フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2018年9月23日



 




「ティテュオスを殺すアポロン」
ペンテシレイアの画家
州立古代コレクション ミュンヘン



§ミュンヘン行 その3 州立古代コレクション

グリュプトテークを出ると,王の広場を横切って,向かいにある州立古代コレクション(Staatliche Antikensammlungen)へと急いだ.


 北側のグリュプトテーク,西側のプロピュライアと調和してすっきりとした姿を見せる建物の中に入ると,古代陶器を中心とするギリシア,ローマ,エトルリアの遺産が所狭しと並べられていて,ゆったりとした空間に古代彫刻が佇むグリュプトテークとはまるで対照的なその光景に,魂消た.

 ドイツ語版しかなかったが,案内書を買った.

 Florian Knauss, Die Kunst der Antike: Meisterwerke der Münchener Antikensammelunge, München: Verlag C. H. Beck, 2017(以下,クナウス)

 これ以外は,ウェブページを参考にして,ここで鑑賞した古代陶器に関する感想をまとめて見る.


「ペンテシレイアの画家」
 何と言ってもまず見たかったのは,「ペンテシレイアの画家」が絵を描いた赤像式の酒杯「ペンテシレイアを殺すアキレウス」であった.

 この陶器画作者の通称のもと(name vase)がこの酒杯であるのは言うまでもない.ジョン・ビーズリーの研究と分類によって名付けられたことになっているが,最初の命名者は後述のアドルフ・フルトヴェングラーという説もある.

 私自身は,フェッラーラでこの作家の作品を初めて確認したが,それ以前にも,それとは知らずにどこかで見ていた可能性もあるかも知れない.

 古代コレクションの傑作の森の中を4時間彷徨っているうちに,ひっそりと置かれていたこの酒杯を見つけた.他の陶器と同様,ガラスケースに入れられていて,写真撮影には向かない展示だったし,特にガラスが反射する位置にあって,撮影に関してはとても残念だった.

 ギリシアの陶器画作家が優れた芸術家だったのかどうか,正直良く分からないでいる.そのことは,古代石棺の作者たちが優れた彫刻家なのかどうか分からないのと事情は似ている.職人として工房制作する彼らが,近現代のような意味で芸術家として世間に認識され,時には,それを以って高額の報酬を得ていたということが有るのだろうか.

 個性も力量も様々な彼らの作品をたくさん見てきて,自分にとっては,世間に認知された芸術家の作品であるかどうかより,心が惹かれるかどうかが大切に思える.見たいと思っていた「ペンテシレイアを殺すアキレウス」と直接向かい合った時間を,生涯忘れることはないだろう.


酒杯「ペンテシレイアを殺すアキレウス」より
左:ペンテシレイア 右:アキレウス


 ペンテシレイアは軍神アレスの娘で,アマゾン族の女王であり,ヘクトル戦死後のトロイア救援のために参戦し,マカオンなどギリシア軍の将兵を討ち取ったが,アキレウスと戦って敗死する.死にゆくペンテシレイアの兜を取ったアキレウスが,彼女の顔を見て恋心を抱いたと言われている.

 『イリアス』,『オデュッセイア』の前後の物語を扱った現存しない叙事詩群「叙事詩の環」(epic cycle)の一つ『エチオピア物語』(『アイティオピス』)がこの物語を扱っていたと考えられている.

 「ペンテシレイアの画家」の作品とされる陶器は,イタリアではフェッラーラに2点とボローニャに1点あり,州立古代コレクションにももう1点ある.今年(2018年)の8月にボローニャの考古学博物館に行ったら,博物館自体が修復中でギリシア関係のものは特別展展示になっていたが,ペンテシレイアの画家の「アマゾン族との戦い」は展示されていなかった.

 州立古代コレクションのもう一つの作品は,トップに掲げた写真の「ティテュオスを殺すアポロン」で,「ペンテシレイアを殺すアキレウス」と同じキュリックスという種類の酒杯に描かれている.

 「ティテュオスを殺すアポロン」の背景の物語について,少し説明しておく.

 『オデュッセイア』11巻は,英雄が,亡くなった預言者テイレシアスを訪ねて死者の国に行く「冥界行」(カタバシス)の物語として知られる.オデュッセウスは,そこで永遠の罰を蒙っている者たちを見るが,その中に,タンタロス,シシュポスとともにティテュオスの姿がある.

 ティテュオスは猛禽に肝臓を啄まれるという罰を受けているが,その罪はレト(レートー)に襲い掛かったこととされる.誰がティテュオスを殺したかはそこに書かれていないが,一般には,ゼウスが雷電で撃ち殺したか,レトの子供たちであるアポロとアルテミスが射殺したとされる.

