の造作について云々する冗談を言わなかったし、外で何か言われてそのことを家で話すと、そういう当人が自分ではどうしようもないことをあげつらって言うヤツは、下らなくてはしたないから相手にするなという反応だけが返ってきた。そういう反応に始終接していると、自分の顔も他人の顔も、造りを過度に気にすることが無意味なことに思えてくる。(ただ、元気がない顔をしていると、元気を出せとどやされた。私をどやした親族の半分以上がすでに鬼籍に入ったが、歳を重ねるに従い、いつも元気な顔でいることの大変さと大切さに思い至り、とてつもない宿題を出されたものだと考えるようになった。)

 ただ、顔の造作を気にしない教育には功罪両方があって、もう少し自分の顔を気にする習慣が身についていたら、ヘアスタイリングやメイクに真剣に取り組んで、効果を上げたかもしれない。私は、スタイリストやメイクアップ・アーチストが素人の視聴者を変身させる番組コーナーが大好きで、あれこそ現代の魔法だと思っているので。


 魔法といえば、私も一度だけメイクの魔法にかかったことがあった。ニューヨークのハーレムに暮らしているとき、125丁目の本屋さんのイベントで、『ヴォーグ』専属のメイクアップ・アーチストにお化粧をしてもらい、世界的に有名な、ハーレム在住のファッション写真家に写真を撮ってもらうという企画に参加した。その写真家の出版記念のイベントの一環だった。

 本屋さんで本を読んでいたら、右のコーナーに、にわかに人だかりがし出して、何だろうと寄って行くと、
”Join us!”
という明るい声とともに、列に並ぶことになった。いつもは本屋の店員さんたちが、その日はお客さんたちに声がけをしていたのだが、彼女らの満面の笑顔に、きっと良いことが起こるような気がして、アフロ・アメリカンの女性たちに混じって順番を待った。

 前に並んでいる女の子が、
「ねえ、わたしたち、すっごくツイてるわよね!」
と言うので、嬉しさのテンションも上がる。

 東京ではデパートの化粧品のフロアでメイクしてもらう経験もめったにないのに、やっぱりサバチカルで心に余裕と弾みがあったのかもしれない。

 鏡に向かって坐ると、メイクさんが私の肩口から顔を出して、鏡に映る私の顔を穴が開くほど凝視した後、何の迷いもなく(プロというのはそうしたものだろうが)作業に取り掛かった。ファンデーションはいつも使っている色より濃い小麦色である。糸のような一重まぶたの目だから、アイラインやシャドーをきっといっぱい入れて、豪華なパンダみたいになるのかなと思っていると、目じりに赤い色を挿しただけ。前髪をすっきり上げて、やたらにおでこを念入りにはたいている。頬紅は京劇の役者よろしく派手に塗ってあるのに、口紅は淡いオレンジで、強いて言えば仮面劇のお面みたいな感じ。凹凸を重んじてセクシーさを演出する、ハリウッド風の「女優メイク」の真逆であると私には思えた。出来上がったと言われても、正直、ぜんぜんピンと来なかった。しかし、メイクさんは鏡の中で、『やったわよ!』という会心の笑みを浮かべて頷き、私を撮影に送り出した。

 撮影する段になって、もっと驚いたのは、笑顔を禁じられたことである。写真を撮るとき、いつもの習い性で曖昧な笑顔を浮かべると、私の名前を聞き返して、「ケイコ、笑顔はいらないから、レンズを睨みつけろ」という。シャッター音を聴きながら、どんどん睨みつけると褒められるという、予想もしなかった展開になった。

 2日にわたって本屋さんを訪れた女性たちを撮った二百枚以上の写真は、その二週間後に、「ハーレムの女性たち」というタイトルのもと、一枚の大きな写真にコラージュされ、本屋さんの真ん中のボードにしばらく飾ってあった。圧倒的に多いアフロ・アメリカンの女性たちの写真の中に、東洋人の自分の顔を探すのは訳ないと思っていたら、これがなかなか見つからない。没になったのかしらんと、もう一度端から見直して、ビックリした。左の中ほどにあった「私の顔」はこれまでまったく見たこともないような面構えで、当人が「初めまして」と言いたくなるような不思議なものだった。印象はハクビシンやイタチのような、はしっこい野生の小動物のようで、面白くて怖かった。

 『ヴォーグ』風=モデルか女優のような仕上がりという紋切り型の想像は軽々と蹴飛ばされて、私の中にある別の顔が引っ張り出されたとでもいう体験だった。その顔に馴染めるかどうかは別問題だけれど、大人になるのと引き換えに奥のほうへ仕舞い込んでいた顔のような気もする。

 皮袋が草臥れてくればくるほど、曖昧な笑顔は作りやすくなったが、あの野生の小動物のような面構えができるかどうか――今後、どういうおばあさんになるかの計画に影響を持ちそうな、ちょっと楽しみな体験でもあった。


 もう一つ、顔以上に頼りにしている皮袋のパーツは、両手である。思い切り広げても、ピアノの一オクターブにちょっと届かないくらいの、身体の割には小さな手であるが、この手でパソコンを打ち、庭仕事をし、料理や縫い物、掃除をする。猫も撫でる。この袋は、寝ているときのほかは休むことがなく、動き続けている。

 この一年、魚を捌く修業をせっせとしたが、魚のおなかに包丁を入れてワタを出すときいつも、
『魚の皮袋を裂いている』
という感覚を抱く。裂いている感覚が、押さえている左手と、包丁を握る右手に来る。きっとこの先、修業を積めば、もっと多くのことを、両手を通じて受け取れるようになるに違いない。

 料理で言えば、足が動きづらくなると、作るテンポやリズムが崩れることも解った。水周りから火の側への横移動や、軸足で小回りを利かせるピポットの動き、調理器具や調味料、食器を出し入れするために、屈んだり伸び上がったりと、無意識に行っていた動きは極めて複雑だ。これが複数の職人が時間との戦いで料理を作る厨房ともなれば、手が遅いのと同じくらい、テンポやリズムがとれない人間は邪魔になるだろうなとも思う。

 皮袋の中に骨と肉と血と内臓がある。そしてそれらに指令を出す、脳がある。心はどこにあるのだろう――そんな、子どもの頃ならしょっちゅう考えたけれど、大人になったら棚上げしていた根源的な問いが、このごろ自分の思考の引き出しの手前に入っている。




 庭は秋に入った。今はずいぶん様変わりしているが、それはまたの機会に。

 夏の終わりに私のハートをわしづかみにした、野菜の花・ズッキーニと果物の花・パッションフルーツ。ズッキーニの花はピザのトッピングにすると美味しいと教えてくれた人がいたが、シーズンが終わったのでまた来年。パッションフルーツは別名・果物時計草というのだそうである。花が開く前のつぼみのときから、蜜をいっぱいつけていて、アリたちのカフェになっていた。

