フィレンツェだより第2章
2017年8月5日



 




伝セネカ像が異彩を放つ
ルーベンス「4人の哲学者たち」
パラティーナ美術館



§コッレ・ディ・ヴァルデルサ

「シエナ派」について自分の知識を整理し,ある程度自分の考えをまとめて見たいなどと身の程知らずのことを考えたおかげで,滞在報告である「フィレンツェだより」があまり先に進まない状態が続いてしまった.


 もちろん,その間も彼方此方に出かけ,報告すべきことを更に増やしていたのは言うまでもない.それらについても,いつか報告をまとめたいと思うが,今は取りあえず,7月17日以後の活動を簡単に記し,その後に本題のコッレ・ディ・ヴァルデルサ訪問の報告をする.


7月19日- 8月1日の活動
 19日は電車でカステルフィオレンティーノまで行き,バスに乗り換えてモンタイオーネまで行った.目当てはサン・レゴロ教会にあるグイド・ディ・グラツィオーネの「サン・レゴロの聖母子」で,教会を拝観した後,周囲から出てきた発掘品を展示している市立博物館も見学した.

 21日はバスでパンツァーノ・イン・キャンティに行き,少し町から外れたところにあるサン・レオリーノ教区教会を拝観し,13世紀の芸術家メリオーレの「聖母子と聖ペテロ,聖パウロ」を観て,その後,パンツァーノの町まで歩いて引き返し,サンタ・マリーア教会を拝観した.

 22日はフィレンツェ都市圏地域の属する基礎自治体バーニョ・ア・リーポリのアンテッラ地区にバスで行き,サンタ・マリーア教区教会を拝観した.

 その帰りに,バスを途中下車して,徒歩でポンテ・ア・エーマ地区にあるサンタ・カテリーナ祈禱堂の前まで行き,その場所を確認し,さらにもう一度途中下車して,フィレンツェ市内のはずれにバディア・ア・リーポリ教会を拝観した.

 23日はバスを乗り継いでフィエーゾレに行き,大聖堂でビッチ・ディ・ロレンツォの祭壇画,ミーノ・ダ・フィエーゾレ制作の墓碑,ペルジーノのフレスコ画,ジョヴァンニ・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタの「聖ロモロ」像の写真を撮り直し,ファサード前の露店でカトゥッルス,ホラティウスの注釈つき抜粋テクストとアウグスト・パチーニ=ペリーニという詩人の『ソネット集』を購入し,サンタ・マリーア・プリメラーナ教会を再拝観した.

 25日はシエナに行ってセルヴィ聖堂,大聖堂,サン・ピエトロ・アッラ・スカーラ教会を拝観し,大聖堂博物館,シエナ派の特別展を見た.

 27日はポルタ・アル・プラートの駅からエンポリに行き,駅から歩いてオルメ川を越え,ポントルメのサン・ミケーレ教会に行ったが開いておらず,周囲を歩いて,開いていない教会の外観を他に2つ見て,「ポントルモの家」博物館を見学して帰宅した.

 28日は,以前フィレンツェ大学に留学していた若い友人F氏が来伊されており,現在留学中のM氏とともに柳川邸に招かれ,美味なる手打ちパスタをいただき,楽しい時間を過ごした.

 その後,サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅から隣のリフレーディ駅まで行き,夕方のミサが終わったサント・ステーファノ・イン・パーネ教会を拝観し,チェンニ・ディ・フランチェスコの聖母子,ロッビア工房の祭壇,ジョット派の磔刑像などを観た.

 29日はバスでグレーヴェ・イン・キャンティに行き,サンタ・クローチェ教会を拝観し,旧サン・フランチェスコ修道院にある市立博物館を見学した.

 帰りのバスの時間まで間があったので,眺望を楽しみながら,坂を登って,丘の上の小邑モンテフィオラッレ地区に行った.サント・ステーファノ教会のロマネスクの鐘楼を目印にファサードの前まで行ったが開いていなかった.

 30日はF氏,M氏とバルジェッロ博物館近くのイエロー・バール(パスタが超美味)で夕食をともにした.約束の時間までは,サン・フィレンツェ教会の堂内をじっくり拝観した.夕食後,有名なジェラート店「ペルケ・ノ」(Why not?)でごちそうになった後,シニョリーア広場の音楽会に行く2人と別れ,帰宅した.

 途中,オルサンミケーレ教会の向かいの建物で,現在はダンテ協会の本部がある羊毛組合(アルテ・デッラ・ラーナ)宮殿の壁龕に残るヤコポ・デル・カゼンティーノの「聖母戴冠」と「聖母子と聖人たち」を写真に収めた.

 複雑な模様の鉄柵越しながら,初めてはっきりと写った写真を撮ることができた.昼はガラスに日の光が反射するが,夜はガラスの中に明かりが点くので,条件が良いようだ.今までも夜通りかかったことがあったが,この日は特に条件が良かった.



 8月1日は,中世の写本伝承でフィレンツェ大学で学位を得られた北村秀喜博士の善導を得て,高橋美帆教授とともにラウレンツィアーナ図書館に赴いた.目的はもちろん,セネカのE写本(コーデックス・エトルスクス)の閲覧だった.