 州立古代コレクションのキュリックスでは,アポロンは左手に弓矢を持っているが,右手に持った剣をティテュオスに振り下ろす瞬間が描かれている.ティテュオスの背後にいるのは襲われたレトもしくは,ティテュオスの母もしくは養母とされる大地の女神ガイアと考えられている.


「アキレウスの画家」
 今回,解説板には,「~の画家」という,ジョン・ビーズリーの分類名称の陶器がかなりあったように思う.その中で,気になる作者の一人が「アキレウスの画家」である.

 この通称のもととなった作品は,ヴァティカン博物館にあるアンフォラ(把手が2つ付いた壺)である.槍に寄りかかり,兜を脱いだ鎧姿のアキレウスが,腰に右手を当てて沈思しているように見える絵が描かれている.

 州立古代コレクションには,この作者の作品に分類されている作品が,少なくとも2つある

 一つは,やはりアンフォラで,そこには「オイディプスとスフィンクス」が描かれている.ヴァティカン博物館にも同主題の有名な作品があって,そちらは「オイディプスの画家」の作とされる.ヴァティカンの作品の方が優れていると思うが,「アキレウスの画家」のシンプルな作品も気に入った.

写真:
オイディプスと
スフィンクス
「アキレウスの画家」


 これまで英語のred-figure potteryを赤絵式陶器,black-figure potteryを黒絵式陶器と言ってきて,今でもこの方が日本語としては響きが良いように思うが,主として男性の人物像が赤いか黒いかが最も顕著な特徴なので,今後は赤像式黒像式と言うことにする.

 ここまで紹介してきた「ペンテシレイアの画家」,「アキレウスの画家」の作品は,前5世紀半ばくらいに作られた赤像式だが,州立古代コレクションにある「アキレウスの画家」のもう一つの作品は,白地レキュトス」と呼ばれる副葬品の香油瓶である.

 詩の女神ミューズ(ムーサ)の一人がヘリコンの山で竪琴を弾いていて,その前には女性祭司と思われる女性が立っており,二人の足元に黒い鳥が一羽止まっている.この壺には文字が書かれていて「アルキマコスの子アクシオペイテスは美しい(カロス)」と読める(解説板とクナウスを参照).美少年のアクシオペイテスを悼んだ副葬品かも知れないが,詳細は不明だ.

 白地レキュトスは絵が上手でなくても大体美しく見えるが,このレキュトスに関してはクナウスも「美しい」と言っており,「沈思のアキレウス」,「オイディプスとスフィンクス」に共通する寂寥感のようなものが,白地レキュトスの特性にうまく活かされていると思う.

写真:
白地レキュトスに描かれた
竪琴を弾くミューズと女性
「アキレウスの画家」



白地に美しい絵を描いた画家
 白地の作品で印象に残ったものをもう少し挙げてみる.

 絵皿のように見えるキュリックス「神々の女王ヘラ」は,「美しく厳か」と解説板に書かれていたが,私もその通りだと思う。作者は「サブロフの画家」と読めば良いのか,Sabouroff-Malerと綴られている.

 この画家については,Malerをpainterやpittoreに代えて検索すると,それなりにヒットして,英語圏やイタリア語圏にもこの画家の作品があることが分かったが,画家その人については少し時間がかかり,ようやく,独語版ウィキペディアに立項されているのを見つけ,そこから,この名のもとになった人の英語版ウィキペディアの立項に辿りついた.

 これらの情報を総合すると,この画家の作品は,フィレンツェ考古学博物館に1点(「トロイアの馬を引き入れる女神アテナ」),ローマのヴィラ=ジュリア・エトルリア博物館に1点(「兜を脱いで立つ女神アテナ」)があるようだ.

 どちらの博物館も複数回行っているが,撮ってきた写真を確認する限り,2作品とも見ることができていない.興味深い絵柄なので,残念だ.

 この画家の名前のもとになったのが,ピョートル・アレクサンドロヴィチ・サブロフという帝政ロシア末期の外交官だ.ギリシア美術のコレクターで,彼のコレクションはベルリンの博物館が購入し,それを分類したのが有名な指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーの父で,古代美術史家のアドルフ・フルトヴェングラーとされる.サブロフは晩年ロシア革命(1917年)に遭遇し,翌年病死し,彼の死後,帝政ロシアの高官だった息子は逮捕,銃殺された(英語版ウィキペディア).

 ちなみにロシア人の名が付けられた画家は,もう一人いる.「シュヴァロフの画家」と呼ばれる画家の名のもととなったのは18世紀のロシアの教育大臣で,美術アカデミーの創設者だった人物ということだ.

写真:
「マイナス」
「ブリュゴスの画家」


 白地の酒杯に美しい絵を描いた画家としてもう一人,「ブリュゴスの画家」がいる.