 えだまめとナスは可憐な花は咲いたのに、なぜか惨敗した。

 島唐辛子はこの頃になって、実をいっぱいつけている。運動会が終わったのに、また夜の運動会が始まったみたいで、愉快でたまらない。




第6回  父の禁煙

 実家の父から電話がかかってきた。ここ五年間を振り返っても、父の方から電話をくれるなんてことは、母の乳癌の手術が無事終わったときくらいなので、何だろうと一瞬身構えたが、聞けば「禁煙を始めた」という報告なのである。またまたタバコ代も値上がりするわけだし、健康に良くないことは耳にタコができるほど喧伝されているわけだから、世間様の感覚で言えば『あ、そう』といった程度のことだろうが、私は耳を疑うほどびっくり仰天した。
父は18歳でしごとを始めてから、77歳にいたるまで、大病して入院していたとき以外は、ほぼ1日も欠かさずタバコを吸い続けた愛煙家である。「入院していたとき」というのも実はアヤシイもので、酸素マスクがとれたら屋上で中学生みたいにタバコを隠れて吸っていて、それに気づいた母と大喧嘩になり、お医者さんや看護師さんに仲裁されたという猛者である。むろん、朝起きてから寝るまでのチェーン・スモーカーで、1日4~5箱は吸い続けていた。周りが禁煙を勧めてもどこ吹く風で、それこそ亡くなる直前までタバコは手放さないんだろうなあと思い込んでいたので、かなり驚いたわけである。
「なんでまた、そんな発心したん?」
と聞くと、どうやら父を動かしたのは、見ず知らずの女の人たちらしいのである。以下、父の語り(愛媛県松山市出身、高卒で大阪に出て来てから大阪弁を話すようになり、大阪人の母と所帯を持って半世紀)を再現してみる。

お母さんとイズミヤ(注・スーパーマーケット)行くやろ。お母さんが買い物してる間(まあ)に、ワシ、表の喫煙所でタバコ吸うねん。喫煙所言うたかて、このごろは、もう人目につかんような、裏の方のややこしいとこやで。こないだ、気い付いたら、男はワシ1人でなあ、あとの4人、みな女やねん。そら、昼の日中に大の男でスーパーうろうろしとんのんは、ワシみたいな定年組しかおらんわなあ。その女4人いうのんは、お客さんやのうて、スーパーで働いてるパートの人らや。歳の頃なら二十代から三十代くらいやな。女いうたら、知らんもん同士でも、二人寄ったら愛想にペチャペチャ喋るもんやて思とったんやけど、みな疲れとんのんか、黙(だま)-ってタバコ吸うてんねん。家でも吸うてんのやろなあ、小さい子もおるんやろに、タバコなんか吸うとって、この先良えこと1つもないでーて、ちょっと説教したいような気イになったんやけど、我がもスパスパ、タバコ吸うとる死にかけのオジンにそんなケッタイなこと言われてもムカッと来るだけやろなあて思たら、なんかしらん、もうタバコ、やんぺやて思たんや。

想像はつくと思うが、父は古いジェンダー意識をしっかり持った人間で、女性の喫煙には反対派である。結婚している女性が働くことも内心善しとしない保守派だった。現役の頃の父なら、言下に「女がタバコ? あかん」でお終いだったはずである。しかし、現役を引退して、病気をし、行動範囲が家から数キロという環境になってから十数年を経て、働いている女の人たちとちゃんと「出会っている」んだなと思うことがある。今回の禁煙発心譚もそうである。
名前を名乗り合ってことばを交わしていても、相手の価値観や状況に想像力を働かせることを拒絶していたら、「出会った」ことにはならない。誰だかわからない、そして再び合うこともない人に想像力が働いて、気がつけば自身が大きな影響を受けているとき、まぎれもなく「出会って」いるんだと思う。
「おとうさん、禁煙できたら、パートの人らに説教できるなあ」
と言ったら、父は、
「そんな、アホな」
と笑って電話を切った。



第7回 ありがとう、Q太郎 前編

 15年を長いと感じるか、短いと感じるかは、人それぞれだと思う。我が家の飼い猫・Q太郎は、2010年のあまりにも暑かった夏の終わりに、15歳で病死した。10日余りの闘病の時間も、短かったといえば短かったし、水を飲んでは吐くことを繰り返していた、その苦しみを見ていた者としては、長かったなあとも思う。
9月12日の早朝に、ひっそりと眠るように息を引き取ったQ太郎を送ってから、三ヶ月が経ったが、家のあちこちに点在する、「Q太郎の場所」を通るとき、無意識に「探している」自身に気づく。

(1)かさぶた坊や

Q太郎が二匹目の猫としてうちにやってきたとき、先住猫のハッピーと先住人の同居人はあまり彼を歓待しなかった。

「ハッピーが一匹だけだと可哀想」という、猫社会のしくみを全く誤解した(猫はテリトリー意識が強い生き物なので、親子であるとか同時に飼い始めるとかでないと、だいたいは先住猫がストレスで参ってしまう。我が家もそのために、ハッピーは鬱状態に陥って、半月以上、猫インターフェロンを打つはめになった)私の発案で、暮れも押し迫った12月30日に我が家の一員になったのであるが、そのときQ太郎は首の後ろに巨大なかさぶたを拵えていた。手のひらを少しはみ出すくらいのおチビなのに、首の後ろ全体が、まだ膿を滲ませているかさぶたなので、痛々しいうえに厭な匂いがする。とてもやせていたこともあり、顔つき・体つきは、巣から落ちてけがをしたヒナ鳥みたいであった。実際は大して食べられもしないのに、異様に食い意地が張っており、ハッピーが迷惑がって追い払うのを、遊んでもらっていると思い込んでつきまとい続け、とうとうハッピーを鬱病に至らしめたのである。

首の後ろの巨大なかさぶたの原因は、Q太郎が生まれたキャッテリー(ソマリという種類の猫を繁殖して、世界チャンピオンを輩出していた)で彼が一族全員から、かなり疎まれて、食事などの際に、前に出ては首の後ろを噛まれて放り投げられるといったことを繰り返していたせいだろうということになった。Q太郎の出現以来、ハッピーの調子が崩れたことを恨みに思う同居人は、ずいぶん長い間、Q太郎を「気持ち悪くてイラっとくる嫌なヤツ」と思っており、むしろ首にかみ傷を作った一族の気持ちが解る、くらいに考えていたそうである。

