フィレンツェだより
2007年12月13日



 




コルトーナのレプッブリカ広場
クリスマス飾りの下を 猫が闊歩する



§コルトーナの旅(前編)

しばらく前になるが,米子にお住まいの方からメールをいただいた.


 「フィレンツェだより」を参考に,カルツァ修道院の旧「食堂」(チェナコロ)のフランチャビージョ「最後の晩餐」,サン・サルヴィ修道院の旧「食堂」のアンドレア・サルトの「最後の晩餐」をご夫妻でご覧になったということだった.サン・サルヴィの訪問者の記帳の中に私たちの署名を見つけたとおっしゃっていた.6月13日の「フィレンツェだより」を読むと,確かに漢字で記名したとある.

 12月11日にサン・サルヴィの旧「食堂」美術館を再訪し,記帳のノートにこのご夫妻の名前を「発見」し,私たちも嬉しかった.そのようにして何度か日本人が訪れるせいか,係員の男性が私たちを見て「こんにちは」と言った.


2度目のサン・サルヴィで
 前回は悲壮な覚悟をして,眦を決しながら,前寓居のあるヴェンティセッテ・アプリーレ通りからサン・サルヴィまで歩いて行ったが,今回は寓居近くのバス停から17番のバスに乗り,サン・マルコ広場で6番か20番に乗り継ぐという方法で簡単に行くことができた.

 前寓居はサン・マルコ広場のすぐ傍だったので,前回も少なくとも2つの系統のどちらかのバスで行けば,簡単に行き着けたことになるが,何事も試行錯誤が大事で,徒歩で行ったおかげで多少の土地勘ができた.

 前回は写真を取らせてもらえたので,「最後の晩餐」も紹介したが,今回は写真を撮っていたら,あとから来た女性の係員に「写真はだめ」と注意された.教会,美術館の多くは入口に写真の可否が明示してあるが,そうでない場合はその都度確認したほうが良いようだ.

 デル・サルトの「最後の晩餐」とフランチャビージョの「我に触れるな」はすでに紹介してしまったが,前回撮ったその他の作品の写真も今回は掲載を控えることにして,もし,次に行った時に別の係員だったら,もう一度確認し,OKなら紹介することにしたい.



 というわけで,今回写真はない.そのかわり,作品名,作者名,出所はしっかりメモを取ってきたので,サン・サルヴィ美術館収蔵の作品の概要は把握できた.コジモ・ロッセッリの「聖母子と聖人たち」があったし,前回気になった剥離フレスコ「キリスト磔刑と聖人たち」がダヴィデ・ギルランダイオに帰せられる作品であることがわかった.

 そしてリドルフォ・デル・ギルランダイオの作品かも知れないと思っていた「1万人の殉教」,「栄光の聖母子と聖人たち」はミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオの作品とわかった.

ミケーレはリドルフォの弟子で,「ギルランダイオ」を名乗ることを許されたが,息子ではないそうだ.したがって巨匠ドメニコの孫ではないことになる.アレッサンドロ・アッローリもブロンズィーノを名乗っていたし,日本で言う「襲名」みたいなものがあったのだろうか.


 再訪の結論としては,もしまたこの美術館を訪ねることがあるとすれば,デル・サルトの「最後の晩餐」を見るためだけに行くことになるだろう.

 アカデミア美術館で作品を見ることができ,以前の館長であったボンサンティが「もっと評価されよい」と言っているソリアーニの作品が何点かある.平凡な絵柄だが「受胎告知」もあって,ソリアーニに関しては多少見応えがあると思う.

 また,私たちのフランチャビージョ開眼の契機になった3つの作品もある.「牧人礼拝」,「我に触れるな」は剥離フレスコで,もうひとつは板絵の「玉座の聖母子と聖人たち」だ.あくまでも「契機」で,「開眼」するためには,この後,旧スカルツォ修道院回廊,旧カルツァ修道院「食堂」を訪ねることが必要だったが.