 彼の作品「マイナス」(酒神ディオニュソスの儀式に参加する女性)は,黒い大きな円の縁取り中の白地に,テュルソスという杖を右手に,左手は小さな豹の片脚を掴んで逆さに持ち,足を開き,衣を揺らし,髪を躍らせて,憑りつかれたように踊る女性が描かれている.

 陳腐な言い方だが,円という空間を一杯に使って,永遠の動きを一瞬に凝縮することに成功している作品のように思える.

 「ブリュゴスの画家」の作品として,州立古代コレクションには,「サッポー(サッフォー)とアルカイオス」を描いたとされる赤像式の酒壺もある.

 「マイナス」の顔も決して上手に描かれているとは思えなかったが,サッポーの顔は,とても美しいとは言い難い.それでも,この竪琴を持った男女が「サッポーとアルカイオス」であると,すんなり信じることができるだけの十分な雰囲気を湛えている.

 この絵の反対側には「ディオニュソスとマイナス」と思われる男女が描かれている.



 ブリュゴスは紀元前490年から470年頃アテネで工房を構えて活躍した陶器製造業者で,「ブリュゴスの画家」はそこに雇われていた陶器画製作者と考えられている.

 白地のレキュトスやキュリックスも素晴らしいが,やはり主流は赤像式で,ブリュゴス工房は,前6世紀の黒像式から移行して,前5世紀以降の赤像式の隆盛に貢献した工房であると言えよう.

 「サッポーとアルカイオス」の出土地はシチリアのアクラガス(現在のアグリジェント)とされる.であれば,制作推定年代の前470年頃には大変繁栄していたギリシア人都市だったので,アテネで制作された陶器が出土しても不思議はない.

 詩人哲学者エンペドクレスは前490年頃,この町で生まれたとされる.

 しかし,これまでに挙げた多くの陶器はヴルチ出土のものが多い.この町は,現在は中部イタリア,ラツィオ州のヴィテルボ県に属しており,古代には有力なエトルリア人都市だった.

 政治的,軍事的にはギリシア人と対立していたエトルリア人のギリシア文化愛好(フィルヘレニズム)があって初めて,アッティカ式陶器の傑作群は現代に遺されたことになる.


エクセキアスの作品
 赤像式の前にアテネ中心とするアッティカ地方で,前6世紀後半に黒像式陶器の流行があった.

 それらの陶器の中に作者名と思われる記銘のあるものが残っている.例えば,「酒神ディオニュソスとその子オイノピオン」というアンフォラ(大英博物館)には「エクセキアスが作った」(エクセキアース・エポイエーセ)とある.

 今,「作る」という動詞(ポイエオー)のアオリストという過去形を,学校で習う文法通りに,長音を保持した形で「エポイエーセ」と記したが,実際の記銘は長い「エ」を表すエータ(Η)ではなく,短い「エ」を表すエプシロン(Ε)が書かれているので,「エポイエセ」と記されていることになる.

 エクセキアスの傑作は州立古代コレクションにもある.「船で航海するディオニュソスとイルカ」で,この絵もキュリックスに描かれている.

 見た瞬間に惹きつけられ,じっくり鑑賞して,写真も撮ったが,ガラスが反射して自分の首に巻いたチェック柄のマフラーも写ってしまっている.残念だが,まぎれもなく自分が「観た」と言う証でもあるので諦める.英語版ウィキペディアに独立して立項されるほどの有名作品なので,写真なら参考書にもウェブ上にも立派なのがいっぱい出ている.

写真:
「船で航海する
ディオニュソスと
イルカ」


 展示台の反対側に回ると,裏側に描かれた「目の模様」や,「遺体の周りで争う6人の兵士たち」を見ることができた.

 裏側についても解説板があって,“「エクセキアスが作った」:倒れた一人の兵士の周りで2つの戦隊が戦っている.高台の縁には作者(マイスター)の記銘がある”と書かれていたが,その場ではドイツ語を読むのが面倒で,写真だけ撮ってよく読まなかったので,残念ながら高台の記銘部分は写っていない.

 州立古代コレクションのエクセキアス作品としては他に,「アキレウスの遺体を担ぐアイアス」のアンフォラがある.これはオレンジ色の地に赤も混じった黒絵が美しい作品で見惚れる.アテネで生まれ,アテネで生涯仕事をしたと思われるエクセキアスの紀元前540年頃の作と考えられている.

 その頃のアテネは,ソロンの改革とクレイステネスの改革の間の,ペイシストラトスの僭主政治の時代だった.ホメロスのテクストの収集と校訂などの文化政策も行われ,人文教養の尊重と芸術の発展が連動した背景には,商業や交易による豊かな経済力があったと考えられる.

 長い年月を経てイタリアのヴルチで発見された「船で航海するディオニュソスとイルカ」の現存に関しても,やはり地中海交易とエトルリア人のフィルヘレニズムが大いに貢献したことは想像に難くない.

