自己紹介


氏名 村上 公一 (むらかみ きみかず)
出生 1956年12月、愛知県生まれ
所属、担当 ・教育・総合科学学術院教授
・平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)所長
担当科目 ・(中国語の基礎)・(中国語のコミュニケーションの基礎)・中国語演習・中国語圏の社会と文化
・複合文化学の建築物・複合文化学の道具箱・複合文化学の見取図・(複合文化学特論)
・複合文化学テーマ演習・複合文化学演習
・中国語科教育法・教職実践演習
・チュートリアル中国語・中国の文化 *グローバルエデュケーションセンター設置科目
研究テーマ ・ICT環境下の多言語間コミュニケーションと外国語教育(中国語を中心に)
・東アジアの貸本文化史
・東アジアにおける裁判物語の形成と展開
研究室 早稲田大学早稲田キャンパス16号館814号室
電話 (71)−3930(内線)/03−5286−1532(直通)
電子メール kimikazu+@+waseda.jp(2個の+を削除して下さい)
教員活動情報 教員活動情報(早稲田大学)
自己紹介 教員自己紹介(複合文化学通通信第13号 2009.3.30)


2014年11月から大学の経営メンバーに加わり、これまで経験したことのない重圧を感じ続け、またこれまで経験したことのない多忙な日々を過ごしてきました。先月で4年間の任期が無事終わり、残務処理も全て終了しました。支えて下さった全ての皆さまに感謝いたします。大学についてこれまでとは違った視点から考えることができ、貴重な経験をさせていただきました。平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)所長と、系列校の学校長についてはまだ任期が続いています。当面はこの二つの職務と所属する学部での教育活動に全ての力を注ぐつもりです。研究のためのまとまった時間はまだしばらくは持てそうにありません。

(2018/12/15記)

2007年開設の複合文化学科の開設準備から始まり、新学科の学科主任、学部の教務主任、学術院長兼学部長とここ数年は自らの教育・研究よりも、学部や学科の運営等に多くの時間を割く日々が続きました。昨年9月で役職生活が終わり、さて教育・研究に邁進するぞと心身のスイッチを切り替えたところが、11月から今度は大学や付属・系属校関連の役職に就くことになり、それから半年、いまだに自分自身の立ち位置がしっくりせず、また時間の管理も思うようにできません。

(2015/5/20記)

早稲田大学での教育・研究生活も10年目に入りました。この10年で環境も大きく変わり、現在は教育学部の中国語科目と学際コース現代社会・文化領域の演習、オープン教育センターのチュートリアル中国語(コーディネーター)が教育面での中心的な仕事です。正式な所属箇所は組織変更により教育学部から教育・総合科学学術院というものに変わりました。2007年からは現在演習を担当している学際コースが発展・継承され、複合文化学科という耳慣れない学科が新設され、そちらの担当になります(あくまでも予定)。

研究(趣味)の分野では仕事との関係から中国語教育関係のものの比重が増えています。IT環境をフルに生かしながら人間性を失わない外国語学習空間を何とか作りたいものです。中国語の授業は赴任2年目からコンピュータ教室を使って授業をしてきましたが、昨年から全て撤退し、授業は教室で[人]対[人]、予復習はネット上でという方向を心がけています。

純粋な趣味(東アジアにおける裁判物語の形成と展開の研究)はしばらく休止しています。貸本文化史については台湾の貸本文化についてまとめているところです。きりがついたら、ここしばらく資料を集めてきた1930年代から40年代にかけての流通図書館を中心とした書籍流通についてまとめてみたいと考えています。

(2006/5/31記)


1997年4月に福井大学から早稲田大学に移りました。授業は「中国語」を中心に担当しています。「活性化した授業」を目指しています。福井大学ではコンピュータを用いた授業の実験をしていましたが、現在は、「単語カード」「摸造紙(B紙)」といった小道具に肉声や顔の動きを使って授業の活性化を図っています。

学部・大学院(名古屋大学)の頃から、中国近世(宋〜清)の戯曲小説中の裁判事件を描いた作品に興味を持っています。虚構を通して現実の世界にある種の秩序づけを行う戯曲・小説という道具の中に、現実の世界そのものの秩序づけの道具である裁判制度を取り込むことの意味を考えています。

また、これらの通俗文芸を当時の人々はどのように享受したのかにも興味を持っています。特に貸本形式での流通について調査しています。ヨーロッパや日本では近代読者の成立に深く関わったとされる貸本・貸本屋が中国ではどのような存在であったのか。新聞・雑誌などの近代メディアとの関係も視野に入れその存在形態、存在意義を明らかにしていきたいと考えています。

大学院満期退学後(前期3年、後期6年、中国復旦大学留学期間を含め計9年間も大学院生でした)、名古屋大学の助手(2年間)を経て1990年4月に福井大学教育学部に中国語担当教員として赴任しました。

この大学には、中学校教員養成課程中国語科という、日本で唯一の中学校中国語教員養成専門のコースがありました。赴任早々「中国語科教育法」を担当することになり、授業準備のため、関係資料の調査を始めたのですが、中国語教育法関係の先行研究はほとんど皆無に近いことを知り愕然としました。かくいう私自身も「教育法」など考えたこともないまま大学(1986年から非常勤講師をしていました)で中国語を教えてきたわけで、なんという破廉恥、なんという無自覚、それにしても哀れな学生たちよ、こんな教員に教えられて、と自己嫌悪に陥ることひとしきり、一念発起して、中国語教育法についての学習(研究などと言えるレベルではありません)を始めました。

現在、私自身の位置づけでは、「中国語を教えること」が義務的な仕事であり、その仕事をするために「中国語と中国語教授法を学ぶこと」が半義務的な仕事であり、「中国戯曲小説研究」>とか「中国書籍流通史研究」は趣味的な仕事ということになっています。

(1998/06/01記)


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公開日 1998/06/01 最終更新日 2018/12/15

MURAKAMI Kimikazu