フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2019年12月30日



 




「磔刑のキリストと聖母,福音史家ヨハネ」
ピエトロ・カヴァッリーニ



§ナポリ行 その15 教会篇 その4

カトリックの国イタリアの都市であるから,ナポリは街中たくさんの教会がある.3回のナポリ行で一体どれほどの教会を見ただろうか.


 初めてナポリを歩いた2017年12月10日,最初に目に留まったのは,宿の近くの,

 サンタ・カテリーナ・ア・フォルミエッロ教会(以下,フォルミエッロ教会)

だったが,考古学博物館に急ぐ途中で,この時は拝観していない.この日に撮った写真を確認すると,他にも道すがら幾つかの教会の外観を収めていて,堂内を覗き込んだ程度の見学したところもあったが,本格的に拝観したところはなかった.

 翌11日には

 サンティ・アポストリ教会(以下,アポストリ教会)
 サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会(以下,カルボナーラ教会)
 大聖堂
 ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会(以下,ピオ・モンテ教会)

を拝観し,他にいくつかの教会の外観を見ている.12日は朝からポンペイに行って,ナポリに戻った後は,宿に預けていた荷物を受け取って,そのままフィレンツェに帰るべくイタロに乗ったので,教会は拝観していない.

 2回目の2018年1月16日は,

 フォルミエッロ教会
 サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂(以下,ドメニコ聖堂)
 大聖堂
 サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂(以下,ロレンツォ聖堂)
 サン・トンマーゾ・ア・カプアーナ教会

を,翌17日は,

 サンタ・キアーラ聖堂(以下,キアーラ聖堂)
 サンタ・マリーア・デッレ・アニメ・デル・プルガトリオ・アド・アルコ教会(以下,アルコ教会)
 サン・パオロ・マッジョーレ聖堂(以下,パオロ聖堂)
 サン・ピエトロ・ア・マイェッラ教会(以下,マイェッラ教会)
 サンタ・マルタ教会(以下,マルタ教会)

 18日はエルコラーノに行き,ナポリに戻った後は,イタロでフィレンツェに帰ったが,エルコラーノに行く前に,

 大聖堂(付随するサンタ・レスティトゥータ聖堂と洗礼堂を含む)
 サンタ・マリーア・ドンナレジーナ・ヌオーヴァ教会(司教区博物館が併設)
 サン・ジュゼッペ・デイ・ルッフィ教会(以下,ルッフィ教会)

を拝観した.

 3回目の3月17日は,ナポリ中央駅で同じくフィレンツェから来るはずの北村博士と待ち合わせ,一緒にポンペイに一泊するべく,ジェノヴァの方から合流する高橋教授,根川博士を待っている間に,2人で,

 サンタ・マリーア・デッラ・パーチェ教会(以下,パーチェ教会)
 大聖堂

を拝観した.

 この後,ポンペイに行き,翌日ポンペイとエルコラーノを見学し,ナポリに宿泊して,さらに翌日,考古学博物館とカポディモンテ美術館に行って,フィレンツェに帰ったので,他の教会は拝観していない.

 これらの中から,今回はドメニコ聖堂で見たものについてまとめる.


ピエトロ・カヴァッリーニ
 ドメニコ聖堂には,ティツィアーノの「受胎告知」,カラヴァッジョの「キリストの鞭打ち」という有名作品があったが,現在は両作品ともカポディモンテ美術館にある.

 では,この聖堂で現在見ることができる世紀の傑作は何だろうか.

 その問いには躊躇無く答えることができる.ピエトロ・カヴァッリーニ(以下,ピエトロ)が礼拝堂全体を装飾したフレスコ画である.これまでもピエトロの真作と認められるか,あるいは帰属の可能性が指摘されている作品を複数見てきたが,また一つ体験を積み重ねることができた.