 州立古代コレクションには他にもアキレウスとアイアスを描いた作品があった.アキレウスとアイアスが日本風に言うと「将棋を指している」間に女神アテナがいる黒像式のアンフォラで,作者は「ヴァティカンG31の画家」とされ,紀元前6世紀末の制作で,ヴルチ出土とある.

 同じようにアキレウスとアイアスが将棋かチェスのような遊びをしている場面を描いたアンフォラを昨年(2017年)の12月にヴァティカン博物館で観ている.このアンフォラにはもう一つ,「アキレウスの遺体を担ぐアイアス」の場面も描かれていた.


バイリンガル陶器画
 エクセキアスが陶器画の伝統の中で持っている意味として,彼の工房から二人の優れた職人が輩出したことが挙げられる.「アンドキデスの画家」と「リュシッピデスの画家」である.

 後者は黒像式の画家だが,前者は「赤像式陶器画の発明者」と言われることもあり,黒像式も赤像式も描いた.

 二言語を使用することをバイリンガルと言うのは既に日本語化しているが,その用語にちなんで,比喩的な言い方ではあるが,一つの陶器に黒像式と赤像式の両方が描かれた陶器画をバイリンガル陶器画と言うようだ.

 バイリンガル陶器画は「アンドキデスの画家」の作品とされることが多いが,場合によっては黒像式を「リュシッピデスの画家」が担当した共作とすることもあるようだ.


バイリンガル陶器画 「宴席寝台にいるへラクレス」 左:黒像式 右:赤像式


 州立古代コレクションに,ヘラクレスが宴席寝台に横たわって,その傍らに女神アテナがいる絵柄が黒像式と赤像式で描かれたバイリンガル陶器画のアンフォラがあった.

 黒像式の方はアテナの後ろにヘルメス,反対側に酒を用意する少年がいて,赤像式は傍らにはアテナのみで,ヘラクレスは酒杯を手に持っているので,よく似ているが,全く同じ構図ではない.

 博物館の解説板とクナウスはどちらの絵も「アンドキデスの画家」の作品としているが,英語版ウィキペディアは,黒像式の方を「リュシッピデスの画家」の作品としたジョン・ビーズリーの考えを紹介している.

 バイリンガル陶器に関して,英語版ウィキペディアは,ベルリンに1点,ボローニャに1点,大英博物館に1点,ルーヴルに3点,その他があるとしているが,今年(2018年)の夏にボローニャで片面(黒像式の「ネメアの獅子と戦うヘラクレス」)のみ見ている.

 州立古代コレクションの作品もたまたま両面とも見たが,現場ではその重要性に気づかなかった.前525年頃,赤像式の技法が発明された頃の過渡期を示してくれる作品であることを,今ようやく認識した.

 アンドキデスと言えば,古典文学を勉強していると,前390年頃まで生きた有名な法廷弁論作家を思い出すが,それとは関係なく,そういう名前の陶工兼工房経営者がいて,「アンドキデスの画家」はその工房に雇われていた陶器画作家に付けられた通称である.

 解説板に拠ると,「リュシッピデスの画家」単独の作品とされる陶器画が少なくとも1点は州立古代コレクションにあり,キュリックスの裏側に描かれた「アポロとヘラクレスの争いとそれぞれを応援するアルテミスとアテナ」を彼が描いたとされている.

 「エクセキアスの弟子でアンドキデスの画家と共作した」ともあり,様式を根拠に,約30の作品が知られているということなので,これからも出会いの可能性はあるだろう.


コリントス産の陶器
 私たちがお馴染みのギリシア陶器と言えば,黒像式や赤像式の壺や皿で,黒像式は前6世紀後半,赤像式は前6世紀末から前5世紀にアテネを中心とするアッティカ地方で流行した.しかし,黒像式や赤像式が流行する前にも当然,陶器は作られていた.

 州立古代コレクションに掲示されていた説明パネルが,それ以前に制作された所蔵品として例示していたのが,前950年頃の原初期幾何学様式の酒杯,前760年頃の幾何学様式アッティカ陶器のアンフォラ,前700年頃の原初期アッティカ様式の混酒器(クラテル)だった.

 その次に例示されているのがエクセキアス作の「アキレウスの遺体を運ぶアイアス」の絵が描かれたアンフォラで,これが前540年頃の制作とされている.

 次に前520年頃の「アンドキデスの画家」のバイリンガル陶器,前440年頃の「アキレウスの画家」の白地レキュトス,最後に前350年頃の赤像式の絵が入った高台付き混酒器の写真があげられている.

 アッティカ地方で陶器の生産が長い間続けられ,そこで制作された陶器が多数現存していることから,このようにアッティカ地方を中心に整理した見やすい一覧表になっているが,他の生産地の欄もあり,コリントス,西ギリシア,ラコニア,南イタリアとシチリア,エトルリアが挙げられている.

