日本語学通信 第4号
(学部学生向け 研究室情報誌)
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目次

麻岡修一氏の「最終講義」
早稲田大学日本語学会シンポジウム「これからの日本語研究」の報告

麻岡修一氏の「最終講義」

 麻岡修一氏を知ったのは今から二十年も前、昭和58年(1983)のことです。私(上野)はその頃早稲田大学大学院の学生でした。その前年に提出した修士論文「早稲田大学演劇博物館蔵平家物語の国語音韻史的研究」をもとに国語学会で発表したとき、氏がそれを聞きに来られたのがお付合いのはじめです。そして今年5月28日の朝、氏は73年の生涯を終えられました。

 麻岡氏は東京生れの和菓子職人でしたが、ご先祖が江戸平曲(平家琵琶)の宗匠、麻岡検校長歳一であることを中学生の頃に聞いて以来、平曲に興味を持ちつづけ、お仕事の傍ら昭和45年(1970)からずっと、館山甲午氏やそのお弟子である後藤光樹氏が指導される「平家琵琶普及後援会」に参加されてご活躍になりました。私の発表を聞きにみえたのも、平曲に関心をもつ若者を一人でも多く育てようという、氏の熱情によるものです。

 ところで、平曲とは、盲僧が平家物語の詞章を、琵琶を奏でながら語る芸能のことです。古く鎌倉期に起り、南北朝期に名人明石覚一が出てこれを大成したと言われます。江戸期には幕府の庇護もあって武士や茶人、文人の間にも広まりました。安永五年(1776)に荻野知一が、平曲譜本の定本ともいうべき『平家正節』をまとめますが、これを天保年間江戸に導入した人が麻岡検校でした。

 私が修士論文で扱った演劇博物館蔵本は、麻岡検校より以前に江戸に行われた前田流平曲の譜本ですから、麻岡氏が関心を示したのも当然と言えましょう。氏は、平曲の譜本を資料とするなら一度会って話をしようと、私をご自宅にも誘ってくださいました。そしてできるかぎり力になりたいと仰って、館山漸之進著『平家音楽史』を下さったり、平家琵琶普及後援会に入れて下さったりで、私は氏にどれだけお世話になったか知れません。

1988.7.17 1988.7.17	於豊島区民センター「ギターと説経節と平家琵琶の夕」の舞台で平曲を語る麻岡氏 その麻岡氏に私は、昨年(2001)11月12日、担当する大学院の授業「国語学講義」で、ご自身の平曲研究についてお話しくださるようお願いしました。お亡くなりになる半年前のことです。それが氏の「最終講義」になったと聞いています。ご家族によると、氏はずいぶん張り切ってご準備をなさったようです。また当日は寒い雨の日でしたが、平曲家の梅田和子氏を伴われて元気に早稲田までおいでくださいました。

 さて、平曲研究における麻岡修一氏のお仕事の一つに、奥村家資料の発見と紹介があります。平曲は、今日江戸前田流の流れを汲み津軽藩に伝わった館山氏のものが広く知られていますが、ほかに同じ前田流でも名古屋に荻野検校以来伝わっている一派があり、また京都にも明治までは波多野流が伝わっていて、幕末維新のころ奥村検校充懐一が出て活躍していたことが知られています。その奥村家に「当道」と呼ばれる座(平曲を語る盲目の琵琶法師たちが結成した組織)の古文書がありました。それを「千鳥」「相応」という琵琶の名器を見に行かれた麻岡氏が発見し(1977年)、当時愛知県立大学を退かれていた渥美かをる氏に報告されたということです。それが世に紹介されるまでの事情は、『奥村家蔵当道座・平家琵琶資料』(1984 大学堂書店)の末尾に掲載された「お礼のことば」(山下宏明氏執筆)に述べられています。

 また平家琵琶伝承の立場から館山甲午氏の平曲を擁護され、これを批判する金田一春彦氏に猛烈に反発されたことも忘れられません。じつは金田一氏も館山氏から平曲を教わったのですが、それは昭和12年(1937)と32年のことでした。金田一氏によれば、館山氏は昭和40年頃以降演奏方法を大きく変えてしまったということで、それ以後のものは別に考えるべきだという発言を繰り返しておられたのです(金田一春彦『平曲考』1997三省堂pp.9-10)。たしかに研究対象としてみた場合には、現在の館山門下の伝える平曲そのものには注意すべき点も多いと、私も思います。しかし伝承という立場からみれば、金田一発言によって水を差されたと考えるのも無理はありません。もし金田一氏が伝承という行為そのものの価値を疑ったというなら、それはまた別の問題として批判の対象となりましょう。

 麻岡氏はまた、長く平家琵琶普及後援会の事務をとられ、以前は「平曲通信」、のちには「ミニ平曲」という通信誌を発行しておいででした。氏の絶筆となったのは「ミニ平曲」NO.97(2002年4月発行)掲載の「私説」でしょう。すでに「死病にとりつかれた」と覚悟しておられた氏はそこに「麻岡も草臥れました。目に障害のある方達の教育は・・・生活の技術が先行し必要最小限の歴史を教わることで済ましています。もし必要最小限の歴史も教える必要が無いとしたら盲人同士の間の語り継いだ組織的職業史は日本の職業史から消えることになるでしょう。現に芸能としての平家は価値の無い芸能として無視される風潮が見られます」と述べておられます。「平家琵琶を後世に伝えよう」―― そのことに麻岡修一氏は終始一貫情熱を注いできたのでした。ご冥福をお祈りいたします。
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早稲田大学日本語学会シンポジウム「これからの日本語研究」の報告

