フィレンツェだより
2007年7月12日


 




ルッカのドゥオーモ
(サン・マルティーノ教会)



§トスカーナ北部,ルッカ

ガイドブックで見る限り,さほど期待はしていなかったのだが,トスカーナ北部の代表的都市で,プッチーニの故郷である街に行かない手はないと思い,9時8分発のヴィアレッジョ行きに乗るつもりで中央駅へ行き,結局,1本前のルッカ行きで,ルッカに行った.


 プラートとピストイアに行った時と同じ路線で,アレッツォに行く途中のヴァルダルノとは明らかに違う北部トスカーナの風景が車窓に展開する.

 北の丘陵に点在する城郭や教会,修道院を眺めながら,「イタリア人は塔が好きだな」などと考えていたりするうちに,カッラーラの大理石を採取する峨々たる峰々が見えてきて,ルッカに到着した.フィレンツェから各駅停車で1時間半強の旅である.

 駅に降りて,市街に向かった.中世の城壁がきれいに残っており,掘割の役目を果たしている小川の水が清らかで魚が泳いでいる.ルッカは美しい街というのが第一印象だ.


ドゥオーモ(サン・マルティーノ教会)
 最初に行ったのはドゥオーモだったが,ここにもやはり宝物が一杯あった.

 まず,ティントレットの板絵の「最後の晩餐」(1590年)については全く予備知識がなかったので,大きな収穫に思えた.キリストは後光が差した神の姿で描かれており,前景に証人として描かれている,子供に乳房を含ませている女性にティントレットらしさがあったが,遠くから見たときに,やはりユダが力を込めて描かれていると思った.それ以外は,ビッグネームが描いた「最後の晩餐」が見られて良かったというのが,主な感想になってしまう.

 他の美術館と共通の入場券を買って入った聖具室にはギルランダイオの板絵「聖母子と聖人たち」がある.これはさすがに,私たちが「ギル様」と呼んで崇拝している天才が描いたものだと思わせる作品だった.

 この作品のプレデッラ(板絵の枠の下方に様々な場面を小さく描いた部分)がよくできていたが,これを描いたのはギルランダイオの工房にいたと思われるヴィンチェンツォ・フレディアーニカタルーニャ語版ウィキペディア)である.彼はこの板絵の上方のリュネットに「ピエタ」のフレスコ画を描いており,これがまたすばらしかった.またしてもその地方に固有の芸術家に会えたことになる.


「聖なる顔」(ヴォルト・サント)
 フレディアーニの作品については,後で行った付属美術館で剥離フレスコ画「三位一体」を見ることができたが,それと共通する「青」の特徴を持つ,剥落が進んだフレスコ画がドゥオーモのファサードの裏側にあった.

この作品にはストーリーがあった.キリストの死に立会い,場合によっては降架の際にイエスの遺体を抱きかかえたとされるニコデモが,天使のお告げを受けて,木を切り出し,それに十字架のキリスト像を彫り上げ,その顔が「聖なる顔」(ヴォルト・サント)となったというものだ.


 フィレンツェのドゥオーモ博物館にあるミケランジェロの未完のピエタ,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会のバンディネッリのピエタで,彫刻家たちがキリストの遺体を抱えるニコデモに自己投影していた背景はこの伝説にあったのかと,早合点かもしれないが納得できたような気持ちになった.

 実はこの「聖なる顔」がこの教会の聖遺物になっており,プラートでマリアの腰帯が聖遺物として巡礼の対象になったように,ドゥオーモのみならず,ルッカ全体で大切にされていることが,その後諸方を訪ねてよくわかった.この話は,少なくとも私たちは初めて聞いた伝説だ.



 「聖なる顔」という名前のキリスト磔刑像に王冠をかぶせ,衣服を着せて大切に保管していたのが「聖なる顔の礼拝堂」だ.よく見られるサイド・チャペルではなく,大理石でつくられた屋根のある独立した小神殿のように造られていた.

これを造ったのマッテーオ・チヴィターリ(15世紀終盤に活躍)で,本日の最大の学習項目だ.


 この礼拝堂の外側に置かれている「聖セバスティアヌス」は,まさに傑作の名に値する.この人の名前は,現在トスカーナ巡りをする時の数少ない手引きであるケルビーニ&バルディーニの本ですでに学んでいたが,ルッカでこれほどの存在感を持つ人で,なおかつ相当の実力の持ち主であることは全く想像もしていなかった.