 図書館の司書の方と面会し,フィレンツェ大学に出してもらった紹介状の他,閲覧趣旨等を述べた書類を提出し,閲覧許可を願い出た.

 書類を見た司書の方は,デジタル資料ではなく,何故本物を見る必要があるのか,という質問を投げかけてきた.一応,補足説明はしたものの,雰囲気から,ああ,やっぱり難しいかな,と思いかけたが,北村博士のご準備と高橋教授の抜群の交渉力のおかげで,最終的には許可が下りた.

 書庫から出してもらった写本は,彩色装飾と欄外注,様々な記号その他に満ちた,想像以上に立派な写本だった.すぐに読み始めたが,北村博士は様式上,私は作品の並び順に疑問を持ちながらも,ほぼ完読しかけたときに,E写本には収録されていないはずの『オクタウィア』のテクストが出てきて確信した.

 弘法も筆の誤り,スペシャリストである司書の方が,別の写本(つまり,A写本と総称されるE以外の写本群の一つ)を書庫から取り寄せたのだ.指摘すると,改めて,書庫からE写本を取り寄せて下さった.

 E写本は黒インクと赤インクで,ほぼ字だけが書かれたシンプルなものであった.合唱隊の部分には赤インクで簡潔な韻律の説明があり,それはテクストを写字した人と同じ手かどうか疑問に思ったが,字体から,同一人物の筆跡として学問上は解決したとされるようだ.

 私にとって「高嶺の花」と言うより「猫に小判」のE写本の革装された実物を手に取って,4時間かけて全ページ読んだ.人生には「今日は最良の日」と思える日が稀にあるが,間違いなくその一つが2017年8月1日であると言える.

 優秀なエリート司書の方が普段ならしないであろう勘違いをなさったおかげで,15世紀の新しい写本と思われるが,プロの彩色画家が装飾し,欄外に書き込みが多くなされている A写本の一つもほぼ完読することができた.

 「E写本の閲覧は特別に許可するもので,今日,閲覧できるのはE写本1冊だけ」と念押しされていたので,A写本については棚からぼた餅だった.まだ確認はできていないが,現行のテクストには通常採用されていない台詞の大断片もあったように思う.

 私はテクスト校訂に従事するわけでもなく,写本伝承が専門でもないので,閲覧許可が下りない可能性は高かった.にもかかわらず,間違いなく天下の稀覯本であり,ラウレンツィアーナの至宝とも言うべきE写本を手に取ることができた.

 「閲覧したい」と言う希望を強く表明していたとは言え,内心はこの図書館のユーザー・カードを手に入れて,アクセスの便宜を図ってもらい,E写本ほどの希少性はない写本と収蔵資料を閲覧させてもらえれば,E写本はデジタル写真の閲覧(これは館外にも公開されている)でも構わないと思っていた.

 実物を見たからこそ言えることだが,実物と直に接する意味を過小評価していたと思う.

 実物は思ったよりもずっと小さく,想像していたよりも遥かに読み易く,辞書もマニュアルも無くても,ほぼ通読できてしまった.数時間も自分一人で読んだ.お世話になった北村博士と高橋教授は脇から覗きこむ体勢で,全くあつかましいことに,終始,私が読みたいように読ませていただいた.

 「万が一」見られる幸運に備えて,チェック項目を事前に整理していたのだが,間抜けなことにそのメモを寓居に置き忘れてきた.しかし,そんなことは最早どうでも良かった.人生に何度もないような達成感を味わった.


コッレ・ディ・ヴァルデルサ
 「エルサ川渓谷地方の丘」という名の町,コッレ・ディ・ヴァルデルサ(以下,コッレ)に行ったのは,5月25日のことだ.それから早くも2カ月以上の時間が過ぎた.

 この町に行きたいと思った理由は2つあった.ひとつはフィレンツェ大聖堂の骨格部分を設計したゴシックの建築家であり,彫刻家としても偉大なアルノルフォ・ディ・カンビオがこの町の生まれであることだ.

 もうひとつは,2008年の3月,帰国前に最後にもう一度トスカーナの春を心に刻もうと出かけたヴォルテッラへの遠足で,この町でバスを乗り換えた時,その名前と車窓からの景観が印象に残り,いつかこの町を訪ねて見たいと思ったからだった.

 今期はシエナへは4度行っているし,サン・ジミニャーノをはじめ,フィレンツェとシエナの間にある小さな町を訪問するのに,シエナ行きのバスにはもう何度も乗っている.

 フィレンツェからシエナに向うバスは,「急行」(ラピーダ)と「普通」(オルディナリア)の少なくとも2種類があり,前者もフィレンツェ周辺,シエナ周辺では生活バスとして機能しているので,幾つかのバス停に停まるが,後者はシエナのかなり手前で自動車専用道を降りて,ポッジボンシとその周辺,コッレとその周辺のバス停に止まる.

 ポッジボンシではシエナから来るサン・ジミニャーノ行きに,コッレではシエナから来るヴォルテッラ行きに乗り換えることができる.

