フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2018年9月5日



 




レーヴェンブロイケラー
(醸造所直営のビアホール)
ミュンヘン



§ミュンヘン行 その1 絵画篇

年が明けた1月27日,再度イタリアを飛び出して,今度はミュンヘンに行った.2泊3日の短い旅で,学生の時以来,36年ぶり2度目のミュンヘンである.


 昔のことで記憶に残っているのはサッカーとビールくらいと言ったら,月並みな観光をしたように聞こえるだろうか.

 TSV(体操スポーツ協会)という名の二部リーグのサッカー・チームの試合(相手はオスナブリュック)を観戦し,そのチームのTシャツを着て,ビールを飲みに行くために街を歩いていたら,何度も地元の人から結果を聞かれた.確か2点取って勝利したと思うが,はっきりとは覚えていない.ビールについては,注ぎ方が丁寧で時間をかけるのにとても驚いた.

 昼の街では,「黄金時代スペインの宗教音楽」という組み物のLPを買い,多分同じ店で大歌手のフィッシャー=ディースカウが著者だったことに惹かれ,『ニーチェとワグナー』(その後,邦訳された)というペーパーバックの本を買い,小さな文房具屋でモンブランの万年筆とボールペンを購入した.

 36年前に,彫刻博物館(グリュプトテーク)やバイエルン州立古代コレクションのみならず,有名な美術館であるアルテ・ピナコテークやノイエ・ピナコテークにも行かなかったのは,まだ若かったから,ということにしておく.既に古典語の勉強は始めていたし,同じ旅でパリではルーヴル美術館に3日通い,ロンドンではナショナル・ギャラリー,大英博物館,テイト・ギャラリーに行ったから,美術に関心が無い訳ではなかった.

 歳を重ねた今回は,ビールもサッカーも音楽も素通りで,彫刻博物館と古代コレクションにまっしぐらのつもりだったが,実際に一番最初に足を運んだのはアルテ・ピナコテークだった.


アルテ・ピナコテーク
 2泊3日という短い旅であるうえ,フィレンツェからの直行便があまりに早朝でフランクフルト乗り換えの便を選択したため,現地での活動時間は限られていた.しかし,ノイエ・ピナコテークは諦めるとしても,古代関係の2つの博物館の他に,アルテ・ピナコテークは何としても見たかった.

 1月27日の土曜日の午前中にフィレンツェを発ち,フランクフルトで乗り換えて,午後にミュンヘンに着くと,空港からバスで中央駅まで行き,そこからタクシーに乗ってアルテ・ピナコテークに向かった.空港からのバスが思ったより時間がかかったので,もう暗くなりかけていたが,19時まで開いているはずだった.

写真:
ホントホルスト
「堕落した学生」


 アルテ・ピナコテークに無事入館して,最初に見た絵はヘリット・ファン・ホントホルスト「堕落した学生」(1625年)だった.

 一番手前にいる,豊かな出自を誇示するような帯剣,羽根つき帽子の人物が表題の学生(大学生)であろう.左手に酒瓶を持ってご機嫌の様子で,酒席には場違いな書見台の方に顔を向けていて,そこにはエレゲイア2行連句を連ねているように見えるラテン詩が書かれた革装本が置かれている.

 向かい側には,はだけた白い胸元にリュートを抱えてしどけなく弾いている若い娘がいる.歓楽の寓意であろう彼女の誘うような笑みと視線は,若者ではなく,絵を見るこちらに向けられていてハッとする.

 今ほど大学生が多くない時代,学生は恵まれた階級の出身であるか,誰かの支援があって大学で学んでいるかのどちらかで,いずれにしてもエリートとして出世街道を歩いている彼らが酒や賭博,女性に溺れて自堕落な生活を送ることは,十分に顰蹙と揶揄の対象になったであろう.

 左手奥から乳母のような老女(解説板では「売春宿の女将」とある)が乳飲み子(恐らく彼の子供)を抱えて近づいてきており,堕落の先に待っている結末が暗示されている.

 オランダ出身で,イタリアでカラヴァッジストとして活躍し,明暗対照画法ゆえに「夜のゲラルド」(ゲラルド・デッラ・ノッテもしくはデッレ・ノッティ)として知られたホントホルストにこの絵を依頼したのが誰かは分からないが,多分に道徳的な主題であったと考えられる.