 ピエトロについては1273年から1321年の間の活動記録が確認できる(伊語版ウィキペディア)ようで、1240年から1250年の間に生まれ,1325年から1330年の間に亡くなったと考えられている.

 ヴァザーリがピエトロの短い伝を立てており,そこには「ジョットの弟子」(ヴァザーリ「ピエトロ・カヴァッリーニ伝」に関しては,エヴリマンズ・ライブラリーの英訳を参照している)とある.しかし,ジョットは,これも推測だが1267年の生まれで,死に関しては確定情報で1337年とされており,1273年には画家として活動していた人物が,当時6歳前後の幼児の弟子だったはずはなく,何でもトスカーナが一番と言うヴァザーリならではの誤情報ということになる.

 ヴァザーリは,ピエトロがローマのトラステヴェレで,サンタ・チェチーリア教会,サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会で仕事をしたとしている.後者に関しては現存しないが,前者に関しては,確かに有名な「最後の審判」のフレスコ画があり,今までに二度見ている.

 また,やはりローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂で,ファサードに「旧約聖書の物語」のモザイクを制作したとしている.この作品は有名な傑作とされていたが,1823年の火災被害のための現存しない.この教会のためにフレスコ画も書いたとされるが,これも知る限り,現存しない.

 サンタ・マリーア・イン・アラチェリ聖堂の後陣に,太陽に輪に囲まれた聖母子のフレスコ画を描き,その足元で皇帝アウグストゥスが,シビュラに教示されてキリストを崇めているとしている.この聖堂に,ピエトロの名前で伝わる「聖母子と聖人たち」のフレスコ画が2種類現存しているが,ヴァザーリが言っている絵柄とは違うし,場所も後陣ではない.

 ヴァザーリに拠れば,この後,ピエトロはトスカーナに行き,フィレンツェのサン・マルコ教会と,廃絶したと思われるサン・バジリオ教会で仕事をしたと言っているが,俄かには信じ難い.

 ローマに戻る途中にアッシジに寄り,サン・フランチェスコ聖堂で,ヴァザーリがピエトロの師匠とするジョットとその弟子たちの作品を見ただけではなく,自身の作品も残したとしている.彼の作品はキリスト磔刑で,そこには馬に乗った鎧武者たちや,様々な服装の諸民族の人々が描かれていて,中空では神の子の死を天使たちが悲しんでいる.ヴァザーリ自身が,この絵の中に,アテネ公ワルターの家紋を見たので,ワルターの依頼で書かれたのであろうとして,このフレスコ画で用いられた色彩を絶賛している.

 これに対応するかも知れない現存作品が下部教会に残っており,ヴァザーリがしたような絶賛に値する世紀の傑作だが,ピエトロ・ロレンゼッティ(ロレンツェッティ)の作とされており,様式的にもそちらの方が,遥かに説得力があって,同じピエトロでも,とてもピエトロ・カヴァッリーニの作品とは思えない.

 とは言え,この作品は1310年代の制作とされるので,ナポリのピエトロ・カヴァッリーニのフレスコ画よりも後ではあるが,それほどの年代差はなく,1321年まではほぼ確実に活動していたピエトロ・カヴァッリーニの作品でも,年代的には不思議はない.

 この後,オルヴィエートで仕事をしたこと,彫刻も手掛け,その中で磔刑像は後に聖人となる人にも影響を及ぼしたこと,彼が敬虔で勤勉な芸術家だったことを述べ,85歳の時,故郷ローマで亡くなり,サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂に葬られたと語り,

 Quantum Romanae Petrus decus addidit urbi
  Pictura, tantum, dat decus ipse polo.

 ピエトロは絵画によってローマの街に美を齎したのと同様に
  彼自身は今,天界にも美を与えているのだ.

と言うラテン語の墓碑銘を添えている.エレゲイア二行連句の韻律を遵守したきちんとした詩になっており,ヴァザーリが創作したとは思えないので,16世紀前半にはこの墓は残っていたのだろう.