 しかし,この表で見る限り,これら全ての地方・文化圏で,アッティカ地方と同じように,陶器制作が連綿と続いたという訳ではないようだ.

 アッティカ地方以外で,パネルで写真が紹介されている作品は,コリントス産のものについては,丸い胴体の上に細い首があり,上に向かって少し開いた口がついて,把手が一つついているタイプの香油壺であるアリュバロスが,前710年頃制作の原コリントス様式の例として挙げられている.

 次に前640年頃制作の絵入りオルペ(ワインを注ぐための容器オイノコエの古形),前575年から50年頃制作の後期コリントス様式の混酒器が例示されている.

 他にはラコニア地方の前560年頃制作のキュリックス,西ギリシア地方では前700年頃制作の後期幾何学文様様式の把手付き水差し(オイノコエ),前630年頃の注ぎ口の形から「野生山羊様式」(ヴィルトズィーゲンシュティール)と呼ばれるタイプの水差し,前540年から30年頃の「顔絵入り」カンタロス(高台,両側把手付き酒杯)の2つ,南イタリア及びシチリアの欄では,前540年頃制作の「カルキス様式」のヒュドリア(短めの2本の把手がついて,太い胴体に細い首の先に広い口がついて水を運ぶ瓶),前350年頃制作の「プーリア様式」の丸い胴体に高台と装飾的把手が2本ついているネストリスというタイプの壺が例示されている.

 分かりやすく単純化された解説パネルのおかげで,ギリシア陶器の概要をつかむことができたが,もちろん,これで全てではない.あくまでも州立古代コレクションの収蔵作品をヒントに整理するとこう説明できると言うことであろう.



 注目すべきは,このパネルが,アテネの次にコリントスの作例を多く挙げて,コリントスの持つ重要性が認識できるように作られていることだ.その中で,原コリントス様式のオルペという用語が気になった.

 と言うのも,以前,ローマのヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館で,「キージのオルペ」(もしくは「キージのオイノコエ」)を見て,コリントス様式の陶器画に対して抱いていた「古拙」という認識を改めた経験があるからだ.この時の感想は既に報告しているので,ここでは繰り返さない.

 キージのオルペは大体前650年から640年頃の作品で,19世紀に再発見されて以来,初期コリントス様式の傑作とされ,アテネの黒像式陶器の先駆けであるフィレンツェ考古学博物館の「フランソワの壺」(長音を保持するとクラーテールと言う混酒器)とともに,アテネにおける黒像式,赤像式の陶器画隆盛以前の画期的作例と考えられている.

 キージのオルペは,現代のヴェイオ,古代にウェイイーと言われていたエトルリア人都市の近郊の墳墓で1881年に発掘された.その場所がシエナ出身の家系で,ルネサンスの文化隆盛に貢献した銀行家や教皇が出たキージ家の領地だったので,この名称がついた.

 エトルリアのフィルヘレニズムと,イタリアなど西欧におけるルネサンス,新古典主義の時代の古代憧憬を想起させる陶器だが,イタリアで発見されたものとは言え,古代ギリシア陶器の歴史からギリシアの文化,芸術を考察する上で極めて貴重な作品と言えよう.

 フランソワの壺は,1844年にキウージ近郊のフォンテ・ロテッラのネクロポリスでアレッサンドロ・フランソワによって発見された.フランソワと言うからにはフランス人かと思っていたが,祖先の出自はともかく本人はフィレンツェで生まれフィレンツェで亡くなったイタリア人とのことだ,陶器製作者と陶器画家の記名があり,前570年から560年頃の作品と考えられている.

 キージのオルペとの間には90年から70年の時代差があるものと思われるが,いずれにせよ,キージのオルペはおそらくコリントスで,フランソワの壺はアテネで制作され,海を越えてイタリアに運ばれて,エトルリア人の墳墓で副葬品となり,墓が荒らされなかったことで19世紀に再発見されて,現在に伝わっている.

 Tom Rasmussen & Nigel Spivey, ed., Looking at Greek Vases. Cambridge University Press, 1991(以下,『ギリシア陶器』)

を参照しているが,この本では,コリントス陶器の繁栄期を前700年頃から630年頃までとしていながら,前640年頃に制作されたキージのオルペを「初期コリントス様式」(proto-Corinthian)としているので,繁栄の過程の年代的な把握は難しいところだが,比較的長めの原初期があり,短期間の最盛期と衰退期があり,キージのオルペは最盛期直前の原初期後期に開花した傑作と理解しておく.


コリントス陶器からアッティカ陶器へ
 コリントス様式の陶器について,これまでの私の大体の理解は,最初期は白っぽいクリーム色の地に赤い線描のような絵が描かれていて,最盛期のものはクリーム色が白から黄色味を帯びてきて,絵に使われる色も赤と黒の両方で,ものによっては少ない色にも拘わらず,組み合わせによって多色陶器のように見えるものあるというものだった.

