日本語学通信 第15号 (2006.7.20)
(学部学生向け 研究室情報誌)
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目次

『西音発微』の成立過程と大槻文庫本の朱筆書入れについて


『西音発微』の成立過程と大槻文庫本の朱筆書入れについて

 有名な大槻玄沢の子で、やはり蘭学者である大槻玄幹(茂驕A1785-1837)の著作とされる『西音発微(サイオンハツビ)』について、その「凡例」に「本編和蘭字音ノ対註ハ余嘗テ長崎ニ游フ日柳圃中野先生ニ謁シテ口受スル所也」とあることなどから、杉本つとむ先生はかつてその大著『江戸時代蘭語学の成立と展開』(1976-82)に、本書は中野柳圃(1760-1806)の著作と言うべきものであることを強く主張された。そして、そこに記されたいくつかの卓見もすべて柳圃に帰するものであり、柳圃こそ日本語学史に特筆すべき人物であると、口をきわめて讃えられたのである。このほど、たまたま同書を閲読する機会があったので、杉本先生の学説を再確認しがてら、いくつか気づいたことを記してみようと思う。

 まず、本書(版本2冊)の構成について述べると、はじめに序文(文政乙酉1825、南山道人古梁紹岷)があり、それにつづいて「凡例」(2丁)と「皇国五十音弁」(14丁)が綴られる。その第16丁裏(第一冊末尾)、すなわち「皇国五十音弁」の末尾には「文政庚申孟春 大槻茂骭コ幹父識」とある。

 ところで、右側に掲げた早稲田大学中央図書館蔵本の扉(前表紙見返しに貼付)には「文政丙戌発兌」とある。「文政丙戌」は文政九(1826)年にあたるから、「皇国五十音弁」が「文政庚申」、すなわち文政三(1820)年に記されてから刊行までに6年の歳月が流れたということになる。

 さらに第17丁からはオランダ語の文字と発音について述べられていて、「?珀設(アベセ)廿六頭字音註」その他がつづくことになるが、そのはじめ、第17丁表右上にわざわざ「西音発微」と一行をとって記している。すなわち「皇国五十音弁」と「?珀設廿六頭字音註」以下とは、あきらかに時をおいて記されたものと考えられるのである。「西音発微」そのものは第21丁裏をもって終り、そこには「西音発微 終」とある。

 これにつづいて「西洋字原考」という6丁分の文章が付録される。この丁付は「西音発微」とは別に、あらためて付けられており、その第1丁はじめには「後学 大槻茂骭コ幹述」とある。また末尾第6丁裏には「西洋字原考 終」とある。なお、さらに半丁の「題字原考後」(蘭窓逸人)という跋文が載せられているが、これには「文政壬午仲秋」とある。「文政壬午」とは文政五(1822)年のことである。

 以上が、本書の成立を考える上に必要な書誌情報であるが、もう一つ付け加えるなら、書肆須原屋伊八の「青藜閣蔵版書目録」の中に本書を「全二冊」と紹介していることも参考になろう。

 これらのことから、本書の成立過程を考えてみようと思うが、筆者が閲覧したのは早稲田大学中央図書館所蔵の版本二種と、静嘉堂文庫蔵の版本二種、それに『杉本つとむ著作選集』第三巻に掲載されている杉本先生所蔵本の影印(二冊本)だけであることを、はじめにおことわりしておかなければならない。『国書総目録』ならびに『古典籍総合目録』によれば、文政九年版は全国三十余箇所に所蔵されているという。

 早稲田大学蔵本二種は、一方は二冊本(ホ2-2382写真参照)であり、もう一方は一冊本(ホ10-1217特別図書)であるが、その中をみれば同版であることが知られる。『静嘉堂文庫国書分類目録 続』にある文政九年刊の一冊本(527函27架23515)は、前表紙見返しの扉に「完」とあるにもかかわらず、二冊揃のうちの前半一冊だけしかない端本ともいうべきものである。また『同 再続』に文政五年刊と記された二冊本(97函3架大槻文庫)は、じつは文政九年刊の誤りであって、別段早大の二冊本と変わるところはない。なお、『国書総目録』には天保四年版が同文庫にだけあると記されているが、調査をお願いしたところでは、とくに別本があるわけでもないので、これは『国書総目録』の間違いであろうということであった。ただし『洋学史事典』(日蘭学会編1984)の「せいおんはつび」の項(古田東朔氏執筆)には「天保四年版もある」と記されている。

 さて、本書がもと一冊だったと考えるとすれば、その理由は、丁付けが二冊本でも通しで付けられていることである。さらに、第16丁のあとに第17丁をつなげば、綺麗に一冊本の体裁になることも見逃せない。現に早稲田大学蔵本にそうした一冊本がある。そして、前にある「凡例」の内容は、明らかに後半の和蘭語の音訳について記している。これらは全体が一まとまりであることを、強く支持しているようにみえる。

 しかし、写真にもあるように扉には「完」とある。そうあるかぎりは、もとは別立てであったものを合わせて一揃いとしたということであろう。広告にも「全二冊」とあった。また、第16丁裏に「文政庚申」に始まる玄幹の署名があり、第17丁表には書名を改めて記している。前後一連のものならば、このようなことは書かないに違いない。