 書架に,

 エーリヒ・シュタイングレーバー,田辺清(訳)『アルテ・ピナコテーク』みすず書房,1990(以下,シュタイングレーバー)

があり,ホントホルストのもう1点の作品「愉快な仲間たち」(1622年)は写真が掲載されているが,この作品は載っていない.と言うことは,シュタイングレーバーに紹介されていない作品で,なおかつ高水準の絵を観ることができたことになる.

 「愉快な仲間たち」と同様,シュタイングレーバーには紹介されているが,写真を撮っていない(観ていない)作品もたくさんある.

 とりわけ残念なのが,セーニャ・ディ・ボナヴェントゥーラ「マグダラのマリア」,ジョット「最後の晩餐」(祭壇画の一部),フィリッポ・リッピ「受胎告知」,ロレンツォ・ディ・クレーディ「聖家族と幼児の洗礼者ヨハネ」,ペルジーノ「聖ベルナルドゥスの幻視」,ルーカ・シニョレッリ「聖母子と棘を抜く少年」,ボッティチェリ「キリスト哀悼」,ギルランダイオ「マンドルラの中の授乳の聖母と聖人たち」(フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の主祭壇のあるトルナブォーニ礼拝堂の祭壇画だったらしい),フランチャ「薔薇園の聖母子」,ロレンツォ・ロット「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」,チーマ・ディ・コネリアーノ「聖母子と聖人たち」,アントネッロ・ダ・メッシーナ「受胎告知の聖母」など,後期ゴシックからルネサンス期のイタリアの巨匠たちの作品が観られなかったことだ.

 これらの作品は,展示されていれば見逃すはずもない,私好みの絵ばかりで,僅か3時間弱の鑑賞で,最後は閉館時間が迫って退館を促されたとは言え,展示してあったなら,注目しなかったはずはない.何らかの理由で展示されていなかったか,辿ったコースから外れた場所にあったかどちらかであろう.

 トリノのサバウダ美術館では1回目には閉ざされていたコーナーにあった絵を2度目の訪問で見ることができたし,ラヴェンナの市立絵画館では,昨年(2017年)と今年(2018年)で公開・非公開の部分が逆になり,2年がかりでようやく全てを見ることができた体験をしたばかりだ.

 時間帯によって一時的にあるコーナーが閉ざされることはヴァティカン博物館やボローニャの国立絵画館でも経験済みだが,上記作品群は,観ることができた諸作品と関連性もあり,なおかつ有名画家の作品なので,別の箇所に展示されていたとは考えにくいが,兎にも角にも残念だ.



 観ることができて,写真にも収めた作品を自分の好みを優先して列挙してみる.

 タッデーオ・ガッディ「チェラーノの貴族の死」,「フランチェスコの火の試練」の2点は,四つ葉飾り額(グローリア)にはめ込まれた小さな絵で,元々はフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の聖具室を飾っていたが,現在は22点がフィレンツェのアカデミア美術館,2点がベルリンのダーレム美術館にあり,ボナヴェントゥーラの「フランチェスコ伝」に基づいて,聖人の生涯を描いたものとのことだ.

 ナルド・ディ・チョーネ作とされている2枚の金地板絵の祭壇画「聖人たち」(1枚5人ずつ計10人)は,天才ナルドの作と言うにふさわしく立派な作品に思えたが,シュタイングレーバーでは紹介されていない.


写真(左から): ナルド・ディ・チョーネ「聖人たち」,マゾリーノ「聖母子」
フラ・アンジェリコ「リュシアス総督の前への召喚」 (すべて部分)


 ゲラルド・スタルニーナのテンペラ板絵の祭壇画の一部だった思われる「最後の審判」,マゾリーノの「聖母子」(1435年頃)は後期ゴシックから初期ルネサンスの美しい絵だ.

 シュタイングレーバーはマゾリーノのこの作品に関して,1435年から40年頃の作とし,「謙譲の聖母」の古い型と言っているが,であれば,ウフィッツィ美術館にある有名な「謙譲の聖母」が1423年の作品とされることとどう関係するのかは若干疑問が残る.伊語版ウィキペディアは「謙譲の聖母」としてこの作品を立項している.両者ともに,特に嬰児キリストの持つリアル感にマザッチョの影響を見ている.

 専門家の意見がそうであれば,確かにマザッチョの影響が見られるところにこの絵の価値があるのかも知れないが,私としては,美しい色彩と繊細な姿形にマゾリーノの個性を読み取ってじっくり眺めていたい.

 マゾリーノはスタルニーナの工房に,スタルニーナはアーニョロ・ガッディの工房にいたのであれば,アーニョロがタッデーオの息子なので,数少ない作品の中にも,フィレンツェの後期ゴシックから国際ゴシック,初期ルネサンスへの系譜を垣間見ることができるであろう.

