フィレンツェだより
2008年3月6日



 




ミラノのドゥオーモ
(ファサードは現在修復中)



§ミラノ行 - その1

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見た.


 世紀の大傑作かどうか私にはわからないが,思っていた以上にきれいな,やさしい絵で,画家の包容力を感じさせる.修復を経た後にも関わらず,褪色が激しくて,顔がよくわからない人物もいるのに,使徒たちのそれぞれも心の動きがわかるような,見ていてそんな気持ちになる.

 他の食堂(チェナコロ)の「最後の晩餐」に比べて,ユダとヨハネに殊更に焦点を当てたという印象は薄かった.ピリポとペテロの存在感が大きく,大ヤコブ,小ヤコブにも光が当たっており,全体としてキリストと一緒に使徒全員が物語を構成しているという感じがした.

 見る機会が少ないので,私はまだレオナルドの絵に開眼していない.彼の絵を見たいと思うときは,ミケランジェロとともにイタリア・ルネサンスを代表する二大巨頭の作品だから当然見ておきたい,と言う消極的な理由になるのは避けがたかった.

 しかし,この「最後の晩餐」は好きだ.あるいは精神性とか力強さではギルランダイオが,美しい色彩と引きこまれるような迫力ではデル・サルトが,今まで見た「最後の晩餐」の作者としては優れているかも知れないが,レオナルドの「最後の晩餐」は,そういう肩への力の入り方を和らげてくれる,温かい包容力のようなものを感じさせる.



 サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会と修道院は,1943年の爆撃被害を受け,「食堂」は焼け落ちたが,「最後の晩餐」は,反対側の壁面のジョヴァンニ・ドナート・モントルファーノのフレスコ画「キリスト磔刑」とともに奇跡的に焼け残った.よくぞ残ってくれたものだと思う.

 空間も良かった.あの広い「食堂」に25人しか入れないというのは,見られることになった人には幸運だろう.「レオナルドを見るんだ」と,眦を決し,肩を怒らせて見入る大人が50人もいたら,この日の「食堂」に漂っていた良い雰囲気を維持するのは難しかっただろう.

 この日,私たちのグループの25人のうち20人近くが,先生に引率された小学生だった.

 最初,待機場所に子どもたちが賑々しく入ってきたのを見たときはギョッとしたが,彼らは私たちの前の時間帯のグループとして先に入場していったので,一緒になるのが避けられて良かったと思ったのもつかの間,私たちの順番の時間帯にも,次のグループが控えていた.

 しかし,中に入ってからは,みんな一箇所にまとまって床に座り,先生の代理のガイドさんの説明を大人しく聞いていた.そのおかげで,かえって「食堂」内が広く感じられ,様々な方向と距離から「最後の晩餐」を見ることができた.

写真:
引率された小学生とともに
待合室で予約時間を待つ


 この「最後の晩餐」を見るためには事前予約が必須である.12月にミラノに電話して,予約番号をもらっていたが,電話の声が遠かったので,本当に予約が取れたかどうか不安だった.『地球の歩き方』を参照すると,アルファベットの文字3桁と数字6桁とあるが,私は数字6桁しか聞き取れなかった.

 実際,予約時間の前に券売所に行くと,やはり番号が不備だったようで,名前を訊かれた.幸い,それで無事確認がとれたが,電話口で予約番号は少なくとも2度復唱して念押ししたことを思うと,やや心外な点もある.いずれにせよ,番号が不備だったのは間違いないようだ.多分,アルファベットの文字3桁は必ず確認する必要がありそうだ.

 しかし,ともかくレオナルドの最後の晩餐を見ることができた.嬉しい.

 この「ダ・ヴィンチの食堂」(チェナコロ・ヴィンチャーノ)があるサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会は最寄りの駅から少し離れたところにある.ミラノは道路が大きいうえ,放射線状に伸びているケースが少なくないので,地下鉄の駅から地上に出たとき,歩き出す前によく方角を確認しないと思わぬ方向に進んでしまう可能性がある.実は私たちも少し道に迷った.

 この翌日,サンタンブロージョ教会を拝観していたとき,サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会に行こうとして,間違ってそこに来てしまった日本人のカップルに出会った.彼らが無事に予約時間に間に合ったことを祈りたい.

 初めて土地で行動するためには,時間の余裕はどんな場合も必要だが,事前予約必須の「最後の晩餐」を見る場合には猶更だろう.