 コッレはその名も「丘」と言うように,丘の上の町で,旧市街,歴史的中心部(チェントロ・ストリコ)は中世の街並みがそのまま残っているように感じられる佇まいだが,バス停は丘の麓の新市街にある.

 丘の上の街をコッレ・アルタと言い,新市街をコッレ・バッサと言うようだ.コッレは本来男性名詞なのに,アルタとかバッサとか形容詞が女性形になるのは,コッレに「街」(チッタ)が含意されているからだろうか.

 ヴォルテッラ行きに乗り換えるバス停もコッレ・バッサにあるので,以前コッレ・アルタの街並みを見たことがあるように記憶しているのは,ヴォルテッラの行き帰りのバスが,コッレ・アルタも見えるコースをたどったからかも知れない.9年半前のことなので,記憶が定かではないが,非常に魅力的に思える街並みを確かに垣間見て,いつか行きたいと思ったような気がしている.

写真:
コッレ・バッサの
アルノルフォ・ディ・
カンビオ広場


 コッレ・バッサのバス停で降り,そこから丘の上を目指した.他にも手段がある(エレベーター)とどこかに書いてあったが,歩いてもさほど苦にならない距離と勾配で,暑くなければむしろ眺めを楽しむこともできて良いように思う.

 コッレ・バッサにも見るべきものがあるので,余裕があればバス停近くの,ポッジボンシとの間に通っていた鉄道(1991年閉鎖)の旧駅舎と噴水と記念碑がある広場,クリスタル・グラスの一大生産地なので,クリスタル博物館を見学するのも良いだろう.

 私自身は,丘の上の大聖堂と宗教芸術博物館だけを見学して,なるべく早い時間にフィレンツェに戻りたかったので,旧駅舎の外観に目を見張り,広場を通っただけで,これらの見学はしなかったが,途中,大きな教会の鐘楼が見えたので,ファサードに回ると,前の広場で多分近隣の小学校の運動会が行われていて,教会の扉も開いていたので,吸い込まれるように中へ入った.


サンタゴスティーノ教会
 コッレ・バッサのこの教会はサンタゴスティーノ教会だった.外観はゴシック風で魅力的に見えたが,堂内はルネサンスの均整のとれた建築で,漆喰で白く塗り固められていたので,ややがっかりした.ゴシックの堂々たる建築物に思えた鐘楼も,20世紀に地元の建築家で市長も務めたアントニオ・サルヴェッティによって再建されたネオ・ゴシックの新しいものであった.

 気を取り直して,堂内の芸術作品を鑑賞し始めると,タッデーオ・ディ・バルトロの祭壇画のパネル「聖母子」が目に入り,これはコッレ・アルタに行くのが遅れても,あるいはフィレンツェへの帰宅が遅れても,本気で拝観せずにはおられまいという気になった.

 便宜上「無名画家」(アウトーレ・イニョート)とプレートがついてるが,それなりの水準の作品が続いた後,以下の芸術作品を堪能することができた.

作者 タイトル 聖人 画材(素材)
制作年
リドルフォ・デル・ギルランダイオ 「死せるキリストと聖母,聖人たち」 洗礼者ヨハネ,マグダラのマリア,バーリのニコラウス,ヒエロニュムス  テンペラ板絵,1523年
フランチェスコ・ロッセッリ 「聖母子と聖人たち」 ペテロ,パウロ,ステパノ,アレクサンドリアのカタリナ テンペラ板絵,16世紀
ジョヴァンニ=バッティスタ・ポッツォ 「アレクサンドリアのカタリナの殉教」   カンヴァス油彩,16世紀
フランチェスコ・ロッセッリ 「聖母子と聖人たち」 アウグスティヌス,シモン,アンデレ,モニカ テンペラ板絵,16世紀
チーゴリ 「降架のキリストと聖母,聖人たち」 ヒエロニュムス,フランチェスコ,福音史家ヨハネ,アレクサンドリアのカタリナ,マグダラのマリアともう一人のマリア カンヴァス油彩,1599年
ロレンツォ・ガンベライ 「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚と聖母,聖人たち」 ヨセフ,アンナ,ペテロ,フランチェスコ カンヴァス油彩,1615年
ジョヴァンニ=マリーア・トロザーニ 「修道規則を授与する聖モニカ」   フレスコ画断片,1538年
ジョヴァン=バッティスタ・パッジ 「受胎告知」フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂祭壇画のコピー   1586年
同上 「聖人たち」 アンデレ,クレメンス,パオラのフランチェスコ,アンドレア・アルベルターニ 1586年
15世紀の無名画家 「ピエタ」(死せるキリストと聖母)   フレスコ画
バッチョ・ダ・モンテルーポ 上記作品を囲むように造られた小神殿   大理石


 フランチェスコ・ロッセッリに関しては,もし同一人物であるならば,フィレンツェ・ルネサンスを代表する芸術家の一人コジモ・ロッセッリの十数歳年下の異母弟で,写本細密画家,版画家,印刷世界地図製作者として活躍したとされており(英語版ウィキペディアは詳細だが,伊語版ウィキペディアには簡単な紹介がなされているだけである.2017年8月4日参照),コロンブスの「発見」以後,初めてアメリカ大陸を記載した地図の制作,販売に関わった人として知られているようだ.