 フラ・アンジェリコの祭壇画の裾絵パネルが4点ある.「リュシアス総督の前への召喚」,「溺死刑からの救済」,「キリスト埋葬」,「コスマスとダミアヌスの磔刑」で,フィレンツェのサン・マルコ修道院の主祭壇を飾っていた祭壇画(現在は,サン・マルコ旧修道院国立博物館)の裾絵で,「キリスト埋葬」を除けば,メディチ家の守護聖人であるコスマスとダミアヌス兄弟の殉教に関する絵である.

 この祭壇画の裾絵は全部で9点あって,うち1点はワシントン・ナショナル・ギャラリー,1点がダブリンのアイルランド・ナショナル・ギャラリー,1点はルーヴル美術館,2点はフィレンツェのサン・マルコ旧修道院国立博物館にある.これで,ワシントンとダブリンの作品以外は全て見たことになる.


左)フィリッポ・リッピ「聖母子」 右)レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖母子」
通称「カーネーションの聖母」 (ともに部分)


 フィリッポ・リッピの「受胎告知」(1450年頃)は残念ながら今回見られなかったが,美しい「聖母子」(1465年頃)を観ることができた.いずれも1820年代にフィレンツェの修道院と美術商から購入された(シュタイングレーバー)とのことだ.

 「聖母子」の方は個人蔵だったと思われ,教会,修道院などの出自があったかどうかは分からない.リッピは1466年からスポレート大聖堂後陣の大作フレスコ画に取り掛かり,1469年に未完のまま亡くなるので,フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿に現存する「聖母子」とともにテンペラ板絵の小品としては最晩年の作品ということになる.

 「リッピーナ」と通称されることもあるらしいウフィッツィ美術館の「聖母子と天使」も1465年の作品で,アルテ・ピナコテークの「聖母子」と,聖母が腰掛けている椅子の肘掛と,聖母子の背景の山河が似ている.芸術的にはウフィッツィのリッピーナが優れているかも知れないが,ミュンヘンの聖母子の聖母の表情が愛らしくてよりリッピらしく思える.

 レオナルドの「聖母子」(通称「カーネーションの聖母」)(1473年頃)に関しては,画集で何度も見て,ミュンヘンにあることも知っていたはずなのに,出会った瞬間に思ったのは.「あ,ここにあるんだ」という意外感だった.

 専門的なことは私にはわからないが,窓の向こうのおぼろげな山々の描き方が「スフマート画法」と呼ばれるものかなと想像する.レオナルドの作品と言われて,比較的納得しやすい絵だと思うが,これを観て心打たれるかどうかは別問題だ.

 伊語版ウィキペディアの「レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画」の一覧表には,新作かどうかについての諸家の見解の状況が簡潔に説明されているが,この絵に関しては「全員一致」(unanime)とあり,概ねレオナルドの作品と認められていることが分かる.

 これを鵜呑みにして良いかどうかは別問題として,ロシアで見た「ブノアの聖母子」は「全員一致」,「リッタの聖母子」は「長い間不確かだったが,近年真作と認められた」とある.江戸・東京博物館の特別展に「レオナルドの真作」として展示された「糸車の聖母子」は「不確か」とされている.

 「全員一致」はハードルが高く,他には未完の「聖ヒエロニュムス」(ヴァティカン絵画館),未完の「三王礼拝」(ウフィッツィ美術館),「岩窟の聖母」(ルーヴル美術館),「白貂を抱く貴婦人」(クラコフ国立博物館),「ミラノの貴婦人の肖像」(ルーヴル美術館),「最後の晩餐」,素描「イザベッラ・デステ」(ルーヴル美術館素描室),素描「聖母子,聖アンナ,幼児の洗礼者ヨハネ」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー),「ラ・ジョコンダ(モナリザ)」(ルーヴル美術館),「洗礼者ヨハネ」(ルーヴル美術館)くらいで,少ない.

 題名の邦訳に関して参考にしようと思って,新潮美術文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』を参照した(実際には日本語ウィキペディアなども参照し,そちらの方を借りていることもある)が,「カーネーションの聖母」に関しては,「ヴェロッキオの工房で見習いをしていた頃の共同作品だと推定され,少なくともレオナルドの手が入っていると思われるが,詳細は不明」とあって,真作性に否定的である.