 ヴァザーリの「ピエトロ・カヴァッリーニ伝」は概ね,彼への尊敬に満ちた伝記になっているが,上述のように,ジョットの弟子としていることの他に,彼がローマでした大きな仕事の一つ,サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂のモザイクへの言及が無いのと,ナポリでの仕事に全く触れていない.

 「シモーネ・マルティーニ伝」でも同様に,シモーネのナポリでの仕事に言及しておらず,ヴァザーリは自身がナポリに行って仕事もし,ナポリのマニエリスム芸術に影響を与えているというのに,まことに不思議に思える.

 一方,「ジョット伝」では,ロベルト賢王に招かれたジョットの感銘などの背景も記した上で,彼の仕事とその影響について報告しているので,ヴァザーリの関心は,トスカーナ,それもジョットの系譜に連なるフィレンツェ芸術がいかに影響力を持っていたかという点にあるように思える.

 彼自身,確かに偉大な総合芸術家ではあるが,画家としての力量は,当時としても超一流とは言えなかったはずなのに,ヴェネツィアでも,ローマでも,ナポリでも仕事をして,それなりの影響力を持った.アレッツォ出身だが,フィレンツェ芸術の正統な後継者という自負心のようなものがあったのだろうか.

 ヴァザーリによる伝記は,誤情報をふるい落とした上で,行間を読むとなかなかに興味深いものがあるが,ピエトロ・カヴァッリーニに関しては,この稿で試みている彼のナポリへの影響に関して何の情報も得られない.



 ナポリのドメニコ聖堂でピエトロがフレスコ画で装飾した礼拝堂は,1308年に枢機卿ランドルフォ・ブランカッチョの依頼でフレスコ画が描かれたことから,基本的にはブランカッチョ礼拝堂と言われるが,その右隣りにある,ファサード裏に向って左側の側廊第1番目の礼拝堂もブランカッチョ礼拝堂であることから,「フレスコ画の礼拝堂」(カッペッラ・デイ・アッフレスキ)という通称で呼ばれることが多い.

 礼拝堂は3つの壁面があるが,(向かって)左側は上から,「福音史家ヨハネの殉教」,「福音史家ヨハネの被昇天」,「磔刑のキリストと聖母,福音史家ヨハネ」の3場面がある.

 窓がある正面は,上段は窓の左右にそれぞれ「預言者」,中段は窓の左右に「ペテロとアンデレの召命」,「アカイア総督アイゲアテスの前のアンデレ」,窓のない下段には,右に「アンデレ磔刑」,左に「アンデレ死後の奇跡」の2面の絵が描かれている.

 右側壁面の上段は「サント・ボームの洞窟のマグダラのマリア」,中段は「我に触れるな」があり,下段には「レヴィ家の饗宴」が描かれていたが,現在,絵は殆ど残っていない.

 なお,左壁面下部には石棺が置かれ,アナスタージア・イラリオの墓となっており,マヨルカ焼きタイルで装飾された床の中央にはジョヴァンニ・フランチェスコ・ブランカッチョの墓碑である石板がある.


「アンデレ磔刑」 ピエトロ・カヴァッリーニ


 ドメニコ聖堂を訪ねた時は,既に夕刻になり,明かりがついているところ以外,暗くなった堂内は十分な鑑賞も,満足の行く撮影もできなかった.

 暗い中,礼拝堂のフレスコ画を目を凝らして見ていたら,年配の大物研究者風のイタリア人が2人来て,(コイン式だったかどうかは覚えていないが)明かりをつけた上で鑑賞し始めたので,そのおかげで,途中から礼拝堂のフレスコ画だけはしっかりと観ることできた.

 聖アンデレの磔刑は,斜めに交差した十字架で行なわれたとされており,この十字架が彼のアトリビュートにもなっているが,この礼拝堂のアンデレ殉教図では,通常のラテン十字架に架けられている.これはアンデレの殉教に言及した「アンデレ行伝」(3世紀)には,ラテン十字架に釘で打ち付けられたのではなく,縄で縛られて殉教したとあるとのことだ.