 それほど歴史的にも重要な人物と,小都市の中心部から離れた教会の地味な宗教画がなかなか結びつかない.サンタゴスティーノの2点の絵をフランチェスコ・ロッセッリの作とする資料も,今のところ堂内の説明プレートだけだ.ウィキメディア・コモンズにある写真を見ると,確かに宗教画も描いたようなので,可能性はあると思うが,現時点では,それ以上のことは言えない.

 ジョヴァンニ=バッティスタ・ポッツォに関しては,ローマのサンティニャツィオ聖堂に大きな天井画を描いたことで知られるアンドレア・ポッツォやその兄弟のジュゼッペとは無関係のようだ.

 伊語版ウィキペディアには立項されていないが,英語版ウィキペディアにジョヴァンニ=バッティスタ・ポッツィとして立項されている画家がおり,17世紀の終わり近くにミラノで生まれ,ピエモンテを中心に活躍したとされるので,これも全く違う人物だろう.今のところ,どういう画家かわからない.

 堂内の説明板には1561年にヴァルソルダで生まれ,1589年のローマで亡くなったとある.であればロンバルディア州の北方コモ湖周辺地区で,現在の国境を超えてスイスのイタリア語地区にまで広がる,多くの芸術家が輩出した地域の出身と言うことになる.

 伊語版ウィキペディアに立項されたヴァルソルダに拠れば,ヴァルソルダの諸地域の教会にはポッツィもしくはポッツォと名乗る一族によるフレスコ画や彫刻が残っており,この一族はロンバルディアやピエモンテの広い地域で活躍したとされている.

 そうした技能集団の出身者が野心を抱いてローマに出てきて,若くして亡くなったのは当時としては珍しくないとしても,コッレにその作品がなぜ残っているのかは,やはり不思議な感じがする.

 ジョヴァンニ(ジョヴァン)=バッティスタ・パッジも初めて名前を聞く画家だったが,伊語版ウィキペディアに立項されていた.1554年にジェノヴァで生まれて,イタリア諸方で活躍した画家なので,これも同じ人物ではないかも知れないと思ったが,ルッカ,ピストイアなどトスカーナでも仕事をし,エンポリやチーゴリの影響を受けたらしいので,同一人物だろう.

 フィレンツェのサン・マルコ聖堂のファサード裏に飾られた「キリストの変容」は解説板がないので,常々誰の絵だろうと思っていたが,パッジの作品のようだ.今期こちらに来て初めてサン・マルコの案内書を入手したが,そこにもパッジの作品として紹介されている.サン・サルヴィの旧修道院博物館でも彼の「玉座の聖母子とパドヴァのアントニウス,トビアスと大天使ラファエル」を観ている.

写真:
リドルフォ・デル・
ギルランダイオ
「死せるキリストと聖母,
聖人たち」


 リドルフォ・デル・ギルランダイオ,チーゴリ,バッチョ・ダ・モンテルーポは,リドルフォを除けばフィレンツェ生まれではないが,活躍の場はフィレンツェが中心であり,フィレンツェの芸術家たちと言えよう.

 堂内があまりにも整然としていて,一見つまらなく思われたが,よく見ると均整の取れたアーチを多用し,リブの無い交差ヴォールトを採用した,三廊式の美しい構造になっていることに気付く.フィレンツェのルネサンスを代表する建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオの設計とのことだ.

写真:
アントニオ・ダ・
サンガッロ・イル・
ヴェッキオ設計の
堂内


 タッデーオ・ディ・バルトロはシエナ派の後期ゴシックの重要な画家であるが,サンタゴスティーノ教会ではこれ以外に,はっきりとシエナ派に属している芸術家の作品は見られなかった.その代わり,地元の画家の作品を観ることができた.

 ロレンツォ・ガンベライは他では聞いたことが無かったし,ウィキペディアにも立項されていないが,コッレに生まれ17世紀初め頃に活躍した「地元の画家」のようである.またジョヴァンニ=マリーア・トロザーニも16世紀に活躍した,コッレで生まれ,コッレで亡くなった「地元の画家」のようだ.特に後者に関しては,この後宗教芸術博物館でも複数の作品を観ることができた.

 と言う訳で,丘の上に着かない内に,コッレの宗教芸術に関して,ある程度以上に知ることができた.サンタゴスティーノ教会は,コッレを訪ねた際には是非拝観したい教会である.

 これで帰っても不満がないくらい充実した拝観ができたが,気を取り直して,靴の紐を締め直し,丘の上に向って歩き出した.


大聖堂
 ヴィアーレ・ジャーコモ・マッテオッティという名の坂道を真っ直ぐ登り続けると,途中でヴィーア・ヴェンティ・セッテンブレと通りの名前が変わり,そのまま進むとコッレ・バッサとは反対側にある有名な城門ポルタ・ヌォーヴァ,もしくはポルタ・ヴォルテッラーナに着くが,途中で右に曲がり,ヴィーア・デル・カステッロをコッレ・バッサの方向に戻る形で進むと,大聖堂の前の広場(ピアッツァ・デル・ドォーモ)に出る.