 ミケランジェロと同年でドメニコ・デル・ギルランダイオの工房にいたジュリアーノ・ブジャルディーニの「授乳の聖母」がなかなか良かった.サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の「聖カタリナの殉教」に継ぐ名品だと思った.ウフィッツィの女性の肖像,アカデミア美術館に「聖母子と幼い洗礼者ヨハネ」があるが,女性の顔に素朴な上品さを感じさせる画家だと思う.

 ラファエッリーノ・デル・ガルボの「玉座の聖母子と聖人たち」など興味を引く画家の作品もあるし,コッピ,ポッピ,ガンベルッチ,ポッチェッティなどフィレンツェ周辺でよく作品が見られる画家の絵もあるので,それぞれの時代の画家や様式について研究している人は,必見であろうが,とりあえず私たちは,今後はデル・サルトの「最後の晩餐」だけで良い.

 もし,もう1点と言われたら,やはりデル・サルトの剥落が進んだ剥離フレスコ「受胎告知」かな.デル・サルトの板絵「我に触れるな」は記憶の中で理想化してしまっていたが,思ったほどではなかったし,何作か見られるポントルモも今ひとつだった.

 しかし,何度見てもデル・サルトの「最後の晩餐」はすばらしい.ウフィッツィの「ハルピュイアの聖母」と並んで,勝手に,この画家の2大傑作にしたくなってしまう.簡単に行けることがわかったので,フィレンツェを去るまでに,あと1回は訪ねたい.



 サン・サルヴィに再び行ったのも,ウフィッツィでデル・サルトの「ハルピュイアの聖母」を見たことが大きな要因となっていた.絵を見たいと思うときは,やはり興味の連関という流れのようなものがある.先日のウフィッツィでは,ペルジーノとルーカ・シニョレッリに注目したが,それはウンブリアやトスカーナ南部で彼らの作品に触れて,感銘を受けたからだ.

 コルトーナは,今までにアレッツォ,ペルージャ,オルヴィエートでその作品の見事さを知ることができたルーカ・シニョレッリの故郷であり,墳墓の地である.是非行きたいとずっと思っていた.

コルトーナと
トスカーナ地方
および周辺都市



丘の上の町,コルトーナ
 フィレンツェからコルトーナへは,ペルージャやアッシジに向かうフォリーニョ行きに乗っても,トラジメーノ湖のところで西に進路を変えるローマ・テルミニ行きに乗っても,どちらのローカル線でも行くことができる.2等で片道1人6.9ユーロ.電車によって停車駅の数が違うので,1時間20分で着く時もあるし,2時間近くかかる場合もあるようだ.

 トレニターリアのウェブページや駅の自動券売機でコルトーナを選択すると,コルトーナ・カムチーアとコルトーナ・テロントーラの2つの駅が出てくるが,フィレンツェからは前者が近い.コルトーナの町がある丘の麓にあるのもカムチーアの方で,テロントーラは随分遠い.

 11時2分フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅発のフォリーニョ行きに乗ると,コルトーナ・カムチーアまではフィレンツェ・カンポ・ディ・マルテ,アレッツォ,カスティリオン・フィオレンティーノのわずか3駅しか停車しない.ローカル線といっても各駅停車ではなく,日本なら「特別快速」くらいのイメージだろうか.

 車窓から見えるヴァルダルノの風景がきれいだ.アレッツォを過ぎて,カスティリオン・フィオレンティーノの城塞跡や,コルトーナの町が丘の上に見えると,汚れたガラス越しでも,ついシャッターを切りたくなってしまう.

写真:
丘の上のコルトーナの町


 カムチーアという地名に関しては,私も行くまでは3音節語だと思い,カムチャかカムーチャか発音がわからなかったが,少なくとも地元の人は4音節でカムチーアと発音していたので,そのように記す.



 そのカムチーアの駅に着くと,これまで通過していたときは結構大きい駅だと思っていたのに,駅員は,少なくともその時間帯には1人もおらず,帰りの乗車券は自動券売機で買った.

 いつもなら,次に駅前のタバッキでバスの乗車券を買うところだが,一軒しかないタバッキは昼休み中だったし,なにしろ何も無い駅前である.『地球の歩き方』に「運転手から直接買う」という体験談が乗っていたので,なるほどそうかと思い,寂しい駅前で十数分後に来るはずのバスを待った.