 ピエトロの殉教図はまさにそのように描かれており,彼の時代に「アンデレ行伝」は流布していなかったと思われるが,6世紀の歴史家トゥールのグレゴリウスはこの書物を知っていたらしいので,あるいはそちらからの伝承が根拠になっているのかも知れない.

 「アンデレの死後の奇跡」は,絵だけで何が描かれているのか判断するのは難しい.絵柄から想像すると,『黄金伝説』(人文書院版の邦訳,第1冊のpp.49-53)にあるエピソードだと思われる.

 アンデレを崇敬する司教を誘惑するために悪魔が乙女の姿でやって来たが.そこに巡礼が門を叩いた.乙女の姿の悪魔の入れ知恵で,巡礼の知識を試して追い払おうとしたが,難問に悉く答え,悪魔の正体を暴いた上で,姿を消した.司教は巡礼がアンデレであることを悟り,堕落を免れた事を感謝して,聖人の徳を偲んだ,と言うものである.

 「福音史家ヨハネの殉教」も,彼は十二使徒で唯一殉教死を免れ,福音書と黙示録を書いたとされるので,それがその下に描かれた「被昇天」の絵にもつながるのだが,ここではローマで,皇帝ドミティアヌスの命令で煮えたぎった油で満たした桶に投げ込まれた場面が描かれている.

 煮えたぎる油で火傷を負うことも無かったので,パトモス島に流刑になり,様々な危難にあったが,最後はエペソスで被昇天を思わせる形で姿が消えた.これらのことも『黄金伝説』で語られている(邦訳,第1冊pp.135-145).

写真:
「サント・ボームの
洞窟のマグダラの
マリア」


 マグダラのマリアが船で南仏に漂着し,マルセイユ,エクサンプロヴァンスの近傍の荒野で信仰生活を全うしようとした話は『黄金伝説』(邦訳の第2冊pp.438-447)にあるが,現在のサント=ボームへの言及はない.ただ,「洞窟」に住んでいたことは彼女に呼び掛けた司祭の言葉の中に触れられている.

 南仏におけるマグダラのマリア崇敬を振興したのは,南仏プロヴァンス地方も勢力圏に組み込んでいたナポリ・アンジュー家のカルロ2世であるとされ,ピエトロがナポリに招かれたのもカルロ2世の時代なので,時代の嗜好に適った画題であったと思われる.

 洞窟の中で長くなった髪の毛に覆われた裸身のマグダラのマリアの絵や彫刻は諸方で見られるが,古いものではフィレンツェのアカデミア美術館にあるマッダレーナの親方の,長い茶色の髪に覆われた全身像をコマ絵が囲んでいる祭壇板絵「マグダラのマリアの物語」が1280年頃の制作で,ピエトロのフレスコ画に先行している.



 ピエトロ・カヴァッリーニの名を知ったのは,2007年10月にアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の上部教会でジョット作とされる一連のフレスコ画を見て,翌11月にペルージャのウンブリア国立絵画館のブックショップでブルーノ・ザナルディ『ジョットとピエトロ・カヴァッリーニ』(2002)というタイトルの本を見た時だった思う.

 この本のことはずっと覚えていて,帰国後しばらく経った2009年に,インターネット書店ウニリブロで購入した.

 その名前を知った時から,彼の作品を意識して,サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂のモザイク,サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ教会,サンタ・マリーア・イン・アラチェリ聖堂のフレスコ画,作者名に「伝」がつくことが多いがサン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ教会のフレスコ画などを見てきたが,同時代のチマブーエやジョットとどのような関係があるのか,同じローマ派に属する芸術家とされるヤコポ・トッリーティとの関係はどうなのか,興味は尽きない.

