フィレンツェだより番外篇
2011年11月13日



 





「三王礼拝」(マギの礼拝)
サン・フィス・デ・ソロビオ教会のタンパン



§巡礼街道の旅 - その13
   サンティアゴ・デ・コンポステーラ (その2 その他の教会)


サンティアゴには2泊したが,夜着いて,早朝に出発したから,観光に充てられたのは間の1日だけだ.見ていないものはたくさんある.自由時間に,ひたすら町を歩いて,市街地の教会,修道院,独立礼拝堂を見て回ったことが一番の思い出だ.


 これらの建物に特に注目を集めるようなものがあったわけではない.堂内には入れなかったので,外観を眺めただけだし,そのほとんどはバロックか新古典様式で近代のものだ.もっとも,大聖堂ですら,オブラドイロ広場に面した西側ファサードが完成したのは18世紀で,バロックといってもスペイン独自のチュリゲラ様式で新しい.

 市街地で見られた宗教建物は,新しいなりにそれぞれ特徴があり,興味深かった.何よりも短時間で数多く見学できたことは大きい.

 二度三度足を運んだところもあったが,扉が開いていた教会は無かった(サント・アゴスティーノ教会は一度だけ開いていたが,その時は団体行動だった)ので,結局,堂内に入ることができたのは大聖堂だけだ.現役の教会もあるので,時間帯によっては信者には開かれているのだろうが,観光客が拝観できるかどうかは情報がない.

 個々の宗教建築に関しても,地元で購入した案内書には,ほとんど情報がないし,帰国後スペイン・アマゾンで,タイトルだけ見て注文した『サンティアゴの教会』も多分品切れで,今のところ入手できていないので,詳細はわからない.

 幸いなことに,多くの教会,修道院にスペイン語,ガリシア語,英語を併記した解説板が立てられていて,それも撮影してきたので,名前と,いつ頃の建築かはわかる.教会名も「ド」になっているのはガリシア語名であることを示しているのだろう.

 「ド」はスペイン語のデル(デ+エル)にあたり,前置詞「デ」と定冠詞の男性・単数形「オ」の融合形で,女性・単数の定冠詞がア(スペイン語はラ)で,これがデと結びつくと「ダ」になるようだ.

 以下の教会名の中には,説明板の写真が撮れていないものもあるので,その場合は参照した案内書の表記に従って,スペイン語名になっているものもある.




(左) サン・パイオ・デ・アンテアルタレス修道院の教会
(右) サン・フルクトゥオソ教会
          


 サン・パイオ・デ・アンタルタレス修道院教会西語版ガリシア語版ウィキペディア)は,説明版を撮り損ねていた.地図をにらんで,おそらくこの修道院と当たりをつけたが,案内書に掲載されている写真とは違うので確信がもてなかった.調べているうちに,ウェブ上にほぼ同じ写真を見つけて,自分が撮ったのは,この大きな修道院の教会部分のファサードであろうと推測するに至った.

 その過程で,この修道院名をグーグル検索してみて,ガリシア語版ウィキペディア(印刷ではないので,「版」は変だが,これまでこれで通して来たので,今後も「版」と称する)に行き当たった.

 パイオは,スペイン語ではペラーヨ(ペラージョ)と呼ばれる,サンティアゴのヤコブ崇敬の元を作った聖人のガリシア語名であろう.ラテン語ならペラギウスになる.

 サンティアゴの修道院・教会の場合,いくつかの教会に関しては西語版では得られない情報がガリシア語版ウィキペディアで得られる.残念ながらほんの少しだけで,十全にはほど遠いが,西語版ウィキペディアでも情報不足なので,多少の補強になる.もちろん,ガリシア語を勉強したことがないので,ほぼ推測に拠るものだ.

池上岑夫『ポルトガル語とガリシア語 その成立と展開』大学書林,1984

を,10年くらい前にお茶ノ水の古本屋で買っていたが,今回初めて読んでみた.おもしろく有益な本だが,さしあたってガリシア語の実践的入門書ではない.


 サン・フルクトゥオソ教会は,ガリシア語版ウィキペディアではサン・フルトゥオソ教会とあり,一応多少の説明があるが,詳細ではないし,写真もない.18世紀末に礼拝堂から教会になって,建築家の名前も挙げられている.これらは説明版にも書かれていた.