流れでいえば、同居人~ハッピー、私~Q太郎でタッグを組んでバトルということになりそうなのだが、Q太郎は嫌われていることを全く意に介さない、稀に見る鈍感力の持ち主であった。同居人にもハッピーにも「仲良くしようよ」とむしゃぶりついて行く。私は厭がる彼ら(同居人とハッピー)からQ太郎を折々引きはがすという、不思議ないきもの係りになってしまった。
『こんなに冷遇されてたら、この連中から嫌われてるって、解りそうなもんだけどなあ』
と思うにつけ、何か可笑しいような気の毒なような、それでいてだんだん懲りないパワーに気圧されるような、人間関係では味わったことのない感情が湧いてきて、私はこの「かさぶた坊や」の飼い主というより応援団長のような気持ちになった。
ちなみに、私はQ太郎を飼ううちに、児童文学の金字塔、バーネット夫人作『小公子』の主人公~天使のように無垢で誰をも疑わないセドリック坊や~もまた、類い稀な鈍感力の持ち主で、オジイさまのドリンコート伯爵やお屋敷の召使いたちに嫌われていることに気づかず、ついには連中をを根負けさせて、やがては愛されるようになったのかもしれないと考えるようになったくらいである。

(2)「餃子寝」と顔洗い

何が好きだといって、動物の子どもたちが何匹か背中とお腹をくっつけて寝る、「餃子寝」(金井の造語です、著作権フリーですから流行らせてください)を見ることほど好きなものはない。

あんなに仲が悪かった(ハッピーの方から見れば、の話だが)二匹が、春には、大きな「つ」の字と小さな「っ」の字を重ねたような「餃子寝」をするようになった。巨大なかさぶたがはがれ落ちて、首の回りに和毛が生え始めたころでもあった。ハッピーが寝ていると必ずQ太郎がその大きな「つ」の内側か外側を狙い、うるさがって追い払われても大きな「つ」が寝息を立て始めると、こっそりセット・アップされに来る。その一連の動きを見ているのもしみじみ楽しかった。同じソマリなのだが、二匹の体重差はゆうに倍程もあり、前足なども倍くらい長さが違ったと思う。毛質はハッピーが毛糸に例えるならモヘア、Q太郎はアンゴラの風味があって、「餃子寝」の真ん中に手のひらを沈めてふわふわの感触を味わうのは、無上の愉しみだった。

ハッピーはよく眠る猫で、先に目覚めるQ太郎は遊びたいから、必ずハッピーの耳を噛む。小さな牙で甘噛みされたハッピーの両耳は、光に透かすと無数の穴が開いていた。よく辛抱していたなと思ったが、猫の耳は人のそれほどには痛覚が発達していないのかもしれない。ハッピーがQ太郎の耳を噛んでいるところは一度も見たことがなかった。

母猫が育児放棄をしていたのかと疑うのだが、Q太郎は来た当初、猫特有の顔洗いをしなかった。口の回りにおべんとうをくっつけていることはしょっちゅうで、それをハッピーが呆れたように気味悪そうに眺めていたのを思い出す。「餃子寝」が始まってから、ものすごく嫌そうではあるのだが、ハッピーがQ太郎の顔を舐めて教えてやるようになった。そういう親切を身に受けたことがなかったらしいQ太郎は、ものすごく喜んで、ますますオニイちゃんラブになって行った。

かさぶたが取れてから、月に一回くらいのペースでシャンプーとドライをしていたのだが、Q太郎の水嫌いは尋常なものではなかった。どんな虐待をしているかと思われるような鳴き声を出すので、自分もシャンプー嫌いなハッピーが気にして、風呂場のドアに体当たりして助けにきたりしたものである。そのくせ、ハッピーがシャワーに追いかけられてミャーミャーと逃げ回っているとき、Q太郎が助けにきたためしはなく、手を伸ばしても届かないようなベッドの裏などに雲隠れしてしまう。Q太郎はハッピーに対して見事に「借り」ばっかり作って、一切「貸し」はない関係だったように思う。人間なら親子でも許されないような貸借関係だった。
人の気まぐれで、面倒な役を一生背負わされることになったハッピーには、どんなお礼を言っても言い足りないのだが、あの世に行ったら、お礼とともに、最初あんなに嫌っていた「おとうと」を、途中からああまで可愛がるようになった訳も聞いてみたい。
その兄貴分のハッピーが亡くなる前後に、Q太郎はようやく大人になった。後編では、大人になったQ太郎が、いかに自分らしくあの世に歩いていったかについて語りたい。(2010・12・16)



第8回 ありがとう、Q太郎 後編

(1) 視界の外に出ていた子

ハッピー(上の猫)の腎不全が進んで、点滴治療の病院通いが3日に一度くらいの頻度になったころから、ハッピーが 亡くなるまで、Q太郎がどこにいたのかを思いさせない。むろん、その間どこかに預けていたわけではないから、一日二度きちんきちんとゴハンを食べて、私の傍で毎夜眠っていたのは違いないのだけれど、あのKY(空気の読めなさ)で鳴ら したご仁が、どうしたわけか気配を消して、私と同居人がハッピーを看取る障りになることを一切しなかった。あれだけ 餃子寝が好きだったQ太郎なのに、辛くて体勢を変えることがようやっとのハッピーを遠巻きにして、看取りの視野から きれいに外れていたのである。
そのことに改めて気づいたのは、ハッピーを送って骨上げをしたあと、どうにも悲し過ぎて家にいたたまれず、骨壺を抱いてなぜか梅も咲いていない青梅に出かけ、もっと寂しくなって家に戻って、玄関に迎えに出てくれていたQ太郎の顔 を改めて見たときのことだった。ちょこんと坐って真直ぐこっちの眼を見て、「おかえり」という顔をしていてので、嬉しくて懐かしくて申し訳なくて、号泣したのを覚えている。4年前の4月はじめのことだった。

(2)熱海での日々

その日から3ヶ月後、わたしたちは生活の拠点を熱海に移した。ハッピーよりは若かったとはいえ、すでに11歳になっていたQ太郎にとって、平面のマンションから3階建てへの転居は負担だったろうと思うのだが、いちばん最初に「猫階段」(2階から3階に上がるためにリビングの正面の壁に取り付けた猫専用の階段である。いまは、胡蝶蘭の鉢が点々と置いてある)から勢い余って滑り落ち、足を引きずったことがあるほかは、元気いっぱいに家の中を駈けずり回る4年間だった。
最初の頃はペット・シッターさんが見つからなくて、毎週のようにクルマで東京~熱海を往復していたが、どういうわけか移動中、ボサノヴァを歌う小野リサのCDをかけるとご機嫌であった。多賀に住む訓練士の田平さんとご縁が出来て面倒を見てくださるようになってからは、上限3泊くらいは留守番もできるようになった。
高円寺時代は大勢のお客さんだと半日でもベッドと壁との間に隠れて、接待の一切をお兄ちゃんに丸投げしていたやつだったが、役割が人ならぬ猫を創るというのか、ゼミ生たちが15、6人でやってきて大騒ぎしていても、猫好きを満足させる手練手管を弄してホスト役をなんなくこなし、「また、Qちゃんに会いたいから行かせて」と熱烈なファンをたくさん持つに至った。ハッピーがもしまだ元気でいたら、内弁慶の末っ子を決め込んでいただろうと思うと、つくづく猫も関係の生き物だなあと思う。
面白かったのは、義父に対してだけ、なぜかかつてのKYぶりを全開にしていたことである。義父は幼児の頃に近所で犬に噛まれたことがあったそうで、以来、人間以外の生き物が大嫌いという、はなはだ気の毒なひとであった。
高円寺のころから、義父は我が家に来ると、傍にやってきたハッピーやQ太郎を嫌そうな目付きで睨みつけ、あからさまに「シッ、あっち行け!」と追い払う。ハッピーなどは、初対面以後、義父の半径2メートルには決して近寄らなかった。Q太郎も右にならえをして敬して遠ざけていたのだが、熱海の家に義父が来るようになってからは、義父がどんなに追い散らしても、そっと背後から迫って、へばりついたりする。さんざん追い払っていた義父も、次第に根負けして、脇腹や背中に猫をくっつけて、日だまりで2人ならぬ1人と1匹が居眠りをすることもあった。
「あんなに厭がられてるのに、何だろうねえ」
「何かいいことでもあるのかなあ」
とわたしたちは面白がっていたのだが、老人同士、仲良くしましょうやというところだったのかもしれない。