 おそらく、本書の成立過程には複雑な経緯があったのであろう。まず文政三年までに「皇国五十音弁」が成った。つづいて文政五年には「西洋字原考」に「蘭窓逸人」の跋文が記されたのだから、「西洋字原考」はそのときまでに出来ていたはずである。そして、つぎに著者は「?珀設廿六頭字音註」以下の『西音発微』後半を脱稿したのではないか。その時期は、文政七年ころまでの数年間かと思われる。杉本先生は文政三年から五年の成立とみるようだが、なにも文政五年までと限る必要はないであろう。後半部、すなわち「?珀設廿六頭字音註」以下ができてのちに「凡例」が記された。そして古梁紹岷の序文が文政八年、刊行が文政九年という順序だったと思しい。文政三年「皇国五十音弁」を記し終えたとき、玄幹が一旦筆をおいのは、まだ『西音発微』後半の構想が熟していなかったからではないかと思う。なぜならこの書の中核はあくまでも後半の「?珀設廿六頭字音註」以下であって、「皇国五十音弁」の内容だけでは、『西音発微』という題名に相応しくはないからである。それに前半(全14丁ほど)だけでは、一書とするに足りなかったという事情もあって、しばらくは筺底に置かれたかと想像する。

 「西洋字原考」は『西音発微』とは独立に構想されていたこと疑いない。しかしこれも6丁ほどのものであった。文政三年に「皇国五十音弁」を記し終えたあと、玄幹は「西洋字原考」を執筆したとみることができようか。この跋文が、文政五年に記されている。

 その間に『西音発微』本体の構想が沸きあがり、文政三年から同七年のころ、「皇国五十音弁」の内容を前提として、これを書き上げたのであろう。そして、それに「凡例」を補った。その脱稿は文政八年の春ころ。丁付を整えて、夏に序文をもらい、官許などの手続きも済ませ、翌年刊行したというのが実際のところではなかったろうか。書肆は、付録の丁数を考慮して、当初から二冊本に仕立てたのだろうが、玄幹の心積もりは一冊であったかもしれない。

 さて、静嘉堂文庫所蔵の二冊本の方は、大槻如電旧蔵書の一で、「大槻文庫」の朱印が捺されたものである。別に「中川氏図書記」の朱印があるが、こちらは墨で消されている。これにはまた朱筆の書入れがあり、さらに墨筆の書き入れもあって興味を引くが、それが誰によるものかは分からない。その中に次のような記述がある。


 〈本文〉「皇国五十音弁」11丁裏 
脣音 ハヒフヘホ  
此経ノ音前例ノ如シ濁音バビブベボ半濁パピプペポ也
別ニ喉音ノハ△ヒ△フ△ヘ△ホ△アリ 皇国此音アリテ其仮字ナシ此論下ニ具ス 
 〈朱書入(上欄外)〉
波経ハ元本ハファ、フィ、フゥ、フェ、フォノ如ク脣音ナレトモ今ハフノ外ハ喉音トナレリ
然レトモハノ*脣音ノワニ通ズルヲ見レハ元本脣音ナル事ヲ知ルヘシ
(*もと「ハガ」の「ガ」墨消して墨「ノ」と訂す)

  『西音発微』の前半「皇国五十音弁」の圧巻は、国学では本居宣長の『字音仮字用格』(1776)以来ワ行音を喉音のうちに入れているのを批判し、正しくは「脣音」とすべきであるとしたところであろう。「再按ニアワヤ三経ヲ喉音ト定テオトヲノ錯地ヲ改メ・・・論スル説アレトモ是ハ全クワ経ノ重脣音ヲモテ脣音ハ経ノ喉音ノ如ク呼カ故ニカヽル差謬ハ出キヌル事ニゾアルラメ」(14裏)という。なお、後半にもこれを承けた記述がある(29丁裏〜30丁裏)。

 さて上記の本文(左下段)に、喉音のハ行音をさして「皇国此音アリテ其仮字ナシ」と言っているのは、対する脣音のハ行音には仮名がある、と言っているに等しい。したがって、あとに「ハマワノ三ツハ脣ノ軽重」(16裏)ともあるように、本来のハ行音(仮名の指す音)は脣音であると言っていることになる。ここまでは、本文からはっきりと読み取ることができる。

 杉本先生は『西音発微』のこの箇所の本文を引用して、「右で重要なのは、日本語には喉音としてのハ行音があるということの指摘である(ハ△のように○に代えて△の符号を与えている)。ということは、本来的にはp・f音(両唇音[Φ])であることを認識していたわけである。いうまでもなく日本語のハ行音は古くはp音であったといわれている。これは現代確定している説であるが――しかし、一般に誤解されているように、上田万年博士によってはじめて提唱されたり確定されたのではない――、・・・」として、「上田万年に先だつ一世紀前に柳圃はハ行のp音であろうことを論証した」(『杉本つとむ著作選集』第三巻p.408)とまで踏み込んでお考えになった。 

 また「脣音ハヒフヘホ」とある、それぞれの仮名には右上に小さく「ハ」とあり、左上には小さく「ア」「イ」・・・と記されている。この右上の「ハ」には△も○も記されてはいない。したがって、この「ハ」が半濁の[p]を意図するはずはない。「此経ノ音前例ノ如シ」という音の構成法によって考えるならば、ここに言う「ハ」は、いわば〈ハアノ促リ〉であって、そこから導かれる音は[Φa]でこそあれ、[pa]ではない。すなわち、本来ハ行の仮名であらわされるのは[Φ]子音をもつ音であり、ほかにバ行[b]、パ行[p]、ハ△行[h]があると言っているのである。

 『西音発微』の記述から、日本語のハ行音がもと[p]子音であったことまで、著者たち(中野柳圃や大槻玄幹)が見抜いていたとはとても言えないように思うが、いかがであろうか。

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