 教会名になっている聖人の名前は,初めて聞くが,英語版ウィキペディア「聖フルクトオスス」に情報があった.タラゴナの司教で,紀元後259年に皇帝ウァレリアヌスの迫害で殉教した聖人とのことだ.一緒に殉教した2人の助祭の名も伝わっていて,タラゴナに今も残る円形闘技場で,杭に縛られ火刑に処せられた.キリスト教主題の古典詩を書いたプルデンティウスや,古代西方キリスト教世界最大の思想家アウグスティヌスもフルクトオススの名を作品中で言及しているとのことだ.

 カタルーニャの殉教聖人の名を冠した教会が,なぜ18世紀になってサンティアゴに創られたかは今のところわからない.バロック教会と言うには新しいが,大きい堂々たる外観で,パラドールの裏手にあったこともあり,堂内を観たいと思って,2回足を運んだが扉は開いていなかった.




サン・ビエイト・ド・カンポ教会     サン・アントニーニョ礼拝堂



 サン・ビエイト教会は,案内書の地図にはサン・ベニートとあるので,西方修道院の開祖ヌルシアの聖ベネディクトゥスであろう.

 ガリシア語のビエイト,スペイン語のベニートは,イタリア語ではベネデットとなるが,独裁者ムッソリーニのようにベニートを名乗る場合もある.フランス語ではブノワと言う名前が,この聖人に因んだ呼称だ.イタリアとフランスの教会を回って,サン・ベネデットとサン・ブノワが同じ聖人と気づくまでには多少の時間がかかるだろう.ローカルセイントであるフルクトオススと違い,こちらは西方キリスト教会の根幹にかかわる大聖人だ.

 しかし,教会は地味だった.新古典主義だから簡素と言い換えても良い.ここも午前と午後2回通りかかったが,いずれも開いていなかった.

 「ド・カンポ」は,スペイン語でもイタリア語でも「デル・カンポ」になるだろう.丘の上にあるのに,「平原」は奇異なので,ヴェネツィアのように「広場」と言う意味で使われているのだろう.

 18世紀後半の新古典様式の建築だが,起源は中世で堂内には,「三王礼拝」と「エリザベト訪問」の彩色浮彫があるとのことだ.


 サン・アントニーニョ礼拝堂に関しては公共機関による説明版がなく,サレジオ会によるガリシア語,スペイン語対訳の説明版がある.見るからに新しい建物だ.




ノサ・セニョーラ・ダ・アングスティア教会   サンタ・スサンナ教会



 ガリシア語を勉強したことはないが,ノサ・セニョーラ・ダ・アングスティアが「苦悩の聖母(我らの女性)」と言う意味であろうことは容易に想像がつく.ノサ・セニョーラ・ダ・アングスティア教会は地図に載っていないし,鐘楼もない教会だ.ボナバル通りの道端の小高くなったところに見つけた時は,ファサードに鐘架のある,北スペインの小さな町や村によく見るタイプの教会に思えて,是非じっくり見たいと思って道端の短い階段を上った.

 説明版によれば,18世紀の新古典主義を反映したものらしいが,それほど大層なものには思えない.ファサードにポルティコ(「屋根付き・吹き放ちの玄関先の柱廊」リーダーズ英和辞典)があり,その上の方形のガラス窓と鐘架の間に,壁龕があって,聖母と思われる女性像がある.「苦悩の聖母」であろう.ポルティコの前は墓碑はないが墓地だったようで,石造の十字架がそれを伝えているように思われる.


 サンタ・スサンナ教会は説明板がなかったが,アラメダ公園のほんの少しだけ小高くなった所に,由緒ありげに建っていた.ファサード上部のケルト十字のような変わった十字架が目を引くが,ガラス窓が壊れていたりして,廃墟感が濃厚だった.おそらく現役の宗教施設ではないだろう.

 ガリシア語版ウィキペディアの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの教会」にリンクされている「サンティアゴ・デ・コンポステーラの教会の写真」と言うページにさらに小項目として「サンタ・スサンナ教会の写真」があって,9枚の写真が掲載されている.テクストはないが,やはり多少とも人目をひく教会なのだろう.