 それを土台に,キージのオルペのような高水準の絵が描かれた作品を観て,「コリントス様式」へのイメージが形成されていった.

 しかし,コリントス陶器=白地というのは,大雑把な理解であることが分かった.『ギリシア陶器』には,前700年頃の最初期作品から紀元前600年頃のピュクシス(真ん中に把手がある蓋付きの,化粧品や宝石を納める短い円筒型容器),紀元前560年頃の最初期の黒像式人物像が描かれた赤地レキュトスが,モノクロ写真だが,コリントス陶器として紹介されている.

 最後の赤地レキュトスの作者は「テュデウスの画家」という通称が付されている.

 上述の州立古代コレクションの説明パネルで前575年から50年頃の後期の作として紹介されている混酒器は,やはりクリーム色で,鳥と動物の他に,騎馬の人物が複数描かれ,赤,黒,白の色が使われており,展示品の中にも「テュデウスの画家」のような赤地の,アッティカ黒像式陶器の先駆けとなった作品はなかったように思う..

 ただ,初期のアッティカ陶器群の展示室に,『ギリシア陶器』に掲載されている「テュデウスの画家」の絵に似たテイストの作品があり,解説板には,黒像式を含めて,コリントスの影響を受けた作品群が展示されているとあった.

 解説板には記されていなかったが,クナウスではこの黒像式アッティカ陶器を「ティミアデスの画家」(英語版ウィキペディアに立項がないので独語版にリンク)の作としており,描かれているのはトロイア王プリアモスの王子トロイロスの遺体を巡って対峙するアキレウスとヘクトルで,アキレウスの後ろにはアテナ,ヘクトルの後ろにはアイネイアスがいる.

 女神アテナはともかく鎧武者たちの名前が特定できるのは,その名を示すギリシア文字が書かれているからだ.



 「ティミアデスの画家」の代表作のように紹介される「アキレウスの墓前でポリュクセネを犠牲に供するネオプトレモス」(大英博物館)の絵が描かれたアンフォラは,授業資料でネット上にある写真を使わせてもらったことはあるが,大英博物館で実物を見た記憶はない.なるほど上記の州立古代コレクションのアンフォラの絵も良く似ているように思われる.

 彼の名を冠した陶器で重要なのは,「ティレニア風アンフォラ」と称される形式で,卵型の胴体の上に首があって,その上に口が開いている.首から同体上部(肩)にかけて左右にそれぞれ把手があり,首には棕櫚などの植物文様,肩の最上部には首と区切るための赤と黒を用いた区切り模様があって,胴体部分は幾つかの装飾帯に分かれていて,上部には神話物語,株には,植物文様,動物文様が描かれている.

 ティレニア風アンフォラには,コリントス様式の様々な影響が見られる.神話物語に関してはキージのオルペに先例があるし,特に植物文様,動物文様はコリントス様式の模倣と考えられている.

 アテネの絵入り陶器製作者たちが,コリントスの技法を自家薬籠中のものとして,「ティレニア風アンフォラ」を量産したことにより,まさにティレニア海に面したエトルリアの陶器市場において,コリントス陶器を圧倒するアッティカ陶器全盛期を準備することになる.

 「ティレニア風」と称されるのは,エトルリア(ラテン語でエトルーリアEtruriaと呼ばれる地域名称は,ギリシア語ではテュッレーニアーΤυρρηνία)が主たるマーケットで,エトルリアのあるイタリアでも生産されたからであろうか.いずれにせよ,ギリシア陶器の盛衰,発展,変容にもエトルリア人のフィルヘレニズムが大きな意味を持っていたことになる.

 州立古代コレクションの「ティミアデスの画家」のアンフォラは首の所が植物文様ではなく,向かい合うスフィンクスになっているが,神話場面の帯の下にスフィンクスと動物文様を描いた2つの帯があり,首と胴体の間には赤と黒を用いた区切り模様があるので,間違いなく「ティレニア風アンフォラ」であろう.

 首に植物文様のあるアンフォラも複数あったが,きりがないので,これについてはここまでとする.


カルキス風陶器
 赤像式の方が,技術が進歩した時代のものと知識として知ってはいても,黒像式の絵壺はやはり魅力的だ.

 黒像式陶器の中に,エーゲ海西部のエウボイア島のカルキス付近で使われていたギリシア文字が記されているので,「カルキス風陶器」と総称される作品群がある.

 州立古代コレクションにも少なくとも1点あり,これは傑作と言えるだろう.どちらが表でどちらが裏かは分からないが,片面に「アタランタとペレウスの格闘」,反対側に「怪物テュポンに雷電を放つゼウス」が描かれている,作者は,そういう訳語で良いかどうか「記銘の画家」(Inscription Painter / Inschriften Maler)(英語版に立項がないので,独語版にリンク)と称される.