 さる12月7日、早稲田大学日本語学会(早稲田大学国語学会を改称)の12月大会で「これからの日本語研究」というシンポジウムが開かれました。内容は、教育学部から松木正恵氏、日本語研究教育センターから小宮千鶴子氏、大学院日本語教育研究科から川口義一氏、それに文学部から私、上野和昭が出て、それぞれの専攻する分野を中心に、これからの日本語研究について展望を示すというものでした。詳細は、2003年3月に発行される『早稲田日本語研究』誌に載ることと思いますが、私の発表の要旨だけを以下に掲げます。

 私の発表題目は「日本語史研究の可能性―音韻史・アクセント史を中心に―」です。最近の日本語音韻史・アクセント史研究の動向を紹介して、今後の研究の一助としたいというのが、この発表の趣旨でした。結論を先に述べれば、「研究史を批判的に検討しながら、文献・方言双方の資料を扱い、過去と現在の言語実態を統一的に把握するところに今後の展開が望める」ということになります。ですから、キーワードは、「研究史、文献、方言、日本語史、現代日本語」などです。

 まず《通史的展望をもつということ》と題して、柴田武氏や桜井茂治氏らによって主張されている、日本語のリズム単位が「シラビームからモーラ」に変わったという説を紹介しました。シラビームというのは、音声学的な音節がリズム単位にもなっている場合の称です。現代でも津軽方言などでは「東奥日報新聞」を[トォオォニッポォシンブン]と発音し、リズムとして音を数える場合に6拍ですが(東京などでは12拍)、それと同じようなことが過去の中央語にもあったというもので、それに関連して木田章義氏・毛利正守氏らの研究にも触れました。

 また近年、文献資料のこれまでの評価を再検討し、日本語史を書き直そうという動きがあります。林史典氏は、平安時代前期の天台僧円仁が著した『在唐記』の記述を吟味し、その時代のハ行子音を[p]と推定して、「ハ行転呼音」現象を解釈し直していますし、小倉肇氏も<サ行子音の変化>や<ア行の「衣」とヤ行の「江」との合一過程>を合理的に説明しています。これらを参考にすべきことを述べました。

《文献資料の資料性の追究》は、もちろんこれまでにもなされてきたことですが、やはり大切なことだと思います。私はかつて秋永一枝氏に、マ行仮名に双点があるのは、バ行と交替した語形に差された点を、のちにマ行の語形に無雑作に移点したために生じたのだと教わり、蒙を啓かれた思いがしました。坂本清恵氏が最近、江戸時代の謡曲伝書がイウ連母音を「割ル」ように指示しているのは、中世の世阿弥以来の発音ではなく、謡曲伝授上の都合によるものだという説を出しましたが、これも文献資料とその成立事情を深く考察した成果だと思います。

 また日本語史の研究は《方言学・社会言語学との接点を求めて》もっと視野を広げなければならない、ということも、力を入れて主張したところです。とくに現代語・現代方言にみられる音韻規則の例外に注意してみると、思わぬ史的考察が可能になる場合があります。かつて私は、母音の無声化をそれと連動する子音の有声化との関係で捉えた宮嶋達夫氏の論文に、感銘を受けたことがあります。それは、一般に東北方言で「カギ(柿)」「ハダ(旗)」のような母音間の無声子音は有声化するが、「シタ(下)」「フカイ(深い)」などのように一方の母音が無声化しているものは子音の有声化も起っていないことから、「母音の無声化は子音の有声化以前に起った」という結論を導いたものでした。

 ところで『早稲田日本語研究』誌をみると、その第5号に松永修一氏の都城方言の音声特徴を報告したものが載っています。それによると同方言では@<[ui]>[i]という変化>が認められる一方でA<ラ行子音が脱落する>ことがあり、「魚釣り」をイヲツイ[iwotsui]、「煙」をケムイ[kemui]と発音するということです。したがって@の変化に特別な条件がない(すなわち、すべての[ui]が[i]になるもの)とすると、Aの脱落より後に@が起っていれば[iwotsui]>[iwotsi]、[kemui]>[kemi]という変化が起きていなければなりません。ところが実際にはそのような語形はないのですから、@はAよりも前に起きたことは動かぬところです。このような見方で文献資料や方言資料を検討してみてはどうかと思います。

 このほか現代の日本語に起きているさまざまな変化が、史的研究の参考にならないはずがありません。とくに社会言語学の知見にはいつも配慮が必要でしょう。文献資料も方言資料も、その反映する言語の諸相を多角的に検討することはもっと注意されてよいことです。

 現在、日本語の史的研究は低調だと言われます。しかし、言語変化のダイナミズムを解明する学問的緊張感は、依然として魅力的なものです。とくにこれからは地方語の歴史も明らかにしなければなりません。それには、現代方言の研究と同時に、地方の文献・古文書なども研究資料として活用する必要が出てきましょう。また、日本に留学されている外国(人)学生の方々にとっては、母語と日本語との対照を通じて、過去の文献(朝鮮語・中国語資料など)を再検討することも、忘れてはならないテーマだと思います。

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上野和昭(Ueno Kazuaki) E-mail: uenok(at)waseda.jp