(2) 三途の川の渡し守

あまりにも暑かった2010年8月の末、Q太郎のファンでもある我が友人たちが泊まりに来ているにもかかわらず、Q 太郎は珍しく大儀がって一度も顔を見せなかった。前日まで1階から3階までの階段を一気に上り下りしていただけに、急に食事を口にしなくなったのが不思議でしょうがないと、医者に連れて行ったら、末期の悪性リンパ腫との診断を受ける。それからきっちり10日間、Q太郎は叶う限りの抗ガン治療を受けた。
ショックで座り込みそうだったが、まったく座り込むどころではなかったのは、Q太郎の最期の日々が始まって間もなく、肺炎で緊急入院した義父が、いきなり病状を急変させて、重篤な状態に陥ったからである。同居人は東京の病院にいて、Q太郎の看病の主軸は私が担うことになった。
まったく食事がとれず、水を飲んでは嘔吐するQ太郎はみるみる痩せていき、抗がん剤の点滴治療を受けることにどれだけの意味があるのかと悩みつつも、水分が供給されると少し楽にはなるようなのだけがほんの小さな救いであった。本能的に体力の温存をはかっているのか、仕事部屋の一隅でうづくまってほとんど動かなかった。東京でのしごとがキャンセルになるなどいくつか偶然が重なって、私はQ太郎の最期の時間を見守るめぐり合わせとなった。
東京の義父の容態は緊迫し、Q太郎の残り時間も読めぬながら、生きてほしい気持ちと裏腹に、それぞれの苦しみからは早く解放してやりたいと思う気持ちが半ばして、私自身も食欲をどこかに置き忘れてしまい、仕事部屋のQ太郎の傍で寝起きせずにはいられなかった。いま、思えば、私こそ、からだが極点まで辛いQ太郎に対して、そっとしておいてやれない、KYな飼い主だったと思う。
仕事部屋の隅でうたた寝をしていたとき、ふと、Q太郎が動く気配がした。
よろよろとした足取りで、階段を1段ずつ昇って、3階にある寝室の、私のベッドににじり寄る。どこにそんな力が残っていたんだろうというように、ひょいっとベッドに乗って、私を待つ顔つきをした。病気が発覚する前、いつも一緒に寝ていたときの通りである。つられて横になると、私と同じ目線に顔を寄せて横になり、グルグル喉を鳴らした。それはるで、子守唄を歌っているようであった。1週間近く、ベッドで寝ることを忘れていた私は、Q太郎にあやされて眠りつくことができたのである。
翌朝、気がついたら、Q太郎は仕事部屋の隅で、前よりもぐったりとしていた。昨夜のそれは明らかに、義父とQ太郎と両方の看取りが重なって、訳が分からなくなりつつあった私の、世話をやいてくれたのであった。
「ありがとう」
ということばがぴったりの、Q太郎のもてなしであった。人間は人間の寝るべきところで疲れをとって、最期までちゃんと見届けてよと言われた気もした。
その2日後、最期の力を振り絞って2階のリビングにやってきたQ太郎は、ゆっくり一周した後に、食料庫の棚のしたに潜り込んで、明け方に旅立った。
東京の病院で、同居人からQ太郎が逝った知らせを聞いた義父は、最初の危篤状態に陥り、苦しい息をしながら、「そうかい、あんまり可愛がってやれなかったけど、面白い猫だったねえ。先に逝ったQちゃんに、三途の川の渡し守、してもらうか」と冗談を言ったそうである。同居人も、
「あいつはおっちょこちょいだから、ハッピーを呼んでくるまで待ってたほうがいいよ」
と冗談で返したらしい。
義父はそれから20日間後に、旅立って行った。
友人のハチモリさんところの、21歳になる老猫・ギューちゃんも、Q太郎と数時間違いで天寿を全うした。連日、それぞれの猫の病状を電話で知らせ合うのは、看取りの苦しさを分け合う得がたい体験であった。
勝手な空想にすぎないかもしれないが、88歳の義父と、人間でいったら70代のQ太郎、そして100歳をはるかに超えたギューちゃんという、オールド・ボーイ三人組が、三途の川を超えていくところを思い浮かべると、悲しさではなく、「ごくろうさまでした」という思いで胸が一杯になる。



第9回 こんにちは、ルイちゃん 前編

 施設にお世話になっている義母の容態が思わしくないので(東日本大地震の直後に骨折したことをきっかけに、一時は生死を彷徨う状況にまで陥っていた)、Q太郎が逝ってから8ヶ月、次の猫を飼うのを控えていた。

その義母の容態がようやく小康状態になったので、
「また、ネコ、飼おうかなあ」
と言ってみたら、この半年、見たこともないような満面の笑みを浮かべて、
「いいねえ」
と返してくれたので、五月の初頭から動き出した。

縁があって、5月22日の日曜日、兵庫県にある川西市のブリーダーさんのところへ、相方の紅野さんとルイちゃんを迎えに行った。アズマさんとおっしゃるブリーダーさんが、最寄の駅までクルマで迎えに来てくださったのだが、座席に座るや否や、こちらはルイちゃんの様子を聴くし、向こうは語り倒す。紅野さんはアズマさんと、ルイちゃんとのお見合いのとき(5月8日)のときに会っているが、私はまったくの初対面なのに、親戚の人のような感覚で話せるのが「猫フリーク」同士のコミュニケーションである。いきなり会った人と名乗り合いもそこそこに、猫に関する、一番したい話だけ延々する――ということは、けっこうあることなので、ましてや、これから一生連れ添う猫を渡す/貰うという関係だと、こういうことは当たり前のことである。