 伊語版ウィキペディアの一覧表では,「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー),「音楽家」(ミラノ,アンブロジアーナ絵画館),素描「ほつれ髪の女性」(パルマ国立美術館)は「ほぼ全員一致」とある.個人的には「ほつれ髪」は真作,「音楽家」はレオナルド以外の作品と思いたいが,好き嫌い以外の根拠は無い.

 記録上の根拠があるのは,「三王礼拝」,「岩窟の聖母」で,ウフィッツィ美術館の「受胎告知」に関しては「不確かだが,記録は無いけれども,研究が進んで真作と認められて来た歴史的経緯がある」(意訳)とされている.「受胎告知」はウフィッツィ美術館ではレオナルドの初期の真作として展示されている.

 「カーネーションの聖母」が1473年頃(シュタイングレーバー,伊語版ウィキペディア)の作とすれば,巨匠が21歳くらいの時の作品ということになり,師匠ヴェロッキオの影響はあると思われるが,個人的には真作と思いたい.

 なお,制作年代について新潮美術文庫は1478-80年の作品しており,とすると,レオナルドが20代後半の作品で,解説の「見習いをしていた頃」の作品という説明と矛盾すると思う.世紀の天才が14歳で工房に入って,20代後半にまだ「見習い」と言うことがあるだろうか.

写真:
「テンピ家の聖母」(部分)
ラファエロ


 ラファエロの「テンピ家の聖母」(1508年)は,私と同時期(2007年度)に特別研究期間を取得し,ドイツを在外研究の場に選んだ後輩のカント学者から絵葉書をもらって,今の家に引っ越すまでリビングに掛けていた.10年経ってその実物が見られるとは!すばらしい作品で心魅かれる.この絵もアルト・ピナコテークにあることは失念していた.

 シュタイングレーバーに拠れば,あと2点のラファエロ作品,「カニジャーニ家の聖母」(1507年頃),「垂れ幕の聖母」(1523-14年)(訳語はシュタイングレーバー)があるはずだが,見ていない.前者は特に見たかったので残念だ.

 代わりと言っては何だが,ドメニコ・ベッカフーミの「聖家族と幼児の洗礼者ヨハネ」は小さいが佳品で,観ることができて良かった.



 ティツィアーノの「荊冠のキリスト」(1570-76年頃),「カール5世の肖像」(1548年)は観たが,「夕刻の風景なの中の聖母子」(1560年頃),「若い男の肖像」(1520年頃)は見られなかった.

 シュタイングレーバーは上記4点ともティツィアーノの作品としているが,伊語版ウィキペディアの作品一覧には「荊冠のキリスト」しか載っていない(2018年8月30日参照).ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは「若い男の肖像」以外は全部掲載されている.

 シュタイングレーバーの写真で見る限り,「若い男の肖像」は立派な絵なので,不思議に思いながら伊語版ウィキペディアの一覧表を良く見ると,さすがにティツィアーノは作品数が多いので,画像付きの表の下に,年代別作品リストがあり,そこにはアルテ・ピナコテークの「若い男の肖像」も挙げられ,そこからリンクされて伊語版ウィキペディアに解説ページが立項されていた.

写真:
「荊冠のキリスト」
ティツィアーノ


 「荊冠のキリスト」は,ルーヴル美術館でよく似た構図の同主題の作品を観ているが,ルーヴルの方は制作年代が1542-44年頃とされ,であれば,アルテ・ピナコテークの作品より30年前後早く描かれたことになり,画面もこれほど暗くなく色彩も華やかだ.

 ティツィアーノの生年ははっきりしていないが,没年は1576年で確定しているので,アルテ・ピナコテークの「荊冠のキリスト」は最晩年の作品と言うことになる.

 ヴェネツィアのアカデミア美術館の「ピエタ」のような色調を抑えた暗い感じの絵で,多分,ティツィアーノ晩年の特徴が出ているだろう.私の好みの作品だが,他にも見たい作品があり,時間も限られていたので,十分な鑑賞はしていない.

 それでもティツィアーノは少なくとも2点,傑作と思われる作品を観ることができたが,ティントレットの作品は,シュタイングレーバーには3点の写真(「マリアとマルタの家のキリスト」1580年頃,「ウルカヌスに驚かされるウェヌスとマルス」1550年頃,「1439年にレニャーノのアーディジェ川でヴェネツィア軍を倒すロドヴィーコ・ゴンザーガ2世」1579年→「ゴンザーガ家の功業暦」)が掲載されているが,どれも見ていない.

 ヴェロネーゼの作品も1点あるとされているが,見ていない.ティントレットは巨匠だが,作品数が多く,整理しきれないためか,伊語版ウィキペディアの作品一覧も充実しておらず(2018年8月30日参照),有名ではない作品に関しては情報が得にくい.