 大聖堂が記念している聖人はキアティーナ福者アルベルトとリモージュの聖マルティアリス(伊語版英語版)である.福者アルベルトは,現在シエナ県に属している近傍の町の出身で,コッレで1202年に亡くなった地元の宗教者だが,聖マルティアリスは,3世紀のリモージュで布教活動をした司教聖人である.

 リモージュの聖人がコッレの大聖堂が記念する聖人になっているのは,後世に付加された様々な伝説によるものだ.ルカ伝に出てくる,キリストに派遣された70(72)人の弟子のひとりで,最後の晩餐にも立ち会っていて,ペテロからも直接使命を託され,リモージュなどのアキテーヌ地方のみならず,イタリアのエルサ渓谷地方(ヴァルデルサ)にも布教したとされる.

 もともと彼が埋葬されたリモージュの墓が巡礼の対象となり,中世の疫病流行の際に平癒への助力を求めて崇敬が高まり,それがコッレなどの遠隔地にも広がったのかも知れない.いずれにせよ,古代に実在した可能性のある宗教者に対して,中世に史実に基づかない伝説が付与され,崇敬されるようになった例の一つと言えよう.

写真:
大聖堂のファサード


 大聖堂のファサードは19世紀の新古典主義建築で,堂内はアーチを多用した三廊式で,一見するとサンタゴスティーノ教会と良く似ているように見える.

 設計者はアゴスティーノ・ファンタスティチで,伊語版ウィキペディアを読むと,モンテプルチャーノのファウスト・ルゲージ,フィレンツェのゲラルド・メキーニなど17世紀の建築家に委嘱されたということなので,バロックの建築ということになるだろうか.この建築家たちに関して,今のところそれ以外の情報は得られない.

 この教会は,16世紀初頭まで教区教会(ピエーヴェ)であったが,1520年に参事会教会(コッレジャータ)に昇格し,大聖堂(カッテドラーレ)になったのは1594年のことだ.新たに赴任した歴代の司教たちの尽力で整備されていったという歴史的背景があるのだろう.



 堂内の芸術作品に関しては,サンタゴスティーノ教会の方が見応えがあるように思える.

 大聖堂ではルティリオ・マネッティ「キリスト降誕」,アストルフォ・ペトラッツィ「聖家族と天使のヨセフへのお告げ」,「エジプト退避」,デイフェーボ・ブルバリーニ「トマスの不信」,「我に触れるな」,フランチェスコ・ナジーニ「パウロの回心」などシエナの画家たちの作品も少なくない.

 一方,フィレンツェの芸術家たちの作品も多数見られる.ポッピ(アレッツォ県ポッピ出身)「キリスト降誕」,ピエトロ・タッカ(カッラーラ出身)のブロンズの「磔刑像」(中央祭壇),オッターヴィオ・ヴァンニーニ「最後の晩餐」,コジモ・ガンベルッチ「受胎告知」,ヴィンチェンツォ・ダンディーニ「三王礼拝」,フィリッポ・タルキアーニ「キリストの復活」などがある.

 概ねシエナかフィレンツェの芸術家たちの作品で,どちらかと言えば,フィレンツェの芸術家たちの方が優勢で,シエナの画家たちには,ルティリオ・マネッティを除けば,サンタゴスティーノ教会で見られたタッデーオ・ディ・バルトロの祭壇画パネルの「聖母子」のような傑作は見られない.ローマの画家ジョヴァンニ・オダッツィ「聖母の婚約」は例外的な作品と言えよう.

 フィレンツェ,シエナを問わず,名前と作品名を敢て列挙したが,これらの芸術家は,同じ教会や美術館に巨匠の作品があれば,その影に隠れて言及されないことが多い人々ではなかろうか.

 私は,今回の滞在で,ある程度の作品数を観ているルティリオ・マネッティを評価するし,ポッピやタッカの優れた作品がフィレンツェ周辺で多く見られることも経験上知っている.それでも,ファサードも堂内も新しくなっているとは言え,由緒あるコッレの大聖堂で見られる芸術作品としては随分寂しいように思える.

写真:
ミーノ・ダ・フィエーゾレ
「磔刑の聖なる釘の祭壇」


 その中にあって,キリスト磔刑に用いられた「聖なる釘」を聖遺物として収めているミーノ・ダ・フィエーゾレの,赤斑岩の背景に大理石のタベルナコロを配した「磔刑の聖なる釘の祭壇」は,フィレンツェ・ルネサンスの傑作と言えるだろう.

 しかし,この祭壇が最高傑作だとすれば,物足りないと思う人の方が多いだろう.また中世の景観が残る街の大聖堂なのに,中世を思わせる遺産が無いことも意外に思うだろう.