お宅に向かう途中で、大きなマーケットに立ち寄って、中の見えるタイプの移送用バスケットを購入する。売り場の中央に、ペットが20匹くらい陳列してあって、どの子もお昼ご飯直後のせいか、ふうっと眠そうなのが可愛かった。大雨が去って、五月晴れの今日、ここではない新しい家族のいるおうちに行く子がずいぶんいるんだろうなあと思う。なんだか知らないが、「カワイイ!」ではなく「ガンバレ!」という気分になった。

アズマさんは、玄関周りの小花を主役にした素敵なお庭が語るように、小さな命を愛して楽しむ方であった。お二階の、猫たちのいる部屋に案内してもらい、ルイのお父さんとお母さん、そしておばあちゃんに会った。アズマさん曰く、お父さんは稀代のアカンタレ、お母さんはしっかり者、おばあちゃんは20歳を越える、風格ある酋長・ジェロニモみたいな私好みの猫さんであった。お母さんのおなかにひっついて寝ていた4匹を、アズマさんはバスケットに入れて、
「下で遊ぼうね」
と離す。思えば、これが母子の永の別れになる(最初に貰われて行くのがルイである)のだが、しっかり者のおかあさんはうっとりお昼寝の最中であった。
『おあずかりします』
と一礼する。アカンタレのおとうさんもうつらうつら舟を漕いでお休み中だったので、こちらには、
「さいなら!」
と声をかけた。
出口近くにいたおばあちゃんの前を通るときは、心中、
『この子をお守りください』
とお願いする。それくらい、神々しいお姿であった。

在来線を乗り継いで、新幹線に乗り換え、グリーン車で熱海の自宅まで。
贅沢をする気はなかったのだが、指定席がとれず、紅野さんがせっせと貯めたポイントをすべて使い切ってのアップグレードである。とはいえ、小動物の移送はどこまで乗っても270円らしく(写真参照)、人間様が贅沢をした具合だが、どうしてもミイミイ鳴くところ、周りのお客さんがみんな猫好きで許してくれたのは、ルイの運かもしれない。

新幹線の中で、アズマさんからの教えを思い出す。
その1、
食事はドライフードのみにて。缶詰は基本、与えない。そのつど、適量を器に出して、30分過ぎたら残りを始末すること。出しっぱなしの餌は酸化して、結石の原因になる。器は毎回洗うこと。器に残った油分も酸化する。

その2、
ワクチンの接種がすべて完了する(6月10日)までは、玄関先に出さない。玄関はばい菌侵入の水際でもある。

さすが、現役の動物病院看護師さんらしい、的確な指示であった。前の二匹よりも、一日でも健康で長く生きてほしい。そのためには、できること、いろいろ工夫してみるというのが、今回、胸に誓っていることである。

とはいえ、まあ、駈けずり回る、飛び上がる、窓ガラスに映った自分の姿を威嚇する、鳴く、食べる、こちらの手足にしがみつく、疲れ果てて寝る・・・まったく、目まぐるしい。あっという間に水のカップをひっくり返し、済ました顔でちっちゃなトイレで悠然とオシッコをしている。
「環境に馴れるかどうか、心配ですから、この毛布をつけておきます」
といって、アズマさんが渡してくれた赤い格子のブランケットは、揉みくちゃになっている。Q太郎は寝込む直前まで「幼稚園児のように」元気だとばかり思っていたが、リアル幼稚園児の無駄な活力は、大したものである。




第10回 片付けものの時間

何を隠そう、私にとって「片付けもの」は特別な時間である。正確に言えば、「片付けものをしながら、そのモノにまつわる思い出に向き合う時間」を大切に思っている。

麻のように乱れているわが研究室に足を踏み入れたことがある人には、「片付けもののことを書くよりも、片付けものをしたほうがいいよ」と苦笑されそうではあるが、あれはあれで、まるで片付けていないのではなくて、「永遠に続く、片付けの途上風景」なのでご容赦願いたい。

2011年は、私の半世紀を超えた人生の中でも、最もたくさんの時間を割いて、「片付けもの」をした年であった。

相次いで逝った義父母の、家全体の片付けに加え、高円寺のマンションの全面リニューアル、そして研究室も大々的に模様替えを行った。

義父母の家は50年近くの歳月(そのうち、31年は私も折に触れては訪れて、さまざまな記憶を共有している)を経た大物、高円寺のマンションが16年、研究室は12年の月日を過ごした思い出深い場所である。

3箇所に共通するのは、尋常ではない量の本・本・本。

義父母の家と高円寺のマンションに共通するのは、着道楽だった義母とその影響を受けた私が溜め込んだ和服と洋服の数々。研究室には永年の間に漂流物のように寄り着いた雑貨類が埋蔵されていた。

昨今流行の「断捨離」にならえば、読まない本・着ない衣類・統一性のない雑貨などはいずれも裂帛の気合いでやっつけるべきベスト3なのだろうが、私はそれらと対話し、試されるのが好きである。

義母が遺した「龍(りゅう)の着物」。シボがしっかり立っているどっしりした生地で、地の色は月白(げっぱく)―ほんの少し青みがかった白。そこに薄墨色でもやもやと渦巻く、雲のような大きな文様がとび柄のように染めてある。

義母がこれを着たところを見たのは、たった1回きりだが、この着物を挟んで、ああでもない、こうでもないと話をした回数は、5回を下らない。

そのたった1回は、私が結婚する前、当時神戸にあった私の実家に、義父と一緒に結納のために訪ねてきてくれたときだった。

義母は163センチくらいあったから、昔の女の人にすれば長身な方であったが、龍の着物を着た姿は、遠見にも170センチくらいある感じがした。姿勢の良い人でもあったので、正直、格好良いなあと思った。茶色の綴れの帯も着物にしっくりと馴染んで、「大人の着こなし」だなあとほれぼれした。

あの日、自分も含めて誰が何を来ていたのかすべて忘れてしまったのに、今でもやってきたときの義母の姿、かえって行く帯付きの後ろ姿を、はっきり思い浮かべることができる。

義母自身も気に入っていたらしく、後でそのことを話したら、とても喜んでくれた。

衣替えを手伝うとき、「何かの折にはこの着物で決まりですね」と話していた。

あるとき、着物を挟んで義母と話をしていた脇を、たまたま通りかかった相棒(義母からすれば息子)に、

「この着物、結納のとき、素敵だったよね」

と同意を求めたら、

「着物? 覚えてないなあ。それ? うん、『極妻』みたい。昇り龍の柄だよね」

と一言。

ちょうど、岩下志麻主演の映画『極道の妻たち』が話題になっていたころだった。上手いこと言うなあと思ったのだが、義母はそれを聞いて、えらくショックを受け、以後とうとう門外不出の封印された着物になってしまったのである。

義母の世代(1920年代生まれ)にとっては、素人と玄人との区別は厳然たるもので、「素人」が粋がった(意気がった)格好をするのはものすごく恥ずかしいことなのだそうである。
ましてや、「いい年」をして、こともあろうに、「長男の結納」にお嫁さんになる人の家に着ていった着物が「鉄火場の姐さん」に見えたかもしれないというのは、取り返しのつかないことだと、覚えているだけでも5回くらい力説された。