 バロック以前では,他にフェデリコ・バロッチ「我に触れるな」(1590年),バロック以後のイタリア絵画では,グイド・レーニの作品が3点(「聖母被昇天」1638-39年,「アポロとマルシュアス」1633年頃,「笞刑後のキリスト」1620-21年),オラツィオ・ジェンティレスキの作品が1点(「妹マリアを戒めるマルタ」1620年頃),カルロ・サラチェーニの作品が1点(「聖フランチェスコの幻視」1615年頃),ルーカ・ジョルダーノの作品が2点(「キュニコス学派の哲学者」2作1650-53年),ジャン=バッティスタ・ティエポロの作品が2点(「三王礼拝」1753年,「教皇聖クレメンスによる三位一体の讃仰」1739年)あったが,バロッチとルーカ・ジョルダーノの1点を除いては,全てシュタイングレーバーに写真と解説が掲載されている.

 ティエポロに関しては,伊語版ウィキペディアに作品一覧があり,上記2作品に関して個別の立項はないが,写真は掲載されており,基本情報は得られる.それにしても,この一覧を眺めると,この画家が長年にわたり,高水準の作品を量産し続けたことに驚く.もちろん,アルテ・ピナコテークの作品も美しい.

 ヴェローナの画家アレッサンドロ・トゥルキの作品も2点,「ヘラクレスとオンパレ」(1620年頃),「ヘラクレスの狂気」(1630年頃)を観た.後者は,初めて名古屋大学で学会発表した時に扱ったのが,セネカの悲劇「狂えるヘルクレス」だったので印象深いが,シュタイングレーバーには取り上げられていない.

 イタリア絵画に関しては,シュタイングレーバーに写真が掲載されていながら,見なかった作品として,モレット,ジョヴァンニ・カリアーニ,ヴェロネーゼ,アレッサンドロ・マニャスコ,ジローラモ・ペドリ=マッツォーラ,ベルナルド・カヴァッリーノ,アンニーバレ・カッラッチの作品がそれぞれ1点ずつあるが,回った限りでは見つけられなかった.次の機会があるかどうか分からないが,次があれば,見られるものは全て見たい.



 ロココ以前のフランス絵画も充実したコレクションだったが,クロード・ロラン,二コラ・プサン,ヴァランタン・ド・ブーローニュ,フランソワ・ブシェ,フラゴナールの複数の佳品を観ることができたことを報告するにとどめる.

 これらは,少なくともシュタイングレーバー掲載の作品は全て観ることができたと思う.シモン・ヴーエの「ホロフェルヌスの首を持つユディト」(1620-25年)が小品ながら立派だったように思う.



 スペイン絵画に関しては,エル・グレコ「聖衣剥奪」の縮小版(1585-95年),リベーラ「聖バルトロマイ」(1633年頃),スルバランが2点(「聖フランチェスコの幻視」1660年頃,「アレクサンドリアの聖カタリナの埋葬」1637年頃),ムリーリョが5点(「脚萎えの男を癒すヴィリャヌエーバの聖トマス」1675年頃,「果物売りの少女と少年」1670-75年,「骰子遊びをする少年たち」1675-80年,「葡萄とメロンを食べる少年たち」1645年頃,「パイを食べる少年たち」1675-82年),ベラスケス「若いスペイン貴族」(1631年頃)があったことは,撮ってきた写真で確認できた.

 上記のムリーリョ作品のうち,シュタイングレーバーに掲載されているのは2点のみだが,一方,同書が紹介している「髪の手入れ」(1670-75年),「行商する老女」(1640-45年)を私は見ていない.

 ムリーリョの風俗画が,貧しい人々をリアルに描いていながら,気品を失っていないのは,相変わらず素晴らしいと思う.美術館の解説板の制作年代を信じるなら,随分長い間同じテイストの作品を高水準で産み出し続けたことに驚く.

写真:
「フランシスコの幻視」
スルバラン


 私の好みとしては,やはりリベーラとスルバランが素晴らしかったと思う.特にスルバランの「フランシスコの幻視」は晩年人気が衰えた頃の作品と思われ,これだけの絵を描けた巨匠が貧窮の内に陋巷で亡くなったことを思うと,悲しい思いがこみ上げる.