写真:
「カルキス風陶器」の
怪物テュポン
「記銘の画家」


 州立古代コレクションに彼の作品はこれ1作しかないが,J.ポール・ゲティ美術館に『イリアス』10巻に基づくと思われるオデュッセウスとディオメデスの活躍を描いたアンフォラがあり,メトロポリタンには白地レキュトスが,それぞれ1点ずつあるようだ.

 J.ポール・ゲティ美術館の解説ページに拠れば,神話場面の登場人物1人1人の名前をはっきりと記銘しているのでこの通称を得たようだ.本人の「記名」はないので,本名はわからない.「カルキス風陶器」は「記銘の画家」が創始者で,前560年くらいに現れ,約50年間続いたとのことだ.

 カルキスで用いられた文字はエウボイア島全体でも使われただけでなく,エトルリア地方でも用いられ,エトルリア文字にも影響を与えたと考えられるので,「カルキス風陶器」自体が,南イタリアのレギオン(現在のレッジョ・ディ・カラーブリア),エトルリアのカエレ(現在のチェルヴェーテリ)で制作されたとする考えもあるようだ.

 少なくともJ.ポール・ゲティ美術館の解説ページは,「記銘の画家」の活動の場をレギオンと断言している.

 J.ポール・ゲティ美術館のアンフォラを写真で見ると,明らかに「ティレニア風アンフォラ」の様式を踏襲しているように思われるし,州立古代コレクションの「ティミアデスの画家」の作品が前570年頃,「記銘の画家」の作品が前560年頃の作品と推定されており,この推定が正しければ,「ティレニア風アンフォラ」が「カルキス風陶器」に先行し,影響を与えたと考えて良いように思われる.



 州立古代コレクションの「記銘の画家」の作品は,ヒュドリアという水を運ぶ瓶で,形状はアンフォラと違うが,神話場面の下にスフィンクスと動物を描いた帯がある.

 「ティレニア風アンフォラ」,「カルキス風陶器」にもコリントス陶器の影響は数多あると思われるが,素人目にも明らかなのは動植物の文様と文字による記銘であろう.

 黒像式の技法については,専門的知識が皆無なので分からないが,少なくとも文様と文字を考えるとき,「東方の影響」を想起するのは的外れではないだろう.文字に関して言えば,紀元前8世紀にフェニキア文字の影響で使用されるようになったことは,何度か言及しているが,であれば,もちろん東方(オリエント)の影響であることは言うまでもない.

 幾何学文様様式の後期から,人の姿や馬などが線描や影絵のように描かれ,それがコリントス陶器にも踏襲されているが,動植物の文様,特にグリフィンやスフィンクスなどの想像上の動物に関しては,コリントス様式が受けた東方からの影響の顕著な特徴と考えられている(『ギリシア陶器』p.72).


神話を主題とする作品
 州立古代コレクションで,通称または本名の知られている陶器画家として,「アマシスの画家」(黒像式),「クレオプラデスの画家」(黒像式と赤像式),「パーンの画家」(赤像式),「ベルリンの画家」(赤像式),エウプロニオス(赤像式),ピンティアス(これは「画家」というギリシア語)(赤像式)など,これまで意識することも無かった職人,芸術家たちの作品を観ることができた.

 赤像式の作品で神話に取材したものを幾つか紹介しよう.

写真:
「エリクトニオスの誕生」


 上の作品は,ヘルモナックスの「エリクトニオスの誕生」である.鍛冶屋の神ヘパイストスが女神アテナに欲情を抱き,追いかけるへパイストスの精液が逃げるアテナの衣を汚し,女神がそれを羊毛で拭いて捨てたところ,大地の女神が妊娠して後のアテネ王エリクトニオスが生まれた.

 この絵では,誕生したエリクトニオスの保護と養育を,ガイアがアテナに託している.アテナとエリクトニオスには血縁が無く,ガイアはヘパイストスの曾祖母にあたるので,大昔のアテネ王家の起源譚とは言え,説得力に乏しいように思うが,それもまた神話の持つ一面であろう.

 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店,1960)にもエリオン「羊毛」とクトーン「大地」からの語源俗解の可能性が指摘されている.

 嬰児エリクトニオスをアテナはアテネ王ケクロプスの娘たちに預けた.エリクトニオスを入れた籠の中で蛇が彼を守っていた.それに基づく王家の子育ての習慣(黄金製の蛇飾りを子供のお守りとする)にエウリピデス『イオン』のプロロゴスで,口上役のヘルメスが言及している.

写真:
「メデイアの物語」
「冥界の画家」


 古代陶器の生産は,やがてアテネから南イタリアのプーリア地方(古代名はアプーリア)に移って行き,4世紀中頃には,プーリア陶器が量産される.プーリア陶器も多様だが,やはり最初に目が行くのは,装飾性に満ちて大きな赤像式の混酒器だ.