 何も無い駅前で,来る気配がないバスを不安な気持ちで待ったが,やがて時間通りにバスは来た.早速乗り込んで,運転手さんに「コルトーナのガリバルディ広場まで2枚」というと,「乗車券は近くのバールで売っている」と言われ,「えっ」とたじろいだ.

 しかし,そういわれてはしかたがない,降りようとすると,運転手さんは「問題ないから,そのまま乗っていて」と言って,バスを発車させた.乗客は私たち2人だけだった.

 坂道を少し登ると,そこはコルトーナとは別の町(コムーネ)であるカムチーアの商店街だった.バスはキオスクの前で停まった.

 運転手さんは「ドゥーエ・ビリエッティ・ペル・コルトーナ」(コルトーナまで2枚)と言って買って来いと,買うときのセリフまで教えてくれて,そこで私たちを降ろし,自分も降りて心配そうに見守りながら待っていてくれた.店の主人もよくあることなのか,すぐにバス券を売ってくれた.その券をしっかりと運転手さんに渡して,再びバスに乗り込んだ.

 ガリバルディ広場には10分ほどで着くが,途中の眺めも実に素晴らしい.もちろん広場からの眺めは最高で,トラジメーノ湖が遠くによく見えた.


サン・ドメニコ教会
 ガリバルディ広場でトラジメーノ湖の写真を撮っていて,少し時間を使ったが,次に予定通り,教区博物館を目指すことにした.ドゥオーモのある町の中心部は,広場からさらに丘を登ったところにある.

 このとき,ガリバルディ広場の右手先の方にあるサン・ドメニコ教会の扉が開いているのが見えた.1時少し前だった.

写真:
サン・ドメニコ教会


 『地球の歩き方 フィレンツェとトスカーナ 2007〜2008』(以下,『地球の歩き方』)によれば,サン・ドメニコ教会は12時に閉まって,昼休み明けは15時30分とあったので,最後に拝観することを予定していたが,経験上,こういうときは開いているときに入ったほうが良い.予定を変更して,まずサン・ドメニコ教会を拝観することにした.

 結果的にはこれは正解だった.帰りのバスに乗るために4時半に広場に戻ってきたとき,この教会の方を見たら,扉は閉まっていた.諸本を読み比べても『地球の歩き方』は多分一番参考になるが,イタリアの教会や美術館ではガイドブックの情報通りでないことは珍しくないので,見られるときに見ておいたほうが良いようだ.

 『地球の歩き方』には,この教会に「ロレンツォ・ディ・ニッコロ・ジェリーニの祭壇画」があると書いてあったので,まずそれを探した.この多翼祭壇画「聖母戴冠と聖人たち」は,大きくて見事な作品で,中央祭壇に置かれていた..

写真:
ロレンツォ・ディ・ニッコロ・ジェリーニ作
多翼祭壇画「聖母戴冠と聖人たち」


 この画家はニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの息子とされることも多かったようだが,現在は父子ではないとされ,単にロレンツォ・ディ・ニッコロとされることもが多いようだ.ニッコロの作品はアカデミア美術館他で何点か見られるが,ロレンツォの作品は記憶違いでなければ初めてのような気がする.

 この教会のファサードのリュネットにはフラ・アンジェリコの「聖母子とドメニコ会の聖人たち」のフレスコ画があるが,剥落が激しいので,剥離させた上で修復し,ガラスで覆ってもとの位置にもどしたとされている.ガラスが反射するせいか,どの写真を見ても絵は見えないが,このシノピアは教区博物館で見られた.



 ファサード裏のすぐ右の壁にはバルトロメオ・デッラ・ガッタの剥離フレスコ画「聖ロッコ」があった.この画家の板絵「腰帯の聖母被昇天」も他の教会から運ばれてここにあったらしいが,今は教区博物館にある.

 ガッタの絵は,アレッツォの中世・近代美術館で2枚の「聖ロッコ」と剥離フレスコ画を見ており,写真でしか見ていないが,アレッツォのドゥオーモ美術館に「聖ヒエロニュモス」があることを知っている.