 スサンナはイタリア語ではスザンナになり,この名前でまず思いつくのは,旧約聖書外典の,横恋慕した好色な老人に濡れ衣を着せられる美女だが,別人で,295年頃,ディオクレティアヌス帝の迫害の時に斬首によって殉教した聖人であろう.

 ローマのベルニーニの傑作彫刻「聖テレサの法悦」で有名なサンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア教会の傍に,この聖人の名を冠したサンタ・スザンナ教会がある.



マドレス・メルセダリアス修道院と教会    エンセニャンサ修道院



 マドレス・メルセダリアス修道院と教会は17世紀のバロック建築で,ファサードの「受胎告知」の浮彫はマテオ・デ・プラドの作とされる.

 修道院名は「メルセス会の修道女たち」の意であろう.「メルセス会」は小学館『西和辞典』で,mercedを引くと「恵み,恩恵」の原義の他に,「モーロ人の捕虜となったキリスト教徒の救出を主目的として1218年,聖Pedro NolascoによってスペインのBarcelonaに設立された修道会」とある.別の案内書のスペイン語表記で,ラス・メルセダリアス・デスカルサス修道院とあり,デスカルソは「裸足の」と言う形容詞なので,「跣足メルセス女子修道会」と言うことであろうか.


 エンセニャンサ修道院のエンセニャンサは,スペイン語で「教育」と言う意味だ.強いて探せばカトリックの「教義」と言う意味もあるようだが,この名前で修道院として成立するのかどうかわからない.しかし,見た目にも宗教施設だし,案内書の地図には「修道院」とあって,ファサードの奥にオクタゴン(八角形)の屋根が見えたので,教会もあるのであろうと想像している.

 説明板もなく,案内書にも言及はなかったが,ウェブページで探すと,スペイン語のページに行き当たり,多少の情報は得られた.マリア会(コンパニア・デ・マリア)と言う修道会の修道院で,1759年の創建,ファサード上部の大きな彫刻は,大天使ラファエルとガブリエルの間の被昇天の聖母である.

 この2つの修道院は,丘と丘の間を通るルア・ダ・ビルシェ・ダ・セルカ※(「柵の聖母」通り?)に面して,すぐ近いところに建っている.メルセス会女子修道院の,通りを挟んだ向かい側には,小さいが古い城壁の一部で唯一残ったマサレロス門があり,その門を横目に見ながら,大聖堂のある丘への坂道を登ると,左手にイエズス会の教会だった建物がある.現在はサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学の地理・歴史学部として使われている.(※日本語版ウィキペディア「ガリシア語」を参考にしながら,カタカナ表記を試みた)



サン・フィス・デ・ソロビオ教会       サント・アゴスティーノ教会



 一方,坂を登りきった右手には,現存するサンティアゴの教会で1番古いとされるサン・フィス・デソロビオ教会ガリシア語版ウィキペディア)がある.ここも2度通ったが,扉は開いていなかった.大聖堂以外では,この教会のポルターユを見ることができたのが,今回のサンティアゴ行の最大の収穫だろう.

 タンパンは「三王礼拝」(ご公現)の彩色浮彫で,1316年の作品であることははっきりしているようなので,一見ロマネスク風に見えるが,ゴシック期の作品だ.ジョットやダンテと同時代の作品にしては,古拙感があるが,そこがまた良い.

 教会の起源は10世紀だが,イスラムの英雄アルマンソールに破壊され(997年),12世紀に再建された.タンパンの彫刻以外は,ポルターユがロマネスクの遺産で,その他の部分は17,18世紀の増改築である.ファサード上部の鐘楼もバロックの産物だし,堂内にはバロック様式のレタブロもあるらしい.すぐ写真が切り替わるのでわかりにくいがウェブページに写真がある.このページにはミサが土曜と祝日の夕方4時半から行われると言う情報もある.

 あまり情報がなく,主としてスペイン語のウェブページを参照したが,サン・フィスは,聖フェリックスであるようだ.(イタリア語ではサン・フェリーチェで,この聖人の名を冠した,フィレンツェのサン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会が懐かしい).フェリックスという聖人は殉教者,証聖者など複数おり,どのフェリックスかわからないし,ソロビオが何を意味するのかも今のところ不明だ.


