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無意味な自己紹介


わたしがわたし自身のことを語ると、それが自己紹介になり、ここでのように「プロフィール」ともなります。しかしそのときわたしは、わたし自身の何を語ればいいのでしょう。

そのものがどういうものかを示すのは、そのものの特徴とか属性とか呼ばれています。だとすれば「わたし」の場合も、その属性を語れば一応わたしについて語ったことになるように思われます。たとえば身体的な特徴、身長や肉付きの良し悪し、髪の毛の生え具合、足の長さ、容貌などなど。指紋や瞳の虹彩は、今日ある人を特定する重要な手がかりと見なされていますし、パスポートに写真が必要なのも、顔の形状が個人の特定にとって重要な役割を果たすからでしょう。声の特徴やふとしたときの表情なども、その人と切り離すことのできない属性といわれています。

あるいは生まれついての性格や、習慣的に身につけた気質も重要です。怒りっぽいとか神経質だとか、すぐに笑うとかいったことです。
また、わたしの置かれた社会的立場も一種のわたしの属性と見なせます。父親としてのわたし、逆に子どもとしてのわたし、顧客としてのわたし、教員としてのわたし等々も、それぞれわたしの一面を成しています。さらには政治思想や宗教的信条がその人にとって基本的な人格を構成している場合もあるでしょう。

あるいは、いっそう基礎的な部分でわたしを成り立たせているように思えるものに、記憶があります。子どものころからずっとわたしが経験してきたことを、ひと連なりの流れのようにわたしは感じており、そうした記憶の連続がわたしのアイデンティティ(自分としての同一性・一貫性)を形づくっています。朝目覚めたら昨日までの記憶の連続と断ち切られていたというのでは、とてもわたしの同一性を保てません。その意味で記憶はわたしを成り立たせている基盤ともいえましょう。

しかしこれまで挙げた諸々の属性、身体や、心の傾向性や、社会的立場や、思想信条や、記憶は、いわばわたしがたまたま身につけたものです。その意味で属性とは、偶然的なもの、偶有性(accident)です。
では、それら偶然わたしが身にまとってきた無数の事柄をひとつひとつ数えあげていけば、それでわたしはわたしについて語ることになるのでしょうか。しかしたまねぎの皮を一枚一枚剥ぎ取っていくように属性をわたしから切り離して列挙していくと、その芯には空虚しか残らないようにも思えます。「わたし」という存在はいつの間にかそこからするりと脱け落ちてしまうような。。。

もしわたしが「わたしの見いだした世界」という本を書くとすれば、思考し世界を眺める主体たる「わたし」のみが、この本のなかでけっして言及できないものではあるまいか、ウィトゲンシュタインという哲学者はそうした意味のことを述べています。(『論理哲学論考』5・631)
つまりわたしというのは、そこから世界が見つめられている起点であり、その意味でそこから世界が開かれているところである、といえるのです。わたしとはいわば、世界という書物そのものとぴったり重なっているわけです。だとすると、その世界に登場する諸々の事物をいくら指し示しても、わたしそのものには届きません。たとえば身体、性格、記憶等、偶然わたしがこの世界で身につけた属性をいくら数えあげたところで、けっしてわたしを記述しえたことにはならないのです。

それでは、いまわたしはどのようにプロフィールを語ればいいのでしょう。口ごもり、少々白々しくも「語りえないものには沈黙あるのみ」とでも嘯くほかないのでしょうか。(20110419)



これまでのプロフィール

 5. 2010年4月の雑感
   映画館のなかで

 4. 2009年11月の雑感
   ゼミ担当に関してなど(プロフィール?)

 3. 2009年3月の雑感
   十七年間京都市立芸術大学で過ごし……

 2. プロフィール(早稲田大学・第二文学部の公式サイトより)
   わたしの画像は、新進気鋭のアーティスト厚地朋子さんが描いてくれました
   (毎年毎年この像から隔たっていきますが。。。)

 1. 教員紹介のページ
   京都市立芸術大学時代のプロフィールです

 0. 研究業績(研究者データベース)
   とりあえずこれまでの仕事が「わたし」の実体でしょうか