 「最後の晩餐」鑑賞後,サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会を拝観した.写真で見るより大きな教会だった.取り立てて見るべきものとされる芸術作品があるわけではないようだが,堂内は明るく清々しい感じで,予習していくと,それなりに興味深いものが見られるようだ.今回は予習が不十分だったので次回を期したい.

写真:
サンタ・マリーア・
デッレ・グラーツィエ教会



レオナルドとミラノ
 ミラノの街を歩き,美術館を巡ってみて感じるのは,レオナルドの存在の大きさだ.レオナルドはトスカーナのヴィンチの出身であり,フィレンツェで修業を積み,最初の活躍の場もフィレンツェだった.

 しかし,フィレンツェで見られるレオナルドの作品は,ウフィッツィの「受胎告知」に,未完の「三王礼拝」,ヴェロッキオの「キリスト洗礼」の中のレオナルドが担当した部分のみである.「受胎告知」はフィレンツェ近郊のモンテオリヴェートのサン・バルトロメオ教会,「三王礼拝」はスコペートのサン・ドナート教会の依頼ということで,フィレンツェの大教会からの注文ではない.

 「三王礼拝」を未完のままにしてレオナルドはフィレンツェを去り,ミラノに行った.サン・ドナート教会は彼の代わりにフィリピーノ・リッピに依頼し,リッピの「三王礼拝」も今はウフィッツィにある.「受胎告知」も,19世紀半ばまではドメニコ・デル・ギルランダイオの作品と考えられていたくらいで,フィンレツェ時代の彼はもちろん大天才だが,フィレンツェのルネサンスを彩る多くの芸術家のうちの1人だった.

 1452年生まれの彼が,フィレンツェで少年時代にヴェロッキオの工房に入り,その画家組合に登録されるのが1472年,独立した親方となるのが1478年とされるが,ミラノへ去るのは1482年,彼を招いたミラノ公爵スフォルツァ家のルドヴィーコ・イル・モーロがフランスによって権力を奪われて,レオナルドがフィレンツェに帰るのが1499年なので,ミラノ滞在は17年ということになる.

 フランスから派遣されたミラノ総督シャルル・ダンボワーズの招きで再びミラノに行くのが1506年,翌年ミラノ在住のままフランス王ルイ12世の宮廷画家となり,ミラノと親族のいるフィレンツェを行き来していたが,1514年から1516年まではローマに居住,1516年フランス王フランソワ1世に招かれ,ロワール河畔のアンボワーズのクルー城に滞在,1519年5月2日にそこで亡くなった(ウェブ・ギャラリー・オブ・アートの伝記を参照).

 ミラノには彼の作品がどれくらいあるのだろうか.今もミラノにあるのはスフォルツァ時代のミラノで描かれたとされる「最後の晩餐」とアンブロジアーナ絵画館の「音楽家の肖像」のみである.後者がレオナルド作かどうかは議論もあるらしいし,私たちも特に感銘は受けなかったが,もちろん立ち入るべき問題ではない.

 有名な「モナリザ」は,その後フィレンツェに帰ってから描かれ,2度目にミラノに行くときに画家が携えていったものだそうだ.ミラノでは主として科学,軍事方面,絵画技法の研究,著作に力点があったのかも知れない.もちろん,「最後の晩餐」を描いたのだから芸術方面でも大きな仕事をしたのは間違いない.

 フレスコ画,テンペラの板絵,カンヴァスに油彩というのが,最もわかりやすい絵の分類だが,時に板に油彩や,カンヴァスにテンペラという絵があるのは,15世紀から16世紀に新しい絵画技術が模索されていったということだろう.レオナルドはその最先端にいた.普通ならフレスコ画になる「食堂」(チェナコロ)の「最後の晩餐」にその姿勢が端的に現れている.

 フレスコ画にする代わりに彼が用いた絵の具がテンペラなのか,油彩なのか,解説によって異なる(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには「オイル」とあるが,「ダヴィンチの食堂」で買った日本語版の『マップ・ガイド 最後の晩餐』には「テンペラ」とある)が,どちらにしても壁に直接描く場合はフレスコ画より保存が難しく,完成が1497年とそれほど古いわけではない「最後の晩餐」が,修復を経ていてもなおかつ褪色が著しいのは,そこに原因があるらしい.