サンタ・マリーア・イン・カノニカ教会
 大聖堂広場から,ヴィーア・デル・カステッロをコッレ・バッサの方に進むと,2つの塔(トッレ)がある.一方はトッレ・デイ・パスキ,向かい合っているもう一方はカーザ・トッレ・ディ・アルノルフォ・ディ・カンビオという名称である.

 フィレンツェ大聖堂を設計した大芸術家アルノルフォは1245年の生まれなので,後者が本当に彼の家だとすれば,13世紀には既に建っていた中世の建造物と言うことになる.そこから少し大聖堂の方に戻ると,サンタ・マリーア・イン・カノニカ教会があり,これは一応ロマネスクの遺産とされる.

 ファサード上部にはロマネスク教会の特徴とされるロンバルディア帯があるが,この部分は後世の修復で,オリジナルの姿が残るのはファサード下部と,鐘楼のみのようだ.

写真:
サンタ・マリーア・
イン・カノニカ教会


 堂内は簡素な木組み天井と石の壁で,中世風の祭壇画とフレスコ画断片が残っていて,中世の雰囲気を感じさせる.

 しかし,祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」の作者はピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノであり,2つ残っているフレスコ画断片も一つはピエール,もう一つはベノッツォ・ゴッツォリの息子アレッソの作とされる.

 2人ともゴッツォリ工房の出身で,ゴッツォリは初期ルネサンスの巨匠フラ・アンジェリコの弟子であるから,ピエールもアレッソもフラ・アンジェリコの孫弟子にあたり,まぎれもなくルネサンスの画家たちである.

 アレッソ・ディ・ベノッツォの作品は,カステルフィオレンティーノのサンタ・ヴェルディアーナ宗教芸術博物館で祭壇画「エリザベト訪問と聖人たち」を観ただけだが,ピエールに関しては,今期の滞在でトスカーナの諸方で相当数の作品を観ている.可能なら,チェンニ・ディ・フランチェスコとともにいつか整理したいと思っている.



 他にも,コッレの町から谷にかかる道を通って行くサン・フランチェスコ教会,教会自体は閉まっていたが,隣の十字架同信会祈禱堂から入れたサンタ・カテリーナ教会を拝観でき,前者では壁面に残る古拙なフレスコ画と周囲の美しい環境に見惚れ,後者では祈禱堂に残る,16世紀のザッカリア・ザッキ作とされる「キリスト哀悼」の木彫群像に目を見張った.

 しかし,これと言った傑作芸術作品には出会っていない.両教会とも堂内は新しく造り直されていて,中世の遺産を希求する見学者を満足させることより,現役の祈りの場としての役割が尊重されているように思えた.

 サン・フランチェスコ教会にはかつてはリッポ・メンミの祭壇画「トゥールーズの聖ルイと聖フランチェスコ」,サーノ・ディ・ピエトロの「聖母子」,ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノの「聖母子と聖フランチェスコ,聖ドメニコ」があったが,いずれも現在はシエナの国立絵画館にある.

 1992年の修復で再発見され,現在は堂内で見られるようになっているフレスコ画断片の作者はチェンニーノ・チェンニーニ,ジョヴァンニ=マリーア・トロザーニ,ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノの作である可能性があるとのことだ.

 これらは全て写真に収めることができた.ジョット風なのはチェンニーノ,ゴッツォリ風なのはピエール,その他はトロザーニの作ではないかと想像するのみである.


サン・ピエトロ博物館
 最後に宗教芸術博物館を訪ねるべく,博物館を探した.伊語版ウィキペディアで得られた情報は古かったようで,現在は旧サン・ピエトロ教会と修道院を利用したサン・ピエトロ博物館というようだ.

 宗教芸術作品が多く,時代的には概ね3つの部分に分かれ,中世から初期ルネサンスの宗教画,盛期ルネサンスからバロックの宗教画(聖具の展示も含まれる),現代絵画を鑑賞することができた.作家でジャーナリストのロマーノ・ビレンキの蔵書も公開されていた.

 現代絵画の中には,サンタゴスティーノ教会の鐘楼を設計し,市長も務めたアントニオ・サルヴェッティの作品も含まれ,ヴィットーリオ・メオーニフェッルッチョ・マンガネッリと言ったコッレ出身の芸術家の作品は興味深かった.

写真:
バディア・ア・イゾラの親方
「荘厳の聖母子」


 この博物館の最高傑作は,バディア・ア・イゾラの親方の「荘厳の聖母子」(マエスタ)であろう.チマブーエの「カステルフィオレンティーノの聖母子」,ドゥッチョの「クレーヴォレの聖母子」とどのような関係にあるのかは,私には判断できないが,ビザンティン芸術の影響を脱して,フィレンツェ派,シエナ派のイタリア絵画が形成されて行く過程で,重要な一歩を印した作品と思われる.

 そうした歴史的意味を超えて,多少のぎこちなさを感じるにしても,美しい作品だ.多分,何時間見ていても飽きないと思う.

 フィリーネ・ヴァルダルノの宗教芸術博物館で,個人名を特定できないジョッテスキの一人フィリーネの親方の聖母子に出会った時の感動に似ている.個性と才能に満ちていて,時代の流行にも敏感でありながら,明確な個人名は残らなかった.むしろそこに職人芸術家の気概と矜持を感じるのは,全くの思い込みだろうか.