 ナポリでは,ドメニコ聖堂,大聖堂の他に,サンタ・マリーア・ドンナ・レジーナ・ヴェッキア教会でも仕事をしており,ドメニコ聖堂の仕事が1308年,サンタ・マリーア・ドンナ・レジーナ・ヴェッキア教会の仕事が1317年(伊語版ウィキペディア)とされている.

 サンタ・マリーア・ドンナ・レジーナ・ヴェッキア教会は,現在,司教区博物館になっているサンタ・マリーア・ドンナ・レジーナ・ヌォーヴァ教会と隣接していて,ヌォーヴァ教会からヴェッキア教会へ入れるのだが,そうとは知らず,ヌォーヴァ教会だけ見て出てきてしまった.

 ヴェッキア教会の,聖職者が聖歌隊の場所である「修道女たちの内陣席」と呼ばれる空間の壁面には壮大なフレスコ画群が残っており,少なくともその一部にはピエトロの手が入っている.これを見ないで帰国してしまったのは返す返すも残念なことではあるが,いつの日か,是非,余裕をもって拝観したい.

写真:
キリストの磔刑(部分)
ピエトロ・カヴァッリーニ


 ドメニコ聖堂でピエトロ・カヴァッリーニの傑作を見ることができたが,彼がナポリで成し遂げた仕事全体に関しては,結局のところペンディングである.ただ,彼の磔刑図を見て,十数年先行するジョットの作品の影響を思わないではいられななかった.

 磔刑図におけるキリストの表現が,「勝利のキリスト」から「受難のキリスト」へ,さらに身をよじる「受難のキリスト」から,首がうなだれ,力を失った「死せるキリスト」へと変化して行ったことを考えると,1290年から95年の間に制作されたとされる,ジョットのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の彩色磔刑像の「死せるキリスト」が,当時どれほど斬新な図像だったのか想像に難くない.

 しかし,ジョットの磔刑像が人類の罪を背負った深刻な死を想起させるのに対し,ピエトロの磔刑のキリストには深刻さを少し離れた静謐感のようなものがあって,テンペラ画とフレスコ画の質感の違いはあるにしても,年下の天才の影響を受け入れながらも個性を捨てないところに,後世のマザッチョとマゾリーノの関係を思い起こす.

 あくまでも推定年代ではあるが,ほぼ同世代のチマブーエのキリスト磔刑(アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の変色してしまったフレスコ画,アレッツォのサン・ドメニコ教会,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の彩色板絵磔刑像)と比べると,ナポリのドメニコ聖堂のピエトロ・カヴァッリーニのキリスト磔刑はジョットにより近いように思われる.

 ジョットより少し上の世代に属するドゥッチョとその影響を受けたシエナ派の磔刑像も,彩色板絵,祭壇画などいくつか見ているが,系統立てて整理する余裕がないので,ここではペンディングとする.

 チマブーエと同世代のピエトロが,チマブーエよりも,随分年下のジョットの磔刑像を想起させるキリスト磔刑を描いたと言うのは大変興味深いことに思われる.しかも制作年代が明らかにジョットの方が先なので,ヴァザーリがピエトロを「ジョットの弟子」と誤解したことも理由があることのように思われる.

 古書価は高かったが,欧米のアマゾンよりも迅速に入手できそうだったので,日本のアマゾン経由で福岡の古書店から,

 Pierluigi Leone de Castris, Pietro Cavallini: Napoli prima di Giotto, Napoli: Arte’m, 2008

を購入した.これを見てもピエトロ・カヴァッリーニの磔刑図は他に現存せず,ドンナ・レジーナ・ヴェッキア教会の彼の影響を受けた画家の作品とされる絵の写真が2点と,サンタ・キアーラ修道院の絵の写真が1点掲載されているだけで,いずれもピエトロやジョットの絵が持つ品格を感じさせない作品で,特に影響関係を考えたいとも思わない.