 シュタイングレーバーを眺めていて,ことさらに残念に思うのは,「初期ネーデルラント絵画」に分類されている諸作品を全て見ていないことだ.これは展示されていなかったのではなく,コーナーそのものを見落とした可能性が高い.そう考えると,もしかしたら,展示されていなかったから見られなかったのかも知れないと思ったイタリアの後期ゴシックから初期ルネサンスの画家たちの作品も見落としたのかも知れない.

 「初期ネーデルラント絵画」では,特にロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「聖母子を描く聖ルカ」(1450年頃)と「三王礼拝」(1455年頃),ディルク・ボウツの「ブラバントの真珠祭壇画」(1470年頃)と「キリスト捕縛」(1450-60年),ハンス・メムリンクの「薔薇園の聖母子と寄進者と伴う聖ゲオルギウス」(1480年頃),「聖母の七つの喜び」(1480年),とりわけ,ギリシア神話を題材にしたヤン・ホッサールトダナエ」(1527年)は以前から見たいと思っていた作品だけに,見られなくて残念だった.

 しかし,フランドル,オランダ(この2つが「ネーデルラント」にあたる),ドイツの北方絵画に関しては,バロック以降の作品に関しては充実した鑑賞を果たすことができた.フランドルではルーベンス,オランダではレンブラントのコレクションが立派で,ドイツのデューラーは2点しかなかったが,それぞれ有名な作品で,見応えがあった.



 ルーベンスに関しては,作品数が多いだけではなく,大作がかなりあって,本来なら一つ一つの作品について考察したいところだが,その場では興奮して立派な作品に思えたものも,落ち着いて写真で確認すると,相変わらず自分とルーベンスの相性は今一つのように思われる.

 その中でも,「セネカの死」を題材とした作品には目を見張った.この作品も,ルーヴルのルーカ・ジョルダーノの作品と並んで,タキトゥス『年代記』に取材してセネカの死を描いた作品として有名で,もちろん存在は知っていたが,アルテ・ピナコテーク所蔵だと言うことはこれまた忘れていた.

 『年代記』の15巻60章から64章にかけて,ネロに対して企てられたピソの陰謀に連座して,自殺を命じられ,逍遥として死につこうとするセネカの様子が描かれている.ソクラテスの死と並び称せられる「哲学者の死」であり,哲学は死といかに向き合うかが主要な課題の一つとされているので,どれほど見事に死ぬかも哲学者にとっては大きな意味を持っていたと思われる.

 プラトンが描いたソクラテスの死は,魂の不死を論証しながら,いかなる動揺も見せずに死を迎える哲学者の死であった.学派を異にするとは言え,プラトンをギリシア語で読んでいたと思われるセネカの念頭には,『パイドン』に描かれたソクラテスの姿が常にあっただろう.

 しかし,セネカはソクラテスのような穏やかな死を迎えられなかった.どのような毒薬であったのか想像する術もないが,ソクラテスは毒杯を仰いで静かに亡くなった.セネカはローマの自殺の作法に従って,執刀医に血管を切り開かせ,失血死を意図したが,「相当年をとっていたし,節食のため痩せてもいたので,血の出方が悪かった」(『年代記』岩波文庫の國原吉之助訳,下巻,p.290)ので,信頼している医師に毒を用意してもらった.

 それは「アテナイの人が国家の裁判で罪を宣告された人を処刑するとき,使用していた毒と同じもの」であったようだが,「すでに毒もきかないほど手足は冷えきって,五体の感覚が失われていた」ので,最後は「熱湯の風呂に入り」,「ついで発汗室に運ばれて,その熱気によって息を絶った.その間に耐え難いほどの苦痛を味わったようだ.

 ソクラテスのように穏やかに死ぬことはできなかったが,それでも「最期の瞬間に臨んでも,語りたい思想がこんこんと湧いてくる」ので「写字生をよびつけ,その大部分を口述させた」とされており,彼の死もまた哲学者の死であったことを,タキトゥスは私たちに伝えている.

 死の直前のセネカの口述に関して,タキトゥスは「彼自身の言葉のまま出版されている」ので,「要約する必要はない」と言って書いていないので,残念だが現存しない.当時は「出版」はないので,「公表」と言うことであろうが,こうしてセネカの死に関しては,よく分かる明瞭な日本語で情報を得られる.


「セネカの死」 ルーカ・ジョルダーノ(左) 2011年ルーヴル美術館で撮影
 ルーベンス(右) アルテ・ピナコテーク


 以前も報告したように,ルーベンスは父がボローニャ大学でも学んだ法律家,兄が古典学者で,兄の師匠は当時の世界一の古典学者と言っても良いと思われるリプシウスだった.リプシウスと兄の姿を描きこんだ「四人の哲学者」という絵に,ルーベンスは伝セネカ像とされる古代彫刻と自身の姿も描き入れている.