私とすれば、あんなに似合うのに、なんで息子の暢気な一言でお蔵入りにしてしまうのか、残念で仕方がなかったのだけれど、義母は亡くなるまでとうとう一度も龍の着物を着なかった。
着道楽だったが、否、着道楽だったからこそ、無数のルールに縛られていた。

とはいえ私も、花火大会に行くらしい若い女の子たちが、浴衣にレースの半襟をつけていたり、結婚式場で花嫁さんが洋髪に打ち掛けを着ているのを見たりすると、心の中で「ありえない」(浴衣に半襟は暑苦しく見える、洋髪×打ち掛けはどんなスリムな人でもスノーマンみたいに見える、という理由で)と呟いてしまうから、学習したルールを刷新するのはなかなか大変である。

気がついたら、義母が龍の着物を着て私の家に来た時と同じ年になってしまったが、私にはまだ、何かが足りなくて、着こなせそうにない。

それから、「握り石」。うちの研究室は、朗読をはじめとして年間を通じてさまざまなイベントを行っているので、小道具を含めて雑貨も山ほどあるのだが、部屋の真ん中にあるのは10センチばかりの緑色の石であった。

手に取ると握り心地がとても良いので、勝手に「握り石」と名付けている。いまから7年ほど前、東京からの転居を考え初め、土地探しをしていたとき、有力候補の大磯で拾った石である。

その大磯に、こゆるぎの浜があって、延々続く浜辺には、さざれ石と呼ばれるいろんな色の小石が無数に打ち寄せられている。

「握り石」もそんな中の一つであった。手に取った瞬間に、これは絶対に離せないと思った。

どういうわけか、私は子どもの頃から石が大好きだった。お城の石垣ならどんなに長い時間見ていても見飽きないし、黒の碁石(那智黒という熊野で採れる石から作られていた)触り心地が好きでたまらなかった。砂利を踏むのも、石蹴りをするのも好きだった。

小石がある河原や浜辺に行くと、取り憑かれたように石を拾ってしまうので、帰りのリュックサックが重たくなり過ぎて休み休み歩いた思い出もある。

そんな石好きにとって、行ったことがある人はお分かりになると思うが、こゆるぎの浜は垂涎の場所である。

久しぶりに時間を忘れて、家に連れて帰る石探しに没頭した。あちこち移動した揚げ句、日が傾いて日没近くなり、「握り石」に出会った。右手に石を握って立ち上がり、目を上げたら、夕焼けに映える林があり、その先に日本家屋らしい一角が遠望できた。

『こんな家に住めたら、多少命が縮まってもいいなあ』

とため息を吐いて近寄っていったら、それはなんと吉田茂邸であった。

当時はすでに西武系ホテルの別館になっていたようだが、気韻のようなものが漂っていて、ぜひいつか、内部も見学したいと思っていたのだが、あろうことか2009年に漏電による火災で母屋が全焼してしまった。

「握り石」と吉田茂邸の間には何の因果関係もないのだが、「握り石」を握るたびに、会ったことのない吉田茂とそのお邸が浮かんで来るから不思議である。

犬を連れて散歩した吉田茂が、この「握り石」を踏んづけた可能性はある。そして、吉田茂が亡くなったようにいまはこの石の持ち主ぶっている私もいつかは死に、この研究室がある早稲田大学の16号館が消失しても、「握り石」はこのまんま、ころんと存在しているんだと思うと、なんだかあくせくしても仕方ないような、ほっとした気持ちになる。

子どもの頃、どんな気持ちで石が好きだったのかは思い出せないけれど、石に触ると落ち着いたのには、石から何か根源的な働きかけを受けていたからに違いない。

ただ、大人になると、そして大人をずーっとやっていると、モノと直接対話して感じたり考えたりしたことを忘れてしまう。研究室の真ん中にあった「握り石」を片付けようとして、やっぱり真ん中に置き直した。

たった二つばかり、モノにまつわる思い出を記しても、それに連れてさまざまな記憶が次々に喚起され、頭の中はスノードームを揺すったようになる。片付けものの時間は素晴らしい。

ちょうど、これを書いていたら、奈良に住む実母から、大きな小包が届いた。

中には、抱き人形(白人の子と、黒人の子)が2体と、大正期のお雛様のお道具がぎっしり。
80歳を目前にして、実母も片付けものに余念がないようだ。

これらのお話は、またいつかの機会に。



第11回 こんにちは、ルイちゃん 後編

はやいもので、前編からはや8ヶ月も経過してしまった。
ルイは来月で1歳になる。

兵庫から熱海へルイを連れ帰った時には、その1ヶ月後に義母が亡くなるとは思ってもいなかった。これまで、危ないところを何度でも切り抜けて持ち直した義母だったので、「なんとかなる」ような気がしていたのだが、とうとう逝ってしまったのである。(ブログやこの欄に義母のことを書こうとして書けなかった。不思議なことに、小説にしたら書けた。「稀人舎通信」の第8号(2011年11月号)に「花びらを蒔くまで」というタイトルで掲載している。)

何の根拠もないのだが、義母がルイを呼んでくれた気がしている。どんどん生気を失って行く義母を見詰めながら、湧いてくるように元気なルイを育てていた8ヶ月だった。

そこで、ルイに学ぶ「元気であること」3か条。


その1。「食べたがること」

前編にも記した通り、ルイを「長生きアスリート」として育てる決心をした私は、ブリーダーのアズマさんと主治医のツユキ先生の教え通り、1種類のキャットフードを適量与え続けている。
海苔とスイカが好きだったハッピーや、アイスクリームが好きだったQ太郎とは違い、ルイは公式にはキャットフードしか口にしていないはずである。
とはいえ、当然、好奇心と本能的な食欲から、目を離したスキに、菓子パンやふやけただし昆布、袋入りのかりんとう、鰯のアタマやおまんじゅうなどをくすねて、叱られている。留守の時は、叱られないから、それらを部屋中引っ張り回して、大して食べもしていないのだが、食べる気満々だった痕跡が見て取れる。

物理的に「いっぱい食べること」が元気の証拠であることは言うまでもないけれど、その前にまず、「食べたがること」がある。

私は、しごとを手伝ってくれた学生さんやスタッフと、おやつや食事をともにすることがけっこうあるのだが、最終的に食べた量よりむしろ食べ始めのテンションでその人の健康の度合いが分かる気がするのである。食が細い人でも、実に好奇心満々で美味しそうに食べているのを見ると、
『大丈夫。』
と感じるし、けっこう量をこなしていても、心ここにあらずの様子が見えると、
『こころとからだが一緒に食べてないなあ』
と感じて心配になる。