 ファサード裏に向って左側の礼拝堂は全て拝観したが,「フレスコ画の礼拝堂」以外には特別な明かりがつかず,写真はうまく撮れていない.時間帯のせいなのか右側側廊の礼拝堂には行けないようになっていたので,見ていない.後陣の隣にあった礼拝堂にも,カラヴァッジョの「キリストの鞭打ち」のコピーなど幾つかの絵があったのは確認したが,これも暗くて写真がうまく写っていない.

 イタリア語版ウィキペディアのドメニコ聖堂のページで,特に左側側廊の礼拝堂には,マルコ・ピーノ,マッティア・プレーティ,ルーカ・ジョルダーノ,フランチェスコ・ソリメーナの描いた絵があることを知り,自分が見た感じとしても墓碑彫刻やフレスコ画断片に興味深いものがあったが,なにせ現場でも良く見えなかったし,写真も良く映っていないので,いつの日か朝の陽ざしの良い時間帯に再訪できることを念じながら,今回はペンディングとする.


トマス・アクィナスの部屋
 絵画作品に関しては,運よくピエトロ・カヴァッリーニの傑作を見られただけで終わってしまったが,他に,思っても見なかった体験が待っていた.トマス・アクィナスが短期間だが居住した僧房(修道士は「僧」ではないので用語は不適切だが,「独房」とか「独居房」よりは良いだろう)を見学することができたのだ.

 サン・ドメニコ広場に面した後陣側の入り口から聖堂に入ると,左側すぐのところは旧サン・ミケーレ・アルカンジェロ・ア・モルフィーザ教会(ウィキペディアには立項がないが,ウェブ上に紹介ページがある)だった部分が残っていて,そこのサン・ドメニコ礼拝堂に券売所があったのだと思うが(記憶が定かではない),そこから,案内の方がついて,聖具室宝物室を通って,旧修道院の中にある「聖トマス・アクィナスの僧房」に案内される.

 宝物室には,レオナルド・ダ・ヴィンチへの帰属が議論されるアブ・ダビにある個人蔵「救世主キリスト」とよく似たいかにもレオナルデスキの誰かの作品を思わせるような小さな絵もあった.元々はドメニコ聖堂のファサード裏にある小さなムシェットラ礼拝堂に飾られていたものが2017年から宝物室に移されたとのことだ.2011年にロンドンのナショナル・ギャラリーで開催された特別展でアブ・ダビの作品が展示され,注目されたことと関連するのかも知れない.

 確かに「救世主キリスト」もいかにもレオナルデスキ風で,何でナポリにと思って目を引くが,この宝物室では,一層重要なのは,それほど古いものはないにせよ,いくつかの鍍銀聖人胸像,衣装,装飾十字架などであろうと思う.一応,写真には解説紙片とともに収めたので,機会があれば,反芻,整理してみたい.

 アラゴン王家や貴族たちの柩があるからなのか,聖具室は豪華な装飾が施された目を見張るような空間で,明かりもついているので,満足の行く鑑賞ができたが,今は,天上画「ドメニコ会士たちによる異端への信仰の勝利」が,フランチェスコ・ソリメーナの作品で美しく描かれていて印象に残ったことだけを記しておく.

 宝物室見学の後,修道院に案内され,トマスの僧房を見ることができた.



 トマスは南イタリアの貴族の子で,叔父がベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院の院長だったので,その後継者となることが期待されていたのに,新興の托鉢修道会であるドメニコ会に両親の反対を押し切って入会した.

 そのことは知識としておぼろげながら知っていたし,パリ大学神学部の教授として活躍したことも有名なので,てっきりナポリで過ごしたのは若い頃の一時期だろうと思っていたら,実は最晩年の足掛け2年をナポリのサン・ドメニコ修道院で暮らしたということを後で知った.

 そのことを現地で知っていたら,もう少し有難みを噛みしめながら見学したのにと悔やまれる.