 サン・フィス教会のファサードをを左手に見ながら,サント・アゴスティーノ通りを前進すると,石造の建物が並ぶ市場があり,さらにその先でサン・ビエイト通りと出会うところに,通りの名にもなっているサント・アゴスティーノ(スペイン語ではサン・アグスティン)教会がある.

 17世紀の建築で,ゴンサレス・アラウホの設計,フェルナンデス・レチューガの建設と言う情報はあるが,バロック風の大きな教会だという以上の印象はない.最初に通りかかった時には扉は開いていたが,団体行動中だったので入れず,2度目は閉まっていたので,堂内は拝観していない.



サン・ペドロ教会               サン・ロケ礼拝堂



 サン・ペドロ教会は,旧市街の周縁を巡って,サント・ドミンゴ修道院から,大聖堂と谷を挟んで向かい側にあるベルビス修道院に向かう途中にあった.サン・ペドロ通り,サン・ペドロ広場もあるが,いずれもこの教会もしくは,その前身のサン・ペドロ・デ・フォラ修道院にちなむ命名と思われる.

 この広場に石造の十字架があり,ここはフランス方面からの巡礼者にとって,サンティアゴの旧城壁外で最後の教会にあたるらしく,現在の建物は18世紀の新古典様式とのことだが,ファサード上部の三角の鐘架のある,北スペインの地方教会の特徴的な形としか認識できない.


 サン・ロケ礼拝堂は,ラテン語ではロクス,イタリア語ではロッコと呼ばれる聖人にちなむ独立礼拝堂だ.説明板がなかったので,詳しくはわからないが,イグレシア(もしくはガリシア語のイグレシャ)ではなく,礼拝堂(ガリシア語でもスペイン語と綴りが同じで,発音もほぼ同じカピリャ,もしくはカピジャとなると思われる)と書いたプレートがタンパンにあった.いずれにしてもファサードの上部壁龕にロケと思われる像があるので,イタリアでおなじみのサン・ロッコを記念した宗教施設であるのは間違いない.近くにその名を冠した病院があるようで,疫病流行の際に崇敬を集めた聖人にふさわしい.

 サン・ロケ通りという道があり,サン・フランシスコ旧修道院からサンタ・クララ女子修道院に向かう途中にあった.



 (左) サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院と教会
 (右) サンタ・マリア・デ・ベルビス修道院



 サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院西語版ガリシア語版ウィキペディア)には,ガリシア出身の有名人たちの墓所(ガリシア語版ウィキペディア)があり,ガリシア州民博物館もあって,大聖堂周辺には比べるべくもないが,比較的人が集まる場所に位置していると言えるかも知れない.近くにガリシア現代芸術センターもある.

 ドメニコ会が創設された13世紀には修道院ができ,教会が創建されたのは14世紀で,上の写真では新しい部分しか写っていないが,右手から回り込んで,ボナバル公園を抜け,比較的大きなロダス通りに出るときに,古い後陣部分が見える.この写真は次回,紹介する.ロマネスクからゴシックへの移行が見られると,英訳版ガイドブック

 Carlos de Haro, Galicia Guide, Barcelona: Escudo de Oro, 2009(以下,デ・アロ)

では,説明されている.説明版のない教会に関しては,この案内書の地図とそれぞれの宗教施設のスペイン語名称が数少ない貴重な情報だ.

 西語版ウィキペディアに拠れば,スペイン出身のドメニコ(スペイン語ではサント・ドミンゴ・デ・グスマン)は1219年にサンティアゴ巡礼に来たとのことだ.修道院はドメニコ自身による創建らしい.しかし,デ・アロの案内書にある「ロマネスクからバロック」への言及は西語版,ガリシア語版ともにウィキペディアにはない.ただ,ゴシック風タンパンの写真がガリシア語版に掲載されている.