 彼の作品は,一族のものとともにドゥオーモにはたくさん見られ,簡素な説教壇と「ピエトロ・ダ・ノチェートの墓碑」は特に印象に残った.後者に関してはミーノ・ダ・フィエーゾレ,デジデリオ・ダ・セッティニャーノに決して劣らない高水準の作品に思えた.

 大理石が採れるカッラーラが近いからだろうか,ルッカでは絵よりも彫刻系に力を発揮する芸術家の作品がたくさん見られた.マッテーオ・チヴィターリに勝るとも劣らない芸術を具現したのが,ヤーコポ・デッラ・クエルチャだ.

聖具室にあった「イラリア・デル・カッレットの墓碑」は,美しい女性が永遠の眠りについた像が棺の蓋に刻まれており,その高貴な顔立ちは,見た人に多分忘れられない印象を残すだろう.


 他にもアレッサンドロ・アッローリの「聖母マリアの神殿奉献」やパッシニャーノ,リゴッツィなどフィレンツェでも作品を見ることができる作家の板絵もあり,ジャンボローニャの堂々たる「自由の礼拝堂」などもあったが,何と言ってもフィレンツェでは見ることのできないフレディアーニ,チヴィターリ,クエルチャ,特に後2者の作品が特にすばらしかった.

 しかし,フラ・バルトロメオの「玉座の聖母子と聖人たち」は修復中のチャペルにあったので見られなかったし,付属美術館にあると言うフレディアーニの「聖なる会話」も見られなかった.


サンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会
 ドゥオーモの聖具室,付属美術館と入場券がセットになっていたのが,サンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会とその地下にある「考古学エリア」だった.

 ここには古代ローマ時代の建物の礎石,初期キリスト教の教会跡などがあり,大変興味深いものだった.古代から残る洗礼盤が立派だった.教会自体もルッカの最初の司教座聖堂(カテドラル=ドゥオーモ)にふさわしい大きなものだが,今は全体としてムゼーオになっており,中央祭壇にも現役の宗教施設の雰囲気は残っていたなかった.

 しかし,剥落が進んでいるが僅かに残っているフレスコ画には見るべきものがあった.「玉座の聖母子と聖人たち」で,聖人たちはニコラス,アレクサンドリアのカテリーナ,ゲネシウス,セバスティアヌス,バルバラで,ヴァイオリンのような楽器を弾いているゲネシウスと,アトリビュートとして「塔」を持ったバルバラが印象的だ.作者は14世紀のジュリアーノ・ディ・シモーネとのことだが,この画家のフレスコ画はサン・ミケーレ・イン・フォーロ教会のファサードの裏側の壁面にも「聖母子」が残っていた.



 聖ヨセフの礼拝堂(オラトリオ)を含むドォーモ付属の美術館を見た後,近くのサン・サルヴァトーレ教会を拝観し,その後,サンタ・マリア門近くのツーリスト・インフォメーションに行って,街の地図をもらい,英語版のガイドブックを購入した.

 多くの教会が昼休みに入ってしまった時間帯を過ごすために,予定どおり,ポントルモの絵をはじめとしてかなりの絵を見せてくれるという旧マンシ宮殿にある絵画館(ピナコテーカ)に向かった.

 到着すると,開いているはずの時間なのに閉まっていて,私たちだけでなく何人かのツーリストが,門が開かないかどうか押してみたりしながらドイツ語やフランス語で不平を言っていた.私たちは他にも見るものがあるので,時間の浪費を避け,教会が開く時間になったので,サン・フレディアーノ教会に向かった.


サンタゴスティーノ教会
 途中,サンタゴスティーノ教会に寄った.鐘楼にはローマ時代の劇場の石材も一部使われているなど古風な外観の教会だが,19世紀に一度廃絶して,20世紀に聖女(厳密には「福者」のようだ)を出した女子修道会によって復興されたものらしく,中は新しかった.

 ただ,古い剥離フレスコ画が礼拝堂に残っており,それにまつわる「奇跡」(ミラーコロ)を,妻に声をかけた修道女が丁寧に説明してくださった.礼拝堂の側壁には奇跡の概要を物語った比較的新しいフレスコ画も描かれており,異教徒の私たちには伝説に思えても,信仰のある人々にとっては大切な心の支えなのだという思いを深くした.写真撮影は控えて,サン・フレディアーノ教会に急いだ.


