日本語学通信 第19号 (2007.11.20)
(学部学生向け 研究室情報誌)
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目次

上杉謙信の文書と和歌懐紙




上杉謙信の文書と和歌懐紙

戦国の武将上杉謙信(1530〜1578)自筆とみられる発給文書のうち、とくに仮名書きされた部分を取り上げて、気づくところを述べてみたい。本文は『上越市史 別編1 上杉家文書集一』(2003)の別冊に収められている写真によったが、同書掲載の翻刻文も参考にした。以下、資料名冒頭の数字は、別編における資料番号である。

なお、迫野虔徳氏に「古文書からみた中世末期越後地方の音韻」(『語文研究』22,1966 『日本の言語学』第6巻所収)という論文があり、上杉家文書(大日本古文書)や越佐史料(高橋義彦編)などをもとに考察して、以下のようにまとめている。
以上、中世末期の古文書を資料として、当代越後地方の音韻二三について見てきたのであるが、母音「イ」と「エ」、及び開拗音のウ段音とオ段音は、既にこの時代、音韻的対立が曖昧になっていて、ともすればまぎれがちになっていたようであり、また四つ仮名の弁別は全く失われていたが、開合音の区別は比較的よく保たれており、しかも隣接諸地域と隔りを生じ、特異な存在となりつゝあったようである。これら諸事象から判断すれば、今日越後方言として行われている大略は、少なくとも四五百年、既にその大構が成立していて、それが近世封建社会というまた恰好の方言温床の中で、守られ伝えられて今日に至ったのではなかったかとさえ思われる。(『日本の言語学』第六巻 p.604)

ここでは、迫野氏の研究に導かれながら、新たに編纂された『上越市史』の写真版を通覧して、迫野氏が言及しなかったことについて印象を記す。いずれ原資料を見る機会があれば、さらにいくつかのことを指摘できるかもしれない。

さて、上杉謙信が養子であり後継者でもある景勝に仮名手本として与えたと言われる「いろは折手本」が米沢市上杉博物館にある。16世紀中葉の仮名手本の実例として、当時の書き方や仮名字体の選び方などを知る手がかりとなるものであろう。はじめに、それについて触れよう。

この資料は、「いろは」の47文字を1行7字ずつ7行に記し、末尾2字分の余白に「京」の一字を記すという体裁をとる。仮名字体は、「けふこえて」の「え」が「江」の草体で記される以外、ほぼ現行のものと同じである。ただ、「そ」の終筆を反らすことなく、よく見るように、あたかも「ろ」のごとく記してあり、「お」もまた字母たる「於」字に近く右側を二点にしてある。仮名字母を問題にするかぎり、すでに16世紀には「いろは」は今日と同様に捉えられており、いわゆる変体仮名の入り込むところはなかったのではないかと思われる。

同じく片仮名手本(上杉神社蔵)の写真も別冊に掲載されている。その字配りは平仮名手本と同じであるが、末尾の「京」の字はない。片仮名字体についてみると、ネが「子」とされ、セが平仮名の「せ」に近く記される以外、これまた現行の片仮名字体とあまり変わらないことがわかる(このほか、マは第一画が横一線のみである)。ただし、第二行「チリヌルオワカ」にオを用い、第四行「ラムウヰノヲク」にヲを用いている点には注意が要る。

つぎに、これら中世の仮名文書などの促音表記に、「ん」と同形の仮名が用いられたことが知られているが、このたび謙信発給文書の写真を通覧して、謙信は多くの場合、促音のときには「ツ」の形に似る仮名を用いており、撥音の「ん」とは区別していることがほぼ確認できた。

撥音の「ん」は、往々下から上に撥ねあがる部分の不完全になることがあり、ときに右に流れるだけのこともあったようである。2「長尾景虎寄進状」(天文十三年1544、個人蔵)は、謙信14歳のときのもので、のちの達筆を思わせる勢いのよい筆跡であるが、そこに記された「きしん(寄進)申候」「かんはらくん(蒲原郡)」の「ん」がまさにそれである。

414「上杉輝虎願文」(永禄七年1564、上杉神社蔵)、511「上杉輝虎願文」(同九年、上杉家文書)、1060「上杉謙信書状」(元亀二年1571、個人蔵)、1168「上杉謙信書状」(天正元年1573、山形大学附属図書館蔵)などでは、促音は「川」の字の草書体を思わせる「ツ」に近い字体を用い、撥音の「ん」とは区別がはっきりとしている。たとえそれが崩されて記されても、なお撥音の「ん」とは紛れる可能性は少ないものと思われる。謙信の生涯において、この区別はほぼ守られていたのであろう。

ただ、583「上杉輝虎書状」(永禄十年、個人蔵)のごときは、たしかに区別はありながらも、撥音表記の「ん」に、「ツ」を崩したものかと見まがう字形が見られる。また、124「長尾宗心条書」(天文二十四年1555か)には「期日まで」を「きちんまて」とみえる字に綴り、一方で「日記」は「にツき」と明確に記している。274「上杉政虎書状」(永禄四年1561)の「御はんきつと申しつけられへきよし」(傍線筆者)とあるところは、「ん」も「つ」も見分けのつかない「ん」の右流れと言える字形である。