 このマエスタは,シエナ県モンテリッジョーニの一地域(分離集落)アッバディーア・ア・イーゾラサンティ・サルヴァトーレ・エ・チリーノ大修道院の修道院教会にあった祭壇画である.

 この教会にはもちろん行ったことがないが,伊語版ウィキペディアの写真を見る限り,ファサード,後陣外観ともに典型的なロマネスク教会で,今でも堂内にはタッデーオ・ディ・バルトロの剥離フレスコ画「玉座の聖母子と天使たち,聖人たち」,サーノ・ディ・ピエトロの祭壇画「聖母子と聖人たち」,ヴィンチェンツォ・タマーニのフレスコ画「聖母被昇天」があるようなので,何らかの手段で行って,拝観が可能なら,是非拝観してみたい.

写真:
セーニャ・ディ・
ボナヴェントゥーラ
「聖母子」


 サン・ピエトロ博物館の芸術作品で他に印象が残ったものを挙げる.

 セーニャ・ディ・ボナヴェントゥーラのドゥッチョ風の聖母子
 15世紀のフィレンツェの画家ヴェントゥーラ・ディ・モーロの三翼祭壇画
  「聖母子と聖人たち」
 16世紀初めまで活動したシエナの画家グイドッチョ・コッツァレッリの祭壇画
  「聖母子と聖人たち」
 ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノの剥離フレスコ画「聖母子」
  同じく,テンペラ板絵の「聖母子と聖人たち」
 ロレンツォ・ディ・ビッチの祭壇画パネル「玉座の聖母子と聖人たち」
 ルーカ・ディ・トンメの「聖母子」
 ニッコロ・ディ・セル・ソッツォの「聖母子」
 プセウド・アンブロージョ・バルデーゼ,もしくはリッポ・ディ・アンドレーア
  三翼祭壇画「聖母子と聖人たち」

 現在はコッレの博物館にあるが,元々コッレにあったとは限らず,上記の画家たちの作品が,ほぼフィレンツェ派(ヴェントゥーラ,ピエール,ロレンツォ,リッポ)とシエナ派(セーニャ,グイドッチョ,ニッコロ)に分かれるからといって,これを見てコッレの芸術が両派の緩衝地帯であったと結論づけることはできない.

 博物館の説明プレートにはそれぞれの作品に関して,分かる限りの出自が記されているが,概ね,シエナ派絵画は現在シエナ県に属しているソヴィチッレ,フィレンツェ派の絵画はコッレが出自のピエールの作品を除いて,やはりシエナ県の基礎自治体ポッジボンシの教会,修道院にあったもののようだ.

 この事実を単純に考えると,コッレ近傍で,現在はコッレ同様シエナ県に属しているソヴィチッレではシエナ派,ポッジボンシではフィレンツェ派の宗教芸術が重んじられたと即断しかねない.

 ソヴィチッレは未訪だし,今後も行けるとは思えないのでペンディングだが,ポッジボンシについて,それが言えるかどうかは次回のポッジボンシの報告で少し考えてみたい.

 さらにサン・ピエトロ博物館で見られるコッレのルネサンスまでの「地元の画家」にも注目したい.サンタゴスティーノ教会で見られた「修道規則を授与する聖モニカ」を描いたジョヴァンニ=マリーア・トロザーニの作品が3点,サン・ピエトロ博物館で観られた.

写真:
ジョヴァンニ=マリーア・
トロザーニ
剥離フレスコ画「三王礼拝」
(部分)


 剥離フレスコ画「三王礼拝」はコッレのヴェンティ・セッテンブレ通りのタベルナコロ,テンペラ板絵の「ピエタと聖人たち」はコッレの一地域(分離集落)カンピーリア・デイ・フォーチにあるサン・バルトロメオ・ア・カンピーリア教会,テンペラ板絵「キリストの神殿奉献」は,コッレの分離集落レ・グラーツィエにあるサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ至聖所(サントゥアリオ)を出自としている.いずれもコッレの地元にあったものだ.

 これにサンタゴスティーノ教会の作品を加えても,今回見ることができたトロザーニの作品は全てコッレおよびその周辺地域のために描かれたものであることがわかる.

写真:
チェンニーノ・チェンニーニ
「聖母の誕生」


 コッレに行きたかった理由を上で2つ挙げているが,実はもう一つあった.ジョット工房の絵画技法に関する貴重な報告『絵画技術の書』の作者チェンニーノ・チェンニーニがコッレの出身で,彼の数少ない現存作品の一つが,コッレの博物館に残っていることだった.

 サン・ピエトロ博物館で,その作品を観た.祭壇画と言うより,おそらくその一部であっただろう「聖母の誕生」である.

 説明プレートには,その出自はオスピツィオ・デイ・カップッチーニ教会とあるが,この教会が現存するかどうかの情報も無いうえに,カップッチーニ会がフランチェスコ会から分かれたのは宗教改革の時代の16世紀前半なので,チェンニーノがこの教会のために作品を描いた訳はない.