その2。「遊びたがること」

いま、熱中しているのは、 (1)釣り竿の先に星形の宇宙人がついているおもちゃ(月刊誌「ねこのきもち」のおまけ)と、ワイヤーの先にトンボがついているおもちゃ(アズマさんからのプレゼント)でかけすり回ったり飛び上がったりすること。
(2)猫階段を用もなく昇降し、人間を上から目線で眺めること。
(3)胡蝶蘭の鉢をぎりぎりにかすめて、ソファの背もたれ部分を真横に走り回ること(サーカスなんかで金網の球体の中をバイクで走り回るのがあるが、あんな感じで)。
(4)ともかくどんな大きさであれ、箱に入ること。
(5)自分のものと思い込んでいるぬいぐるみ2個を、家の中じゅう、連れ回すこと。
(6)パンのビニール袋についてくる針金をサッカーボールのように蹴散らすこと。

一人遊びもしているが、人間がいると、一生懸命気を引いて、

『遊ぼうよお!』

と誘って来る。あんまり面白そうなので、つい、かまってしまい、その直前まで抱えていたイライラや心配事を忘れる。

相方などは、(1)の調教師を自認していて、走る速度を調整させたり、ジャンプの高さや飛距離を延ばさせたりと、その真剣さと来たら、ボリショイサーカスのクマ使いみたいである。

ルイの元気は「スキなことをして遊ぶ」ことでチャージされているし、元気だから「スキなことをして遊べる」ようである。
むろん、人間はそう単純には行かないけれど、いまの自分は何をしたら楽しいか考えるというのは、一生付いて回る大切なことかもしれない。

幸せなことに私は、長年の経験から、どんなに忙しくても体調が悪くても自分に嫌気がさしていても、「猫をかまう」という遊びをすると機嫌が良くなることがわかっているので、実際の猫に触れられない時は、それを想像出来るような猫グッズを身近に配している。


その3。「気がついたら寝ていること」

猫の語源の一つは「睡獣(ねむりけもの)」、つまりよく寝るケモノということだそうだが、どの猫も驚くほど寝る。
ルイも寝る、寝込む、寝倒す。当たり前のようだが、起きているとき以外は熟睡しているのである。あそこまで寝られるというのは羨ましい。

私の回りにも睡眠障害に悩まされている友人や知人がけっこういるのだが、もし、環境が許せば、最終手段として猫を飼うというのを提案したいと思う。猫族は眠りのエキスパート集団であり、全員もれなく達人であるからだ。

適当にそこいらで寝ているようでありながら、よく観察すると、

(1)安全 (2)安心 (3)快適 

といった3要素が、ちゃんと満たされたところを選んで寝ている。その上、そうした場所を家の中じゅうに持っていて、寝ることを楽しんでいる。

ついさきごろまで、私は寝るのが勿体なくて、寝ないでしごとをしたり遊び続けたりできたらどんなに充実していいだろうと考えていたが、ルイの寝顔を見ていると、寝るのもけっこう楽しそうだなと思いはじめている。
あの眠りが思い切り遊んだことへのカミサマからのご褒美なのだとすれば、もっともっと濃く遊んで、愉しく眠れるようになりたい。


私が尊敬して止まない、中川一政のことばを記しておく。


「私は、よく生きた者が、よく死ぬことが出来るのだと思っている。
それはよく働くものが、よく眠るのと同じ事で、そこになんの理屈も神秘もない。」




第12回 原点を見詰め直す

2012年度の間中、この連載随筆の更新を怠っていて、もしこの世にこの欄の読者がいて下さったら、ほんとうに申し訳ありませんでした。



書き尽くせないほど、いろんなことがあって、心身ともに疾風怒濤の漂流船のようでしたが、回りの方々に支えていただいて、なんとか乗り切ってきました。
家族、研究室のスタッフ、学生さんたち、同僚の先生方、ともだち、私の日常を支えてくれるすべての方々に、感謝の気持ちを持ちつつ、また、2013年度、突っ走って行こうと思います。

突っ走る前に、今日は「原点を見詰め直す」という、ちょっと学校の先生の演説みたいな題目で、書いてみようと思います。

・・・というか、いま、ちょうど、大学院(教育学研究科)国語教育専攻の、専攻主任を務めているので、そこで新入生に向けて話す予定の話とも重なるので、文字通り、「学校の先生の演説」ですね。しばし、お付き合い下さいませ!



先月の16日、ふとしたご縁で、神戸のファッション美術館で、藤本ハルミさんというデザイナーの講演会に参加しました。
ちょうど神戸は、東京を出し抜いて、世界に向けて「ファッション都市宣言」をしてから今年が40年になるのだそうです。
その記念に、神戸を拠点として世界的にも活躍してこられた、御年86歳の藤本ハルミさんにご登壇を願ったようでした。



黒地にグリーンの花が咲いた、素敵なスーツに身を包んだ藤本さんは、開口一番に、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』の「女は作られる」ということばをもじって、「年寄りは作られる」と講演を始められました。
自分は昨年、悪くしていた足の手術が成功して、再び杖なしで歩き回れるようになったけれど、私のともだちは、今回の講演のことを聞いて、「ほんま、行きたいねんけど、息子がおかあちゃん、出歩くのんやめとき言うよってに、よう行かんわ」ってとても元気なのに、泣く泣く諦めたというのを聞いて、「こないして元気な人までどんどん、『としより』に作られていくねんなー」と気付いたそうです。
街の洋裁店から身を起こして、世界で活躍されるに至ったお話は、戦後史そのもので、聞き応えがあり、すっかり引き込まれました。

70歳のときに、阪神大震災に遭われ、倒壊した自宅の下敷きになっていたところを、隣家の大学生に救出され、どうせ拾った命だから、もう一度、パリでコレクションをやろう!と決心して実行に移されたお話にも、勇気をいっぱい貰いました。

折しも、2012年度は、私が尊敬してやまない石堂常世先生が70歳の定年でご退職されたこともあり、次の職場でも勇躍されるという石堂先生の颯爽としたお姿を拝見しつつ、自身を顧みるに、『今みたいにふらふらしていて、果たして70歳まで働き続けられるのだろうか・・・』という不安もアタマをよぎっていたところへ、「70歳でパリコレ再挑戦!」は響きました。



しかし、最も眼を開かれたのは、ご講演の最後に、藤本ハルミさんが仰ったことばでした。



講演の時間がオーバーぎみになり、主催者側の司会のひとが、「では、藤本先生、最後に、今後、神戸がファッション都市として世界にいっそう羽ばたくために、何かご提言をお願いします」とまとめにかかった質問をした―私も講演やシンポジウムの司会を務めると、何か「意味があった」感を盛り上げようとして、こういうまとめモードの発問をすることが、ままあります―のに対して、藤本ハルミさんは、一瞬、考えた後に、



「そうですね、昭和20年の神戸大空襲で、街が全部焼け野が原になって、生き残った人はみんな着の身着のままになった、そこから自分や子どもや、戦争から帰って来た男たちの着るもんを作ることから神戸ファッションは始まった、ちゅうことを、忘れへんということですね」