 フィレンツェの鍛冶屋の息子に生まれた彼は,後に修道士になり,最後は修道院長となってアレッツォで死んだらしい.彼の作品がアレッツォ,カスティリオン・フィオレンティーノ,コルトーナで見られるのはそのためだろうか.

 いずれにしても作品を見る機会が少ない画家なので思わず良い作品が見られて嬉しい.「牝猫」(ガッタ)が好きでこの仇名がついたと言われているが,それにしても彼の作品にロッコの絵が多いのはどうしてなのだろうか.

写真:
バルトロメオ・デッラ・ガッタ
剥離フレスコ画「聖ロッコ」


 他にもパルマ・イル・ジョーヴァネの「聖母被昇天」など大きな作品が複数あり,ロレンツォ・ディ・ニッコロの祭壇画のある左隣の礼拝堂にはルーカ・シニョレッリ作とされる「聖母子と聖人たち」があった.画風はいかにもルーカのように見えるが,良い作品かどうかは確信がない.


サン・フランチェスコ教会
 『地球の歩き方』にもう一つ紹介されていた教会がサン・フランチェスコ教会だ.下の写真はレプッブリカ広場からの登り坂で,この坂を上りきったところにサン・フランチェスコ教会はある.

写真:
サン・フランチェスコ教会
を目指して,坂を上る


 ドメニコ会とフランチェスコ会は2大修道会と言っても良いほどなので,どこの町に行っても(シエナ,ウルビーノなど)大きな教会はサン・ドメニコとサン・フランチェスコで驚いてしまう.フィレンツェでは有名な教会はサン・ドメニコ,サン・フランチェスコを名乗っていないが,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会がドメニコ会,サンタ・クローチェ教会がフランチェスコ会だ.

 『地球の歩き方』に拠れば,この教会にはピエトロ・ダ・コルトーナの「受胎告知」があるとされている.シエナではサン・フランチェスコ教会が写真可,サン・ドメニコ教会が不可だった.ウルビーノではドゥオーモは写真禁止だったが,サン・ドメニコもサン・フランチェスコも可だった.コルトーナではサン・ドメニコ教会は写真可だったが,サン・フランチェスコ教会の扉には,カメラとビデオの絵に×印がついていた.残念だが仕方がない.

 行った時間が夕方だったので,暗くてよく見えなかったが,ともかくピエトロ・ダ・コルトーナことピエトロ・ベッレッティーニの大きな「受胎告知」は左の壁面にあることを確認した.

 他にはジョヴァンニ・カミッロ・サグレスターニの「ルキアの殉教」があった.この画家の作品はフィレンツェのサンタ・マルゲリータ・イン・サンタ・マリーア・デーイ・リッチ教会で「聖母の生涯」の連作画と聖マッダレーナ・デーイ・パッツィの特別展でその周辺の画家の絵を見ただけなので,貴重な機会だった.

 チーゴリの「パドヴァの聖アントニウスとロバの奇跡」があったのはサプライズだった.絵柄の方はフランチェスコ教会だから,その修道会の代表的聖人が出てきても不思議はない.

 この教会は,フランチェスコの仲間だったエリア修道士が創建したもので,彼の墓もこの教会にある.ルーカ・シニョレッリの墓もあったらしい(Eyewitness Travel: Florence & Tuscany, 2007, p.204)が気づかなかった.

 イタリアに来るまで,ピエトロ・ダ・コルトーナの名前を意識したことはなかったが,授業ではその絵を使わせてもらっていた.「狩をする少女の姿でアエネアスの前に現れるヴィーナス」だ.作品自体はルーヴル美術館にある.『アエネイス』第1巻に出てくる有名なエピソードで,北アフリカに漂着したアエネアスがカルタゴの女王ディドーに出会うようにするため,この英雄の母である女神ウェヌス(ギリシアのアプロディーテー,英語のヴィーナス)が狩をしている少女の姿で現れ,カルタゴの情勢を教える場面である.

 『アエネイス』の根幹部分に実はコルトーナの伝説が関係しているが,その話は「明日に続く」としたい.





コルトーナのガリバルディ広場から
中央左前方にトラジメーノ湖を望む