 説明プレートにはさらにコッレのサンタ・カテリーナ・エ・サンタ・マッダレーナ旧修道院の祈禱堂のために描かれたとある.これ以上の情報がないのでペンディングだが,いずれにせよただ1点コッレに残るチェンニーノの作品が,コッレの宗教施設のために描かれたものであることは間違いないだろう.


トスカーナの覇権争い
 皇帝党(ギベッリーニ)のシエナが,教皇党(グェルフィ)のフィレンツェを破ったことで有名なモンタペルティの戦い(1260年)の後,フィレンツェがシエナに勝利したコッレ・ディ・ヴァルデルサの戦い(1269年)はトスカーナの覇権をめぐる一つの分岐点となったようだ.

 どの町にも皇帝派と教皇派がいて,党争を繰り広げていたが,全体としてシエナ,ピサ,アレッツォは皇帝派が優勢で,フィレンツェは教皇派が優勢だった.

 モンタペルティの戦いに敗れたフィレンツェで,一時皇帝派が権力を持ったが,教皇派が盛り返し,アンジュー家のシャルル(ナポリ王カルロ1世)の助力を得て,コッレ・ディ・ヴァルデルサの戦いに勝利する.

 すると,今度はシエナで皇帝派政府が倒れ,教皇派が政権を握り,それを代表する36人政権,50人政権が続き,1288年から9人政権が長期に亘って敗戦後のシエナに繁栄を実現する.

 プッブリコ宮殿のフレスコ画,シモーネ・マルティーニの「モンテマッシ城を攻囲するグィドリッチョ」(1330年),アンブロージョ・ロレンゼッティの「善政と悪政の寓意画」(1338-39年)もこの時期に描かれた.特に後者の「善政の寓意画」はこの時代を反映しているものと考えられる.

 しかし,1348年の黒死病の流行は,フィレンツェなどトスカーナの他の諸都市も経験したが,特にシエナにとって深刻で,人口は半減し,経済は衰退して,シエナの全盛期は終焉を迎えた.

 シエナの近傍の都市を巡って,シエナの影響は予想していたよりも小さく,フィレンツェの影響が意外なほど大きいことに驚くが,シエナがコッレ・ディ・ヴァルデルサの戦いに敗れて,皇帝党の勢力が衰退し,フィレンツェなどと同じく教皇派が優勢になった時にトスカーナ全域にそれまでよりも平和な環境が実現し,経済が発展したことが影響しているだろう.

 さらにシエナが黒死病の影響から,フィレンツェほどは立ち直れなかったことを考えると,14世紀以降のトスカーナで,シエナ周辺の都市であってもフィレンツェの影響が大きかったことは良く考えれば当然と言えるかも知れない.

 モンタペルティの戦いの勝利で勢いを得たシエナの皇帝党によって断罪され,追放,亡命を余儀なくされたシエナ市民がコッレに多く退避しており,コッレ・ディ・ヴァルデルサの戦いにあたって,最初から教皇党の重要拠点であったことを知っていれば,コッレにフィレンツェの影響が大きかったことも不思議ではないだろう.

 16世紀後半からシエナもフィレンツェの支配下に入るが,コッレは14世紀からフィレンツェの影響下にあり,15世紀にはフィレンツェ共和国に支配される.

 しかし,そのことによって経済的恩恵を得たので,都市としての繁栄にマイナス面ばかりではなかった.サン・ジミニャーノ同様,大国シエナの近傍にありながら,コッレはシエナの支配を受けたことはなく,独立した経済圏,文化圏を形成して現在までの歴史を紡いできた.

 シエナに近く,現在はシエナ県に属しているので,シエナの支配と影響を受けただろうという思い込みは,コッレの町に足を運び,芸術作品を観て,少し歴史を勉強すれば,間違いだと分かる.当たり前のことだが,コッレにはコッレの歴史があったのだということだけは,少なくとも理解できたと思う.



 最後に,バス停のある丘の麓のコッレ・バッサとは反対側にある城門,ポルタ・ヌォーヴァ(もしくはノーヴァ),別名ポルタ・ヴォルテッラーナの写真を紹介して,コッレの報告を終える.

 この城門は中世のものではなく,1479年に起きた有名なパッツィ事件に関連して,フィレンツェ共和国と対立したナポリ王国,シエナ共和国,教皇国家がコッレを攻撃し,その際に破壊されたポルタ・セルヴァに代わって建造されたルネサンス建築である.

 設計は,フィレンツェの芸術家ジュリアーノ・ダ・サンガッロによる可能性があるとされている.いずれにせよ,ロレンツォ・イル・マニフィコ支配下のフィレンツェの影響下にできたものである.

 コッレでは予想以上に多くのものを見ることができ,思ったよりも長くなってしまったが,次回はこれよりは遥かに少ないものしか見ていないポッジボンシに関して,本来の趣旨に沿った「来た,見た,感動した」という簡潔な報告をまとめる.






守りを固める必要があった時代を物語る
ポルタ・ヴォルテッラーナ