 トマス・アクィナス(イタリア語ではトンマーゾ・ダクィーノ)がその近郊のロッカセッカで生まれ,彼の通称の元になっているアクィーノは現在ラツィオ州に属しているが,トマスが生まれた1225年頃,その地はシチリアと南イタリアに君臨したホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1250年まで)の支配下にあった.

 同じシチリア王国内のナポリ大学で学んだので,彼はナポリで青春を過ごした.

 アンジュー家のシャルル(カルロ)がホーエンシュタウフェン家を退けて,シチリア王となるのが,1266年,シチリアの晩禱事件があって,カルロがナポリに本拠地を移すのが,1282年なので,トマスが亡くなった1274年のナポリは既にアンジュー家の支配下にあったが,王国の首都ではなかったことになる.

 トマスはドメニコ会入会後,パリとケルンでやはりドメニコ会士の哲学者アルベルトゥス・マグヌスに学び,1250年代後半にはパリ大学で講義を行なったらしいが,これが現在でいう「教授」に相当するポジションであろうと思われるので,一応,1256年から59年までが最初のパリ大学神学部教授職就任と考えておく.

 1260年に彼はナポリに帰り,オルヴィエート,ローマで活躍し,教皇ウルバヌス4世クレメンス4世に仕えた.前者は北フランスのトロワ出身,後者は南フランスの出身で,それがどういう意味を持つかは考えていないが,クレメンス4世は,ホーエンシュタウフェン家は排して,南イタリアにシャルル・ダンジューを招いた教皇である.

 1265年から68年まで当時ローマにおけるドメニコ会の中心であったサンタ・サビーナ聖堂と同修道院に置かれた学校において神学の講義を行ない,そこで『神学大全』の執筆が開始された.

 1269年から72年まで,再度パリ大学神学部で講義を行なった.前回と同様,この時もドメニコ会から指名された神学者としての「教授職」ということになるようだ.

 中世の大学の在り方についてもいずれ学ばなければならないが,当面は,今わかる範囲で理解しておく.トマスがパリ大学で講義したことが,中世の神学,スコラ哲学の完成に寄与したことは間違いないだろう.

 1272年にパリを去って,ナポリに帰り,『神学大全』第三部を執筆しながら,ナポリ大学にまだ無かった神学部に相当する神学教育の学校設立の責務を負った.1271年に教皇に選ばれたグレゴリウス10世が74年に,東西教会の融和,イスラム教徒への対抗を課題として開催した第2リヨン公会議への列席をトマスに求め,トマスはこれを快諾して,リヨンに向かったが,途中病に倒れ,フォッサノーヴァのシトー会修道院で死去した.

 トマスの墓はなぜかトゥールーズのレ・ジャコバン修道院教会にある.

 ドメニコ会の最初の修道院がパリのサン・ジャック街にあったので,ジャック(ヤコブ)の形容詞ジャコバンがドメニコ会士を意味するフランス語になった(旺文社『ロワイヤル仏和中辞典』)ので,トゥールーズのドメニコ会修道院教会もこのような名称になっているらしい.フランス革命でおなじみの「ジャコバン党」もサントノレ街の旧ドメニコ会修道院で会合を持ったからそう言われるようになったとのことだ.

 この教会には,トマスの霊廟があったが,まさにそのフランス革命で破壊を蒙り,現在は聖遺物(骨であろうか)を収めた櫃と祭壇が,礼拝堂のようなコーナーにあるのみのようだ(仏語版ウィキペディアで写真が見られる).右手はサレルノのサン・ドメニコ教会,頭蓋骨はピヴェルノ大聖堂,心臓はアクィーノ大聖堂にあるとのことである.