 リプシウスがセネカの研究史に燦然と輝く学者であったことと,ルーベンスが外交官としての役割も果たして,国内外の貴顕,高官,有名人と見事なラテン語で書簡を交わしたことを考え合わせると,間違いなく,ルーベンスはタキトゥスの記述をラテン語で読んでいただろう.

 アルテ・ピナコテークの作品にそれが反映しているように思われる.真ん中に裸体の哲学者がいて,その右には血管を開いている執刀医と思われる人物,左下に若い写字生と思われる人物,奥の武装した2人はセネカに自殺を命じたネロの意志を伝える使者と思われる.

 タキトゥスに拠れば,ネロから伝達を命じられた副官シルウァヌスは,自身も陰謀に関わっていたので直接の伝達を躊躇し,名前を挙げられていない百人隊長に伝えさせたとされる.さらに,シルウァヌスが途中相談に行った護衛隊長ファエニウスの名も挙げられているが,セネカに直接会ったのは百人隊長一人のはずで,絵に描かれた2人が誰なのかは分からない.

 セネカの足元には金盥のようなものがあり,これはタキトゥスの言う「熱い風呂」なのか「発汗室」を表しているのかは不明だが,いずれにせよ,これを手伝ったはずの奴隷などの姿は描かれていない.

 ルーベンスは,同じ瞬間に居合わせたはずのない複数の人間を同時に登場させているが,これはタキトゥスの報告にあった要素を一場面に凝縮したということであろう.しかし,巨匠に対して失礼な言い方かも知れないが,この絵は芸術作品としては成功していないように思われる.

 哲学者の顔や上半身は,下半身に比べて青白く,既に血の気が失われていることが分かるが,加齢により肉の落ちた様子はあるものの筋肉質の堂々たる体躯に見え,タキトゥスの記述には合致しない.おそらく尊敬する哲学者の死を毅然,泰然としたものとして描き,その意志を力強く表現したかったのかも知れない.

 顔に関しては確信はないが,伝セネカ像の年齢が進むとこのようになる可能性もあるものとして描かれているようにも思う.頭髪は明らかに薄くなっている.ベルリンにあるソクラテスと組み合わされたダブル・ハームのセネカ像は禿頭だが,これをルーベンスが見たことあるかどうかは調べていない.このタイプは一体しか現存しないので,ルーベンスの時代にまだ発見されていなければ可能性はないだろう.

 伝セネカ像とほぼ同じ顔をした全身像もかなりの数(私はルーヴルとヴァティカンで見ている)現存しており,ルーベンスの絵のセネカの姿勢は,かなりその全身像に似ている.また,アルテ・ピナコテークの解説板には,ルーベンスがローマでその全身像のスケッチをしていたことが記載されているので,ルーベンスが意識したのはベルリンのダブル・ハームの肥満・禿頭のセネカでないことは確かだろう.

 「四人の哲学者たち」が1611年か12年(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート),「セネカの死」が1612年か13年(美術館の解説版),ルーカ・ジョルダーノの「セネカの死」が1684年から85年(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート)とのことだが,それぞれの「セネカの死」が誰の注文で,どのような状況下で描かれたのか,ルーベンスより70年ほど後に同主題を描いたルーカ・ジョルダーノはルーベンスの絵を見たことあったのか,興味は尽きないが,例によってペンディングとする.

写真:
「イサクの犠牲」
レンブラントおよび工房


 実はアルテ・ピナコテークで観ることできて,最も良かったと思われた作品はレンブラントの「イサクの犠牲」(1636年)であった.

 ところが,これとほぼ同じ構図の絵をサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館で見ており(既に報告),アルテ・ピナコテークの解説板によると,こちらの作品は工房が制作したものに巨匠が手を入れて仕上げたもののようだ.

 アブラハムが天使に制止されて,短剣を落とす構図は,当時のオランダの劇作が影響していると考えられているので,普通に考えると,まず巨匠がエルミタージュ(オーフォード伯爵ウォルポール家から購入)の絵を描き,その後,注文があって,それを模した作品が工房で制作され,巨匠が最後に手を入れて立派な商品に仕上げた,と言うストーリーが考えられる.もちろん,証拠はないし,少なくとも私は知らないので,全く見当はずれのことを言っているかも知れない.