謙信発給文書のうち、別冊に掲載された写真によるかぎり、筆者の目に区別しがたくみえたのは上記2例である。ほかは、かりにいま促音表記の仮名を「ツ」と記すなら、「きうくツ(窮屈)」「ちうせツ(忠節)」「ひツたい(筆台)」「へツし(別紙)」「ゑツさん(越山)」「もツとも」のようであって、促音でない「つ」に、この字体が用いられることもなくはないが、その数は少なかったものと思われる。

つぎに助動詞「べし」について、一般的には動詞などの終止形(のち連体形も)に接続するものであるが、謙信の場合は、四段活用やサ行変格活用動詞には終止(連体)形接続であるが、二段活用動詞になると連用形接続のようである。
とくせいゆくへき事(264「長尾景虎朱印状」 1561)
かせくへく候(275「上杉政虎書状」 1561)
  いかんすへく候哉(393「上杉輝虎書状」 1564)
おいたてへき事(124「長尾宗心条書」 1555)
申されへく候や(252「長尾景虎書状」 1561)
これについて、264「長尾景虎朱印状」(永禄四年1561、上杉家文書)に
但、無手形は、御法之外として、けんてうニさくはいへき也
「けんてう」は「厳重」のことで、ジューとジョーとが混同するのは、現代でも越後方言にある現象であるが、「さくはいべきなり」は、動詞「さくまふ」の転じた「さくばふ」の連用形に「べし」が接続したものと見られる。活用の種類は、イとエの混同することを考え合わせれば、下二段とみてよかろう。「さくまふ・さくばふ」は、「手配する、準備する」というほどの意である。

古文書の用法とはやや異なるが、現代方言で意志形「開けよう」をアケベー、アゲベーというところは、関東や福島西部であって(『方言文法全国地図』第3集107図、1994)、現代では新潟県は西側のアケヨーの力が強いようであるが、中世末期にまでさかのぼれば、今日よりも東国の言い方をしていたのであろうか。

最後に、上杉謙信の和歌懐紙(上杉神社蔵)の写真も同書に掲載されているので、少しばかり触れておきたい。『上越市史』の翻刻では、まだ意味のとりづらいところが残るからである。

次に示す248の第一首は、やや歌意は錯綜するけれども、おそらく「問はばやな 誰が見る空に」の意であろう。布施秀治『上杉謙信傳』(1917)には「登はゝやなたかみる空に」と翻刻があるのみであるが、高村綱男『上杉謙信公』(1928)では、すでに「とはゞやなたがみる空に」と濁点を付しているし、『上杉謙信大事典』(新人物往来社1997)の「上杉謙信の和歌」(中世公家日記研究会執筆)の項には「とはゞやなたが見る空に春の月の 霞かすまぬ影はありやと」と紹介されている。第三首「つらかりし人こそあらめ 祈るとて神にもつくすわが心かな」は、謙信の生き方を思わせて興味深い。

248「長尾景虎和歌懐紙」
    春日同詠三首和歌
弾正少弼景虎
   春月
とははやな たかみる空に 春の月の かすみかすまぬ かけはありやと
雲雀
なれもまた 草のまくらや ゆふひはり すそ野の原に
おちてなくなり
   祈恋
つらかりし 人こそあらめ 祈るとて 神にもつくす
わかこゝろかな

249「長尾景虎和歌懐紙」
    夏日詠夕立和歌
弾正少弼景虎
風の音を まつさきたてゝ さゝの葉の みやまもそよに
ゆふたちの空
    旅行
あふ人を たひには友と ことゝはむ 思ふ都の
つてならすとも

(『上越市史 別編1上杉家文書集一』別冊の写真より)

249の第一首「風の音を先づ先立てゝ」の歌は、夏の日に深山にいると、急に風が吹いてきて、俄かに雲行きがあやしくなり、雨が降り出す情景を思い浮かべれば、歌意は明らかであろう。

この歌の第四句を布施氏も高村氏も「みやまも迷ふ」と翻刻している。しかし、「そ(楚)」の仮名を「ま」とよむことはできないし、末尾を「ふ」と読むことにも無理があると思う。

一方、『上越市史』は「みやまもそるゝ」と読む。たしかに「そるゝ」と読めなくもないが、末尾の踊り字に不自然なところがあるし、歌意もわからなくなりはしないか。

筆者は「みやまもそよに」と読む。「よ」は、第一画が汚れやシミでないことを前提とするので、写真だけでは心もとないが、布施・高村両氏も、この仮名については「よ」と認定している。『上越市史』のように「みやまもそるゝ」と読んだのでは、夕立が深山を避けて通っていくことになり、雨は降ってこずに、風だけが吹いてくるということになろう。それでは題の「詠夕立」にふさわしくない。

私案の「みやまもそよに」であれば、夕立を告げる風が深山の笹の葉をさっとわたっていく様が思い浮かぶ。現代人の感覚からすれば「そよに」とあっては新緑の風のようだが、若き日の謙信(景虎)が古歌に「笹の葉のみやまもそよに」(新古今616)とあることを踏まえて詠んだと解すれば、容易に腑に落ちることであろう。

(2007年12月25日に母校高田高等学校の2年生に対して模擬講義をすることになったので、せっかくだから校歌にも歌われる上杉謙信に因む話をしようと思い、上杉家文書をさがしたことが、この文章を書くきっかけであった。)
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上野和昭(Ueno Kazuaki) E-mail: uenok(at)waseda.jp