 「冥界の画家」の「メデイアの物語」を主題とする絵入り混酒器が特に印象に残る.混酒器だけでなく,様々な種類の陶器に絵を描いたようだが,州立古代コレクションでも,酒杯の内側に「プロセルピナの誘拐」が描かれた陶器画を見た.

写真:
物語と動物文様,植物文様
で装飾されたオイノコエ


 こうした神話を描く伝統も,コリントス陶器からアッティカ黒像式に移行する段階で増幅されていったが,コリントス陶器に先立つ前730年頃の後期幾何学様式のアッティカ陶器にも,それらしい作品があり,州立古代コレクションにも1点展示されている.

 この絵付けは『ギリシア陶器』に拠れば(p.52),『オデュッセイア』12巻403行以下の挿話を図像化している.州立古代コレクションの解説板にはその言及はないが,クナウスはやはりその可能性を指摘している(p.75).

 スキュレとカリュブディスの難を逃れたオデュッセウスの生き残りの部下たちは,英雄の制止にも拘わらず,禁忌である太陽神の牛を食べてしまい,太陽神の訴えを受けたゼウスの雷電で船を破壊され,部下たちは全員海に落ちて命を落とし,オデュッセウスだけが,竜骨と帆柱を帆綱で結び付け,それにまたがって難破に耐えた.

 この様子を描写したかも知れない,影絵のような絵がオイノコエ(ワインを杯に注ぐ器)の首の部分に描かれている.

 船と複数の人間と魚が描かれているでのは明らかで,一人の男だけが船の上で直立し,その他の男たちは魚の泳ぐ船外に横たわっている.一人だけが助かった難破の絵であると読み解くのは決して的外れではないだろう.

 紀元前8世紀後半にはまだ文字化されていたかどうかはわからないが,少なくとも口承詩としての『オデュッセイア』は成立していただろうし,少なくともその背景となる伝承が流布していたのは間違いないと思われる.

 であれば,この絵が『オデュッセイア』の一場面を描いているという解釈は,一定以上の説得力を持っている.

 この時代にはギリシア文字の使用は既に始まっていたと推測されるが,陶器画に文字が記されるようになるのは,もっと後である.したがって,この絵が『オデュッセイア』の一場面を描いたと言うのはあくまでも,その可能性があるということである.大破しているように見える船に残った人物の傍らに「ΟΔΥΣΣΕΥΣ」と書いてあれば疑問の余地はないのだが,記されていない.

写真:
一人立つ人物と
魚とともに横たわる人々
『オデュッセイア』の一場面か


 一見,稚拙な線描と影絵の組み合わせのように見え,具体的な物語を示唆しながらも抽象画のように見える絵だが,思い込みかも知れないけれども,時間を経て現代に残った気迫のようなものが感じられ,この作品を観たことによって,古代への理解が少し深まったように思える.

 この陶器が制作された時代には,オリエントという圧倒的な先進文明が存在していたが,民族としてのギリシア人も,ずっと以前に高度な文明化を遂げ,その時点では先住民族の優れた文化を継承していたのだが,民族大移動か気候変動か何らかの原因で,その古い文明は終わってしまっていた.

 紀元前8世紀は古代ギリシア世界が飛躍的な発展を遂げた時代で,ホメロスの名で二大叙事詩が集大成され,ギリシア文字の使用が始まり(成立自体は9世紀とする説もある),以前から成立していた都市国家(ポリス)から植民団が形成されて,南イタリアなど西地中海世界にもギリシア人都市が建設された.

 このような時代にアテネで,もしかしたら『オデュッセイア』に取材したかも知れない陶器が制作された.このオイコノエの「首」の下に区切りの3本の横線があり,「肩」部分には動物文様から始まって,幾何学文様,鳥の文様,幾何学文様と装飾帯が重なっており,既に私たちがギリシア陶器と認識する多くの要素が盛り込まれている.



 グリュプトテークで,ギリシア彫刻の歴史をある程度概観できるように,古代陶器の宝庫である州立古代コレクションでは,十全ではないことはもちろんだが,ギリシア陶器の歴史をかなり体系的に学ぶことができるように思う.

 州立古代コレクションには,古代ギリシアにまだギリシア人が到来していなかったと思われる紀元前2000年以前の「キュクラデス諸島の偶像」や石製容器がある.

 非ギリシア人による先進文明が,後のギリシア人のミケーネ文明,それが一旦滅びた後の「暗黒時代」を経た紀元前8世紀以降の「古典ギリシア」文化にどのような影響を与えたか,それを考えるのも,興味深いことではあるが,時間も能力も足りないので,今回のミュンヘンに関する報告はここまでとしたい.







アタランテとペレウスの格闘を
描いた壺絵の肩の部分の
美しい騎馬装飾