と言われました。

歴史資料によれば、この終戦の年、2月、3月、5月、6月、8月にのべ128回爆撃を受けて、9000人近い市民が犠牲になり、15万戸の家屋が焼失しています。

ちなみに、この随筆コーナーにも登場した私の義父・紅野敏郎が、西宮の実家(醤油の醸造業を営んでいました)を焼き払われ、一家が離散したのも、この神戸の大空襲でした。
小説やアニメ映画で知られる、野坂昭如の『火垂るの墓』も、神戸の大空襲で戦災孤児になった兄妹のことを描いています。

神戸ファッションの未来を展望するというとき、藤本ハルミさんは、「なんにもなし」になった1945年を、神戸の「原点」として見詰め直すことを、提案されたのだと思います。
重い、しかし「遺族」として出来るだけのことは成し遂げて来たという自負も感じられる、きっぱりとして清々しい「遺言」だと感じました。
もやもやとしたアタマの中が、すっと晴れるような瞬間を味わったのは、あの会場の中で、私だけではなかったと思います。



人の数だけ、その人の「原点」があります。

あそこから歩き出せたんだから、それに比べたら、いまの苦しさや迷いもまた、きっと乗り切って行けるはずだと思えるような「原点」を見詰め直して、また、歩いて行けたらなと思います。

あなたの「原点」は何ですか?





熱海のとんび 第13回 六年目の熱海

金 井 景 子

時が経つのは早いもので、熱海に引っ越してから6回目の秋を迎えた。



義父が亡くなり、東日本大震災が起こり、義母が亡くなった。2人のお骨の一部を分骨して、熱海沖に納めた。そのことで毎日眺めていた目の前の海が、「父母のいる場所」として、より一層、身近に感じられるようになった。


健康面で言うと、義母を送った直後から、右肩を約8ヶ月、左肩を約11ヶ月、「五十肩」の激痛に見舞われた。どちらも初期の頃は夜間痛がひどくて、上向きに寝られず、ベッドに腰をかけてぼーっとしていた夜が幾晩も続いた。
老いの階段を降りている(昇っている?)実感があった。庭仕事は大好きなのだけれど、一昨年と昨年は、肩が痛すぎるときに、「熱海シルバー人材センター」のオジイさま軍団に真夏の草取りをお願いして、2度とも、なめるように庭を綺麗にしてもらったが、丹精した数々のハーブ類(オジイさま方から見ればただの雑草)も行方知れずとなった(こぼれ種から、翌年も生えてきたのではあったが)。

もともと魚や野菜が好きで、それらを貪欲に楽しもうと熱海にやってきたのだが、6年間で何匹くらい魚を食べたかなあと思い返してみると、ちょっと殺生が過ぎたかな・・・と反省する位、いただきました。鰹とか鱸くらいまでの大きさの魚ならさばけるようになったし、獲れたての鰯でアンチョビもこさえている。

野菜は、熱海からクルマで20分くらいのところにある丹那盆地に、師と仰ぐ神尾タケ子さんという名人がいて、ずっとその方の野菜をいただいているので、わが細胞はすべて神尾師匠作の野菜によって成り立っていると思う。
むろん、まだまだ少量ではあるが、庭の野菜たちも食卓を賑わしてくれるようになった。


この間、熱海の街はというと、延々進行中だった駅前のロータリーの大規模工事がようやく完成しつつある。駅の改札を出たらすぐにあったタクシー乗り場が、探さないと見つからないような足元も危ないところに移動し、半世紀生きてきて「生活を不便にするための公共工事」というものがあることを知った。
日照権や騒音の問題で揉めた、目の下に見える熱海中学の校舎増設(生徒の数が減って、小嵐中学と合併することになった)も終了した。
小嵐中学が校区だった生徒たちは、40分以上かけて急な坂を登校して来ることになる。彼らにしてみればこれも、生活を不便にする公共工事であろう。


やはり目の下にある桃山小学校は、ただでさえ少なかった児童数がこの6年でみるみる減少して、また別の小学校と合併する話が浮上している。今度はどこの小学生たちが不便になるのだろう。
思い出すのは引っ越してきた年の秋、運動会の企画を担当している先生がジャニーズ好きらしく、入場行進の練習曲がジャニーズ・メドレーで、曲のところどころで、間の手のようにマーチング練習をしている小学生たちが「おー!」とか「やー!」とか叫ぶのが面白かった。いつだったか一人で渋谷を歩いているとき、同じ曲が流れてその箇所が来たときに、「おー!」と声を出した自分に驚いたことがある。
身体動作を伴う音楽の刷り込みの怖さを思った。ここいらで、工事関係は一段落と願いたいところであるが、駅ビルを立て替え工事がほどなく始まるので、また2、3年はガタガタすることだろう。


めったに熱海市の市役所ホームページなど見たことはないのだが、人口のことが気になってアクセスしてみると、こんな分析結果が記されていた。

熱海市は、平成22年国勢調査の結果で、高齢化率(65歳以上の人口割合)が38.8%に達し、日本の30年後の姿となっています。しかし、昭和30年代・40年代には、その構造は全国・静岡県と大差がなく、逆に低いくらいでした。

そしてこんな記述もあった。

熱海市の人口は昭和40年にピーク(54,540人)を迎え、その後減少傾向にあります。人口構造は、昭和40年と平成22年とを比べると、15歳未満人口(年少人口)の割合は 19.2% から 8.1%に、15歳から64歳人口(生産年齢人口)の割合は 71.1% から 53.3% に減少するなど大きく変化し、高齢化率 38.6% の超高齢社会をはるかに上回る都市となっています。

 そうか! 熱海は超高齢化社会の先端を突っ走っている「未来都市」だったのだ。この6年でじっくりと「老人力」を養いつつある私にとって、「未来都市」の主役になる日が待ち遠しいような気持ちになるから不思議である。



「未来都市」で10年後にはやってみたいと考えている夢を書き付けておく。

美味しい料理とお酒、歌、踊り、おしゃべりでいっぱいの、上演映画を一本も観なくても楽しめる、映画祭を開催すること(誰かが主催してくれるようだったら、ほんとうのところは、そのお手伝いの方が、なお、嬉しいけれど)。


そして、20年後にはやっている自信があること。

我が家をキーステーションとした、ラジオ局。
名称ももう、決めてある。
「鉢アラクラジオ」(注・「鉢アラク」とは、我が家の昔の住所に記載されていた字(あざ)の名前)。

つい先日、「もしかしたら、熱海に引っ越してみたいかも」という友人が現れたので、相方と2人で、精一杯、熱海の良いところの宣伝に努めたつもりだが、果たして彼の決断やいかに。



私の大好きなとんびは、6年前と変わらず今日も、熱海の空を、暢気そうに大きく大きく弧を描いて飛んでいる。