サン・フレディアーノ教会
 サン・フレディアーノ教会には超弩級の宝物があったわけではないが,めずらしいものがたくさん見られ,私たちの勉強になった.この教会にはもう一度行きたい.

 ファサードの大きなモザイク画はベルリンギエーリ派という13世紀のものらしいが,チマブーエ,ジョット以前の西欧美術に関して学ぶために,これは今後の学習項目となるだろう.

写真:
サン・フレディアーノ教会
ファサード上部にモザイク画


 堂内に入ると,ファサードの裏側と,側廊の最初の壁面に,スピネッロ・アレティーノを下手にしたような,それなりに味わいのあるフレスコ画がある.

 隣にはアンドレーア・デッラ・ロッビア作と言われている「受胎告知」の大きな彩釉テラコッタがあり,その下にモーゼの物語など,彫刻を施した洗礼のための井戸と洗礼盤があった.少なくとも3人の芸術家の手になるものらしい.

写真:
彫刻が見事な井戸と洗礼盤
後方上部にはロッビアの
「受胎告知」の彩釉テラコッタ


 さらに幾つかのサイド・チャペルを経巡ると,ミケーレ・グイニージ礼拝堂には,マッテーオ・チヴィターリ作の彩色された木彫の「聖母被昇天」(右下の写真)があった.

 これは聖トマスの信仰を確かなものにするために「帯」を天から垂らした絵柄になっており,「帯」が聖遺物になっているプラートでもフィレンツェでもよく見られたものだが,絵ではなく木彫の造形というのが珍しいように思われた.

写真:
マッテーオ・チヴィターリ作
木彫の「聖母被昇天」


 中央祭壇の両脇には,私たちの知らない画家が,私たちが知らない古代末期の殉教者「カッシウスとファウスタ」を題材にした絵を描いていた.画家よりも題材の方が新しい学習項目と思われた.

 さらに,入口から見て左側の礼拝堂を巡っていくと,最初に出会うのがヤーコポ・デッラ・クエルチャが作製した大理石のポリプティク「聖母子と聖人たち」である.

写真:
ヤーコポ・デッラ・クエルチャ作
大理石のポリプティク
「聖母子と聖人たち」


 各聖人(ウルスラ,ラウレンティウス,ヒエロニュモス,リッカルドゥス)の殉教物語を扱ったプレデッラまである本格的なもので,板絵では幾つも見ているが,大理石のポリプティクは少なくとも私たちは初めて見た.

 さらに行くと,教会作成のパンフレットに「十字架,もしくは聖アウグスティヌス,もしくは聖遺物」と,少なくとも3つの選択肢がある名称の礼拝堂につく.ここにはルッカで大切にされている聖遺物「聖なる顔」がルーニの港からルッカに移された物語を含むフレスコ画がある.

 下の写真はその一部で,「聖なる顔」の木像に衣服を着せた磔刑像が運ばれていく様子を描いたものだ.これらのフレスコ画は保存状態も良く,ルッカで見られて良かったものの一つに入る.

写真:
アミーコ・アスペルティーニ作
「聖なる顔」の物語のフレスコ画


 作者はアミーコ・アスペルティーニという初めて聞く名前で,16世紀初頭の作品らしい.このフレスコ画に関してはヴァザーリの『画人伝』に賞賛を含む言及があるらしい.

 その後,ダンテの『神曲』にも詠われた聖女ジータの遺体が安置され,聖母マリアの母アンナに関連する物語の板絵を数枚置いた「聖アンナの礼拝堂」まで見ると,ぐるっと一周して再びファサードの裏側の壁に戻ってくる.

 そこには大きなオルガンと,下に2枚の板絵があった.描いたのは,チャンパーニという画家とアミーコ・アスペルティーニだ.前者は確か兄弟でルッカの別の場所に作品を描いていたが,それはどこだったか失念してしまった.Aで始まるファーストネームもアレッサンドロなのかアンドレーアなのか他の名前なのかも今のところ確認できていない.絵は「エリザベト訪問」だった.後者の作品は「聖母子と聖人たち」だった.オルガンが立派だったが,16世紀のもので作者の名前も伝わっているので相当なものだろう.


サン・ミケーレ・イン・フォーロ教会
 電車の時間が迫っていたが,「今日,これだけは」と心に決めていたのが,ドゥオーモ,サン・フレディアーノ教会の他に,サン・ミケーレ・イン・フォーロ教会だったので,そこへ急いだ.