レオナルドの影響を受けた画家たち
 イタリア・オペラの殿堂ミラノ・スカラ座の前のスカラ広場に大きな彫像が立っている.レオナルドの像だ.

写真:
レオナルドの像
スカラ広場


 正面の足元には「レオナルド」とあり,大きな台座の下には「芸術と科学の革新者に」と彫られている.右側面の台座下には「アルノ川渓谷のヴィンチで1452年に生まれ,アンボワーズの近くのクルーで1519年に死んだ」とあるが,他の2面も確かめれば良かったと後悔している.

 というのは,台座の4つ角のところにそれぞれ小さな人物像があり,正面左側はチェーザレ・ダ・セスト,右側はマルコ・ドッジョーノで,レオナルドの弟子たちだったからだ.いずれの人もスカラ広場に行く前にポルディ・ペッツォーリ美術館で,その作品を見ていたが,残り2面にもレオナルドの弟子たちの像があったかもしれない.

写真:
チェーザレ・ダ・セスト
「聖母子と仔羊」
ポルディ・ペッツォーリ美術館


 ポルディ・ペッツォーリ美術館(「フラッシュ無し」なら写真可)だけでなく,アンブロジアーナ絵画館,前日のブレラ絵画館で印象に残る複数の作品が展示されていたのが,ベルナルディーノ・ルイーニである.

 ルイーニの彫像がレオナルド像の下にあるかどうかはわからないが,この人物が,今回のミラノ行で新しい学習項目となった「レオナルド派の画家たち」(ピットーリ・レオナルデスキ)の中で最も傑出した画家であったろうと思われる.アンブロジアーナ絵画館では,この人の作品である「聖家族とジョヴァンニーノ」をまず最初に見ることになり,宣伝パンフレットにもこの絵の写真が載っている.

 この作品と同じ構図のレオナルドの下書きが,ロンドンのナショナル・ギャラリーにある.絵画館で買った分厚い英訳版ガイドブック(以下ロッシ=ロヴェッタ本)に拠れば,この下書きはベルナルディーノの息子でやはり画家のアウレリオが所有していたものとのことだ.

 いずれにしろ,レオナルドの弟子たちは上手にレオナルド風の絵画を描き,ミラノの画壇に足跡を残した.

写真:
ベルナルディーノ・ルイーニ
「聖カタリナの神秘の結婚」
ポルディ・ペッツォーリ美術館


 ルイーニの画家としての出発点として,アンブロージョ・ベルゴニョーネの弟子であったとする人もいるようだ.ロッシ=ロヴェッタ本に拠れば,ベルゴニョーネは1453年頃の生まれで,レオナルドの同世代の画家であり,ヴィンチェンツォ・フォッパ(ブレーシャ近郊出身)とともにレオナルドの影響以前のミラノ絵画を支えた.

 ベルゴニョーネの作品にレオナルドの影響があるかどうか私には分らないが,少し後進のベルナルディーノ・ゼナーレにはレオナルドの影響があるそうだ.彼の作品もミラノの美術館で複数見られ,ミラノを中心とするロンバルディア絵画を支えた画家のようだ.

写真:
アンブロージョ・ベルゴニョーネ
「聖母子と天使たち」,
ポルディ・ペッツォーリ美術館


 やはりミラノのあちこちで作品を見られる画家ガウデンツィオ・フェッラーリにも年下のベルナルディーノ・ルイーニの影響があるとのことなので,あるいは間接的にレオナルドの系譜に連なることになるかも知れない.

 15世紀後半のロンバルディア絵画の中心的存在であるフォッパにはマンテーニャの影響が色濃いそうだ.今回のミラノ行の最大の目的の1つは,レオナルドの「最後の晩餐」を見るとともに,ミラノに複数あるマンテーニャの作品を鑑賞することだった.

写真:
ヴィンチェンツォ・フォッパ
「聖母子」
ポルディ・ペッツォーリ美術館


 その感想を含め,今回は訪問先を絞ったミラノの美術館と教会については,「続く」としたい.

 レオナルドの「最後の晩餐」はしみじみと味わい深い作品だった.3ユーロで買ったすぐれた印刷の写真を見ながら,その滋味を反芻し,幸せを感じている.大きさや褪色状況を含め,実物を見たことは正解だった.私の人生に大きな意味を持つように思える.





ドゥオーモとスカラ広場を結ぶ
ヴィットリオ・エマヌエレ2世のガレリアにて