 サンタ・マリア・デ・ベルビス修道院に関しては,説明版しか資料がないが,もともとは14世紀にやはりドメニコ会によって創設された.現在の建物は,17世紀から18世紀のバロック様式で,建築家としてガブリエル・デ・ラス・カサス修道士,フェルナンド・デ・カサス・イ・ノボアの名が挙げられている.後者は,大聖堂のオブラドイロ広場に面したチュリゲラ様式のファサードの設計者として知られている.

 この人物は,アサバチェリア門の向かい側にある巨大なサン・マルティン・ピナリオ修道院のファサードも設計している.サンティアゴのバロックを代表する建築のようだ.



(左) 旧サン・フランシスコ・デ・バルデディオス修道院と教会
(右) サンタ・クララ修道院



 ドメニコ会創設の修道院と教会について報告したが,ライヴァルのフランチェスコ会の修道院と教会もある.サン・フランシスコ・バルデディオス修道院とその教会西語版ガリシア語版ウィキペディア)だ.

 伝説に拠れば,と言う限定つきだが,フランチェスコも1214年にサンティアゴ巡礼に来たとされる.バルはスペイン語ではバリェ(もしくはバジェ)で「谷」を意味するので,「神の谷の」と言う通称がついていることになる.ガリシア語ではディオスをデウス(ラテン語と同じ綴りだ)にすれば良いようだ.

 この建造物の設計者として,シモン・ロドリゲス(ガリシア語版ウィキペディア)の名前が挙げられている.西語版ウィキペディアのリンクが同名の別人になってるので,ガリシア語版ウィキペディアを参照すると,1679年にサンティアゴで生まれ,1750年に同地で亡くなったサンティアゴの建築家だ.


 同ページに拠って,ロドリゲスがサンタ・クララ修道院も設計したことがわかる.他に情報がないがサンタ・クララ(イタリア語ならサンタ・キアーラ)と言う名であるからには,フランチェスコ会関連の女子修道院であろうと想像される.

 宗教施設としては現役でなく,ホテルとして再利用されているサン・フランシスコ修道院では説明板の写真を撮り忘れたが,サンタ・クララは説明板写真を撮って来た.それには,13世紀に王妃ビオランテが創設したとあり,現在の建物はシモン・ロドリゲスによるバロック様式のものだと解説されている.



カルメ修道院              サンタ・マリア・サロメ教会



 サンタ・クララのほぼ真向いにカルメ修道院がある.説明板に拠れば,マリア・アントニア・デ・ヘススによって設立された,ガリシアで最初のカルメル会修道院で,18世紀の新古典建築であり,壁龕にある彫像はホセ・ガンビーノ作の可能性がある「カルメル会の聖母」とのことだ.どの点が新古典様式になるのかわからないが,ローマでは多くのバロック教会がこのタイプのファサードであったように思う.


 サンタ・マリア・サロメ教会は,大ヤコブと福音史家ヨハネの母,マリア・サロメの名を冠した教会だ.大聖堂にもマリア・サロメの彩色彫刻があったが,さすがにサンティアゴならではの教会だ.

 この教会に関しても,説明板しか情報源がないが,起源を12世紀に遡る中世の教会で,ポルティコと鐘架型鐘楼は後世の付加で,スペインで唯一のマリア・サロメ教会とのことだ.ゴシックのポルターユ上部は「授乳の聖母」で,ロマネスクの彫像,タンパンの向かって右側に受胎告知の天使,左側には告知を受ける聖母は,15世紀のゴシックの作品である.柱頭や上部が半円になっているポルターユはロマネスク風に思われるが,これ以上の情報は今のところ無い.

 サンティアゴの平行に並んでいる4つのメインストリートの1つ,ノバ(スペイン語ではヌエバ)通りの真ん中に位置している.



 これだけのことでも,調べるのは相当時間がかかった.サンティアゴ・デ・コンポステーラに行き,ツアーの合間の自由時間に旧市街をひたすら歩いて,たとえ外観だけでも教会,修道院見て回ることを自分自身でやっていなければ,とても調べる気にならなかっただろう.

 勉強になった.そして,さらに詳しく知りたいという欲望を抑えきれない.

 サンティアゴ巡礼が一番盛んだったのは中世であり,二番目がツーリズムに助けられた現代なのに,衰退期のバロックや新古典主義の時代の建築がなぜこんなに多いのだろうか.今一番知りたいことはそれだ.






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