 入口に「ここは美術館ではなく,神聖な場所です」という貼紙があったので,堂内の写真撮影は遠慮した.フィリピーノ・リッピの板絵「4人の聖人たち」(ロッコ,セバスティアヌス,ヒエロニュモス,ヘレナ),バッチョ・ダ・モンテルーポとラファエッロ・ダ・モンテルーポ作の木製の磔刑像,アンドレーア・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタ「慈愛の聖母」などフィレンツェでもおなじみの芸術家の作品があった.ラファエッロ・モンテルーポの大理石の「聖母子」には,私は気づかず,残念なことをした.

 ルッカ出身の画家ピエトロ・パオリーニの「聖アンドレアの殉教」も大事に飾られていた.ちなみにパオリーニの「キリスト降架」がサン・フレディアーノ教会の聖ブラシウス(サン・ビアージョ)の礼拝堂に見られるとガイドブック(S. A. S. Santori, Lucca and Its Surroundings, Lucca, 2004, p.89)には書いてあるが,サン・フレディアーノ教会で喜捨をしていただいたパンフレットでは違う画家の作品とされていた.

 中央祭壇に掲げられている,12世紀ルッカ派の作になる古拙な板絵十字架が良かった.

 扉を入って右手すぐのところには,マッテーオ・チヴィターリ作の「聖母子」像があった.これは,もともとはファサードの角に置かれていたもので,現在そこにはコピーが置かれている(下の写真右下).

写真:
サン・ミケーレ・イン・フォーロ教会


 オリジナルは風雨に曝されて,煤け,顔も摩滅が進んでいたが,信仰に活かされる芸術作品として立派に役目を果たしてきたということだろう.写真では低く見えるが,地面からは見上げる位置にある.また,どうしても小さくなってしまうが,ファサードの頂には,巨大という表現に値する大天使ミカエルの像があり,教会の名のもとになっている.


ルッカという町
 教会の名といえば,サン・ミケーレ・イン・フォーロの「フォーロ」は,日本語で「フォロ・ロマーノ」という時の「フォロ」と同じで,ローマ時代の広場(ラテン語ではフォルムなので,英語から来た日本語のフォーラムの語源になっている)を意味する.

 ルッカのラテン語名ルーカ(イタリア語ではLuccaだが,ラテン語ではLuca)は,キケロの『書簡集』,リウィウスの『ローマ史』にも出典がある.エトルリアに作られたローマ植民市で,中世に栄えたというパターンは今まで訪問したトスカーナの町々と似ているが,ルッカが他と違うのは,フィレンツェ共和国にもトスカーナ大公国にも併合されず,ナポレオンの妹エリーザとその夫フェリーチェ・バチョッキに支配されるまでは独立の共和国であったことだ.

 ナポレオンの没落後,支配者が変わり,最終的には1847年にトスカーナ大公国に編入されてリソルジメントを迎えるが,イタリア王国の成立が1861年だから,実質的にはルッカはフィレンツェの支配を受けたことがないと言っても良いだろう.

 私たちの少ない体験では,イタリアのどこでも「地元」は大事にされているが,ルッカはその傾向が特に顕著に思えた.教会や美術館のブックショップには地元の伝説や民話を扱った,地方ならでは出版物が売られていた.

 ドゥオーモだけは英語版のガイドブックがあったので,それを購入したが,サンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会,サン・ミケーレ・イン.フォーロ教会,今回行けなかったサンティ・パオリーノ・エ・ドナート教会についてはイタリア語版を買った.サン・フレディアーノ教会はブックショップが閉まっていたが,ここにももし同じようなガイドブックがあるのなら,次回,他のまだ行っていない教会のものとともに是非入手したい.

 クエルチャはシエナ,アミーコ・アスペルティーニはボローニャ出身,サン・ミケーレやドゥオーモを作った建築家コモのグイデットはロンバルディアの人ということで,必ずしも「地元出身」ということではないようだが,フィレンツェでは見られない作家の作品をたくさん見ることができた.

 私たちの知識や経験では,ルッカの独自性を体感するところまでは行かなかったが,この街で,フィレンツェとも,他のトスカーナの街とも明らかに違う風に吹かれることができたように思う.

 ローマ時代の円形劇場(アンフィテアートロ)の跡が,メルカート(市場)広場になっていて,建物に囲まれた円形の広場は私たちがイタリアにイメージする懐かしさのような雰囲気を残している.





ローマ時代の円形劇場跡
現在は「市場」