 トマスの僧房の入り口は現在,大理石の門のような装飾が施され,上部には18世紀の彫刻家マッテオ・ボッティリエーリ作のトマス胸像が飾られている.サン・ドメニコ広場に聳え立つ「無原罪の聖母の塔」を制作した芸術家の作品である

写真:
トマスの僧坊


 案内の方が鍵を開けて中に入ると,左側の壁にフランチェスコ・ソリメーナ作の若いトマスの肖像画(想像で描いたものだろう)があり,その近くには聖遺物容器が有って,中にはトゥールーズのドメニコ会修道士たちから送られたトマスの左上腕の骨が納められている.

 僧房はある時期から祈禱堂の役割を果たしていたので,祭壇画(上の写真)があった.この13世紀の祭壇画「キリスト磔刑と聖母,福音書記者ヨハネ」は,もとは現在「磔刑の大礼拝堂」と呼ばれている聖堂本堂の礼拝堂にあったようだ.

 そこは,旧サン・ミケーレ・アルカンジェロ・ア・モルフィーザ教会のサン・ニコラ礼拝堂だったが,ある日そこで祈っていたトマスにキリストが現れ,「トマスよ,お前は私のことを見事に書いてくれた(ベネ・スクリープスィスティー)が,何を報酬として望むか」と問いかけるキリストに,トマスが「主よ,あなた以外の何をも私は欲しません」と答えたと証言した者がいたということだ.

 磔刑のキリストが後の聖人に話しかける幻視は,フランチェスコに語りかけたサン・ダミアーノの十字架の話を思い起こさせるが,多くの奇跡や神秘体験に彩られたフランチェスコに比べ,理性的な哲学者だと私たちが思っているトマスにして,この逸話があるところに,大いに興味を覚えながら,自分との間に立ちはだかる高い壁を感じる.

 そんな有難い磔刑図とは露知らず,ただ古いものあろうという,それだけの理由でじっくり眺め,写真に収めた.


トマスの書き込みのある写本


 窓の近くには古文書を展示した聖遺物展示台があり,彩色写本なのでてっきり『神学大全』のどこかのページのコピーだと思い込んでいたら,ピエトロ・ロンバルド(ペトルス・ロンバルドゥス)というヴェネツィアで出会った彫刻家と同じ名前の神学者の『命題集』という著作の第3巻の写本にトマスが自筆の書き込みをしたものらしい.

 写本全体はヴァティカンの図書館にあるようだが,コピーという表示は無かったので,展示されているページはオリジナルだろうと理解して置くことにする.写本とメモ書きのような書き込みを貼り付け,彩色装飾したものに思えるが,深く考えないことにする.

 さらに,トマスを教会博士であると言明した16世紀後半の対抗宗教改革時代の教皇ピウス5世の証書が展示されていて,そこには教皇の署名とともに,枢機卿だった後の聖人カルロ・ボッロメーオの署名もあるとのことだ.

 床に張られたマヨルカ焼きのタイルは当時のものかどうか情報はないが,机,椅子は当時のもので,であればトマスが使った可能性があり,他にトマスの講義が始まる時になさられたとされる小さな鐘型の呼び鈴もあった.

 さらには17世紀初頭に疫病退散を願って奉納されたトマスの鍍銀胸像もあり,ナポリの序列8位の守護聖人としてのトマスへのナポリ市民の崇敬も窺い知ることができる.

 トマスの僧房を紹介したウェブページを参考に,反芻してみると,単なる偶然だったのに,非常に貴重なものを複数見ることができたことが実感された.

 いずれにしてもドメニコ聖堂でしっかり見ることができたのは,ピエトロ・カヴァッリーニのフレスコ画とトマス・アクィナスの僧房のみと言っても言い過ぎではないが,それでも,大きな収穫だったように思う.

 またいつの日か,ナポリを訪ねることができたら,光の良い午前中にドメニコ聖堂を訪ね,今回,見られなかったもの,見られたけれどもしっかりと鑑賞できなかったものを一つ一つ確認したい.

 次回は,カルボナーラ教会について報告したい.







トンマーゾ この上を歩いたか
マヨルカ焼きのタイルの床