 両者を比べると,特に制止する天使の姿勢や表情に違いがあり,やはりエルミタージュの作品の方が緊迫感に満ちており,アルテ・ピナコテークの作品は少しのっぺりとしているように感じられるが,現場で見た時はアルテ・ピナコテークの作品も傑作に思えた.

 「東洋風の装束の男性肖像」(1633年),「聖家族」(1633-35年),「復活のキリスト」(1666年),「キリスト磔刑」(1633年頃),「キリスト降架」(1633年),「キリスト埋葬」(1636-39年),「キリスト復活」(1636-39年),「キリスト昇天」(1636年),「自画像」(1629年)と,撮ってきた写真を数えると,「イサクの犠牲」を除いても,9点のレンブラント作品を観ている.

写真:
「オデュッセウスの前に
現れたナウシカア」
ラストマン


 オランダ絵画では,ハルス,ボル,ロイスダールなど有名画家の佳品もあったが,むしろ,ピーテル・ラストマンの「オデュッセウスの前に現れたナウシカア」(1619年)が印象に残る.

 この絵はずっと以前から授業で使わせてもらっているので,存在は知っていたが,古代図像ではないし,有名画家の作品でもないので,どこにあるのかを意識したことはなかったが,閉館時間の迫るアルテ・ピナコテークで見ることができ,僥倖に思えた.

 ラストマンの作品としてはもう1作,『使徒行伝』に基づく使徒ピリポの「エチオピア宮廷式部官の洗礼」(1620年)があり,堅実な作風の絵に思われた.

 ラストマンは,有名なオルガニストで作曲家のヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクの弟で画家のヘリット・ピーテルス・スウェーリンクのもとで修業し,1604年から1607年までイタリアに滞在し,カラヴァッジョの影響を受けたということだ.

 アルテ・ピナコテークの作品は2作ともカラヴァッジョ風ではないが,作曲家スウェーリンクの弟の弟子で,カラヴァッジョの影響を受けたということであれば,俄然興味が湧く.今後さらに,この画家に興味を抱くことになると思う.



 2日目は古代遺産を集めた2つの博物館に集中しなければいけないので,冬季でもう暗くなり始めた夕刻から3時間足らずが,今回アルテ・ピナコテークに注ぐことのできるエネルギー,時間の全てであった.

 傑作ぞろいのアルテ・ピナコテークをたったこれだけの鑑賞で後にするのは,断腸の思いだった.特にジョットの2点のパネル画(「最後の晩餐」と「キリスト磔刑」),ラファエロの「カニジャーニの聖母子」,ホッサールトの「ダナエ」はみることができず残念だった.

 ミュンヘンはコペンハーゲンよりは行くチャンスがあるかも知れないので,次回を期したい.ペルジーノとギルランダイオの作品も見たい.

 タイトな日程なので,再訪のミュンヘンを30数年前と比べて,じっくり街並みを観察する余裕もなく,写真も絵画,古代彫刻,古代陶器以外にはほとんど撮っていない.その中で,街路で見た由緒ありげな建物と,ゴシック風の教会を写真に収めたが,前者は,写真を拡大して読むことができた文字から推測すると,ビール会社のレーヴェンブロイが経営する大規模居酒屋(兼レストラン)のようだ.

 またミュンヘンもその他のドイツ都市と同じように,第二次世界大戦による空爆破壊を蒙っており,ゴシック風に見えた教会は,ザンクト・パウル教会という由緒がありそうな教会ではあったが,建物は戦後の再建であろうと想像した.実際は確かに戦災は蒙ったのだが,そもそも現在の建物は,1892年から1906年にネオ・ゴシック建築として建てられたもののようだ(英語版ウィキペディアから,簡潔な知識が得られる).

 ミュンヘンはイタリア語ではモナコ・ディ・バヴィエーラで,「バイエルンのモナコ」となる.モナコは元来「修道士」の意味で,ミュンヘンの紋章には修道士が描かれている.プロテスタントのイメージが強いドイツにあって,ミュンヘンを中心とするバイエルン地方ではローマ・カトリックが主流であると聞いている.

 本来なら,十分に下調べをして,ミュンヘンとその周辺の由緒ある教会も拝観して見たかったが,今回はその余裕がなく,果たしてイタリアの教会のように,由緒ある建築が残っていて,そこの立派な宗教芸術があるのかどうかも全く知識が得られていない.

 そういう訳なので,後編も教会に関するレポートは無しで,今回の主たる目的だった,グリュプトテークで見た古代彫刻,州立古代コレクションで見た古代陶器に関しての報告になる.







カトリック教会の祭壇画
「聖フランチェスコの幻視」
カルロ・サラチェーニ